【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ムウが、食べ物で決めたのかと呆れ、アーサーは人の家の料理へ文句を言うなと怒り、ジンネマンは兄貴も昨夜は豆を残そうとしていたと告発し、レイは今日も豆なのかと不安そうに尋ねた。
ラウだけはデギンの後ろに立つ少年を見ていた。少年もこちらを、正確には僕たちの会話ではなく、誰が誰の言葉へ反応し、どの位置に立っているかを確かめるように観察していたが、目が合っても笑わず、かといって敵意も示さず、軽く頭を下げただけだった。
昼食会が開かれたのは、港から歩いて十分ほどの場所にある工業調整会の建物だった。
豪華な屋敷でも政治家向けの迎賓館でもなく、各企業が共同で使う会議室と応接室を備えた施設で、廊下には工業規格の改定表、貨物船の入港予定、停電時の共同給電手順が掲示され、窓からは修理ドックと集合住宅の屋根が見えた。
ムウたちはアーサーとジンネマンに任せ、建物内の食堂で待ってもらうことになった。アーサーはまた僕の友人として同席すると言い出したが、ムウが「難しい話を聞きながら食うより、俺たちだけで食ったほうが量を取られないぞ」と誘い、ジンネマンも「兄貴が余計なことを言って、ムルタの商談を壊したら困る」と説得したため、今度は扉の前までついてくることなく引き下がった。
応接室の食卓には、薄く焼いた穀物パン、豆と野菜の和え物、保存肉を使った温かい料理が並んでおり、量は十分だったものの、地球から輸入された高級食材は使われていなかった。
デギンは上座に座ることを勧めたが、僕は客として入口から最も遠い席を選び、サザーランド少尉が隣へ座り、デギンと先ほどの少年が向かいへ座った。
「君が昨日ダイクン氏と何を話したか、詳しく聞くつもりはない。彼とは長い付き合いだが、私が間に入らず、君と直接話したかったのだろう。ただ、会談のあとで彼が、アズラエル君は思想へ金を出さないが、人が生きるための仕組みには金を出す、と言っていた。その評価は正しいのかね」
「おおむね正しいでしょう。もっとも、彼の思想へ一ドルも払わないと決めたわけではありません。出版すれば本を一冊買う程度の用意はあります」
「一冊だけか」
「読んで面白ければ、友人へ贈る分も買います。思想家に対しては、十分に誠実な顧客ですよ」
「彼が求めているのは印税ではなく、サイド3が自立するための資本だ」
「それなら、思想ではなく事業計画を持ってくるべきです。昨日見せてもらった水再生設備と学校区画の計画は調査しますが、独立という一語だけが書かれた請求書へ署名するつもりはありません」
「私も同意見だ。ダイクン氏は、我々がどこへ進むべきかを示すことができる。しかし、方向が分かっても、船と燃料と乗組員がなければ目的地へは着かない。人類の革新という理想も、呼吸する空気と明日の食事があって初めて考えられる。理想を軽んじるつもりはないが、理想だけで空気は作れない」
「ダイクン氏は人間を新しくしようとし、あなたは新しい人間が暮らす工場と港を先に造ろうとするわけですか。昨日より、ずいぶん計算しやすい話になりました」
「君は人を金額でしか見ないという評判だったが、昨日の貨物と街の住民を見ても、同じことが言えるのかね」
「人を金額で見ているのではありません。金額へ置き換えられるものは、置き換えて考えているだけです。水再生装置が止まったとき何人分の生活へ影響するか、修理を一日遅らせればいくら損失が増えるか、住宅を一棟建てれば何世帯が仮設区画から移れるか、数字にできるものを数字にしなければ、声の大きな人間から順番に助けることになるでしょう」
「では、数字にできないものはどうする」
「困っています。昨日からずっと、その話ばかりですよ。尊厳にも自治にも市場価格がなく、だからといって価値がないわけでもない。無理に価格をつければ間違えますし、数字にしなければ比較できない。いまのところ、正解は見つかっていません」
「見つかっていないと認められるなら、まだ安心だ。十二歳で何でも分かったと言う人間なら、私は君と組むつもりはなかった」
「僕も、年長者だから何でも分かっていると言う人とは組みません。お互いに相手の年齢を信用しない点では、よい取引ができそうですね」
デギンは料理を取り分けながら笑い、少年の皿にも肉と豆を載せたが、少年は食事へ手をつける前に机の端へ置かれていた事業計画書を開き、いくつかの数字へ細い線を引いた。
「父上、この港湾拡張計画は、第三期工事の貨物増加分を二重に計算しています。こちらの表では新規入港分として扱い、次のページでは工業区画から移される既存貨物として扱っているため、取扱量が実際より多く見えます。この数字を基準に借入額を決めれば、返済開始時に収入が不足します」
デギンは少年から資料を受け取り、数ページを行き来してから、職員を呼んで確認を命じた。職員は当初、集計方法の違いだと説明したものの、少年が元の計算表を示すと黙り込み、修正版を作るため部屋を出ていった。
「よく気づきましたね。僕も事前資料を読みましたが、合計額ばかり見て、貨物の出所までは照合していませんでした」
「あなたが受け取った資料には、元の計算表が添付されていなかったはずです。あれだけで気づけと言うのは無理があります」
「資料が足りないなら請求するのも仕事ですから、言い訳にはなりません。しかし、僕へ届かなかった元表を、あなたはどこで手に入れたのですか」
「昨日、父上の机にありました。数字が合わないように見えたので、借りました」
「勝手に持ち出したのか」
デギンが低い声で尋ねると、少年はわずかに間を置いた。
「父上が、読んでよい資料は机の左、触れてはいけない資料は右へ置くと言っていました。この資料は左にありました」
「確かにそう教えたが、読むことと、会食へ持ってくることは同じではない」
「持ち出してはいけないとは、教わっていません」
「では、今日教えよう。次からは一言断りなさい。それと、資料より先に食事をしなさい。数字は冷えても変わらないが、料理は冷える」
「分かりました」
少年は素直に資料を閉じ、ようやく食事へ手をつけた。叱られたことへ不満を見せず、かといって萎縮した様子もなく、自分に不足していた規則が一つ追加されたと受け止めているようだった。
デギンも息子の無断持ち出しを曖昧に許さず、それでも数字の指摘そのものは正しく評価しており、そのやり取りだけを見れば、少なくとも家族の中で恐怖によって支配する父親には見えなかった。
「賢い息子さんですね。僕の会社へ入社する気があるなら、資料管理の教育を受けさせたうえで、監査部門に雇いたいくらいです」
「本人が望むなら止めはしないが、父親の前で息子を引き抜こうとするのは感心しないな」
「優秀な人材は、本人が自分の価値へ気づく前に声をかけるのが一番安いのです。高くなってから買おうとすれば、競争相手まで増えますからね」
「僕は商品ではありません」
少年が食事の手を止めずに言ったので、僕はうなずいた。
「失礼しました。では、訂正しましょう。あなたの時間と能力を、適正な条件で借りたいという意味です」
「適正な条件は、誰が決めるのですか」
「あなたと僕です。僕が提示し、あなたが断ることも、よりよい条件を要求することもできる。合意できなければ契約しません」
「僕が断れない状態を先に作り、そのあとで同意を求めることもできます。働かなければ食べられない人間へ仕事を与え、条件へ同意したのだから対等な契約だと言うのは、本当に対等ですか」
「それは僕ではなく、昨日ダイクン氏へ尋ねるべき質問でしたね。ですが、僕なら、断ったあとでも生きられる選択肢を増やすことが、契約を対等へ近づける条件だと答えます。雇用先が一社しかなければ、その会社は賃金を下げられる。住宅が一つしかなければ、大家は家賃を上げられる。だから競争相手を残し、最低限の生活を失わずに断れる制度を作る必要がある」
「あなたの会社が競争相手をすべて買収したほうが、事業は効率的になります」
「短期的にはね。しかし、僕の会社が間違えたとき、それを示す相手までいなくなります。独占によって得られる利益は魅力的ですが、自分だけが永遠に正しいという前提は、投資計画として危険すぎます」
「自分が間違えることを前提に、力を分けておくのですか」
「自分に限らず、人間が間違えることを前提にしています。あなたも数字を見落とすかもしれないし、僕も判断を誤るかもしれない。あなたのお父上も、サザーランド少尉も、ダイクン氏も同じです。間違えない人間を探すより、間違えても全員が死なない仕組みを作ったほうが早いでしょう」
少年は料理を口へ運びながら、僕の答えを頭の中へ並べ直すようにしばらく黙った。その視線には子どもらしい好奇心があったが、面白い話を聞いて喜んでいるというより、自分がまだ知らなかった考え方を分解し、使える部分と使えない部分へ分類しているように見えた。
食事が半ばまで進んだところで、デギンが企業連合の計画書を広げた。港湾運営、発電、貨物輸送、金属加工、圧力容器、建設機械など、これまで個別に動いていた企業を共同出資の組織へまとめ、資材の一括購入と設備の共同利用を進める構想で、自治政府が生活基盤に関する権限を獲得した場合には、その実行を支える産業組織にもなるという。
「ダイクン氏が自治の旗を掲げても、サイド3の企業が互いに資材を奪い合い、地球側の輸送会社が一社止まっただけで工場が動かなくなる状態では、自立などできない。企業を国有化するつもりはないが、最低限の共通規格と、非常時に設備を融通する仕組みは必要だ。君の会社には資本だけでなく、地球と月の企業へ通じる調達網を提供してほしい」
「計画の方向には賛成できます。ただし、非常時という言葉の定義が広すぎますね。部品不足、停電、輸送事故までは理解できますが、政治的対立や武力衝突まで含めるなら、僕の資産が本人の知らないところで動員される可能性があります」
「では、参加条件を示してくれ」
「民生目的であること、会計を公開すること、ダイクン派、ザビ派、連邦支持者といった政治的立場を雇用条件にしないこと、武装組織へ資金も設備も流用しないこと、この四点です。それに、僕の会社が提供した技術や設備を別の用途へ転用する場合には、事前承認を必要とします」
「最後の条件は、守るのが難しいだろう。貨物船は荷物の代わりに兵士を運べる。宇宙服は装甲を厚くすれば戦闘用になり、建設機械の腕へ武器を持たせれば、同じ駆動装置が人を殺すために使える。水再生設備でさえ、軍艦へ積めば軍事設備だ。君は、そのすべてを禁止するのかね」
「道具が転用できることと、最初から人を殺す目的で金を出すことは同じではありません。包丁で人を刺せるからといって、料理人へ包丁を売ることまで武器商人の仕事にはならないでしょう。僕が禁止するのは、契約時点で軍事利用を目的とすることと、民生用という名目で隠すことです」