それは、世界の終わりを告げる光景だった。
地球を囲む巨大な天輪――低軌道リングが、重力に引かれてゆっくりと、しかし確実に落ちていく。
大気圏との摩擦で赤黒く燃え上がる空。仕込まれた致死性のウイルス。
人類の滅亡まで、もう秒読みの段階だった。
「――全部、俺が受け止めてやる」
ボロボロの肉体。千切れかけた片腕。
それでも、近衛刀太は笑っていた。
その胸に、世界樹の種子を埋め込む。
かつて地球と魔法世界を繋いだ神木の力が、刀太の規格外の魔力と「不死性」を触媒にして、暴走気味にその牙を剥いた。
肉体が、ミシミシと、いや、メキメキと植物の繊維へ作り変えられていく。
世界樹の枝葉が空を覆い、落ちてくる質量を、絶望を、ウイルスを、その身を挺して受け止めていく。
(あぁ、みんな……)
意識が遠のく中、刀太は思った。
九郎丸。キリヱ。夏凜先輩。……雪姫。
(みんながいる未来を……絶対に、守るから……)
瞬間、世界樹の内部で莫大なマナが爆発した。
「みんなを救いたい」「あの平和だった頃へ」――強すぎる刀太の願いと、世界樹の空間転移エネルギーがバグを起こし、時空の壁に、ぽっかりと名もなき裂け目を作り出す。
光の中に呑み込まれながら、刀太の意識は深い闇へと沈んでいった。
――それから、どれほどの時間が経ったのだろう。
「……ん、……?」
頬に触れる、冷たい芝生の感触。
そよそよと流れる、どこか懐かしく、そしてひどく澄んだ風。
全身が鉛のように重い。指先ひとつ動かすのも億劫だった。
刀太はうっすらと目を開けた。
そこは、夜の闇に包まれた、見たこともないほど巨大な「木」のふもとだった。
かすかに発光するその神木は、まるで刀太を優しく出迎えるように、葉を揺らしている。
(ここは……どこだ……? 俺は、何を……)
記憶がない。
自分の名前すら、霧の彼方に消えてしまっている。
体を起こそうとして――左肩に、激痛と、そして「何も存在しない違和感」を覚えた。
「あ、れ……?」
左腕がない。肩の付け根から先が、すっぱりと失われている。
服はボロボロで血に染まり、息をするだけで肺が焼けるように痛かった。
動けない。このままここで、一人で死ぬのだろうか。
いや、自分は死なないような気がする。なぜだかは分からないけれど。
その時、カサリ、と草を踏む音が静かな夜に響いた。
「あれ……? 誰か倒れてる……?」
おっとりとした、けれどひどく心配そうな女の子の声。
ぼやける視界の先、ランタンの明かりに照らされて、お下げ髪の少女が刀太を覗き込んできた。ふくよかで、見るからに優しそうな、お姉さんのような雰囲気の少女。
「ちょっと、大丈夫!? ……うわ、片腕がないよ、凄い怪我……!」
少女は持っていた買い物袋を放り出し、泥まみれの刀太に駆け寄った。
その小さな、けれど温かい手が、そっと刀太の体に触れる。
刀太は残った右腕で、かすかに拒絶するように地面を這い、掠れた声で呟いた。
「だ、れ……だ……あん、た……」
「私? 私は四葉五月。とにかく、今は動いちゃだめだよ!」
緊迫した状況の中でも、少女の声は驚くほど穏やかで、温かかった。
腕を失い、記憶を失い、世界の境界からこぼれ落ちた少年が、過去の麻帆良で最初に出会った温もり。
それが、新しい運命の始まりだった。
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「――ん」
次に目を覚ました時、刀太の鼻腔をくすぐったのは、途方もなく食欲をそそる温かい匂いだった。
鶏ガラをベースに、ネギや生姜、そしていくつかの香辛料が絶妙に混ざり合った、深く、優しいスープの香り。
(……ここは?)
天井を見上げる。世界樹のふもとの夜空ではなく、古びた、けれど丁寧に手入れされた木造の天井だった。
自分が横たわっているのは簡素な煎布団の上だ。
体を起こそうとして、刀太は息を呑んだ。
「――あれ。ない、よな。やっぱり」
包帯が厳重に巻かれた左肩。そこから先は、やはりぽっかりと失われている。
しかし、おかしなことがあった。
あれだけの重傷を負っていたはずなのに、体には痛みがほとんど残っていない。それどころか、内側からエネルギーがじわじわと湧き上がってくるような、奇妙な全能感さえあった。
「あ、気がついた?」
パタパタと小気味よい足音が近づき、引き戸が静かに開く。
そこに立っていたのは、夕べ世界樹の下で自分を救ってくれた少女――四葉五月だった。
彼女は割烹着姿で、湯気の立ち上る大きなお椀をお盆に載せて、おっとりと首を傾げた。
その表情は、まるで日向ぼっこをしている時のように柔らかい。
「よかったぁ。あの怪我だし、お医者さんを呼ぼうとしたんだけど……あんたの体、ものすごい勢いで傷口が塞がっていっちゃうから。はい、これ。起き上がれる?」
五月が枕元に置いたお椀には、透き通ったスープにたっぷりのワンタンが浮かんでいた。
匂いを嗅いだ瞬間、刀太のお腹が「ぐうぅぅ」と欲張りな音を立てる。
「ふふ、元気そうだね。お腹、ペコペコでしょう? はい、スプーン。もし片手で食べづらいなら、私が食べさせてあげようか?」
少しからかうように、けれど慈愛に満ちた優しい眼差しで五月は言う。その話し方はどこまでも穏やかで、聞いているだけで張り詰めていた心が自然と解きほぐされていくようだった。
「なっ、そんなの自分で食えるよ!」
刀太は赤面しながら慌ててお椀を引き寄せ、右手でスプーンを握った。
スープを一口、口に運ぶ。
「――っ! う、美味い……!」
じわあ、と五臓六腑に染み渡るような美味さだった。
ただ温かいだけじゃない。作った彼女の「食べて元気になってほしい」という真っ直ぐな想いが、味を通してそのまま体に流れ込んでくるような、そんなスープだった。
無我夢中でワンタンを口に放り込む刀太を、五月は包み込むような温かい笑顔で見守っている。
「よかった。うちは中華料理屋の娘だからさ。元気のない人には、まず温かいものを食べさせてあげるのが一番だと思ってるんだよね」
「……美味い。まじで美味い。生きててよかった……」
最後の一滴までスープを飲み干し、ふぅ、と息を吐き出す。
そこで刀太は、自分の「名無し」の現状を思い出し、少しきまり悪そうに頭を掻いた。
「あのさ……助けてくれて、ありがとな。……五月、だっけ」
「うん。四葉五月。あんたは? お名前、言える?」
「いや……それがさ。何にも思い出せねぇんだ。自分が誰で、どこから来たのか。……ただ」
刀太は自分の右手のひらをじっと見つめた。
皮膚は硬く、あちこちに戦い慣れた男のような吸い豆ができている。
「『トータ』。……それだけが、頭の中に残ってる。多分、俺の名前だ」
「トータくん、ね。うん、響きが優しくて、すごく良い名前だと思うな」
五月は困った顔もせず、ただただ優しくトータという名前を受け入れた。
その抜群の包容力に、刀太の心はすっかり救われた気持ちになる。
しかし、その温和な日常の時間は、部屋の外から近づく重々しい足音によって遮られることになる。
「――失礼するよ、五月くん。その少年の意識は戻ったかね?」
引き戸が開いた。
入ってきたのは、仕立ての良い着物を着た、いかにも一筋縄ではいかなそうな白髭の老人。
そしてその後ろには、白衣を着てタバコを咥えた、気だるげだが眼光だけは異様に鋭い、眼鏡をかけた男が立っていた。
「あ、学園長先生。高畑先生も。はい、トータくん、今ちょうど目が覚めてスープを食べてくれたところです」
(がくえんちょう……?)
刀太の野生の勘が、背後の男――高畑・T・タカミチから放たれる「ただ者ではない気配」を瞬時に察知した。
五月を背中にかばうように、刀太は片腕でありながら、布団の上でスッと身構える。
その本能的な動きの鋭さに、高畑は眼鏡の奥の目をわずかに細めた。
「警戒しなくていい、少年。私はこの麻帆良学園の学園長、近衛近右衛門だ。昨夜、君が世界樹のふもとで倒れているのを五月くんが発見してね。……その腕の傷と、君の素性について、少し話を聞かせてもらいたいのだよ」
学園長は穏やかに、しかし逃れられない威圧感を持って刀太を見据えた。
「先ほど、君が眠っている間に、高畑の術で記憶の確認を試みさせてもらった。……だが、驚いたことにね。防御の呪いがかかっているわけでもないのに、君の頭の中には『昨夜からの記憶』以外、文字通り真っ白で何一つ存在しなかったのだよ。君は本当に、自分のことを何も知らないのだね?」
「……ああ。自分でも気味が悪いくらい、何にも思い出せねぇんだ」
刀太は嘘偽りのない目で、まっすぐに学園長を見返した。
「本当に、何も思い出せねぇんだ。気づいたら腕がなくて、あのデカい木の前に倒れてた。怪しい奴だろ。信じろって方が無理かもしれないけど……これだけは信じてくれ。俺は、あんたたちに敵意なんてこれっぽっちもねぇよ」
じっと刀太の目を見つめていた近右衛門は、やがて「ふむ」と短く息を吐き、隣の高畑に視線を送った。高畑は小さく首を横に振る。
「記憶がない、というのは事実のようですね。嘘をついている時の脳の揺らぎが一切ありません。それに、彼から感じる魔力……いや、未知の力の残滓は気になりますが、悪意や害意の類は感じられませんね」
「そうか。しかし、これほどの力と傷を持つ、しかも身元不明の少年を放り出すわけにもいかん。……どうしたものかね」
腕を組む学園長に、一歩前に進み出た五月が、おっとりとした、けれど芯の通った声で提案した。
「あの、学園長先生。だったら、トータくんをうちの厨房で雇うのはどうでしょうか?」
「おや、五月くんが?」
「はい。うちの超包子(チャオパオズ)、これから学園祭に向けて人手が全然足りなくなっちゃうんです。トータくん、片腕だけどすごく体が頑丈そうだし、よく働いてくれそうな気がするんです。うちの目が届くところに置いておけば、先生たちも安心でしょう?」
五月の言葉に、刀太は目を丸くした。出会ったばかりの、しかも得体の知れない自分を、こんなにも優しく、当然のように庇おうとしてくれている。
「ふむ……学園内の備品管理や雑用、そして超包子の手伝いか。監視兼保護としては、悪くない提案だな。タカミチ、どう思う?」
「妥当ですね。私が責任を持って、学園内での彼の動向に目を光らせておきましょう」
こうして、刀太の「麻帆良学園での居候生活」が決まった。
「決まりだね。よろしくね、トータくん。今日からあんたは、うちの厨房の『見習い兼事務員さん』だよ」
「あ、ああ……。よろしくな、五月!」
記憶はなく、片腕もない。
けれど、温かいスープをくれた少女の隣で、刀太の「過去の世界」での慌ただしい日々が、静かに幕を開けた。
原作同様、記憶・能力の使い方・腕を治す再生能力などは忘れているため使えません.
しばらくは、鬼の器用さと身体能力のみで過ごすことになります.