【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
大気圏へ降りる船内で重力が戻ると、ムウは窓を見ようと首を伸ばし、ラウは平然とした顔で肘掛けを握り、レイは僕の手を離さなかった。雲を抜けた瞬間、窓いっぱいに海が広がり、映像でしか地球を知らなかった三人は声を失った。水の配給量を数えて育った彼らにとって、水平線まで続く青は、豊かさより理解を越えた浪費に見えたのかもしれない。
「あれ、全部水なのか」
「ええ。先ほど説明したとおり、ほとんどはそのまま飲めませんよ」
「分かってる。でも、あれだけあれば少しくらい飲めるだろ」
「ムウ、海水を飲む相談は着陸してからにしてくれ。僕は驚いているから、黙って見ていたいんだ」
「地球は、丸いね」
「ええ、丸いでしょう。地上へ降りれば見えなくなりますから、いまのうちによく見ておいてください」
北米東岸の宇宙港へ接地し、気密扉が開くと、湿った空気と土と草、遠くで降った雨の匂いが流れ込んできた。サイド3では空気に値段がつき、コロニーでは水の一滴まで再生設備へ戻されるのに、地球では風が誰の許可も得ず吹き、雲が予定表を無視して雨を落としている。
これを当然だと思う者と、機械が止まれば環境を失う場所で育った者が、互いを簡単に理解できるはずもなかった。
到着口の中央に父と母の姿を見つけた瞬間、僕は足を止めた。通信では何度も顔を見て、無事であることも伝えていたのに、母は普段の落ち着いた歩調を忘れて近づき、名前を呼ぶより先に僕を抱きしめた。戻った重力の中で少し息が詰まったが、離してほしいとは思わなかった。
「お帰りなさい、ムルタ。毎日報告を受けて、声も聞いて、無事だと分かっていても、顔を見て触れるまでは足りないものね。少し痩せたのではなくて」
「ただいま帰りました、母さん。食事は抜いていませんし、医師の診察も受けていますので、痩せて見えるのは宇宙で少し背が伸びたからでしょう。それから、僕も……お会いしたかったです」
母の肩越しに父を見ると、彼は笑みを浮かべながらも、すぐに旅の成果を尋ねようとはしなかった。母がようやく僕を離してから近づき、両肩へ手を置いて顔色を確かめると、そのまま一度だけ短く抱き寄せた。
「成果は屋敷で聞こう。投資報告書も、サイド3の政治も、いまは後でよい。まず、無事に戻ったと報告しなさい」
「ただいま帰りました、父さん。約束どおり、無事に地球へ戻りました」
「ああ。お帰り、ムルタ」
出発の日、母は、どれほど素晴らしい景色を見ても地球に帰る場所があることを忘れないで、と言った。月にもコロニーにも大切な人々ができたが、僕がどこまで遠くへ行き、どれほど案件を抱えても、ここで待つ二人の前では、まず十二歳の息子として帰還を喜んでよいらしい。
母が背後の三人へ目を向けると、ムウは半歩前へ出て、ラウはレイの肩へ手を置いた。両親には事情も身分記録も送っていたが、紙面に書かれた保護対象と、息子の後ろへ並ぶ子供たちとでは、やはり印象が違ったらしい。父は三人を見てから、僕へ視線を戻した。
「旅へ出る前より、ずいぶん一行が増えたな」
「ええ。予定にはありませんでしたが、三人とも地球を自分で見ると決めました」
「だから俺たちは、こいつの家族になるって決めたわけじゃないぞ。地球を見て、ここで暮らすかどうか、自分で決めるんだ」
「それでいい。まずは見なさい。決めるのは、そのあとでいい」
父の返事にムウは少し意外そうな顔をし、母は三人の前へ膝をついて、報告書の名前と目の前の顔を結びつけるように順番に見つめた。
「ムウ、ラウ、レイね。ムルタから話は聞いています。地球へようこそ。ここで暮らすか、別の場所へ行くかは、よく見てから決めればいいわ。ただ、どこを選ぶとしても、疲れたときに戻ってこられる場所の一つだとは思ってください」
「初めて来た場所へも、戻ってきていいのですか」
「ええ、ラウ。帰る場所は、生まれた場所だけとは限らないでしょう。次にも帰ってきたいと思えるなら、今日からそう呼んでいいのよ」
レイは瞬きをしたあと、僕の上着から手を離し、小さな声で「ただいま」と言った。母が「お帰りなさい」と答えると、ムウは照れた顔を隠すように天井を見上げ、ラウは肩の力を抜いた。この先どこを選ぶにせよ、安心して眠れ、選んだあとにも帰ってこられる道が残るなら、それは僕が金で増やしたかった選択肢の一つだった。
屋敷へ戻った夜、母は長旅のあとに会議を始めることへ反対したが、報告書を渡すだけだと説明すると、父の書斎で三十分だけ話すことを認めた。
ムウたちは食事と地球の重力へ順番に負け、すでに客室で眠っている。ムウは眠くないと言い張った直後に椅子で目を閉じたので、明朝その事実を教えるかどうかは慎重な判断が必要だろう。
父は僕が差し出した報告書の厚みを確かめ、最初の数頁を読んだところで机へ置いた。数字を読むことを嫌がったのではなく、今夜中に読み始めれば三十分で終わらないと理解したのだろう。母は向かいの椅子へ腰を下ろし、出発前と同じように僕の顔を見ていた。
「スペース・グランドツアーは、どうだった」
「その質問への回答がこちらの報告書です。本文二百八十六頁、地域別の付属資料が――」
「頁数ではなく、君が何を見て、何を考えたのかを聞いている。出発前の君と、いま戻ってきた君では、何が変わった」
父にそう尋ねられ、僕は収益見通しや投資案件の説明を閉じた。報告書には見た事実を書いたが、自分が何を恐れ始めたかまでは記していなかった。
「僕たちは、すでに少し遅れています。宇宙で暮らす人々は、地球から離れた一時的な労働者ではなく、そこで家庭と社会を作り始めているのに、地球側はいまだ管理対象として扱い、生活の決定まで握っている。一方では、正当な不満が地球に住む人間すべてへの憎しみに変わりかけています。このまま互いを一つの塊として見れば、話し合うより切り離すほうが早いと考える者が出るでしょう」
「サイド3で会ったダイクンという人物も、その一人なの?」
「彼は相互理解による人類の革新を信じ、いまのところ地球の人間を滅ぼせとは言っていません。ただ、人間を新しい者と古い者へ分ける思想も、独立のために産業と権力を集める者も、使い方を誤れば危険です」
そこへ、前世の記憶ではジオンという国が地球と戦い、コロニーを落としたらしい、と続けることはできなかった。サザーランド少尉へさえ保留した話である。代わりに僕は、戦争が起これば地球とコロニーの双方で、いま投資している工場も、そこで働く家族も失われると伝えた。
「それで、戦争を防ぎたいのね」
「防げるとは断言できませんが、始めにくくすることはできます。地球と宇宙の食料、資源、仕事を結び、攻撃すれば自分の生活も壊れる関係を増やす。同時に、貧困や制度の隙間で選択肢を失う人を減らし、不満を暴力へ変える以外の道を用意したいのです」
「報告書の冒頭に、金で空気は作れても息の仕方までは決められない、とあったな。それを君の友人に教えられたのか」
「ええ。ですから、現地で暮らす者を、支援を受け取る対象ではなく、何へ金を使うか決める側へ入れます。僕一人が正しい使い道を選び続けるという前提は、ダイクン氏の人類の革新と同じくらい不確実です」
父は満足そうに頷く代わりに、次の問題を探すように指先で机を一度叩いた。
「では、君が間違えたとき、誰が止める」
「公開会計と地域ごとの意思決定機関を置き、資金提供者とは独立して異議を申し立てられるようにします。僕の資産でも、僕だけが使途を決められないようにするべきでしょう」
「自分の金を、自分の思いどおりに使えない仕組みを作るのか」
「思いどおりに使うだけなら、組織は要りません。僕が間違えても死んでも続き、必要なら僕自身から資金を取り上げられる制度でなければ、長期投資とは呼べないでしょう」
「旅へ出る前より、金の使い方が面倒になったな」
「ええ。増やすだけのほうが、ずっと簡単でした」
父が小さく笑い、母もつられるように口元を緩めたが、すぐに僕へ向き直った。
「それで、私たちに何をしてほしいの。あなたが三十分だけと言って話を始めたときは、たいていすでに頼み事が決まっているでしょう」
「母さんの環境保全基金と宇宙移民支援網を、構想の母体として使わせてください。吸収や会社の宣伝に利用するつもりはありません。教育、医療、職業訓練、移住後の生活支援をつなぎ、どこに生まれても選べる人生を増やす仕組みにしたいのです」
「使っていいわ。ただし、現地の人を、お金を受け取るだけの立場へ置かないこと。何が必要かを決め、活動を評価し、あなたへ反対できる席を用意しなさい。それから、地球を守るという言葉を、宇宙の人を地球のために使う意味へ変えないこと」
「約束します。僕はサイド3で、住民の話を聞く前に住宅と工場の数字を計算し、金で改善すれば不満もなくなると思っていました。同じ失敗を地球圏全体でしないため、母さんの力を借りたいのです」
「失敗を損失として話すところは、やはりあなたの子ね」
「それ以外の部分は、君に似たのだろう」
「都合よく分けないでください。父さんには、地球、月、各サイドの企業、銀行、輸送会社を、利害が衝突しても話を打ち切らない同じ卓へ着かせてほしい。物資を止めた者自身も信用と利益を失う関係を作る、常設の調整機関が必要です」
「それは慈善ではない。民間企業が国家をまたいで調整するなら、選挙で選ばれていない者たちが政府より大きな力を持ち、少数の資産家が誰を豊かにし、誰へ損失を押しつけるか決め始める。危険を理解しているか」
「理解しています。まずは各地で交わした契約をつなぎ、情報を共有する協議の場から始めます。参加者が自分の利益を求めても、ほかを壊せば損をする規則を作り、誰か一人が支配できない形を探す。それができないなら、作るべきではありません」
「だが、必要だとは考えている」
「はい。ダイクン氏の理想だけでも、連邦政府の命令だけでも、僕一人の金だけでも、地球圏をつなぎ止めることはできません。互いを好きになれなくても、相手の言葉を聞き、同じ数字を見て、話を続けざるを得ない場所が要ります」
父は椅子の背へ身体を預け、利益と危険を同時に計るように目を細めると、「構想書を作りなさい。参加を拒まれた場合に何が起きるかまで書き、君へ権限を集める案と、君を外す案を両方用意しなさい」と言った。八歳の時に百万ドルを借りた夜と同じ、実行するなら責任の形を先に示せという許可だった。
「承知しました。追加の資金提供は求めません。必要な原資は、自分で増やします」
「そこまで八歳の時と同じにしなくていい。金は相談して決める。ただし、私の名を使って相手へ圧力をかけることは認めない」
「では、その条件も報告書へ加えておきます」
「ムルタ、その計画には、もう名前があるの?」
ブルーコスモスという名前は、旅に出る前からあった。宇宙開拓民を助けることを、恵まれた家に生まれた者の義務として言葉にし、その上へ前世の記憶から拾った名前を載せただけの、名前のある空箱だった。考えは間違っていなかったが、そこに僕自身の生きた感情はなかった。
「ブルーコスモス。以前から、そう呼んでいた構想です。青い地球を守ることと、その周囲の宇宙で暮らす人々を見捨てないことを、別々にしない計画へ作り直したい。ただし、まだ設立はしません。母さんの活動を学び、各地で始めた事業をつなぎ、僕へ反対できる人間までそろえてから、何年かけてでも正式に始めます」
「名前は悪くないわ。でも、忘れないで。青いのは地球でも、コスモスは地球より広いのよ」
「ええ。サイド3で、よく分かりました」
両親が休んだあと、僕は机へ二つの構想書を並べた。一つは、母の支援網と僕の事業を公開の支援活動へ育てる計画で、表紙には以前からブルーコスモスという仮称がある。もう一つは、企業と銀行と輸送網を同じ卓へ着かせる調整機関で、まだ名前も参加者もない。最初の頁へ、「誰か一人が契約を破れば、残りの全員から利益を失う関係を作る」と記し、その下に、自分を権限から外す条件を書き始めた。
その調整機関には、まだ名前を付けなかった。必要だと分かっていても、力を持つ者だけの会議が新しい支配にならない形を、僕はまだ見つけられていなかった。
でもきっと、名前はロゴスになるんだろうな、という妙な確信があった。やっぱ、俺ってムルタ・アズラエルだしな。
旅へ出る前、ブルーコスモスは義務によって用意した空箱だった。地球へ帰ったその夜、それは初めて、アズラエルだからではなく、僕自身が残りの人生を投資したいと思える計画になった。