【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

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第76話 投資家と革命家② (裏:ジオン・ズム・ダイクン)

 その日の午後、私は地区集会へ向かう途中で、生活区に併設された水再生施設へ立ち寄った。視察という名目ではあったが、案内役の技師長は私が配管の知識をほとんど持たないことを承知しており、難しい説明を三つほどしたあと、結局は交換時期を過ぎた濾過膜と、資材費の上昇を示す伝票を黙って差し出した。

 

 数字は演説より率直だった。地球から届く部材には輸送費と認可手数料が重なり、自治行政局の補助金は年度の途中で基準が変わり、足りない分は利用料へ載せられる。

 住民が蛇口をひねるたび政治を考えるわけではないが、その水へ付けられた価格には、本人が知らない場所で行われた政治的判断が幾層にも積み重なっていた。

 

「先生、独立すれば、この膜は安くなりますか」

 

 見学に来ていた学校の一団から、一人の少年が手を挙げた。引率の教師は困った顔をしたが、技師たちは笑わず、私の答えを待っていた。

 

「独立という言葉だけでは安くならないよ。自分たちで作れる工場と、材料を運ぶ仕組みと、価格をごまかさない帳簿が必要になる。それを整えずに旗だけ替えれば、値札の上に新しい旗の代金が加わるかもしれない」

 

「じゃあ、先生が言っていることは、独立しなくてもできるんですか」

 

「できるものもあるし、今の仕組みでは許可されないものもある。大切なのは、独立という答えを覚えることより、なぜこの膜が高いのかを尋ね、その答えを確かめられることだ。君が大人になる頃まで、同じ質問を先生に任せたままにしないでくれると、私は助かる」

 

「授業が増えそうなので、あまり助かりません」

 

 正直な返事に周囲から笑いが起こり、教師だけが複雑な顔で少年の肩を押した。

 施設を出ると、通路の掲示板には自治権拡大を求める集会の告知と、その集会が商売の邪魔になるという商店会の陳情書が並んで貼られていた。署名台の脇を急いで通り過ぎる作業服の女は、政治に関心がないのではなく、交替勤務へ遅れれば賃金を引かれるから立ち止まれないのだろうし、完全独立と大書された腕章を着けた技術者は、興奮に酔っているだけでなく、地球側の認可が下りずに半年止まった発電設備を自分の目で見てきたのだろう。

 

 反対に、店先で私を見つけて頭を下げた老人は、自治の必要を認めながらも、運動が激しくなれば輸送船が寄港しなくなると心配していた。サイド3の住民は一つの声ではなく、それぞれの生活の数だけ違う願いを持っており、私はそのすべてを「宇宙に生きる人々」という便利な複数形で語ってきた。

 

 人類の革新という言葉は、遠くまで見渡すために必要だった。目の前の濾過膜だけを直しても、同じ構造が次の部品を高くし、同じ距離が次の世代から選択肢を奪う以上、個別の不満を越えて未来を示す言葉がなければ、人々は一日を生き延びるだけで力を使い果たしてしまう。

 

 しかし未来を語る者が一人一人の事情を小さく扱い始めたなら、その思想は人を遠くまで見るための窓ではなく、人を見えなくする霧になる。

 

 ムルタが投資先として挙げたのが、空気、水、住宅、教育、輸送ばかりだった理由を、私はようやく数字ではなく実感として理解した。彼は人間の革新を否定しているのではない。ただ、それを待たないのだ。

 

 地区集会では、修正した原稿をそのまま読むつもりだったが、壇上から濾過施設の技師や学校の子どもたち、腕章を外して後方へ立つ商店主を見つけた時、私は原稿を閉じた。

 新しい人間について語る代わりに、一本の濾過膜がサイド3へ届くまでにいくつの許可と費用を通るのか、それを決める席に住民の代表が何人いるのかを問い、自治とは答えを他人から奪うことではなく、自分の出した答えの費用と失敗を自分で引き受けることだと話した。

 

 歓声は予想していたより小さかったが、話が終わったあと、施設の技師長が遠くから一度だけ頷いた。それで十分だと思った私は、政治家としてはまだ甘いのかもしれなかった。

 

 

 

 夜の運営会議では、甘さを指摘する者に事欠かなかった。

 

 議題はアズラエル側から示された四つの条件であり、正式な契約書どころか、今後の調査と交渉を受け入れるという段階にすぎなかったが、地球資本がサイド3の民生基盤へ継続投資する可能性は大きく、同時に、誰がその窓口を握るかという問題は、会議が始まる前から出席者の声を硬くしていた。

 

「空気、水、住宅、教育、輸送に限るという条件は受け入れられます。しかし、すべての会計と雇用を公開するとなれば、連邦側へ我々の弱点を見せることになります。自治を求める組織が、地球の資本家へ帳簿を差し出すというのは、住民にどう説明するのですか」

 

「我々が求めているのは、遠くからの一方的な監督をなくすことであって、検証されない権力を得ることではない。ただし、設備の保安情報まで無差別に晒す必要はないから、誰にいくら払い、誰が契約を得たかという会計情報とは公開範囲を分けよう。その線引きは安全担当と詰めるが、住民へ何も見せず、出資者にだけ帳簿を渡す形にはしない」

 

「派閥を問わない雇用という条件も危険です。連邦寄りの人間まで重要設備へ入れれば、情報を抜かれる恐れがある。それに、長年運動を支えてきた者へ仕事を優先するくらいのことは、当然の報いではありませんか」

 

「設備へ入る者の身元と保安上の審査は必要だが、政治的な忠誠を採用条件にはしない。空気を作る機械は、ダイクン派の肺だけへ酸素を送るわけではないからね。住民の生活を支えるために得た投資を支持者へ配る褒賞へ変えれば、我々は自治運動ではなく、配給権を握るための派閥になる」

 

 机の反対側から、古くから組織の会計を担ってきた男が腕を組み、低い声で口を挟んだ。

 

「武装政治団体への資金流用を禁じる、という項目はどうします。いまは武装していなくとも、連邦側が強硬策へ出た時、自分たちを守る準備まで放棄することになりかねません。地球の資本家に、我々がどこまで抵抗してよいかを決めさせるのですか」

 

「彼は我々へ武器を捨てろと命じたのではなく、自分の金を弾丸へ変えることを拒否しただけだ。我々が地球へ、自分たちの税と労働の使い道を決める権利を要求するなら、彼にも自分の資金の使い道を決める同じ権利を認めなければならない。

 将来、安全保障について議論する必要が生じたなら、それは住民へ目的と費用を明らかにしたうえで、別の議題として扱うべきだ。水再生装置の伝票へ弾薬を紛れ込ませることを自衛とは呼べない」

 

「理屈は分かりますが、政治性のない金などないと、先生ご自身がアズラエルへおっしゃったのでしょう。相手の条件を受け入れれば、地球資本の政治へ従ったことになるのではありませんか」

 

「政治性があることと、支配を受け入れることは同じではない。彼の金は、投じられた場所に雇用を作り、人を移動させ、行政へ新しい判断を迫る。その影響を隠して中立と呼ぶべきではないが、だからこそ条件を公開し、どこまで受け入れ、どこから拒むのかを住民に見せる必要がある。

 こちらが無条件で金を受け取ることも、地球から来たという理由だけで拒むことも、判断を放棄している点では変わらないよ」

 

 議論は一時間を越え、同じ懸念が言葉を替えて何度も戻ってきた。

 私にも迷いがなかったわけではない。資本は生活を支えると同時に、生活を支える者へ発言力を与える。

 

 ムルタがどれほど派閥から距離を取ろうとしても、彼の工場で働く者は賃金を受け取り、彼の住宅に住む者は家賃を払い、結果としてアズラエルの判断は自治行政局の規則より身近な力を持つかもしれない。

 その危険を承知しながら投資を求めるのは、理念が金へ屈したからではなく、理念だけでは濾過膜を作れないからであり、問題は金の影響を消すことではなく、誰にも見えない形で支配へ変わるのを防ぐことだった。

 

「四条件は、私たちの運動と関係事業の方針として受け入れる。

 ただし、私一人の署名でサイド3全体を拘束することはできないから、自治行政局、工業組合、労働者と技術者の代表へ同じ枠組みを提案し、参加する事業ごとに公開の協議を設けよう。

 会計は出資者と住民へ同じものを示し、雇用は技能と安全基準で決め、資金の用途は民生へ限定する。

 それから、アズラエル家とムルタ個人の名は、書面の許可がないかぎり、我々の支持者であるかのように使わない。この条件へ反対する者は、外部の監査が嫌だからではなく、住民へ何を隠したいのかを先に説明してほしい」

 

 露骨に不満を示す者もいたが、正面から反対する者はいなかった。私は採決を急がず、翌朝までに異論を書面で出すよう求めた。誰も反対しなかったという記録ほど、あとになって信用できないものはない。

 

 会議の終わり際、昼の声明を担当した書記が印刷物を一枚持ってきた。見出しは約束どおり「地球圏の民間投資家、サイド3民生事業の調査継続へ」となっており、その下には、政治的支持や正式契約には至っていないことと、相手の許可がないため姓名を公表しないことが、広報担当者なら本来もっとも載せたくない文章で明記されていた。

 

「ずいぶん正直に書いたね。これでは弱すぎると、昼には君自身が反対していたはずだが」

 

「切り落とした部分に責任を持て、と言われましたので、切り落とさずに全部入れました。ただし裏面には、投資候補となる生活基盤事業の一覧を載せています。見出しで歓声を取れないなら、具体的な利益で読ませます」

 

「それはいい。君の反論を採用して、見出しだけ少し大きくしよう」

 

「もう印刷したあとです」

 

「では、指導者の決定が現場へ届くには遅すぎたという教訓も、明日の議事録へ残しておいてくれ」

 

 会議室に小さな笑いが広がり、張りつめていた空気がようやく緩んだ。

 

 人類の革新を論じた一日の終わりに、私たちが得た成果は、誇張を一つ消した声明と、未契約の投資条件を検討するための委員会、それから赤鉛筆の短くなった演説原稿だったが、政治とは案外、そうした地味な修正を積み重ね、取り返しのつかない一行が印刷されるのを防ぐ仕事なのかもしれなかった。

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