放課後の麻帆良学園。夕暮れ時の優しい光が差し込む古い裏庭のベンチは、今や二人の「定位置」になっていた。
「よっ、トータ。お待たせ。はい、今週分の漫画ね」
軽い足取りでやってきたのは、中等部の早乙女はるな――通称「パル」だ。
彼女はトレードマークの眼鏡をくいっと上げながら、ずっしりと重みのある紙袋をトータに差し出した。
中には10冊ほどの漫画がぎっしりと詰まっている。
「お、パル! 待ってたぜ!」
ベンチに座っていたトータは、嬉しそうに顔を輝かせると、自分が読み終えて持ってきていた先週分の漫画の山を丁寧にパルへと返却した。
二人がこうして毎週、裏庭のベンチで漫画の大量の貸し借りをし、その感想を言い合うようになってから、今日でちょうど4回目。
記憶喪失の野生児であるトータの感想は、専門的な構図やプロットの知識こそないものの、作品の「熱量」や「キャラの魅力」をド直球に捉えてくれるため、同人漫画家であるパルにとっても、実は毎週密かな楽しみになりつつあった。
パルはトータから戻された漫画を受け取ると、いつものようにベンチに腰掛け、からかうような笑みを浮かべた。
「さて、それじゃあ今週の感想会を始めようじゃない。今回のちょっと甘酸っぱい青春ストーリー、野生児のあんたにはちょっと難しかったかしら?」
「へへん、バカにすんなよ! めちゃくちゃ面白かったって! 特にさぁ――」
トータはいつものように身を乗り出して熱弁を振るおうとしたが、ふと動きを止め、自分の足元に置いてあったカバンに手を伸ばした。
そこから取り出されたのは、学園の購買で売っているような、真新しいA4サイズの「スケッチブック」と、数本の鉛筆だった。
パルは目を瞬かせ、トータの手元をじっと見つめた。
「ちょっと、それ何よ。何持ってきたの?」
「ふふーん!」
トータは鼻高々に胸を張り、スケッチブックをポンと叩いた。
「今日の感想会はさ、ちょっと趣向を変えて、これを使って『絵を描きながら』しないか? っていう斬新な提案だ!」
「……は? 絵を描きながら?」
パルは予想外すぎる提案に、首を傾げた。
「そう! ルールは簡単。今からお互いに、今回の漫画の中で『一番良かった!』って思うシーンをこのスケッチブックに描くんだ。で、せーので同時に見せ合って、そのシーンについてお互い熱く話し合う! どうだ、面白そうだろ!?」
トータは「名案だろ!」と言わんばかりの、濁りのないキラキラした目でパルを見つめてくる。
パルは少し呆気にとられていたが、眼鏡の奥の目を面白そうに細めた。
「へー……。お互いのベストシーンを描いて見せ合う、ね。なかなか面白そうじゃない。プロの漫画家である私にお絵描き勝負を挑むなんて、いい度胸だけど……。でもあんた、そもそも絵なんて描けるの?」
「描いたことないけど、まあ大丈夫だろ! 気持ちがこもってりゃ描けるって!」
「いや、描いたことないんかい……」
パルは思わずツッコミを入れつつも、ふと、トータの妙にそわそわとした態度に違和感を覚えた。
いつもならもっと堂々と喋るトータが、なんだかスケッチブックの余白をチラチラと気にしているように見える。
パルはベンチの上で少しトータににじり寄り、ジト目を向けた。
「……ねぇ。急に絵を描こうなんて言い出すの、ちょっと変じゃない? あんた、何か隠してるでしょ」
「ギクッ!!」
トータの肩が、漫画のように分かりやすく跳ね上がった。
冷や汗を流しながら、あからさまに目を泳がせて泳がせて大慌てで誤魔化し始める。
「い、いや! べ、別に何でもないって! ただの思いつき、思いつきだよ!」
引きつった笑顔で必死に手を振るその姿は、誰がどう見ても「何か企んでいる」不自然さそのものだった。
「ふーん……?」
パルはますます怪しんだが、トータが頑なに口を割らないのを見て、フッと不敵に笑った。
「まあいいわ。その挑戦、受けて立とうじゃない。私を驚かせるような絵、期待してるわよ?」
「おう! 負けねぇからな!」
トータはほっと胸をなでおろし、パルに1冊のスケッチブックと鉛筆を手渡した。
二人はベンチの両端に少し距離を置いて座り、お互いの手元が絶対に見えないように、スケッチブックを膝の上で立てる。
「よし、それじゃあスタートだ! 描き終わるまで絶対に見るなよ!」
「言われなくたって見ないわよ」
カリカリ、カリ……。
静かな裏庭に、鉛筆が紙を擦る心地よい音が響き始める。
パルは「どのシーンにしようかな」とスケッチブックを前にして考えを巡らせ始めたが、先ほどトータが見せた、あの妙に焦った怪しい態度が、どうしても頭の片隅から離れずにいた。
パルは白い紙を前にして、トータに貸し出したあの10冊の漫画――『君と紡ぐ放課後のキャンバス』のストーリーを頭の中で反芻していた。
(今回貸したのは、お互い美術部員の男女が、不器用ながらも距離を縮めていく甘酸っぱい青春ストーリー……。
その中でも、最大の見どころと言えば、やっぱり第4巻のあのシーンよね)
パルの脳裏に、自分が何度も読み返した作中の美しい見開きページが浮かび上がる。
――夕暮れ時、放課後の公園。
一つのベンチに並んで座った主人公とヒロインが、お互いにスケッチブックを広げ、将来の夢を描きながら、遠回しに自分の恋心を伝え合うという、読者が揃って悶絶した屈指の名シーンだ。
(……って、ちょっと待ちなさいよ)
パルはふと鉛筆を握る手を止め、眼鏡の奥の目をパチクリとさせた。
夕暮れ時の、静かな学園の裏庭。
一つのベンチに、少し距離を置いて並んで座る男の子と女の子。
お互いにスケッチブックを広げて、漫画のシーンを描こうとしている。
(これ……今の私たちと、状況が完全に一致してない……!?)
気づいてしまった瞬間、パルの背中にドッと冷や汗が流れた。
慌てて隣を盗み見ると、トータは口をへの字に結び、恐ろしいほどの集中力でスケッチブックにガリガリと鉛筆を走らせている。
(まさか……。まさか、まさか、まさか!! あいつ、あの漫画のあのシーンを再現したくて、わざわざ購買でスケッチブックを仕込んできたの!?)
脳内で点と点が一線に繋がり、パルの妄想特急が恐ろしいスピードで暴走を始めた。
(さっき私が「何か隠してるでしょ」って聞いた時、あいつ思いっきり『ギクッ!!』ってなって目を泳がせてたわよね……!? あれって、少女漫画みたいなロマンチックな演出をしてるのがバレて恥ずかしかったからなんだわ!)
しかも、あの漫画の主人公は、お互いの絵を見せ合った直後、ヒロインにこう告げるのだ。――『俺、お前のことが好きだ。これからもずっと、俺の隣で俺の描く絵を見ててほしい』と。
(ってことは、何!? こいつ今日、この後に私に告白しようとしてるわけ!? 嘘、嘘でしょ……トータくん、私のこともしかして好きなのーーーっ!?)
そこまで思い至った瞬間、パルの脳内メーターが完全に消し飛んだ。
いつもは「飯!」「修行!」と叫んでいるようなデタラメな野生児が、まさか自分のことをそんな異性としての目で見ていただなんて、計算外にも程がある。
(いつの間に!? 毎週ここで漫画の感想話してるうちに、そんな風に思っちゃったの!? あー、もう! 確かに私、ちょっとお姉さんっぽく面倒見てあげてたけど! だからってそんな……!)
ドクン、と心臓が破裂しそうなほど大きな音を立てた。
一度そう意識してしまうと、いつもは何とも思っていなかったトータの男の子らしい真剣な横顔や、夕日に照らされたツナギ越しの肩幅が、急に妙な生々しさを持って迫ってくる。
頭の芯がカッと熱くなり、顔がみるみるうちに赤くなっていくのが自分でも分かった。
(な、何よこれ! なんで私が一人でこんなにヤキモキしなきゃいけないのよ! 落ち着きなさい早乙女はるな! 相手はあの野生児よ!?)
カリカリカリカリッ!! と、動揺をゴマかすように自分のスケッチブックに猛烈な勢いで鉛筆を走らせる。
しかし、パルの脳内は完全に大パニック状態だった。
(待って、じゃあ私は何のシーンを描けば正解なわけ!? ここであいつの意図を汲んで、そのベンチの告白前夜の名シーンを描いたら、私が『あんたの気持ち、全部お見通しよ♡』って誘い受けしてるみたいじゃない! 恥ずかしすぎるでしょそんなの!)
かと言って、全然違うギャグシーンを描くのも、せっかくあいつが一生懸命(?)仕掛けてきた人生最大の告白演出を、無慈悲に台無しにするようで、それはそれでなんだか可哀想な気がしてしまう。
(あーーもう! 面倒くさいわね!!)
パルは心の中で頭を抱えてジタバタした。だが、ぐるぐると悩み、トータの一挙手一投足にここまで振り回されている自分自身に、だんだんと腹が立ってきた。
(プロの同人漫画家として、一中学生の青臭い告白シチュエーションにガチ動揺させられてるなんて、シャクだわ!
いいわよ、そこまで言うなら真っ向から受けて立とうじゃないの! 少女漫画の金字塔を舐めんじゃないわよ!)
パルは謎の対抗心と照れ隠しを燃料にして、開き直った。
どうせ見せ合うのだ。あいつが狙ってきている通りの、あの夕暮れのベンチで語り合う最高に美しい名シーンを、プロの圧倒的な画力で、これでもかとドラマチックに描き出してやろうと決意した。
「よし……見てなさいよ、トータ…!」
パルは眼鏡のブリッジをクイッと上げると、完全にスイッチが入ったプロの目で、迷いのないペンタッチ(鉛筆だが)でスケッチブックに線を描き込み始めた。
そんなパルの横で、トータは相変わらず「うーん、線の太さはこれくらいか?」などと独り言を呟きながら、自分の世界に没頭して描き続けていた。
「よし、俺はできたぜ! パルも終わったか?」
トータがスケッチブックを抱えたまま、ワクワクした様子で声をかけてくる。
「ええ……。こっちもいつでもいけるわよ」
パルは真っ赤になった顔を隠すように眼鏡の位置を直し、覚悟を決めてスケッチブックを握りしめた。
脳内は相変わらず大パニックだが、もう後戻りはできない。
作中屈指の告白前夜のベンチシーンを、プロの圧倒的な画力で描ききってやった。
隣の野生児がどんな風に真っ赤になって、どんな風に愛の告白(勘違い)を仕掛けてくるのか、心臓がバックバクと狂ったように脈打っている。
「よし! じゃあいくぞ! せーの……ドン!」
トータの合図と共に、二人はお互いのスケッチブックを勢いよく正面へと突き出した。
「これよっ!!」
パルが差し出した画用紙には、夕暮れの光の中で切なく、美しく見つめ合う主人公とヒロインの姿が、息を呑むような美麗なタッチでドラマチックに描かれていた。
そして、トータが突き出してきた画用紙には――。
「うおおおっ! 俺が一番熱いと思った、第5巻の、主人公がライバルと深夜の部室で巨大なキャンバスに絵の具をめちゃくちゃにぶちまけ合いながら、お互いの本音の芸術論をぶつけ合うシーンだ! 初めて描いたから細かいところは分かんなかったけど、この筆の勢いだけは表現できたと思うんだよな!」
トータが「どうだ!」とばかりに鼻の頭をこすりながら見せてきたのは、キャンバスに向かって激しく筆を振るう男二人の、熱い衝突のシーンだった。
しかも、初めて描いたと言う割には、元々手先が器用なトータらしく、身体のバランスやポーズの躍動感が意外なほどしっかり掴めている、なかなかに上手い絵だった。
「……へ?」
パルの口から、間の抜けた音が漏れた。
ベンチ……じゃない。
告白の『こ』の字もない。
そこにあるのは、美術部員の男二人がお互いのプライドをかけて魂をぶつけ合っている、最高に熱い芸術バトルのシーンだった。
「……」
パルは突き出したスケッチブックを抱えたまま、数秒間、完全に魂が抜けたように放心した。
チーン、と頭の中で不吉な鐘の音が響き渡る。
(私……一人で何を盛大に勘違いして、一人で勝手に舞い上がって、一人でこんな気合の入った告白シーン描いてんのよぉぉぉーーーっ!?)
恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。
穴があったら入りたいどころではない。
今すぐ地球の裏側まで光速で生き埋めになりたい。
あいつが「少女漫画の演出を真似して告白しようとしてる」なんて、すべては自分のオタク特有の誇大妄想が生み出した、この世で最も哀れな大勘違いだったのだ。
トータが、ピクリとも動かなくなったパルの顔を不思議そうに覗き込んできた。
「おーい、パル? 大大丈夫か? ……うおっ! っていうか、すっげぇぇぇ!!」
トータはパルの描いた絵を凝視し、その場から飛び上がるほど目を見開いた。
「これ、第4巻のベンチのシーンだろ!? まるで本物の原画みたいじゃん! すげぇ、やっぱりパルはプロの漫画家なんだな! 線の綺麗さが俺の絵と全然違うぜ!」
トータは純粋に、大興奮でパルの絵を褒めちぎる。しかし、今のパルにとってはその絶賛すらも心の傷に深く突き刺さる。
「 でもさ、なんでパルはこのシーンにしたんだ? もっと他にも派手なシーンとか、面白いシーンいっぱいあっただろ? なんでわざわざ、このベンチのシーンなんだ?」
無邪気で、濁りのないド直球の質問。
正直に「あんたが告白してくると思ったからよ!」なんて、逆立ちしたって答えられるわけがない。
パルの顔はみるみるうちに沸騰し、顔中から湯気が出そうなほど真っ赤に染まった。
あまりの恥ずかさと情けなさに、ヤケクソ気味にガタッとベンチから立ち上がる。
「あーもう! うるさい! 今日は中止! これまでーーーっ!!」
「ええっ!? 待てよパル、まだ感想会が――」
「うるさーーーい!!」
パルはトータの制止を完全に振り切り、真っ赤な顔のまま、脱兎のごとく猛スピードで裏庭から走り去っていった。
その足取りは、いつものお姉さんらしさを完全に失っていた。
「なんだあいつ……? 急に怒り出して、マジで何だったんだ?」
嵐のように去っていったパルの後ろ姿を見送りながら、トータはぽかんと首を傾げた。
野生児の勘をもってしても、女の子の複雑な乙女心は全く理解できなかったようだ。
「……あ、絵、置いていっちゃったな」
トータは、ベンチの上にぽつんと残されたパルのスケッチブックへと視線を落とした。
そこには、パルが全精力を注いで描いた、夕暮れのベンチで語り合う主人公たちの美しいイラストが残されている。
トータはそれを両手でそっと、壊れ物を触るように大切に手に取った。夕日に照らされるその美麗な線をじっと見つめながら、トータの唇の端が、嬉しそうにフッと吊り上がる。
トータはもう一度その絵を眺めると、大切な宝物を扱うように、紙が折れないように細心の注意を払いながら、自分のカバンの中へとそっと、大事にしまい込むのだった。
翌朝。カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされながら、トータはゆっくりと目を覚ました。
「ふあぁぁ……。よく寝たぜ……」
まだ少し眠気の残る目をこすりながら、ベッドの上で大きく背伸びをする。
いつものように洗面所で顔を洗い、お馴染みの作業用ツナギに袖を通すと、髪をぐしゃぐしゃと整えて朝の支度を終わらせた。
「ふぅ……」
一つ小さく息を吐き、出かける準備を整えて部屋のドアノブに手をかける。
だが、トータは靴を履く直前、ふと思いついたように自室の壁のほうへと視線を向けた。
「――へへっ」
そこにある“お宝”を見て、トータの顔に自然と嬉しそうな笑みがこぼれる。
「よーし! 今日も一日、頑張るか!」
気合を入れるように自分の両頬をポンと叩くと、トータはいつも通りの元気な足取りで、弾むように部屋を後にしていった。
静まり返った主のいない部屋。
朝の光がまっすぐに照らす壁の中央には、昨日まではなかったひとつの木製の額縁が、大切に、そして誇らしげに飾られていた。
ガラスの向こうに収められているのは、昨日、パルが夕暮れの裏庭で全精力を注いで描き上げた、あのベンチのイラストだ。
プロの漫画家が本気で描いた線の美しさは、額縁に入ったことでまるで一枚の絵画のような圧倒的な存在感を放ち、殺風景だったトータの部屋を一気に華やかに彩っていた。
実は、トータが昨日「お絵描き感想会をしよう」などという突飛な提案を持ち出したのには、彼なりの明確な理由があった。
記憶を失くしたトータにとって、パルが毎週貸してくれる漫画の世界は、どれも新鮮で、格好よくて、胸が熱くなる最高の宝物だった。
毎週感想を話していくうちに、トータの中でひとつの強い願いが芽生えていたのだ。
(パルの描く絵、めちゃくちゃすげぇなあ。……あいつの生で描いた絵、俺も一枚欲しいなぁ)
けれど、プロの漫画家であるパルに、面と向かって「俺に絵を描いてくれ」と頼むのは、なんだか図々しい気がして言い出せなかった。
そこでトータが頭をフル回転させて思いついたのが、あの「お互いのベストシーンを描いて見せ合おう」というゲームだった。
お絵描きゲームにかこつけてお互いのスケッチブックを交換すれば、自然な流れでパルの直筆イラストが貰えるんじゃないか――。
そんな、純粋なささやかな小細工だったのだ。
パルがまさか、そのシチュエーションを少女漫画の展開と重ね合わせ、「こいつ今日、私に告白しようとしてるんじゃ……!?」などと一人で大パニックになり、顔を真っ赤にして悶絶していたなど、トータは夢にも思っていない。
ただ、トータにとって。
自分の大好きな作品を生み出している作者が、あんなにも素晴らしい、息を呑むような一枚を全力で描いて、ここに残してくれた。
その事実だけで、胸が張り裂けそうなほど嬉しかったのだ。
壁に飾られた美しいイラストは、今日もトータを特等席で見守っている。
パルが一人で赤面して逃げ出した本当の理由は分からないままだが、トータは今日も、彼女の「ファン」として、大好きな彼女の絵に力をもらいながら、元気いっぱいに麻帆良学園を駆け抜けていくのだった。