【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ムルタが八歳の冬、百万ドルを貸してほしいと言い出した時も、ジョージは驚きながら、どこか納得していた。
いつか言い出すと思っていたのだ。
金の流れに異様な関心を示し、企業の報告書を児童書のように読み、家族の夕食でさえ父親の投資判断に質問を挟む。
そんな息子が、いつまでも玩具や菓子だけを欲しがるはずがなかった。ジョージが百万ドルを与えたのは、息子の才能を信じたからだけではない。
失敗してほしかったからでもある。百万ドルを失っても、アズラエル家は揺らがない。だが、八歳の少年にとっては十分に痛い失敗となる。自分の知恵が完全ではないことを知り、慎重さを学ぶにはちょうどよい。そう考えていた。
結果として、その目論見は外れた。
一年後、百万ドルは十倍以上になって戻ってきた。
ジョージが驚いたのは、利益の額ではなかった。利益を得た方法だった。ムルタは単に将来有望な企業を買ったのではない。人材を移し、技術を結びつけ、販路を与え、情報を組み替えた。
金を投じたのではなく、企業そのものの形を変えていた。
報告書を読み終えたジョージは、長い間言葉を失った。
この子は、自分より優れた経営者になる。初めてそう確信した。同時に、恐ろしくもなった。力は、人を救うことも壊すこともできる。金も、知識も、善意さえも例外ではない。
「私たちは、この子に何を教えるべきなのかしら」
マリアは尋ねた。
ジョージはすぐには答えられなかった。経営や投資なら、いくらでも教師を用意できる。法律も、政治も、歴史も教えられる。
だが、力を持つ者が何のためにその力を使うべきか。それを教えることのできる人間が、果たしてどれほどいるだろう。
「我々がどう生きるかを見せるしかない」
長い沈黙の後、ジョージはそう答えた。
マリアは静かに頷いた。
自分たちの仕事を、息子は見ている。企業を守る父を。環境と人を守ろうとする母を。完璧ではなくとも、責任から逃げない姿を見せる。それしかできない。
やがてムルタは大学へ進み、さらに莫大な財産を築いた。世界は少年投資家の才能に熱狂した。新聞は神童と呼び、財界は次代の支配者と評し、政治家たちはその将来へ早くも目をつけた。
だが、ジョージとマリアにとって、ムルタはいつまでも、三歳の誕生日に倒れた小さな息子だった。
金を稼ぐたびに、なぜか寂しそうな目をする子供。
誰かが進学を諦めた話を聞けば、顔を曇らせる少年。
宇宙移民の生活を語る時だけ、普段より少し熱を帯びる若者。
ある日の夜、屋敷の灯りがほとんど消えた後も、ジョージとマリアは書斎に残っていた。机の上には、ムルタが提出した投資報告書が開かれたままになっている。
百万ドルが一年で一千万ドルを超えたという事実も、八歳の少年が複数の企業を結びつけ、技術と人材と販路を組み替えたという事実も、何度読み返しても現実味がなかった。暖炉の火が小さく揺れるたび、紙面の数字が赤く照らされ、まるで息子の才能そのものが形を持ってそこに横たわっているように見えた。
「あなたは、嬉しくないの」
長い沈黙の末に、マリアが尋ねた。
「嬉しいさ」
ジョージは答えたが、その声には自分でも分かるほど迷いが混じっていた。
「誇らしくもある。だが、それ以上に恐ろしい。あの子は、我々が教えたことを、我々よりずっと早く、ずっと遠くまで進めてしまう」
マリアは報告書ではなく、閉じられた扉の向こうへ目を向けた。ムルタはすでに眠っているはずだった。成功を報告した夕食の席でも、息子は歓声を上げることも、自慢することもなかった。利益率や契約条件については熱心に語ったが、一千万ドルという結果そのものには、ひどく冷静だった。子供が初めて試験で満点を取った時のような無邪気な喜びはなく、次に何を改善すべきかを考えている顔をしていた。
「あの子は、勝った時ほど寂しそうな顔をするのよ」
マリアがぽつりと言った。
ジョージも同じことを感じていた。ムルタは欲しいものを手に入れるたび、満足するのではなく、その価値を測り直していた。玩具を与えれば分解し、本を与えれば著者の前提を疑い、金を与えれば増やす方法を考える。喜びがないわけではない。
ただ、何かを得た瞬間から、それを失わないためにはどうすべきか、さらに何を持たなければならないかを考え始める。まだ八歳の少年であるにもかかわらず、満足することそのものを恐れているように見えることがあった。
「たぶん、あの子は金が欲しいのではない」
ジョージはゆっくりと言った。
「金がなくなることを恐れているんだ」
マリアは驚いたように夫を見た。
「なくなることを?」
「ああ。ムルタは金を見ている時、欲望より先に警戒している。いくらあれば足りるのかではなく、どれだけあっても失う可能性を考えている。まるで一度、金がないために何か大切なものを奪われたことがあるように」
そこまで言って、ジョージは自分の言葉の不自然さに気づいた。ムルタは生まれた時から何一つ不自由していない。病気になれば最高の医師が呼ばれ、必要な教育はすべて用意され、欲しい本も道具も手に入った。アズラエル家の息子として、金を失う恐怖を知る機会などなかったはずである。
それでも、ときおり見せる息子の表情には、豊かさの中で育った人間には持ち得ない切迫感があった。
「何を恐れているのかしら」
マリアの問いに、ジョージは答えることができなかった。
息子の心の中には、自分たちの知らない部屋がある。そこへ無理に踏み込むことはできない。三歳の誕生日に倒れてから、ムルタが時折見せる老成した眼差しも、夜中にうなされながら母を呼ぶことも、理由を尋ねれば本人は曖昧に笑ってごまかした。両親としてできるのは、その扉が開く時を待つことだけだった。
「私たちは、この子に何を教えるべきなのかしら」
マリアは改めて尋ねた。
経営や投資であれば、もはや自分たちより優れた教師が必要になるだろう。法律も政治も歴史も、金さえあれば一流の人間を集められる。
しかし、力を持つ者が何を恐れ、何を守り、何のためにその力を使うべきか。それを教えられる教師を、金で雇えるとは思えなかった。
「結論は同じだよ。我々がどう生きるかを見せるしかない」
長い沈黙の後、ジョージはそう答えた。
「企業を守ること。雇っている人間の生活を数字として扱わないこと。富を持つなら、それに伴う責任から逃げないこと。間違えた時には、自分の地位ではなく、間違いの方を認めること。それを見せるしかない」
「それで足りるかしら」
「足りないだろう」
ジョージは苦笑した。
「親が子供へ与えられるものなど、いつだって足りない。それでも、何も与えない理由にはならない」
マリアは静かに頷き、報告書を閉じた。紙の上では、息子はすでに一千万ドルを動かす投資家だった。それでも、屋敷の中では年相応に笑ったり拗ねたりす八歳の子供だった。
ただ、いつかムルタが自分たちの手を離れ、誰にも止められないほど大きな力を持つ日が来ることだけは分かった。
その時、息子を導くものが恐怖だけであってほしくない。金を失うことへの怯えだけで、世界を動かす人間になってほしくない。
ジョージは消えかけた暖炉の火を見つめながら、そう願った。
◆
やがて彼が十億ドルの資産を築いてから暫く経ち、その金を宇宙移民の教育や医療へ投じたいと言った時、マリアは驚かなかった。
「母さんがずっとしてきたことを、僕にも手伝わせてほしい」
ムルタはそう言った。けれど、実際には、手伝うという規模ではなかった。
マリアが何十年もかけて築いてきた支援網へ、ムルタは巨大な資本と経営能力を注ぎ込んだ。小さな基金は財団となり、地域的な支援は地球圏全体へ広がった。
教育、医療、研究、産業、文化。
ばらばらだった活動は、一つの理念の下へ組み直されていった。
そして、宇宙世紀0060年。ムルタ・アズラエルは「ブルーコスモス」の設立を宣言した。
青き地球を守ること。
宇宙へ旅立つ人々を見捨てないこと。
それは息子が突然思いついた思想ではない。
父から受け継いだ、富に伴う責任。
母から受け継いだ、地球と人間への慈愛。
そして、両親すら知らない前世の痛み。
それらすべてが、ムルタという一人の人間の中で結びつき、初めて形を得たものだった。