近衛刀太inネギま   作:けるるんくっく

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委員長のかっこいいところを書こう!と頑張っていたら、前回の話とあまりにも整合性が取れなくなったので、前回の話の内容を少し変えております。

具体的には、気の修行について、
トータだけだと危険だから参加するという理由だけだったのを、次期当主として必要な力かもしれないと考える描写を加えています。

後先考えずに投稿したせいで、ご迷惑をおかけし申し訳ありません!


次期当主として

古菲が職員室へ連行されたあの日から数日後。

 

学園の広大な敷地の一角にひっそりと佇む、立派な日本家屋の前にトータたちの姿があった。

 

「ここが、私の個人道場ですわ」

 

あやかが誇らしげに鍵を開け、重厚な木製の扉を押し開ける。

一歩足を踏み入れた瞬間、トータは「うおぉっ……!」と思わず声を上げて目を輝かせた。

 

「すっげえええ! めちゃくちゃ広いし、床がピカピカじゃねぇか!」

 

そこは、雪広財閥の力によって学園の敷力内に特別に用意された、あやか専用の本格的な武道場だった。

 

厳かな杉の木香が優しく鼻腔をくすぐり、磨き抜かれた檜の床板が夕暮れの光を鈍く反射している。

壁には『一期一会』の掛け軸がかかっており、空気そのものがピンと張り詰めているようだった。

 

あやかは麻帆良の女子中等部寮で暮らしているため実家は遠いが、普段から合気道の自主練をここで熱心に行っているのだ。

 

「ふふん、驚くのはまだ早いですわよ。防音設備も施してありますから、どれだけ大声を上げても外には聞こえませんわ。さぁ、古菲さん。こちらの場所なら、あなたの言う『静かな場所』にぴったりではなくて?」

 

「ハオハオ! 素晴らしいアル、委員長! これなら自分の内側に集中するのに文句なしの環境アル!」

 

古菲さんも満足そうに拳をパチンと叩き合わせると、さっそく道場の中央へと歩みを進めた。

 

「よし、それじゃあ二人とも、そこに正座するアル!」

 

古菲に促され、トータとあやかは檜の床の上に並んで正座をした。

 

トータは慣れない正座に少し足をモゾモゾと動かしていたが、隣のあやかは背筋をピンと美しく伸ばし、微動だにしない。その隙のない佇まいは、幼い頃から武術を嗜んできたお嬢様ならではのものだった。

 

「まずは基本中の基本、『調息(ちょうそく)』……呼吸を整えるところから始めるアル。目を閉じて、体の中の余計な力を全部抜くアルよ」

 

古菲の静かな声に従い、二人はゆっくりと瞼を閉じた。

道場の中は、完全に静寂に包まれる。聞こえるのは自分たちの静かな呼吸音だけになった。

 

「大きく吸って、細く長ーーく吐き出すアル……。意識をおへその下、指三本分くらい奥にある『丹田(たんでん)』という場所に集中させるアル。生きている人間なら、そこを中心に、必ず全身に温かい血と一緒に『生命のエネルギー』が巡っているはずアル。それをじっと探すアルよ……」

 

じっと目を閉じ、古菲の言葉を頭の中で反芻しながら、あやかは深く息を吸い込んだ。

冷たい冬の空気が肺を満たし、それを体内で温めてから、ゆっくりと口から吐き出していく。

 

意識を、自分の肉体の内側へと深く沈めていく。

 

じっと集中を続けていると、あやかはおへその下の奥深く、丹田と呼ばれる場所に、じんわりとした温かい熱の塊を感じ取った。それは心臓の鼓動に合わせて、トクトクと滑らかに蠢いている。

 

(あ……これかしら?)

 

あやかはその熱を意識で捉えようとした――が、すぐに小さく首を横に振った。

 

(いいえ、違いますわね。これは私がいつも合気道の稽古の時に意識している、体の軸や呼吸の流れの感覚ですわ。古菲さんが見せてくれたような、地面にクレーターを作るほどの超人的なエネルギーが、こんなに簡単に、しかもいつも通りの感覚で見つかるはずがありませんもの。もっとこう、体の奥底に眠る別の特別な何かがあるはず……)

 

あやかはさらに深く、自分の内側を探そうと眉間にシワを寄せた。

しかし、いくら探しても見つかるのは、先ほどからおへその下で優しく、けれど確実に脈打っているその温かい流れだけだった。

 

「うーん……」

 

あやかはゆっくりと瞼を開け、困惑したように息を漏らした。

 

「どうしたアルか、委員長?」

 

古菲さんが覗き込んでくる。

 

「古菲さん、申し訳ありませんわ。おへその下あたりに、じんわりと温かく動き回る感覚自体はすぐに見つかったのですけれど……それは私が普段の合気道の稽古中にもいつも感じているものですの。ですから、あなたの言う『超人的な力としての気』とは違う、もっと別の特別なものであるはずなのですが……どうしてもそれ以外のものが見つかりませんわ」

 

あやかが少し悔しそうに言うと、古菲は一瞬だけ呆然と目を丸くした。

そして、すぐに身を乗り出して激しいツッコミを入れた。

 

「いやいやいや! 委員長、何勘違いしてるアルか! それこそが『気』そのものアルよ!!」

「えっ!?」

 

「委員長は普段の合気道の稽古で、無意識のうちに自分の気を感じて、それを扱っていたアルな! だから最初から気が目覚めていたアル! 自分がもう第一歩をクリアしてるのに、別のものがあるはずって探すなんて、贅沢すぎるアルよ!」

 

「わ、私が感じていたあれが、本当に『気』ですの……?」

 

隣でまだ目を閉じて「うーん」と唸っていたトータをよそに、あやかは信じられないといった様子で、自分の身体ををじっと見つめるのだった。

 

「トータ、全然集中できてないアル!!」

 

あやかと気が目覚めた喜びを分かち合っていた古菲が、不意に隣へ鋭い視線を向けた。

 

「う、うわっ! 」

 

トータは飛び起きるようにしてパッと目を開けた。顔は考え事をしていたかのようで、どう見ても内側に集中している人間の顔ではなかった。

 

「おへその下に意識を集中しなきゃいけないのに、トータの気は頭の上の方でソワソワ、フラフラ踊ってたアル! 」

 

「へへ、わりぃ……。なんか、あんまり集中できてなくってさ…」

 

トータは頭をガシガシと掻きながら苦笑いを浮かべた。

 

いつもなら「ちぇー、もう一回やらせてくれよ!」と食い下がるはずのトータだったが、この時はどこか様子が違っていた。

 

ポリポリと頬を掻いたあと、すっと視線を落とし、ツナギの膝を見つめる。その表情には、どこか陰りというか、このまま修行を続けていいものだろうかという深い迷いが滲み出ていた。

 

そんなトータの様子を気にかけつつも、古菲は「まぁ、トータは後回しアル!」と、あやかの方へ向き直った。

 

「それじゃあ委員長、次は気の操作の練習に入るアル! その丹田にある温かい熱を、腕の先まで動かしてみるアルよ」

 

「動かす……やってみますわ」

 

あやかは再び静かに目を閉じ、自身の内側へと意識を向けた。

おへその下にある清らかな熱の塊。それを、右肩を通して右腕へ、そして指先へと導いていく。

すると、あやかの体内を流れる気は、驚くほど淀みなく、まるで滑らかな水脈のようにツーッと右腕へと流れ込んでいった。

 

「おおっ! 動きがめちゃくちゃ滑らかアル! 詰まるところが一つもないアルな!」

 

古菲が感心したように声を上げる。あやかも手応えを感じたのか、少し表情を和らげた。

 

「ならば次アル! その右腕に流した気を、今度は拳の先一点にギュッと凝縮して、ガチガチに固めてみるアル! 全身を鋼鉄みたいに硬くするイメージアルよ!」

 

「固める……? ええっと、こうかしら……っ」

 

あやかは眉間にシワを寄せ、右の拳にグッと力を込めた。流れ込んできた気を、そこに押し留めて爆発的な塊にしようと試みる。

 

しかし、その瞬間。

 

滑らかに流れていた気は、まるで無理やりせき止められた川の水のように乱れ、あやかの皮膚の表面から味気なくシュウゥ……と霧散して消えてしまった。

 

「……あら? うまくいきませんわ。固めようと意識した途端、気がバラバラに逃げていってしまいますの」

 

あやかは不思議そうに自分の拳を開閉した。

 

「うーん……なるほどアル。委員長は、気を体内でお水みたいに滑らかに流すのは大得意アルが、逆に一箇所に留めてガチガチに防御を固めたり、一点に集めてドカンと爆発させるような使い方は致命的に苦手みたいアルな……」

 

古菲は腕を組んで、難しい顔で唸った。

 

「私の気は『剛の気』、一箇所に固めてドカンアルからな。委員長みたいに流動的な気の扱い方は、私の教え方とはどうしても相性が悪いアル……」

 

困り果てた古菲だったが、すぐに「あ、そうだアル!」と顔を輝かせ、ポケットから携帯電話を取り出した。

 

「楓なら、そういう気の扱いにめちゃくちゃ詳しいアル! すぐに連絡してみるアルよ!」

 

古菲はその場で素早くボタンを押し、耳に携帯を当てた。数回のアナウンス音のあと、ガチャリと繋がる。

 

「あ、もしもし楓アルか? 実は今、委員長の個人道場にいるアルが、トータと委員長に気の修行を教えてるアル。それで、委員長の気がね――」

『――何、一般人に気を教えようとしているでござるか!!?』

 

静かな道場の中に、携帯のスピーカーから漏れ出た楓の凄まじい怒声が響き渡った。

 

「ひゃうっ!?」

 

古菲は思わず携帯を耳から遠ざけた。画面の向こうの楓は、いつもの飄々とした様子からは想像もつかないほど、本気で怒り狂っているようだった。

 

『気を鍛えるのがどれほど危険か、古菲、お主が一番よく知っているはずでござる! 何を考えているでござるか! いますぐ修行を辞めさせるでござる!』

「ち、違うアル、これには深いワケが――」

『問答無用! すぐにそっちに向かうでござる!!』

 

ブツッ、と一方的に電話が切られ、ツーツーという非情な電子音だけが残された。

 

「あわわわ……楓がめちゃくちゃ怒ってるアル……。本気で怒った時の楓は、先生より怖いアルよぉ……!」

 

古菲は青ざめた顔で携帯を握り締め、ガタガタと震え始めたのだった。

 

 

 

電話が切れてから、それほど時間は経っていなかった。

 

バァン!! と道場の重厚な扉が勢いよく開き、一人の人影が滑り込んでくる。

クラスメイトの長瀬楓だった。普段ののんびりとした雰囲気は完全に消え去り、その鋭い眼光は真っ直ぐに古菲を射抜いている。

 

「古菲ーーーっ!!」

「ひゃいっアル!」

 

古菲は直立不動で飛び上がった。

 

「お主というやつは、武の厳しさを誰よりも知っているはずでござる。それなのに、一般人である委員長や、まだ何者かも分からぬトータ殿に気を教えるとは、正気の沙汰とは思えんでござるよ!」

「うぅ、面目ないアル……。でも、これには海より深いワケがあるアル……」

 

道場の床にペタッと正座させられた古菲は、完全に小さくなってシュンとうなだれている。

見かねたあやかが、二人の間にすっと割って入った。

 

「長瀬さん、そこまでにしなさいな。古菲さんを責めるのはお門違いですわ。元々は私とトータさんが、彼女の気功の技を見て無理を言って頼み込んだのですもの。怒るのをやめて、まずは私たちの話を聞いて頂戴」

 

あやかが毅然とした態度で仲裁に入ると、楓はふぅと深く息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。しかし、その表情にある真剣な色は少しも薄れていない。

楓はあやかと、その隣で黙り込んでいるトータに真っ直ぐに向き直った。

 

「……委員長、トータ殿。拙者が怒っているのは、古菲の勝手な行動に対してだけではござらん。お主たちに、この『気』という力の本当の恐ろしさを知ってほしいからでござる」

 

楓はゆっくりと自分の右手を顔の前に掲げた。

 

「気は、生きてさえいれば誰にでも流れている生命のエネルギー。しかし、それを無理やり引き出し、戦いの力として鍛え上げるということは、常に命の危険と隣り合わせになるということ。一歩間違えれば、己の身体がその負荷に耐えきれず、内側から崩壊する危険もあるでござる」

 

道場内の空気が、楓の言葉によって一気に重くなる。

 

「それに、一度その力を手に入れてしまえば……もう、ただの『平穏な一般人』には戻れん。望むと望まないとに拘わらず、危険な闘いや、厄介な裏の事件に巻き込まれる確率が跳ね上がるでござるよ。この平和な麻帆良学園で暮らすお主たちには、本来は全く必要のない、むしろ持たない方が幸せな力でござる」

 

楓はそこで言葉を区切り、二人の目をじっと見つめた。

 

「それを踏まえた上で、拙者はお主たちに問いかけたい。――お主たちは、なぜそこまでして『気』の力を求めているのでござるか?」

 

その真っ直ぐな問いかけが、道場に静かに響き渡る。

最初に視線を落としたのは、トータだった。

 

(なぜ、強くなりたいのか……?)

 

トータは自分のツナギの膝をじっと見つめ、拳を握りしめた。

 

記憶を失くしてこの学園にやってきた時、自分を狙う何者かが現れるかもしれないという漠然とした不安はあった。だから、強くなっておかなければいけない、そう思っていたはずだった。

だが、この二週間、麻帆良学園での生活はどこまでも平和で、温かかった。自分を害しようとする敵なんて、どこにも現れない。

 

古菲の超人的な技を見て「格好いい」と思ったのは本物だ。けれど、命を落とすかもしれない危険を冒してまで、平穏な日常を捨ててまで、自分は本当にこの力を求めているのだろうか。

 

「俺は……」

 

トータの口から出かけた言葉は、微かに震えていた。明確な動機が見つからず、自分の覚悟の薄さに気づいてしまったトータは、迷いの中でそれ以上言葉を続けることができなかった。

答えられず、気まずい沈黙に潰されそうになるトータ。

 

しかし、その隣に立つあやかは、違った。

あやかは深く息を吸い込むと、迷うトータを庇うように一歩前へ出た。その瞳には、長瀬楓の放つ鋭い気迫に負けない、凛とした強い光が宿っている。

 

あやかは堂々と胸を張り、一切の淀みのない声で言い放った。

 

「長瀬さん。私は、雪広財閥の跡取り娘ですわ」

「……」

「私はいつか、数え切れないほどの人間を背負い、彼らの上に立ち、そして守らねばならない立場にあります。

それなのに、誰かに守られるのをただ待っているだけの、無力でか弱いお嬢様のままでいるつもりはありませんわ。

この先、どのような困難や危険が立ち塞がろうとも、自分の大切な人たちを、私自身の力で最後まで守り抜く強さが欲しい……。だから私は、この力を求めていますの!」

 

一分のブレもない、上に立つ者としての、そして「守る者」としての気高い覚悟。

あやかの背中から発せられる圧倒的な輝きを、トータはただ呆然と見上げることしかできなかった。

 

あやかの放った一切の迷いのない言葉に、道場内は一瞬、水を打ったような静寂に包まれた。

だが、長瀬楓は武の厳しさを知る忍びの末裔。あやかの覚悟が本物かどうか、さらに鋭い眼光を向けて、畳みかけるように問いを重ねた。

 

「……言うでござるな、委員長。だが、言葉で言うほど生易しい世界ではござらん。お主が力を得れば、これまで目を背けていられたような、理不尽で『危険なことに巻き込まれるようになるかもしれない』のでござるよ? それでも良いと?」

「危険? 笑わせないでくださいまし、長瀬さん」

 

あやかはフッと不敵に、気高く微笑んでみせた。

 

「我が雪広財閥が、これまでの歴史の中でどれほどの修羅場を潜り抜けてきたと思っているのですの? 政界、財界、あるいはもっと混沌とした暗部……。人の上に立ち、数万の人間を動かすということは、常に刃の上を歩くようなものですわ。不確かな危険ごときに怯んで立ち止まるような人間は、最初から雪広の次期当主など務まりませんわ!」

 

一歩も引かないあやかの気迫に、楓はわずかに眉を動かした。だが、すぐにさらに厳しい、本質的な問いを突きつける。

 

「では、お主個人の問題だけでは済まぬとしたらどうでござる? お主が力を持ち、戦いに身を投じることで、お主の『そばにいる人まで危険に巻き込むかもしれない』のでござるよ。その責任が、お主に背負えるのでござるか?」

 

その言葉に、あやかは一瞬だけ隣のトータに視線を走らせた。

トータを守りたいという強い想いが、彼女の胸の奥で爆発する。あやかは楓を真っ直ぐに睨み据え、道場全体を震わせるほどの怒気と威厳を込めて言い放った。

 

「だからこそ! 私が誰よりも強くならなければならないと言っていますのよ!」

「……っ」

「私のそばにいる人間を巻き込む? 私の大切な人たちに害をなそうとする不届き者がいると言うなら、その危険ごと、私自身がこの手で叩き潰してみせますわ! 私の視界に入るすべて、私の手の届くすべての人々を、私が盾となって守り抜く。人を惹きつけ、人を従える者の責任とは、そういうことですわ!」

 

あやかの背負うものの大きさ、そしてその中心にある「守る」という事への底知れない執念。

楓は最後に、最も重い現実をあやかに突きつけた。

 

「……ならば、その結果、お主自身が『死ぬことだってあるかもしれない』のでござるよ。命を失えば、守ることも、上に立つこともできなくなる。それでもお主は、その道を往くというのでござるか?」

 

死。究極の選択を前に、古菲もトータも息を呑んであやかの横顔を見つめた。

しかし、あやかの瞳は、微塵も揺らがなかった。

 

「ええ、人はいつか死にますわ。それは誰にでも平等に訪れる絶対の真理です。……ですがね、長瀬さん。何もなさず、無力なまま大切な人の死をただ指をくわえて見ているくらいなら、自らの意志で戦い、そのために命を賭ける方が、雪広の次期当主としてどれほど誇り高いか!」

 

あやかはスッと背筋をさらに伸ばし、凛とした声を響かせた。

 

「雪広の当主とは、命の重さを誰よりも知ると同時に、それを『賭けるべき時』を正しく知る者ですわ。私は、私の生き方に一切の悔いは残しません!」

「…………」

 

道場を支配したのは、重厚な沈黙だった。

あやかの言葉には、単なる女子中学生の虚勢などではない、何世代にもわたって人の上に君臨してきた名門の血と、彼女自身が磨き上げてきた「王の器」とも呼ぶべき圧倒的な覚悟が満ち満ちていた。

 

 

やがて、楓は深く、深くため息をついた。

その顔からは先ほどまでの厳しい表情が消え去り、心からの感服と、呆れたような苦笑いが浮かんでいた。

 

「……フム。参ったでござるよ、委員長」

 

楓は降参とばかりに両手を挙げ、あやかに対して丁寧に頭を下げた。

 

「ただのお嬢様のワガママかと思えば、まさかこれほどの器の大きさを見せつけられるとは、拙者も予想外でござった。お主の言う通り、命を賭けるべき時を知る者こそが、真の強者。お主のその覚悟……拙者も、しかと納得したでござるよ」

 

 

あやかの圧倒的な覚悟を前に、完全に納得の意を示した楓。

道場内の張り詰めた空気がわずかに緩む中、楓は小さく首を振ると、その鋭い視線を再びもう一人の少年へと戻した。

 

「委員長の覚悟は、しかとこの長瀬楓、受け止めたでござる。……さて、それではトータ殿。お主はどうする気でござるか?」

「え……」

 

投げかけられた楓の言葉に、トータはハッとして顔を上げた。

その隣で、トータは今のあやかの言葉を、背中を、文字通り呆然と見つめていた。

 

自分のエゴやその場のノリではなく、いつか背負う数多の人々のために、そして何より「自分の大切な人を守るため」に、命すら賭けると言い切ったあやかの姿。それは12歳の少年であるトータの目に、これ以上ないほど眩しく、誇り高いものとして映っていた。

 

それと同時に、トータの胸の奥にある「迷い」は、もう言い訳のできないほど決定的な塊になっていた。

 

(あやかは、あんなにすげぇ覚悟を持ってここに立ってる。なのに、俺は……)

 

ただ記憶がないから強くなっておこうとか、古菲の技を見て「格好いいから憧れた」とか、そんな理由だけで首を突っ込んでいい世界ではないのだ。

一歩間違えれば死に至る危険を伴う武の道。そんな重い場所に、自分のような軽い気持ちの人間が、なんとなくで並んでいいはずがなかった。

トータは拳をぎゅっと握りしめ、それから、ゆっくりと力を抜いた。

 

そして、どこか寂しげな、けれど自分の弱さを受け入れたような苦笑いを浮かべ、頭をガシガシと掻いた。

 

「……そっか。なぁ、カエデ。やっぱり俺、修行はここでやめておくよ」

「えっ!? トータ、諦めちゃうアルか!?」

 

直立不動のままだった古菲が、驚いたように声を上げる。

トータは古菲に向かって小さく手を振ると、うつむいたまま静かに言葉を続けた。

 

「おう。あやかの話を聞いてたらさ、自分の考えてたことがすっげぇガキっぽく思えてきてさ……。長瀬の言う通り、一歩間違えれば命を落とすかもしれない危険な力なんだろ? だったら、俺みたいななんとなく誰かに狙われるかもしれないからとか、そんな理由で安易に首を突っ込んじゃダメな気がするんだ。あやかみたいに、本当に守りたいものがあって、命がけの覚悟ができる奴だけが学ぶべきなんだよ。……だから、俺はここでやめておこうと思う。元々、強くなる必要なんて無いわけだしさ!」

 

言い終えると、トータはあやかに背を向け、道場の出口に向かってトボトボと歩き出そうとした。その背中は、自分の器の小ささを恥じるように、心なしか小さく見えた。

 

だが、そんな少年の寂しげな後ろ姿を、あやかが黙って見過ごすはずがなかった。

あやかはスッと右手を伸ばし、歩き出そうとしたトータのツナギの袖を、後ろからキュッと掴んで引き留めた。

 

「――お待ちなさい、トータさん」

 

 

凛としたあやかの声が道場に響き、ツナギの袖を引かれたトータは、驚いたように足を止めて振り返った。

 

「あやか……?」

 

うつむき加減のトータを、あやかは逃がさないように真っ直ぐに見つめ、穏やかに、けれど芯のある声で問いかけた。

 

「トータさん、あなたはなぜ気を使ってみたいと思ったのですか?」

「え……だから、さっきも言った通り、記憶もないし……いつ変な奴に狙われるか分からねぇから、強くなっとかないといけないのかなと思って……」

「ええ、それもあるかもしれませんわ。

記憶を失い、自分が何者かも分からない中で、いつ自分を害する何者かが現れるかもしれないという不安。そのために力を求める。

確かに、それも理由の一部としてあるかもしれませんわね」

 

あやかは一度トータの言葉を肯定するように頷き、それから、彼の瞳の奥を覗き込むようにして一歩近づいた。

 

「でも、それが本当にあなたの理由の、一番上にあるものですか?」

「……っ」

 

トータは言葉に詰まり、視線を泳がせた。あやかの見透かすような美しい瞳に見つめられ、胸の奥を見透かされているような感覚に陥る。

あやかはトータの動揺を優しく包み込むように、言葉を重ねた。

 

「あなたは古菲さんの修行を、そして彼女の放つ気を、私と間近で見ましたね。あなたはその時、本当は何を思いましたか?」

「それは……」

 

トータは、あの日見た光景を思い出した。木の上からひらりと飛び降り、地面にクレーターを作るほどの衝撃を無傷で受け止めた古菲の姿。あの小さな身体から放たれた、凄まじいエネルギー。

 

うまく文章としてまとめられないまま、トータは胸の奥に灯った熱い想いを、吐き出すように口にした。

 

「……古菲がさ、すっげぇ高いところから飛び降りて、平気な顔をしてただろ。あの時、あいつの身体からものすげぇ気迫が伝わってきたんだ。古菲が血の滲むような努力をして、一朝一夕じゃ絶対に得られない鍛錬を積み重ねてきたんだって、俺でもハッキリ分かった。……それを見て、俺、心の底から格好いいと思ったんだよ。あんな風に、自分の身体一つで強くなれる技術に……俺、憧れたんだ」

 

 

それが、トータの胸の一番上にあった、何よりも純粋な本音だった。義務感でも不安でもなく、ただ「強者への純粋な憧れ」そして、「血の滲むような努力の証への敬意」だったのだ。

 

言い終えて、トータはまた「でも、そんなのあやかの覚悟に比べたら、やっぱり軽いよな……」と頭を掻いた。

じっと聞いていた楓が、フムと腕を組んで眉をひそめる。

 

「トータ殿の気持ちは分からんでもないでござる。しかし委員長、やはりただの『強者への憧れ』だけで足を踏み入れるには、武の道はあまりに危険。命を落とすやもしれぬ厳しい世界、そのような動機では、いつか心が折れてお主自身を滅ぼすことに――」

 

「長瀬さん、それ以上は言わせませんわ!」

 

あやかがキッと楓を睨み据え、その言葉を鋭く遮った。

 

「憧れという動機が、なぜそのように否定されなければなりませんの!? 世界的なトップアスリートや高名な武術家だって、最初はみんな『テレビのスター選手に憧れて』『あの人のようになりたくて』自らもその道を歩み始めるものですわ! 純粋な憧れこそが、何よりも強く人を動かし、偉大な結果を生み出す原動力! それを軽いと切り捨てることこそ、ナンセンスですわ!」

 

あやかの毅然とした反論に、楓は「しかし……」と言い淀む。

 

「武の道は一歩間違えれば死に至る危険があるのは事実。ただの憧れで死なれては、拙者たちも寝覚めが悪いでござるよ」

「でしたら――」

 

あやかはトータの前に堂々と一歩踏み出し、彼を自分の背中に完全に隠すようにして、気高く、圧倒的なオーラを放ちながら言い放った。

 

「でしたら、私が誰よりも強くなって、トータさんをお守りすればよろしいでしょう!!」

「え……えぇ⁉︎」

 

トータはあやかの背中の後ろで、呆然と声を漏らした。

 

あやかの瞳には、微塵の揺らぎもなかった。死産で弟を亡くしているあやかからすれば、目の前のおいそれと危なっかしい世界に足を踏み入れようとする少年は、何としても無傷で守るべき対象。

その強い保護欲と、人を率いる雪広の次期当主としてのプライドが、完全に限界を突破していた。

 

「私は雪広の人間ですわ! 守ると決めたものを、危険だからと諦めるはずがありません! トータさんがどんな動機で始めようと関係ありませんわ。彼が傷つかないよう、私が誰よりも強くなって彼の盾となります! これで文句はありませんわね、長瀬さん!」

 

 

あやかの堂々たる宣言が、しんと静まり返った道場に響き渡る。

危険を恐れず、むしろ「自分が強くなってすべてを背負う」と言い切った彼女の圧倒的な器の大きさと気高さ。

 

楓はしばらく呆然とあやかを見つめていたが、やがてすっと肩の力を抜くと、フフフっと楽しそうに笑った。

 

「いやー、トータ殿は果報者でござるなー!」

「え……?」

 

背中の後ろで、トータがポカンと声を漏らす。

楓はニカッと白い歯を見せて笑い、深く感服したように頷いてみせた。

 

「そこまでの覚悟、しかとこの長瀬楓、受け止めたでござるよ。上に立つ者の器、恐れ入ったでござる。トータ殿、お主は本当に良い『守り手』を持ったでござるな! よかろう、お主たちの熱意、二人まとめて拙者が引き受けるでござる!」

「長瀬さん……」

 

あやかはほっと胸を撫で下ろし、それからトータの方へと向き直った。その瞳には、先ほどまでの厳しいオーラではなく、年の離れた弟を慈しむような、柔らかく優しい光が灯っている。

 

「ですからトータさん、自分の動機を恥じることはありませんわ。それこそが、何よりも純粋で、立派な理由です。……私と一緒に、ここで強くなりなさい!」

「あやか……」

 

トータはあやかの顔を見上げ、頬を少し赤くしながらも、満面の笑みを浮かべた。

 

それから、トータはいつになく真剣な目をして、あやかへ真っ直ぐな敬意を伝えた。

 

「ありがとな、あやか。あんた、本当にすっげぇよ。自分のことだけじゃなくて、俺のことや、他のたくさんの人のことまで全部背負って強くなろうとしてるんだな。ただのお嬢様だなんて思ってて悪かった。あんたのそういう真っ直ぐなところ、俺、心の底から尊敬するぜ」

「ふふん!もちろんですわ!雪広財閥の次期当主として当然のことをしたまでですわ!」

 

セリフはかっこいいが、当の本人は顔を真っ赤にし、扇子でパタパタと顔を仰ぎ始めた。

 

「よし! ならば仕切り直しでござる。二人とも、もう一度座るでござるよ!」

 

楓の号令によって、道場に再び心地よい静寂が戻ってきた。古菲が少し離れた場所から温かく見守る中、あやかとトータは再び檜の床に正座し、静かに瞼を閉じた。

 

トータは深く息を吸い込み、呼吸を整えながら、自分の少し前で背筋をピンと美しく伸ばして座るあやかの後ろ姿を見ていた。

その小さくも凛とした背中は、いつか数え切れないほどの人々を率い、雪広の立派な当主となる彼女の未来の姿そのものに見えた。

 

トータはそっと目を閉じ、今度こそすべての迷いを消し去って、自分の内側へと意識を深く沈めていく。

 

(古菲の気もスゲェ格好良かったけどさ。今日のあやかの姿も、古菲に負けず劣らず、めちゃくちゃカッコ良かったぜ)

 

心の中でそう強く思いながら、トータのおへその下――丹田の奥深くに、小さな生命の熱が静かに、けれど確かに灯り始めるのだった。

 

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