【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
うちの子は、天才なのかもしれない。
ジョージ・アズラエルは、息子が生まれて以来、何度そう思ったか分からなかった。
親しい友人に話せば、決まって笑われた。
「君も人の親だったというわけだ。立派な親馬鹿じゃないか」
そのたびにジョージは曖昧に笑ったが、内心では不満だった。
自分は盲目的に息子を褒めているわけではない。アズラエル家の当主として、数え切れないほど多くの人間を見てきた。優秀な者も、凡庸な者も、身の丈を知らぬ野心家も、才気を持て余して潰れていく者も知っている。そうした経験に照らしてなお、ムルタは特別だった。
赤ん坊の頃から物静かな子供だった。
夜泣きも少なく、食事を嫌がることもほとんどない。世話を任せていた乳母や侍女たちは口をそろえて、これほど手のかからない赤子は珍しいと言った。
もっとも、ジョージ自身が夜泣きに付き合った回数など、両手で足りるほどだった。家業と財団の仕事に追われ、夜遅く屋敷へ戻る頃には、息子はすでに眠っていた。
だからムルタが手のかからない子供だったという評価は、雇われた者たちから聞いた話にすぎない。それでも、ジョージが帰宅した足音を聞きつけると、幼い息子は不思議なほどよく目を覚ました。
そして泣きもせず、青い瞳で父親を見つめた。その目が、妙に印象に残った。赤子の目ではない、と感じることがあった。
まだ何も知らないはずなのに、まるでこちらを観察し、何者であるか見定めているような目だった。
「この子、あなたによく似ているわ」
妻のマリアはそう言って笑った。
「私が赤ん坊の時から、こんな疑い深い目をしていたと?」
「ええ。きっと、自分の財産を狙っている者がいないか調べていたのよ」
「ひどい言い草だ」
「でも、本当にそっくり」
否定はできなかった。
ムルタは言葉を覚えるのも早かった。歩き始めるのも早く、文字に興味を持つのも早かった。二歳を過ぎる頃には、読み聞かせの途中で本を奪い、自分で頁をめくろうとした。意味が分かっているとは思えなかったが、絵よりも文字を追っているように見えたという。
マリアは、息子の好奇心を喜んだ。
ジョージは、少し警戒した。
アズラエル家に生まれた子供は、否応なく周囲から期待される。
賢ければ神童と呼ばれ、少しでも失敗すれば名家の後継者にふさわしくないと囁かれる。子供の成長を待つことのできない者たちが、勝手にその将来を値踏みする。
ジョージ自身、そのように育てられた。だから息子には、できる限り子供らしく育ってほしいと思っていた。少なくとも、三歳になるまでは。
その三歳の誕生日が、ジョージ・アズラエルの人生で最も狼狽した日となった。祝宴の最中、ムルタは突然椅子から崩れ落ちた。 身体を痙攣させ、口元から泡をこぼし、呼びかけにも反応しなかった。
その瞬間、ジョージの頭から、当主としての冷静さも、経営者としての判断力も、すべて消えた。
医師を呼べ、と叫んだ。何をしている、と使用人を怒鳴りつけた。自分で息子を抱き上げようとして、医師に制止された。
普段のジョージを知る者なら、誰もが目を疑っただろう。
市場が暴落しようと、政変が起ころうと、巨大企業が倒産しようと、この男は声を荒らげなかった。莫大な損失を報告された時でさえ、まず必要な数字を確認し、対策を指示してから感情を処理した。そのジョージが、三歳の息子を前に何一つ判断できなかった。
アズラエル家稀代の当主も、人の親だったのである。
三日間、ムルタは目を覚まさなかった。
医師は最悪の事態も覚悟するよう告げた。マリアは息子の手を握り続けた。祈ることしかできない自分を、彼女は何度も責めた。
世界各地で環境保護事業を指揮し、難民支援や医療援助のために何百万人もの生活へ影響を与えてきた。それなのに、たった一人の息子を救うことができない。
「私たちは、いったい何のためにこれほど多くを持っているのかしら」
夜半、マリアは眠る息子の傍らで呟いた。
「最高の医師も、最新の設備も、望めばすべて用意できる。それでも、この子が目を覚ますかどうかは分からない」
「できることはすべてした」
ジョージは答えた。それが慰めにならないことは分かっていた。
金があれば、多くのものを手に入れられる。優れた医師も、薬も、時間も買える。しかし、最後の一線だけは、金でも越えられない。
その事実を、二人は息子の寝顔を見つめながら思い知らされた。
幸い、ムルタは峠を越えた。
呼吸は安定し、熱も下がり、あとは目覚めを待つばかりとなった。
ジョージは息子の傍らに残りたかった。目を覚ました時、最初に父親の顔を見せてやりたかった。
だが、アズラエル家の当主として処理しなければならない案件が山積していた。彼が三日間不在にしただけで、複数の企業買収と政府との交渉が止まっていた。何万人もの雇用に関わる判断もあった。
名門の当主であるということは、好きな時に父親でいることさえ許されないということだった。
「起きたら、すぐに知らせてくれ」
執事へそう言い残し、ジョージは屋敷を出た。マリアもまた、息子の傍を離れなければならなかった。彼女は国際環境会議への出席を予定していた。
地球環境の悪化と宇宙移民政策を議題とする、各国政府や財団、研究機関の代表が集まる重要な会議だった。マリアが欠席すれば、数年をかけて準備してきた環境保全基金の設立が延期される可能性があった。
息子を選ぶか。
何百万もの人間に関わる事業を選ぶか。
その二つを秤にかけなければならないこと自体が、マリアには耐え難かった。
けれども、ムルタの容態は安定していた。
医師も、危険な状態は脱したと保証した。
「マリアが戻る前に、この子はきっと目を覚ます」
ジョージは言った。
「そうね」
マリアは答えたが、息子の額から手を離すまでには長い時間がかかった。やがて彼女はヨーロッパへ飛んだ。
その会議で成立した環境保全基金と宇宙移民支援網が、後にブルーコスモスの活動基盤となることを、この時の二人は知らなかった。
教育支援、医療援助、環境再生、宇宙農業研究、移民家庭への生活保障。
マリアが長年築いてきた慈善事業の網は、国家の境界を越え、地球と宇宙を結んでいた。ムルタが後に掲げる理想は、何もない荒野から生まれたものではない。その土壌はすでに、母の手によって耕されていた。
そしてムルタが目を覚ました。報告を受けたジョージは、会議を予定より早く切り上げて屋敷へ戻った。マリアも帰国の日程を可能な限り繰り上げた。
夕食の席で再会した息子は、以前と変わらぬ愛らしい姿をしていた。
ただ、何かが違っていた。
表情だろうか。
視線だろうか。
言葉の選び方だろうか。
倒れる前のムルタも利発な子供だった。だが、目覚めた後の息子は、時折ひどく遠くを見るようになった。食卓に並ぶ料理を見つめて黙り込む。使用人が水を注ぐ姿を、不思議そうに眺める。屋敷の廊下や庭園を歩きながら、初めて見るもののように周囲を確かめる。
そして突然、両親を見て安心したように微笑む。
「何か変だと思わない?」
夜、マリアは夫に尋ねた。
「病み上がりだからだろう」
「そうかしら」
「医師は問題ないと言っている」
「医師は身体の話をしているのよ」
ジョージは答えなかった。彼も同じ違和感を抱いていた。
だが、息子は息子だった。母親に抱きしめられれば照れ、甘い菓子を食べれば笑い、眠くなれば不機嫌になる。だから二人は、深く追及しなかった。命を失いかけたことで、何かが変わったのだろう。
それが成長と呼べるものなら、受け入れればよい。
やがてムルタは、身の回りのあらゆることを尋ねるようになった。
これは何か。なぜそうするのか。誰が決めたのか。
どれほど金がかかるのか。誰が利益を得るのか。誰が困るのか。
三歳児の質問としては、いささか偏っていた。
「最近のあの子は、何にでも値段を聞くのね」
マリアは半ば呆れ、半ば面白がっていた。
「アズラエル家の血だろう」
「あなたの血ではなくて?」
「同じことだ」
ジョージは息子の質問を歓迎した。答えを与えるだけでなく、時には逆に問い返した。ムルタがどのように考え、何を見ているのか知りたかった。
息子の答えは、しばしば大人を驚かせた。
屋敷で使われている食材の値段を尋ねた後、なぜ廃棄される量がこれほど多いのかと言った。
財団の奨学金制度を知ると、支援を受けた学生が卒業後どうなったのかまで調べたがった。
宇宙移民の映像を見れば、移住した人間が地球へ戻りたくなった時どうするのかと尋ねた。
ジョージは、息子が単に賢いだけではないと気づき始めた。
ムルタは物事を、ばらばらには見なかった。一つの決定が、その先で誰に何をもたらすのか。金がどこから来て、どこへ流れ、何を変えるのか。子供とは思えないほど遠くまで考えようとした。
「やはり、うちの子は天才なのかもしれない」
ジョージがそう言うと、マリアは微笑んだ。
「ええ。けれど天才でなくても、私たちの大切な子よ」
ジョージは少し考え、頷いた。それは彼が忘れかけていた、最も重要なことだった。