【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ギレン・ザビという名が前世のどこに置かれていたのか、僕は結局、サイド3を発つ日まで思い出せなかった。『ギレンの野望』というゲームの題名と、演説で聞いたらしい一節だけは残っているのに、その人物が何を望み、どうなったのかへ手を伸ばすと、記憶は濁って輪郭を失う。
公開記録にも、デギン・ソド・ザビの優秀な息子という情報しかないため、僕はザビ家、ダイクン、ニュータイプについて分かった事実だけを別々の脳内報告書へ保存し、答えの出ない未来より、港で待っている三人へ何を言って別れるかを考えることにした。
サイド3の宇宙港には人工の朝が満ちていたが、貨物区画では夜勤を終える者と朝の作業へ入る者が行き交い、照明の色とは関係なく動き続ける荷役機械の振動が靴底へ伝わっていた。
出発案内の下には自治権拡大を求める署名台が残り、壁には政治ポスターと地球側の認可を批判する落書きがある一方、売店では店員が飲み物を並べ、子供は学校へ遅れると親に手を引かれて走っている。人類の未来をめぐる議論と今日の遅刻が同じ通路に並ぶ、それが僕の見たサイド3だった。
搭乗手続きを終えて出発口へ向かうと、メアリーは使い込んだ鞄を胸元へ抱え、その両脇にアーサーとジンネマンを立たせて待っていた。
鞄の隙間から宇宙用部品の検査基準書が見えているところを見ると、見送りのために勉強を休んだのではなく、移動中にも読めるよう持ってきたらしい。
アーサーは僕を見つけるなり大きく手を振り、ジンネマンは自分の工具鞄を足元へ置いてから、ムウたちの人数を確かめるように一人ずつ見た。
「見送りに来ていただき、ありがとうございます。ですが、試験勉強の時間を削らせるつもりはありませんでしたし、ここまで往復する時間があれば、許容傷の数値をあと十種類は覚えられたのではありませんか」
「最後の日くらい、数字より友達を優先しろよ。母さんは朝から勉強してたし、お前に言われなくても帰ったら続けるから、試験官みたいな顔をするな」
「試験官ではありませんよ。メアリーさん、僕の名を使って採用結果を変えさせることも、工場へ特別扱いを求めることもありませんので、ご自分の力で合格してください。結果は手紙で知らせていただければ結構です」
「ええ、そのつもりです。あなたに用意していただいたのは、ここへ来る道と、試験を受ける機会までですから、その先まで運んでもらおうとは思っていません。今度は、私が自分で得た結果をご報告します」
「それでこそ投資する価値があります。合格の報告を楽しみにしていますよ」
「やっぱり応援してるのか脅してるのか分からないぞ、それ」
「両方でしょう。でも、何もできない人のように慰められるより、私はこのほうが好きよ」
メアリーが笑うと、アーサーは納得できない顔をしながらも、それ以上は口を挟まなかった。数か月前、偽造切符を握りしめ、地球にも宇宙にも行き先を失いかけていた女性は、まだ工場の制服も社員証も手にしていない。
それでも今の彼女は、誰かが次の道を与えてくれるのを待つ人ではなく、自分で選んだ試験へ向かう人の顔をしていた。結果まで僕が買ってしまえば、それは支援ではなく、彼女が自分で選び取る権利を奪う行為になるのだと、旅に出る前の僕なら今ほどは理解できなかったかもしれない。
「それから、アーサーにも一件、契約の継続を確認しておきます。子供の命名権は僕が保有していますので、別れたからといって勝手に破棄しないでください」
「兄貴、子供がいるのか」
ジンネマンが間を置かずに尋ね、ムウも声を上げ、ラウは僕とアーサーを交互に見た。レイだけは、子供がどこかにいるのかと思ったらしく、アーサーの背後を覗き込んでいる。
「いるわけねえだろ。俺は十二歳だぞ」
「じゃあ、どうして子供の名前だけ先に決めてるんだ」
「名前を決めたんじゃない。いつか俺に子供ができたら、ムルタに決めさせるって約束しただけだ」
「もっと変だ。兄貴、結婚する相手はいるのか」
「いねえよ。だから、お前らもそんな目で見るな。子供どころか結婚する相手もいないのに、名前の心配までしてるムルタのほうが気が早いだろ!」
「契約は履行日の前日に思い出しても遅いのです。もっとも、僕が提示し、あなたが承諾した条件ですから、責任が重すぎると後悔しても返却はできないのでしょうね」
「人の人生を事業計画みたいに言うなよ。名前を任せる約束は忘れてないけど、まだ生まれてもいない子供の心配までしてるお前のほうが、やっぱり気が早いぞ」
「名前まで投資の見返りなのかよ。金持ちは、まだ生まれてない子供にまで先物取引をするんだな」
「ムウ、人の名前を先物市場へ上場させないでください」
「でも、アズラエルは僕たちの名前も選んだ」
ラウが静かに言うと、それまで笑っていた全員の視線が僕へ集まった。レイは自分の胸元にある身分証へ手を当て、そこに記された文字を確かめるように指でなぞった。
「ザ・バレルも、ムルタが選んだの?」
「ええ。追跡を避け、新しい生活を始めるために必要だったので事情は違いますが、気に入らないなら将来変えても構いませんよ。ただし、レイという名は、あなた自身が選んだものです」
「僕は、レイでいい。ムウとラウも一緒だから」
「俺も今の名前でいいぞ。前よりこっちのほうが強そうだしな」
「名前の強さは分からないが、僕も変えない。自分の子供の名前まで任せるなら、アーサーはアズラエルと、これからもずっと友達でいるつもりなんだと思う」
アーサーは褒められたのか責められたのか分からない顔をしたあと、照れを隠すように鼻の下をこすった。ジンネマンは何も言わずに彼を見ていたが、やがて、それまでの乾いた調子より少しだけ低い声で尋ねた。
「兄貴は、本当にここで結婚して、子供まで育てるつもりなんだな」
「当たり前だろ。そのために母さんとここまで来たんだ。仕事を覚えて、金を貯めて、いつか家族を作る。最初からそう言ってるじゃないか」
「じゃあ、生まれたら俺にも名前を教えてくれ。兄貴が途中で投げ出さないか、見ておく」
「お前、何年ついてくる気だよ」
「まだ決めてない」
二人の間では、それで十分だったらしい。アーサーがこちらへ手を差し出したので、僕は数か月前の静止軌道ステーションで交わしたときと同じように、その手を握った。あの頃より大きくなったとは思えなかったが、工具や荷物を扱うようになったせいか、掌には小さな硬い部分ができていた。
「約束は忘れていません。あなたも次に会うまで、勝手になくさないでください。それと今度こそ手紙を書きます。本人のほうが先に着いたから返事を省略した、という言い訳は二度使えませんからね」
「当たり前だ。俺も書くし、母さんの試験の結果も、ジンネマンがまた勝手についてきた話も、全部知らせる。だからお前も、地球へ帰った途端、俺たちを忘れて金ばっかり数えるなよ」
「忘れるほど静かな方々なら、僕も苦労しないのですがね。再会する頃までには、ムウと食べ物の取り分で争わない程度には成長しておいてください」
「お前だって、何でも一人で抱えて難しい顔をする癖を直しておけよ。そのうち皺だらけになるぞ」
「十二歳の友人へ老後の心配をされるとは思いませんでした」
乗船開始を告げる放送が流れ、出発口の表示が青へ変わった。メアリーは僕たち一人一人へ身体を大切にするよう言い聞かせたあと、最後に僕へ向き直った。
「ムルタさん、あの日、あなたが私たちを見つけてくれなければ、ここへは来られませんでした。けれど、これからここで暮らしていけるかどうかは、私たち自身で決めます。ですから、心配して何もかも背負わず、ご両親のもとへ無事に帰ってください」
「承知しました。僕も、あなた方を助けた結果まで僕一人の所有物にするつもりはありません。どうかお元気で。また会いましょう」
僕たちが検査口を抜け、透明な仕切りの向こう側へ出ても、アーサーたちはその場を動かなかった。歩き出してから一度振り返ると、彼は数か月前と同じように周囲の視線など気にもせず、大きく息を吸って僕の名を呼んだ。
「ムルタ! 絶対、また来いよ!」
「君も手紙を忘れないでください、アーサー!」
名前を呼んだら友達なのだという彼の理屈は、相変わらず単純で、契約条項も担保もない。それでも、離れた場所から互いの名を呼ぶだけで、次に会うまで関係が続くと信じられるなら、世の中には紙へ書かなくても有効な約束があるのかもしれなかった。