夜。 バハルス帝国南東部、幾重にも連なる山嶺に抱かれた辺境の集落――タシミール村。
中央から寄せられる庇護も乏しく、しかしそれ故に長い歴史だけは絶やさず紡いできたこの土地に、今宵もまた、変わらぬ夜が訪れていた。
村の一角に建つ、慎ましやかな木造の家。
壁の隙間から夜気が忍び込むその部屋に、蝋の灯りが小さく揺れている。今夜は家族全員がその灯りの下に集まっていた。それぞれが思い思いの場所に腰を下ろし、一日の終わりの、ありふれた時間を過ごしている。
寝台に横たわった三歳の弟に、二十歳になる姉が絵本を読み聞かせている。
ページの端は擦り切れ、幾人もの手を経てきたことを物語っていた。この村に生まれた子供であれば、誰もが一度は聞かされる御伽噺である。
「むかしむかし、この世界には、白銀の鎧を纏った騎士がいました」
姉の声は柔らかく、けれど確かな抑揚を持っていた。
「その騎士は、とても強い力を持っていました。でも、それを自分のためには使いません。困っている人を見れば、誰であろうと決して見捨てようとしませんでした」
三歳の弟は、すでに物語に夢中になっていた。
「その人、ほんとにいたの?」
姉は少し困ったように微笑む。
「さあ……昔の話だから、本当かどうかは分からないな」
「でも、強くてやさしいんでしょ?」
「そうだね。誰よりも強くて、誰よりも優しい人だったって言われてる」
弟は少し考えるような顔をしたあと、ぱっと明るい表情になって言った。
「アベル兄ちゃんみたい!」
アベルは、思わず視線を上げた。予想していなかった言葉だった。
姉は笑いながら首を横に振る。
「全然違うでしょ」
「いや、そこは否定するとこじゃないだろ」
アベルが軽く突っ込むと、弟がなおも続けた。
「だってアベル兄ちゃん、超強いじゃん」
「まあ……白銀の騎士ほど立派な人ではないけどな」
「自分で言うんだ」
姉が呆れたように言い、母も小さく笑った。
アベル自身、自分を英雄のような存在だと考えたことは一度もない。
危険な魔物を退けられることも、村の誰よりも力があることも、当人はよく理解していた。しかしそれは、単に便利な能力に過ぎない。人を導き、弱者を守るような英雄の在り方とは、根本から別物だと思っている。
「でも――」
姉がふと呟いた。
「困ってる人を放っておけないところは、ちょっと似てるかもね」
アベルは何かを言い返そうとしたが、結局、言葉にはならなかった。
家族にとっては、ただの昔話の時間だった。何百年も繰り返されてきたであろう、ありふれた夜のひとこまに過ぎない。
しかし、その物語の主が――五百年という長い年月を経てなお、この場にいる青年自身の血の中に眠っていることを、誰も知らない。
蝋の灯りだけが、静かに部屋を照らし続けていた。
◇◆◇
数日後。
タシミール村の畑には、朝から鍬を振るう母とアベルの姿があった。
この村で生きる以上、農作業や家の仕事を手伝うことは、当然のこととして受け止められている。父を亡くしてからは、なおのことだった。
だが、アベルはこの単調な作業が、心底苦手だった。畑を耕しながらも、その手つきには明らかにやる気が見えない。
「少しくらい真面目に手伝いなさい」
母がそう窘めると、アベルは一応返事はする。しかし、すぐに集中は途切れた。
しばらく作業を続けたあと、アベルは唐突に手を止める。
「あー……面倒だ」
母が呆れたように息をつく。
「もうやめやめ」
アベルはそう言って、あっさりと道具を置いた。
母はもはや怒る気力もないのか、半ば諦めたような顔をするだけだった。アベルが昔からこういう性格であることは、家族全員がよく理解している。
本来であれば、そんな態度に家族が頭を悩ませるところだろう。しかし、アベルの場合は少し事情が違った。
幼い頃から村周辺に出没する魔物の相手を任されており、大人たちは彼の実力を誰よりもよく知っている。畑仕事をさぼる息子への小言も、どこか本気になりきれない部分があった。
母は、鍬を握り直しながら、アベルに畑仕事の大切さを説いた。
土の状態を見ること。季節に合わせて種を植えること。毎日少しずつ、地道に手をかけること――それは力任せの仕事ではなく、長い時間をかけて家族を支えるための営みなのだと、母は静かに語った。
アベルは真面目に耳を傾けているように見えた。だが内心では、やはり自分には向いていないと感じていた。
人並み外れた身体能力を持つアベルにとって、重い荷物を運ぶことも、体を酷使する作業自体も、苦痛ではない。しかし、同じ作業を来る日も来る日も繰り返すことだけは、どうしても耐え難かった。
「父さんがいなくなった今、私たちが生きていくには、この畑を守るしかないんだよ」
母がぽつりと言った。
父は、傭兵として外で働いていた。危険な仕事だったが、その稼ぎが、この家を長く支えてきた。しかし今、その役割を担える者は、この家にはいない。
母は、家族を支えるためにも、アベルに畑仕事を覚えてほしいと願っていた。
「親父よりずっと強い傭兵なら、ここにいるだろ」
アベルはそう答えて、軽く肩をすくめた。
「適材適所で生きていこうぜ」
その言い草に、母は何かを言いかけて――結局、小さく息を吐くだけに留めた。
母はもう、父親と同じ道を息子に歩ませたいとは思っていない。
それでも、アベルの意思は変わらないようだ。
「どこに行くの?」
道具を片付け、身支度を始めたアベルに、姉が声をかけた。
「ちょっとグランベルまで出てくる。金稼いでくればいいんだろ? ここよりは仕事もあるさ」
「またあんたは……」
姉は溜息をつきながらも、それ以上は止めなかった。止めても無駄だということを、この家の誰もがよく分かっている。
アベルは剣を背に、慣れた足取りで村を出ていく。
◇◆◇
バハルス帝国南東部に位置する交易都市グランベル。
タシミール村周辺では比較的大きなこの街には、周辺の村や集落から、商人、冒険者、傭兵、そしてワーカーと呼ばれる者たちが集まってくる。
アベルは、以前から何度もこの街を訪れていた。村での生活費を稼ぐため、定期的に仕事を探しに来ているのだ。
冒険者ギルドに正式登録しているわけではない。帝国に仕える兵士でもなければ、ワーカーを名乗って活動しているわけでもない。必要な時にだけ仕事を受ける、いわば日雇いの便利屋――それが、この街におけるアベルの立ち位置だった。
グランベルでは、「腕だけは異常に立つ、変わった青年」として、一部にその名が知られつつある。
アベルが足しげく通う酒場は「銀狼亭」という。
冒険者や傭兵たちが情報交換を行う場所であり、表向きは冒険者向けの酒場だが、正式な依頼としては扱いにくい仕事を探すワーカーたちも、しばしば姿を見せる。
高級な店ではない。仕事を求める者と、仕事を出す者とが、自然と寄り集まる庶民的な酒場だった。
店主のガルドは、アベルが何度も通っていることをよく知っている。彼が依頼を受ければ、大抵の仕事はあっさりと片付けてしまうことも承知していた。しかし、正式な所属を持とうとしないその態度には、いつも呆れを隠さない。
カウンターに近づくアベルの姿を見て、ガルドが声をかけた。
「また来たのか、アベル」
「仕事探し」
「もういっそ冒険者や兵士にでもなればいいだろうに……」
「あんま縛られたくないんだ」
「ならワーカーは? 腕だけなら十分だろう」
アベルは面倒くさそうに答える。
「肩書きを背負いたくないんだよ」
ガルドは呆れたように首を振った。
「普通は腕がある奴ほど、名乗りを欲しがるもんだぞ」
「いらん。金さえ稼げればいい」
アベルは、本気でそう思っていた。
名声にも地位にも興味はない。自分がこなしている仕事が、傍から見れば危険な部類に入ることは自覚していたが、それを職業として固定するつもりは、これっぽっちもなかった。
グランベルに出入りする冒険者やワーカーたちの間では、アベルについての噂がいくつか流れている。
なんでも器用にこなす便利屋。腕は立つが、どこにも属そうとしない、少し変わった男――。
当のアベルは、そうした評価をまるで気にしていなかった。
彼にとって魔物退治も護衛も、単に金を稼ぐための手段でしかない。重要なのは、金でも名誉でもなかった。
自分の好きな時に動けること。
そして――金を持って、家族のところへ帰れること。
それだけが、アベルにとっての基準だった。
カウンターに肘をつき、酒を一杯だけ頼んだところで、ガルドがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、お前に丁度いい話があるんだが」
「なに」
「帝国貴族、ルドルフ・ハイゼンベルク子爵が、周辺地域で活動するワーカーを集めてるらしい。何か調査絡みの依頼だとよ」
アベルは少し眉を上げた。
「報酬は?」
「依頼人は高名なルドルフ子爵だぞ。悪い話のはずがねぇ」
アベルは少し考えた。
村に帰れば、また畑仕事を手伝わされる。別に家族が嫌なわけではない。ただ、同じ作業を毎日続けるよりは、外で金を稼ぐ方が、自分には性に合っている。
「いいね。どこ行けば受けれる?」
「話を聞くだけなら、明日の昼にハイゼンベルク家の使いが来るらしい。ここじゃなくて、街の西区にある古い商館だ」
「ふぅん」
アベルは頷いた。
「そういう仕事を待ってたんだ」
◇◆◇
指定通りの時間に、アベルはグランベル西区の商館へと向かった。
中央通りの喧騒から一本外れたその一帯は、古い商家の建物が立ち並び、昼間だというにもかかわらず、どこか静けさを湛えている。かつて栄えた商会の跡地なのか、壁には煤けた紋章の痕が残っていた。
指定された商館に足を踏み入れると、すでに何人かのワーカーが集まっていた。正式な冒険者では受けにくい、いわば法の際を歩くような依頼を専門に扱う者たちだ。護衛、盗掘、情報収集、調査――依頼主の事情次第では、帝国の法の境界線に踏み込むような仕事も、この者たちにとっては珍しくない。
しばらくすると、部屋の奥の扉が開き、身なりの整った初老の男が現れた。
護衛らしき兵士を二人伴っている。使者は集まった一同を見渡すと、静かに口を開いた。
「本日はお集まりいただき、感謝いたします。私はルドルフ・ハイゼンベルク子爵に仕える者です」
一礼したのち、使者は依頼の内容を語り始めた。
「昨今、グランベル近郊において、帝国法に反する奴隷取引が確認されております。正規の奴隷契約は、皆様もご存知の通り、帝国臣民としての保護、契約期間の明記、そして傷害・死亡に対する厳格な罰則によって、一定の秩序の下に運営されるものです」
使者の声には、実務に慣れた者特有の淡々とした調子があった。
「しかし今回摘発すべき組織は、その枠組みの外にあります。契約書に存在しない拘束。帝国臣民に対する不法な連行。すでに、死亡者が出ているとの報告も上がっております」
場の空気が、わずかに引き締まったのを、アベルは感じた。
犯罪の話には慣れている者たちであっても、死者という言葉には、それぞれの受け止め方があるようだった。
「ルドルフ子爵は、皇帝陛下が推し進める改革の理念を、この地方においても体現すべきであると考えておられます。腐敗を許さず、法の下の秩序を保つ――それこそが、地方を預かる貴族の責務であると」
使者はそこで一度、言葉を切った。
「ゆえに子爵は、正規の兵に加え、皆様のような、迅速かつ柔軟に動ける方々のお力もお借りしたいと考えております」
依頼の骨子は単純だった。
奴隷商の根城とされる交易都市近郊の廃倉庫に突撃し、そこで行われている不法な取引を止めること。可能であれば、囚われている者たちの保護。首謀者の身柄確保、あるいは相応の処分。
報酬額が読み上げられると、集まったワーカーたちの間に、小さなどよめきが広がった。通常の依頼水準を大きく上回る金額だったからだ。それだけ、相手が危険な組織であることの裏返しでもある。
集められたワーカーたちは、それぞれ報酬と危険性を天秤にかけるように、静かに情報を吟味していく。アベルもまた、腕を組んだまま黙って話に耳を傾けていた。
説明が一区切りついたところで、アベルが短く声を上げた。
「一つ聞きたい」
使者の視線が、声のした方へ向く。
「何でしょうか」
「この依頼、俺一人でやった場合でも報酬は全部もらえるのか?」
その場にいたワーカーたちの間に、今度は先ほどとは異質の緊張が走る。
使者は一瞬、意図を測りかねたように口ごもったが、やがて事務的に答えた。
「依頼達成が確認できれば、動員された人数によって報酬を分配する予定になっております」
「じゃあ、俺が全部やったら、俺が全部もらえるってことだよな?」
使者は少し考える素振りを見せたのち、静かに頷いた。
「規定上は、そうなります」
アベルは満足したように頷き返す。
「じゃあ一人でやるよ」
その一言に、周囲の空気がわずかに強張った。
周囲の者たちは、その様子を黙って見ていた。目の前の青年は、冗談で言っているようには見えない。金銭目的で依頼を受ける者の中には、力に自信があれば、あえて人数を減らして報酬を独占しようとする者も珍しくはない。だが――どこか、それとも違う手触りがある。強気な発言というよりも、当然の事実を口にしたに過ぎない、というような淡々とした響きがある。
説明が終わり、報酬は早い者勝ちということで場が解散になったあと、とある男がアベルに声をかけた。
「待て」
アベルが振り返る。
「何?」
「さっきの、依頼内容を聞いた上で言ってたのか?」
「そりゃ、まぁ」
「相手は違法組織だ。人数も分からない。裏に何かある可能性もある」
アベルは少し考える。
「だから?」
男は眉をひそめた。
「一人で行く理由を聞いている」
アベルは、いくらか面倒そうに答えた。
「群れるのは苦手だ。歩幅を合わせたくない」
男は、しばし沈黙した。あまりにも単純な理由だった。
「俺はフォーサイトのリーダー、ヘッケランだ。他にも仲間が三人いる。俺たちと協力しないか?」
彼の率いるワーカー集団『フォーサイト』は、こういった依頼のために四人で集まっている。
調査役、戦闘役、魔法役――それぞれが必要な役割を担うことで、これまでの依頼を成立させてきた。
アベルは首を横に振った。
「いや、いい」
「なぜだ? 同じワーカーなら、俺たちの実力を知らないわけじゃないだろ」
少し間を置いてから、アベルは言った。ワーカーだと勘違いされていることに気づいてはいたが、いちいち訂正するのも面倒だった。
「あんたらがいると、死人が出るかもしれない」
ヘッケランの表情が、わずかに変わった。
彼はその言葉を、別の意味で受け取った――自分たちが足手まといになり、敵の手にかかるかもしれないと、この青年は案じているのだと。
だが、アベルの言わんとしていることは、まったく別のところにあった。
奴隷商を相手にするとき、仲間の存在は、時として判断の数を増やす。誰かが、勢いのままに相手を殺してしまうかもしれない。アベルは、それを避けたかった。
犯罪者相手であろうと、できる限り人を殺したくない――それだけの、シンプルな心遣い。
「……俺たちは自分の身は守れる」
「そういう話じゃないんだが……」
アベルはそれ以上、何も説明しなかった。話しても、伝わらないだろうと思った。
「少なくとも、作戦を決めてから動くべきだ」
ヘッケランがそう提案する。アベルは少し考え、それから小さく息を吐いた。
「一人でできるよ。根城も割れてるし、必要な情報は揃ってる」
そう言い残して、アベルは商館を出ていった。
ヘッケランはしばらくその場に立ち尽くしたあと、手にした依頼書へと視線を落とす。
「……嫌味な野郎だな」
その呟きは、誰に届くこともなく、静かな商館の中に消えていった。