【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
差し出された書類に署名はせず、調査を受け入れるという確認だけを口頭で交わした。ダイクンはその場で資金を引き出せなかったことを残念がる様子もなく、むしろ僕がどこで拒み、どこまでなら応じるかを知ったことへ満足しているようだったが、僕にとっても収穫は大きかった。
もし、この世界が本当に僕の知る物語とつながっているなら、ジオン・ズム・ダイクンという男は、やがてサイド3を独立させ、ジオン公国を建てる人物なのかもしれない。公国というからには王か公王になり、地球連邦と戦うのだろう。ダイクン自身が戦争を始めるのか、彼の思想が別の誰かに利用されるのか、それすら思い出せなかったが、敵対するより、近くで動きを把握できる関係を作っておいたほうがよい。
少なくとも、ニュータイプという言葉を偶然として片づけるまでは。
「最後に一つだけ聞かせてください。あなたは、ニュータイプが現れれば、人類は争わなくなると本気で信じているのですか」
「争いがなくなるとは言わない。理解したうえで憎むことも、相手の痛みを知りながら傷つけることも、人間にはできるだろう。しかし、分からないから恐れ、見えないから存在しないものとして扱う争いは減らせる。宇宙では、地球にいた頃より遠くまで見なければ生きられない。ならば、いつか人間の心も、それだけ遠くへ届くようになると私は信じたい」
「僕は、届かないままでも戦争にならない通信網と契約を作ることにします。そのほうが、僕の性格には合っていますからね」
「構わない。私が間違っていたときには、君の仕組みが人を救うかもしれない。君の仕組みが壊れたときには、私の信じる人間がそれを直すかもしれない。どちらか一方だけで未来を支えられると思うほど、私も傲慢ではないつもりだ」
「傲慢でない人間は、自分を傲慢でないとは言わないものですよ」
「それなら、君も相当なものだろう」
「僕は自覚していますから、問題ありません」
「自覚していれば許されるという理屈は、次に会うまでに改めたほうがよいな」
「次に会うことは、もう決定事項なのですか」
「君は調査団を派遣すると言った。その報告を聞くには、もう一度会う必要があるだろう」
「なるほど。最初から、そのために言質を取ったわけですか」
「君ほどではないが、私も交渉を仕事にしているのでね」
面会を終えて部屋を出ると、控室ではムウとアーサーが新聞紙を細長く丸め、どちらが遠くの屑籠へ投げ入れられるか競争しようとしており、ジンネマンが新聞は読むものだから破るなと止め、ラウは騒ぎから少し離れた椅子で政治面を読み、レイは窓の外を通った貨物列車を二十三本まで数えていた。
僕が現れると、最初に顔を上げたラウが、新聞を畳みながら目を細めた。
「アズラエル、顔色が悪い。中で何を言われた?」
「人類は、宇宙へ出れば他人の話をよく聞ける新しい人間へ変わるかもしれない、という話ですよ。ダイクン氏は、そのような人間をニュータイプと呼んでいました」
「だったら、話を聞かない大人を全員宇宙へ放り出せばいいじゃないか。地球も静かになるし、こっちも人が増えて得だろ」
「ムウ、お前、昨日は住宅が足りないって話を聞いてなかったのか。話を聞かない大人を全部こっちへ連れてきたら、俺たちが寝る場所までなくなるぞ」
「じゃあ、船に乗せたまま宇宙を回らせればいい。話を聞けるようになった奴から降ろすんだ」
「誰が話を聞けるようになったか調べるんだよ。自分で聞けますって言えば、全員すぐ降りてくるだろ」
「兄貴、話を聞かない人は、自分は聞いていると思ってるから話を聞かないんだ。たぶん、試験をしても自分だけ合格したと言い張る」
「お前、十歳のくせに嫌なこと言うなあ」
「兄貴を見て覚えた」
「俺は人の話を聞いてるぞ!」
「いま、俺が新聞を破るなと言ったのは聞かなかった」
ムウとアーサーが互いに相手こそ宇宙へ放り出されるべきだと言い始め、ジンネマンが二人とも同じ船へ乗せればよいと結論づける横で、レイは僕の上着の裾をつまんだ。
「ニュータイプって、新しい人なの?」
「言葉の意味としては、そうなるのでしょうね」
「僕たちも、ニュータイプになるの?」
すぐに答えられなかった。目の前にいるレイと、ムウと、ラウが、前世で知っていた人物と同じ顔へ成長する可能性を、このときの僕はまだ本気で信じていなかった。名前は僕が付けた。髪の色が似ているのは偶然で、三人が不思議なほど互いの気配へ敏感なのも、長く一緒に暮らしてきたからだと考えていた。
「まだ、名前だけですよ。誰がそうなるのか、本当にそのような人間が現れるのか、ダイクン氏にも分かっていません」
「名前だけなら、まだ怖くない?」
「名前だけのものが、一番怖い場合もあります。中身が決まっていないぶん、後から誰でも好きなものを詰められますからね」
レイは完全には理解できなかったらしく首を傾げたが、それ以上は尋ねず、僕の手を握った。サザーランド少尉は子どもたちへ出発を促したあと、僕と並んで廊下を歩きながら声を落とした。
「ニュータイプという言葉を、以前からご存じだったのですか」
「先ほど初めて聞きましたよ」
「言葉を聞く前のあなたは、ダイクン氏の思想を値踏みしていた。しかし、聞いた直後は、思想ではなく記憶を探しているように見えました」
「軍人より、探偵になったほうが出世できるのではありませんか」
「答えたくないのであれば、それ以上は尋ねません。ただし、あなたが何か危険を予想しているなら、護衛として知っておきたい。知らされていなかったため守れなかった、という結果だけは避けたいのです」
「僕自身にも、まだ分かりません。昔どこかで聞いた言葉と似ている気がしただけです。確かめて、危険だと分かったならお話しします」
「では、少なくとも、確かめ終わるまで一人で動かないでください。分からないものを調べることと、分からないものへ自分から近づくことは別です」
「承知しました。ところで、今日の面会内容はゴップ大佐へ報告するのでしょう」
「任務ですから報告します。ただし、あなたがニュータイプという語へ妙な反応を示したことは、現時点では私の観察にすぎません。事実と推測を同じ報告書へ混ぜる趣味はありませんよ」
「それは助かります」
「感謝するのは、危険でないと確認できてからにしてください」
庁舎を出ると、人工照明はすでに昼の明るさへ変わっていた。広場へ戻る列車の窓からは、工場へ延びる貨物線、密集した仮設住宅、増設工事中の水再生施設が順番に見え、その一つ一つが昨日より不穏に感じられたわけではないのに、風景の奥へ未来の影が重なって見えた。
ジオン。地球連邦。ニュータイプ。
その三つを知っている理由を、僕は知っていたはずだった。
夜になり、ムウたちが隣室で眠ったあと、僕は宿泊施設の端末を起動した。サザーランド少尉には一人で動かないと約束したが、椅子へ座って公開情報を調べることまで禁じられてはいない。最初にジオン・ズム・ダイクンの名を入力すると、政治集会の記録、自治権に関する論文、地球中心主義への批判、二年前にサイド3へ移住した経歴が表示され、ニュータイプという語を検索すると、彼の思想を紹介する小さな記事が数件見つかったものの、学術的な研究や具体的な能力を示す記録は存在しなかった。
それだけなら、新しい言葉を好む政治思想家の一人で済む。
しかし、ジオンという名を見てから、記憶の底に沈んでいた古い映像が断片的に浮かび始めていた。白い人型兵器。仮面を着けた赤い軍人。地球連邦とジオン公国の戦争。ニュータイプと呼ばれる少年や少女。宇宙から地球へ落ちていく、巨大な円筒。
僕はガンダムSEEDならよく知っていたが、最初のガンダムについては、前世で再放送を断片的に見た程度で、あとはゲームや雑誌や同僚との会話から得た知識しかなかった。主人公がアムロという少年だったこと、赤い機体に乗るシャアという男がいたこと、地球連邦とジオンが戦ったこと、ニュータイプという言葉が使われていたことは覚えているが、いつ戦争が始まり、誰が国を建て、どちらが何をしたのかは曖昧だった。
そもそも僕は、この世界で宇宙世紀という暦が使われていることを、未来の人類が宇宙進出を記念して採用したありふれた名称だと思っていた。前世の創作物と同じ言葉が現実で使われていたとしても、それだけでアニメの世界へ転生したと考えるほうがおかしい。ムウやラウに似た少年と出会ったときでさえ、ここは宇宙世紀でありSEEDの世界ではないのだから、名前と容姿が似ているだけの偶然だと考えた。
だが、ジオンとニュータイプまで同時に存在するのなら、偶然という説明に必要な偶然の数が多すぎる。
僕は検索欄へ「ジオン公国」と入力した。該当なし。現在のサイド3に存在するのは自治行政局と、いくつもの自治派、独立派、労働団体であり、公国を名乗る国家はどこにもない。次に「ガンダム」と入力したが、玩具、企業、兵器、宇宙船、研究計画のどの分類にも、記憶と一致するものは表示されなかった。
存在しない。
ならば、やはり僕の勘違いなのかもしれない。ジオンは一人の政治家の名であり、ニュータイプは彼が考えた新語にすぎず、ガンダムという兵器も、ジオン公国という国家も存在しない。前世の曖昧な記憶が、似た言葉を勝手につなぎ合わせているだけだと考えればよい。
しかし、もし、まだ存在していないだけなら。
ガンダムが作られる前で、ジオン公国が建てられる前で、地球連邦とサイド3が戦争を始める前なのだとしたら。
僕は椅子の背へ身体を預け、目を閉じた。何年前に見たのかも思い出せない映像の中で、巨大なコロニーが大気へ突入し、燃えながら地球へ落ちていく。誰が落としたのか、どこへ落ちたのか、どれほどの人が死んだのか、その数字は一つも思い出せないのに、あれが単なる戦闘ではなく、途方もない数の人間を巻き込む出来事だったことだけは分かった。
ダイクンが将来サイド3を独立させ、ジオン公国の王になるのかもしれない。彼が地球連邦との戦争を始めるのかもしれず、僕は今日、その男へ水と住宅と輸送網を整えるための金を出すと約束したことになる。
だが、だからといって、ここで暮らす人々への投資を止めればよいのか。
昨日会った教師も、工場で働く者も、店の売上を心配する主人も、アーサーも、ジンネマンも、メアリーも、まだ何の戦争も始めていない。未来にジオンという国が戦争を起こすかもしれないという、証拠にもならない前世の記憶を理由に、いま困っている者を見捨てることはできなかった。
必要なのは、投資を止めることではない。調べることだ。ダイクンの動き、サイド3の政治、連邦政府の対応、軍需産業、宇宙船の建造計画、そして、ジオン公国やガンダムにつながる兆候が本当に現れるのかを、僕自身の目と情報網で確かめる。もし戦争が避けられないのなら、その前に地球と宇宙を簡単には切り離せないほど、ヒトとモノとカネを結びつけてしまえばよい。戦争を始めれば双方が損をし、続ければ共倒れになる仕組みを、今から作ることはできるかもしれない。
それが可能かどうかは分からない。
僕は未来を知っているわけではなく、断片的な物語を覚えているだけであり、その物語とこの世界が同じだという証拠さえなかった。
端末の検索結果には、該当する兵器なし、該当する研究計画なし、該当する歴史記録なし、という表示だけが並んでいた。
ガンダムという兵器は、どの記録にも存在しなかった――それでも僕の頭からは、空を覆って落ちてくるコロニーの影だけが、どうしても消えてくれなかった。