冬休みに入ってすぐ、年末を数日後に控えたある日の午後。
学園の敷地内にあるおしゃれなカフェのテラス席に、2-Aの女子生徒6人の姿があった。
テーブルを囲んでいるのは、雪広あやか、四葉五月、鳴滝風香、鳴滝文香、長瀬楓、早乙女はるな。
テーブルの中央にはジュースやパフェが並べられていたが、彼女たちの顔つきはどこか真剣そのものだった。
「――というわけですわ。皆様、議題は一つ。どうやって刀太さんと木乃香さんを追跡するか、ですわ」
あやかが優雅に紅茶のカップを傾けながら、口火を切った。
「木乃香さんのご実家は、京都のかなり深い山奥にあるとお聞きしていますわ。一度お屋敷の中に入られてしまっては、敷地外から様子を伺うことなど到底不可能ですからね」
「うーん、山奥かぁ……」
五月が困ったように顎に手を当てる。
その時、文香がちょこんと手を挙げ、隣に座る楓を見上げた。
「楓姉ぇ……外からこっそり屋敷の中を見るのって、できないのですか……?」
「ぬ? 拙者に聞くでござるか?」
楓はジュースのストローを咥えたまま、のんびりと首をかしげて見せた。
「拙者、忍者ではござらんからなー。
そんな映画みたいな真似はできないでござるよー、ははは」
からからと笑って誤魔化す楓だったが、その手元を緩めつつ、心の中で静かに息を吐いていた。
(……おそらく、近衛の屋敷周辺には強力な結界が張られているはずでござる。
何の策もなく潜入しようとしたところで、結界にはじかれて追い返されるのがオチでござろうからな……)
忍者としての直感が、無謀な潜入の危険性を察知していた。
しかし、そんな非現実的な理由を一般人であるクラスメイトたちに明かすわけにもいかない。
「参ったわね……敷居が高すぎるわ」
はるなが頭を抱え、腕を組んで唸る。
「隠れてコソコソついて行ったところで、現地で即ばれて追い返されたら元も子もないじゃない……」
あやかたちも「どうしたものですかしら……」と美しい眉をひそめ、テーブルに重苦しい沈黙と「やいのやいの」という議論の停滞が訪れた――その時だった。
「あ、じゃあ僕が木乃香に電話して、泊めてもらえるか聞いてみるねー!」
明るい声とともに、風香がポケットから折りたたみ式の携帯電話を取り出した。
そして迷いなくボタンを操作して発信すると、そのままテーブルの中央にハンズフリーモードで置いた。
プルルル、プルルル……。
「「「「「……ん?」」」」」
風香以外の5人の動きが、完璧に凍りついた。
思考がフリーズし、全員の目が点のようになる。
『あ、もしもし? ふーちゃん? どうしたん?』
スピーカーから、あまりにもあっさりと木乃香ののんびりとした関西弁が響き渡った。
「い、いやいやいや! ちょっと待ちなさい風香ーーっ!?」
はるなが弾けたように大声を上げ、手を伸ばして携帯電話を止めようとした――が、時すでに遅し。
「あ、木乃香〜? あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど……年末に6人で京都に遊びに行きたいんだけど、一緒に行って木乃香のお家に泊めてもらえたりする〜?」
『えっ、みんなで京都に!? うん、ええよ〜! うちのお屋敷、無駄に大きいから6人くらい全然泊まる部屋余ってるし! それに、みんなが来てくれた方が賑やかで楽しいやろうしな〜!』
「ほんと!? やった〜! メンバーはね、いんちょでしょ、五月でしょ、ハルナでしょ、あと、楓姉と文香で行くことになる予定なの!じゃあよろしくね〜!」
『はーい、じゃあまた集合する時とか連絡待っとるよ〜!』
プツッ、ツーツーツー……。
あまりにもスムーズに、わずか数十秒で通話が終了した。
「「「「「……」」」」」
静まり返るテラス席。
風香はご機嫌そうに携帯電話をパタンと閉じると、パーッと満面の笑みを咲かせた。
「みんな、木乃香からオッケーもらったよー! 6人泊まっても全然大丈夫だって! みんなが来てくれて嬉しいってさー!」
ズコーーーッ!!
はるな、あやか、五月、楓、文香の5人が、揃ってテーブルに突っ伏した。
はるながガバッと顔を上げ、顔を真っ赤にして風香の肩を揺さぶった。
「風香あんたねぇぇぇ!! これ極秘追跡作戦だったんじゃないのかよーーーっ!?」
「えー? だってさぁ、別に隠れて行く意味ってないじゃん!」
風香は首をかしげ、ポカンとした顔で言い放った。
「うぐっ……!?」
はるなは言葉に詰まった。
(た、確かに……! 隠れて行く意味なんて冷静に考えたら無いんだけど……!
でも私的には『刀太のことが気になって追いかけてきた』なんて事実が本人たちにバレたら死ぬほど恥ずかしいから極秘にしたかったのに……っ!
って、そんなこと口が裂けても言えるかーっ!!)
脳内で一人大パニックを起こしたはるなは、真っ赤な顔を誤魔化すようにコホンと盛大に咳払いをした。
「ま、まあ……うん、まあそうね。言われてみれば、変にコソコソするより堂々と遊びに行く名目があった方が都合がいいわね……」
「フフ……」
あやかがあきれつつも、扇子で口元を隠して微笑んだ。
「意図せぬ形とはなりましたが、背に腹は代えられませんわね。
ここは木乃香さんのお言葉に甘えさせていただくことにいたしましょうか」
「はい! 木乃香さんがそう言ってくれるなら、心強いですね!」
五月もホッとしたように胸を撫で下ろし、話し合いは「堂々と木乃香の家にお泊まりに行く」という形で着地したのだった。
「それじゃあ、また年末に集合ですわね!」
あやかの言葉を合図に、その日の会議は解散となった。
その日の夜。
自室に戻ったはるなは、ベッドの上に転がりながら携帯電話を握りしめていた。
(……とはいえ、やっぱり6人も押しかけるなんて図々しすぎないかしら……)
昼間の風香の豪快すぎるアポ取りが頭から離れず、気まずさに耐えかねたはるなは、意を決して木乃香の番号を呼び出した。
『あ、ハルナ? どうしたん?』
「あー、木乃香? 夜遅くにゴメン。
……あのさ、昼間の風香の話だけど、本当にいいの?
6人もいきなり押しかけちゃってさ……迷惑じゃなかった?」
電話の向こうで、木乃香が楽しそうにクスクスと笑う気配がした。
『ふふ、何言っとんのハルナ。
ほんまに気を使わんでええんよ? うちのお屋敷、ほんまに部屋だけは腐るほど余っとるしな。
それに……刀太君も、みんなが来てくれたら絶対喜ぶと思うわ』
「〜〜〜っ! べ、別に私はあいつを喜ばせるために行くんじゃないからなー!」
『あはは、分かっとる分かっとる♪ じゃあ、気をつけておいでね。待っとるよー』
「う、うん……じゃあ、よろしくね…」
通話を切り、携帯電話を胸に抱えたはるなは、天井を見上げて大きなため息をついた。
「ハァ……何やってんだか、私……」
顔に熱が集まっていくのを感じながらも、はるなはゆっくりと目を閉じた。
記憶の戻らないあの野生児のこと、そしてこれから向かう歴史ある街・京都のこと。
様々な思いを胸に抱きながら、京都への出発の日を待つのだった。
年末の寒空が広がる朝。
東京駅のホームには、大きなボストンバッグを抱えた刀太と、小振りの鞄を手にした木乃香、そしてコート羽織った学園長・近衛近右衛門の姿があった。
「よし、そろそろ切符を買って改札に入るかの」
近右衛門が髭をさすりながら歩き出そうとした、その時である。
「近衛様〜! お待ちくださいませ!」
華やかな声とともに、駅の入り口からぞろぞろと大荷物を抱えた少女たちが現れた。
あやかを筆頭に、五月、風香、文香、楓、そしてはるなの6人だ。
近衛近右衛門はピクッと眉を動かし、眼鏡をずらして目を丸くした。
「むむ……? 雪広くんに四葉くん、それに長瀬くんたちまで……何じゃ、みんなしてどこかへ旅行かね?」
「あ、おじいちゃんに言ってへんかったっけ?」
木乃香がニコニコと可憐な笑顔を浮かべ、手をぽんと叩いた。
「ふーちゃんたちも、年末の京都に遊びに来てくれるんよ〜!」
「なにぃッ!?」
近右衛門は素頓狂な声を上げた。
「ろ、6人もか!? ワシは何も聞いとらんぞ! 宿はどうするつもりじゃ!」
「お屋敷に泊まるんよ〜。みんなでお泊まり楽しみやわ〜」
木乃香がポワポワした笑顔で答える。
「(まあ、そのアポを取ったのは風香の突発的な電話だったんだけどね……)」
後ろではるなが内心で激しくツッコミを入れつつ、気まずそうに視線を泳がせた。
「おお! みんなも行くのか! 大人数で賑やかで楽しそうだな!」
事情をよく分かっていない刀太だけが、純粋に目を輝かせて歓声を上げている。
近衛近右衛門は頭をボリボリとかきながら、深いため息をついた。
「やれやれ……木乃香が良いと言うなら構わんが、ワシの耳にも入れておいておくれ。
……まあよい、賑やかなのは嫌いではない。全員乗り遅れんように行くぞ」
「「「はーい!」」」
新幹線へと乗りこむと、車内は一気に2-Aの女子たちの賑やかな笑い声で満たされた。
座席をくるりと回転させて向かい合わせにし、早くも旅のテンションは最高潮だ。
「見て見てトータくん! 富士山だよーっ!」
風香が車窓にへばりついて指をさす。
「うおっ! すっげぇ、おっきいなー!」
刀太も一緒に窓に顔を貼り付け、子供のように大はしゃぎしている。
「トータさん、お腹が空いておられませんか? 早めの駅弁を買っておきましたわ」
「おお、サンキュー委員長! うひょー、肉びっしり! うめぇーっ!」
あやかから受け取った牛めし弁当をガツガツと頬張る刀太を見て、はるなあきれ顔で肩をすくめた。
「ちょっと刀太、食べ方が汚い! 落ち着いて食べなさいよ」
「ええやんハルナ、元気があって。うちのお屋敷に着いたら、もっと美味しいお豆腐料理とか用意してもらうでな〜」
木乃香が嬉しそうに目を細める。
「京都の甘味処も楽しみですね、木乃香さん。抹茶のパフェとか、お団子とか……」
五月が手帳を開きながら和やかに笑いかけると、あやかも「ええ、私の知っている最高のお店へご案内いたしますわ!」と胸を張った。
そんな賑やかな会話から少し離れた座席で、近衛近右衛門は温かいお茶を啜りながら、静かに生徒たちの楽しげな様子を見つめていた。
その穏やかな表情の裏で、彼の胸中には小さく重い懸念が渦巻いていた。
(……無事に、屋敷まで着いてくれればええのじゃがな)
――日本の裏社会、すなわち術者や魔法使いが蠢く世界には、大きく分けて二つの巨大な勢力が存在する。
一つは、近右衛門自身が理事を務める「関東魔法協会」。
西洋の魔術体系を中心に発展し、時代の変化に対して柔軟であり、近代的な組織体制を持つ新進気鋭のグループである。
そしてもう一つが、これから向かう京都を中心とする「関西呪術協会」。
陰陽道、神道、霊術など、日本古来の伝統と血統を重んじる保守的な呪術師たちの集まりだ。
現在のそのトップを務めているのは、近右衛門の義理の息子であり、木乃香の父親でもある近衛詠春であった。
表向きはこの東西二大勢力の間で和平協定が結ばれてはいたが、その実、両者の関係は決して良好とは言えなかった。
特に、歴史と伝統を誇りに思う関西呪術協会の内部には、根強い保守派・過激派が存在する。
彼らにとって、古来より続く呪術の名家『近衛』の人間でありながら関東へ拠点を移し、西洋の魔法使いどもと手を組んで新しい協会を作り上げた近衛近右衛門という存在は、「伝統を捨てた裏切り者」「西洋かぶれの俗物」以外の何者でもなかった。
(ワシが関西の地を踏むだけでも、あやつら過激派の神経を逆撫でするには十分すぎる……。
刀太くんの記憶の手がかりを得るためとはいえ、余計な火種が燃え上がらねばよいが……)
近右衛門は車窓の外を流れる冬の風景を見つめ、静かに目を細めた。
『まもなく――京都、京都です。お出口は右側です――』
車内アナウンスが流れ、一行は棚から荷物を降ろし始めた。
新幹線を降り、ホームから階段を下りて改札を抜けると、目の前には巨大な吹き抜けの京都駅ビルと、冬の澄んだ空にそびえ立つ京都タワーが広がっていた。
「うおおおおおっ!! すっげぇぇぇぇ!! これが京都かーーっ! 天井が高ぇーーっ!」
刀太が両手を広げて大歓声を上げる。
「京都タワー、おっきいねー! 文ちゃん、見て見て!」
「うん、綺麗だね、風香姉ぇ……」
「へぇ……歴史ある古い街って聞いてたから、もっと和風なのかと思ってたけど、駅はすごく近代的じゃない」
はるなが荷物を抱え直し、見上げるように周囲を見回した。
「ふふ、歴史とモダンが美しく融合しているのが、この街の素晴らしさですわ」
あやかがお嬢様らしく満足げに頷く。
「ひんやりした空気が、なんだか気持ちを引き締めてくれますね、木乃香さん」
五月が白い息を吐きながら微笑むと、木乃香はみんなに向かってパーッと弾けるような笑顔を向けた。
「ふふ、みんな、ようこそ京都へ! うちのお家はここからもう少し行くけど、存分に楽しんでいってな〜!」
「よし、それじゃあタクシーを拾って、さっそく近衛の家に向かうと……」
学園長が腕を組んでそう言いかけた、まさにその時だった。
「えー! おじいちゃん、そんなに急がんでもええやん!」
木乃香がくりっくりとした目を輝かせ、くるりとみんなの方を振り返った。
「せっかくみんなが京都まで来てくれたんやで?
いきなりお家に行くなんて勿体ないわ!
ちょっとくらい観光していこうやー!」
「なっ……これ木乃香! ワシらは遊びに来たのではなくてな――」
学園長が慌てて引き留めようとするも、時すでに遅し。
「行こう行こう! まずはあっちからやで〜!」
「うおーっ! 観光だ観光だーっ!」
「わーい、京都観光だーっ!」
木乃香を先頭に、刀太と風香が「おーっ!」と拳を突き上げて走り出す。
あやかも「ふふ、ご案内いたしますわ!」と優雅に答え、文香、楓、五月、はるなもその後を楽しそうに追いかけていく。
「こ、これ! 待ちなさいお主たち……!
やれやれ、相変わらず聞きおらん……」
取り残された学園長は、頭を押さえて深いため息をつくしかなかった。
木乃香の案内で、一行の賑やかな京都巡りが始まった。
真っ赤な千本鳥居が立ち並ぶ伏見稲荷大社では、刀太と風香がどこまでも続く鳥居のトンネルに大はしゃぎし、清水寺の大きな舞台からは、眼下に広がる京都の街並みをみんなで眺めて歓声を上げた。
「すっげぇなぁ! どこを見ても古い建物ばっかりで、探検しがいがあるぞ!」
刀太が欄干から身を乗り出して目を輝かせる。
「刀太、危ないわよ! 落ちても知らないからね!」
はるなが後ろからコートの襟首を引っ張って注意する。
「ふふ、刀太さん、本当に楽しそうですわね」
五月が温かい目で見守り、あやかは「次は金閣寺へ参りましょうか!」とご機嫌だ。
そんな生徒たちの後ろを静かについて歩きながら、学園長は鋭い視線をさりげなく周囲の混雑した観光客や路地裏へと走らせていた。
だが、どこを見渡しても、漂ってくるのは穏やかな観光地の空気だけだ。
妖しい気配も、刺客のような陰も一向に感じられない。
(ふむ……怪しい気配などは感じられんか。
……ワシの心配しすぎであったかの)
過激派の襲撃を警戒していた学園長は、ひょいと白い髭をさすり、胸の中でホッと胸を撫で下ろした。
昼下がり、一行は参道沿いの古風なお茶屋さんに立ち寄った。
焼きたてのみたらし団子や、出来立ての生八ツ橋、抹茶のソフトクリームなどをテイクアウトすると、歩いてすぐのところにある広大な公園へと向かう。
冬の澄んだ空気の中、大きな池のほとりにある長ベンチに腰を下ろし、みんなで和菓子を分け合う。
「うおー!この団子、モチモチでタレが甘辛くて最高にうめぇ!」
刀太が勢いよく串団子を頬張る。
「ふふ、美味しそうに食べますね、刀太さん」
五月が嬉しそうに微笑み、木乃香も「美味しいやろ〜? ここの名物なんよ」と自慢げだ。
そんな和気藹々としたひとときを楽しんでいた時――。
ヒュッと、冬の風を切る小さな羽音が響いた。
空からすーっと舞い降りてきたのは、一羽の真っ白な『鳥の形をした紙』――式神であった。
その紙の鳥はまっすぐに学園長の肩に止まると、サラサラと解けて一通の短い手紙へと姿を変えた。
手紙の文字に目を走らせた学園長は、うーむと眉をひそめた。
「どうしたの、おじいちゃん?」
「……む、いやな。少々、関西協会の古い知り合いから呼び出しがかかってな。すぐ近くにおるらしいのじゃ」
学園長はベンチから立ち上がると、コートの襟を正した。
「すぐ済む話じゃ。お主たち、ここで和菓子でも食べて待っておれよ」
「はーい、気をつけてねー」
木乃香が手を振ると、学園長は公園の奥へと歩き去っていった。
学園長が姿を消して、数分が経過した頃。
「んぐ……美味しかったー! やっぱり京都の和菓子はレベルが高いわね」
はるなが最後のお餅を口に運び、満足げにお茶のペットボトルを煽った。
そして、ふと公園の周囲に視線を向けたところで――ピタリと動きを止めた。
「……ねえ」
「ん? どうしたん、ハルナ?」
木乃香がお茶を飲みながら首をかしげる。
はるなは顔をひきつらせ、周囲をキョロキョロと見回した。
「……なんだか、人が少なすぎるというか……っていっても、誰もいなくない?」
「え……?」
言われて、五月やあやかたちも顔を上げた。
さっきまで公園の広場や遊歩道には、家族連れや観光客、散歩中の地元住民がたくさんいたはずだった。
だが今や、周囲には風に揺れる木々の音しか存在しない。
池の対岸のベンチも、広場も、まるで世界から人間だけが消え去ったかのように、静まり返っていた。
「本当だ……誰もいないぞ? みんな急にどこ行ったんだ?」
刀太が不思議そうに首をひねる。
その瞬間、長瀬楓の目が鋭く細められた。
彼女の経験がかすかな霊力の気配を感じ取る。
空間の境界が無理やり歪められた時に生じる、独特の「重み」だった。
(……人の気配が完全に遮断されている。周囲の景色は同じように見えて、外部からは誰も入って来られず、中の声も届かない……!)
楓はごくりと唾を呑み込み、声に出して警戒を促した。
「……みんな、気をつけるでござる。
もしやこれは――『人払いの結界』!?」
「人払い……!? 結界ですって!?」
あやかが立ち上がり、目を見開く。
次の瞬間、公園の空間が、水面に落ちた波紋のようにズズズ……と大きく歪み始めた。
池の水面が激しく波立ち、公園の木々の影から、黒いモヤのような霊気が溢れ出す。
そのおどろおどろしい影の中から、白装束に狐の面をつけた異様な姿の式神たちや、角を生やした醜悪な鬼たちが、ズズ……ズズズ……と這い出てきた。
「グオォォォォ……ッ!!」
地響きのような低い唸り声が、静まり返った公園内に木霊する。
「な、なにアレ!? お化け!? 鬼!?」
はるなが悲鳴を上げ、五月と双子が木乃香を庇うように後ろへ下がる。
「木乃香!俺たちの後ろに下がってろ!」
刀太が咄嗟に木乃香の前に立ち、拳を固めて立ち塞がった。
不気味な鬼たちの群れが、目をギラつかせながら、逃げ場のない少女たちへとじりじりと距離を詰めてくる――。
「グオォォォォ……ッ!!」
空間の歪みから次々と這い出てくる、角を生やした異形の鬼たちと、白装束に身を包んだ狐面の式神の群れ。
その禍々しい気配と圧迫感に、公園の空気は一瞬にして凍りついた。
「な、何なのよこれ……!?
夢!? 特撮の撮影!? CGってやつ!? 映画のロケならロケって言いなさいよーッ!」
目の前で繰り広げられる非現実すぎる光景に、はるなが顔を真っ青にして悲鳴を上げた。
風香と文香も互いの手をぎゅっと握りしめ、ガタガタと震えている。
無理もない。
魔法も裏社会の存在も知らない彼女たちにとっては、常識が崩壊するほどの異常事態だった。
だが、超包子での日々を通じて裏の世界の存在をうっすらと知っている五月は、震えるはるなの肩にそっと手を置いた。
その表情は真剣そのものだ。
「いいえ……はるなさん。これは特撮でも何でもありません。間違いなく……目の前で起きている現実です!」
「げ、現実って……冗談でしょ!?」
騒ぎ立てる彼女たちの奥、木々の影から冷たい視線を送る数人の白装束の男たちがいた。
式神を影で操る術士たちだ。
そのうちの一人が、低く不気味な声を響かせる。
『おとなしく近衛木乃香をこちらへ引き渡せ。さもなくば……お前たち全員、ここで生きては返さんぞ』
容赦のない脅迫が公園内に重く響き渡る。
だが、その言葉が終わるか終わらないかの瞬間――刀太が前に踏み出し、胸を張って敵を睨みつけた。
「ふざけんじゃねぇぞ、この野郎ーーッ!!」
怒号のような咆哮が、術士たちの声を掻き消す。
「誰が木乃香を渡すかよ! 俺たちの仲間なんだぞ! 指一本触れさせねぇ!!」
全力の否定。一切の迷いもない刀太の叫びに、木乃香は胸を打たれたように目を見開き、はるなたちもハッと息をのんだ。
『不敬な子供め……後悔しても遅いぞ。やれ!』
術士の冷酷な合図とともに、鬼や式神たちが一斉に牙を剥いて襲いかかってきた!
「ちッ、あの奥にいる奴らが元凶か! 一気に叩くぞ!」
刀太が拳を固めて飛び出そうとしたが、その前を阻むように、数十体もの式神と鬼が壁となって立ち塞がった。
「そう簡単には通してくれんようでござるな!」
その壁へ真っ先に躍り出たのは、長瀬楓だった。
「いざ――参る!」
楓が静かに印を結んだ瞬間、その姿がブレた。
シュシュシュッ!
「「なっ!?」」
はるなたちが目を疑う。一瞬にして楓の姿が三人に増え、まるで風の如き速度で式神の群れの中へと飛び込んだのだ。
「分身の術!?」
「はッ!」
楓の放つ鋭い気合いとともに、手に纏わせた「気」が式神たちを打ち砕く。
分身たちと息の合った連撃で、襲いかかる式神の腕を払い、胴を蹴り抜き、術士たちを守る式神の壁を凄まじい勢いで削り取っていく。
「ふむ……長瀬さんだけにいい格好はさせられませんわね」
楓の戦いぶりを見届けた雪広あやかが、優雅な動作でコートの裾を翻した。
その手には、いつも持ち歩いている高級感あふれる扇子。
「ちょっと委員長!? 無理よ、あんたまで前に出たら――!」
はるなが引き留めようと叫んだ、その時だった。
あやかの前に、体長三メートルはあろうかという巨体を持つ鬼の式神が立ち塞がった。
太い丸太のような腕を振り上げ、あやかを押し潰そうと振り下ろす!
ヴンッ!!
風を切る凄まじい風圧。だが、あやかは悲鳴一つ上げず、静かに扇子をパチンと閉じた。
(――集中しなさい、あやか。体内の『気』を、水のように滑らかに……)
あやかの体内を巡る「気」が、液体のように波を打ち、動き出す。
あやかは鬼の振るった巨腕を、紙一重の踏み込みで軽やかにかわした。
空を切った鬼の腕が伸び切ったその瞬間――あやかは吸い付くような手つきで、鬼の手首と肘の二点にそっと手を添えた。
力で押すのではない。合気道の理合。
相手の攻撃のベクトルを、そのまま回転の力へと変換する。
あやかの身体に纏う「気」が、液体の流動のように、その時々で最も力を必要とする部位へ瞬時に移動していく。
肩の気を上腕に。鬼の体が地面を離れ持ち上がる。
上腕の気を肘に。肘を軸に鬼の体をまわす。
肘の気を前腕に。垂直に上がった鬼の体を地上へ押し付ける。
前腕の気を手首、そして手のひらに。鬼の体を一気に地面は叩きつける。
あやかが滑らかに気を移動させ、力を乗せ続けることで、投げられた鬼の落下速度が空中で加速度的に跳ね上がっていく。
「グルァッ!?」
鬼の悲鳴。放物線を描いて叩きつけられた瞬間――。
ドガアアアアアンッ!!!
公園の地面が激しい爆音とともに大きく爆散した。
土煙と瓦礫が派手に舞い散り、鬼が叩きつけられた場所には、直径数メートルものクレーター状の凹みが削り出されていた。
鬼の式神は、そのあまりの衝撃に耐えかね、叫び声を上げる暇もなく黒い霧となって消滅した。
静まり返る戦場。
舞い散る土煙の中から、あやかが優雅に扇子をパッと開き、胸を張って佇んでいた。
乱れた髪を指先でふわりと整えるその姿は、あまりにも華麗で、圧倒的だった。
「な……なん……何なの今のーーーッ!?」
はるなの顎が外れんばかりに落ち、風香と文香、そして五月までもが目を丸くして固まっている。
「ふふ、雪広の家名に伝わる合気の真髄と気の操作による特訓の成果。お見せいたしましたわ」
あやかは不敵で麗しい笑みを浮かべ、まだ蠢く敵の群れへと扇子を向けたのだった。
「うおーっ! あやか、すげぇーーっ!!」
あやかの華麗すぎる気功合気道を目撃し、刀太は目を輝かせて歓声を上げた。
「俺も負けてらんねぇな!」
刀太はぐっと踏み込むと、体内のエネルギーを全身の皮膚と筋肉へ集中させた。
肉体をギリギリまで硬化させ、迫り来る鬼の巨拳をそのまま腕で受け止める!
ガキィィンッ!!
まるで金属同士がぶつかり合ったかのような重い鈍音が響いた。
「ハッ、効かねぇぞッ!」
刀太はそのまま不敵にニヤリと笑うと、踏み込んで鬼の腹へ渾身の右ストレートを叩き込んだ。
ドガァァンッ!!
「グガァッ!?」
強烈な衝撃波が鬼の背中に抜け、式神は一撃で吹き飛んで黒い霧へと弾け飛んだ。
次々と襲いかかる式神に対し、刀太は全身を「気」で固めながら、愚直なまでの肉弾戦でブン殴り、叩き潰していく。
その戦闘の裏で、後ろに守られていた木乃香は素早くポケットから携帯電話を取り出していた。
(この異様な状況……ただ事やない! お父様に知らせんと……!)
素早い手つきでボタンを操作し、耳に当てる。数回の呼び出し音の後、相手が電話に出た。
『もしもし、木乃香か? どうした』
「お父様! 今な、みんなと公園におるんやけど……なんか人払の結界?っていうのが張られてるみたいで、急に鬼みたいな妖怪たちに襲われてるんよ!」
『何だと……!? 木乃香、今すぐそこから――』
「ううん、刀太君たちが戦ってくれておるけど、相手の数が多すぎるんよ! お父様、助けて!!」
『すぐに行く! 持ちこたえろ!』
しかし、敵の数は想像を絶していた。
倒しても倒しても、空間の歪みから新しい式神が次々と湧き出てくる。
「ハァ……ハァ……ッ! キリがありませんわね……ッ!」
あやかが肩を上下させ、荒い息を吐く。
いくら技が洗練されていても、肉体的な疲労までは誤魔化せない。
楓は木乃香達を守りながら戦ってくれているためかなかなか前に出られず、刀太の額からもダラダラと汗が吹き出していた。
(…数が多すぎる! 体も重くなってきやがった……!)
荒い息を吐きながら、刀太は隣で戦うあやかの姿を目で追った。
あやかは疲労困憊でありながらも、体内のエネルギー――「気」を水のように滑らかに動かし、最小限の力で効率よく敵を捌いている。
(回す……? 身体の中で、エネルギーを……?)
刀太はあやかの動きを真似るように、自分の身体の中で「気」をぐるりと回してみた。
その瞬間。
脳裏を激しい既視感(デジャブ)が駆け抜けた。
(……!? この感覚……知ってる……! けど――)
刀太は自分の手を見つめ、眉をひそめた。
(……違う。俺が回すのは……こっち(気)じゃないはずだ……!)
記憶は戻らない。
けれど、身体が、魂が、本当にあるべき力へ導いていた。
刀太は「気」ではなく、自分の胸の奥底に眠る「別の力」――「魔力」へと意識を向けた。
刀太の体内には、本来相容れぬ二つの強大な魔力が渦巻いていた。
激しく荒ぶる「金星の黒」と、深く静かな「火星の白」。
混ざり合い、沈殿していたその二つの魔力に対し、刀太は迷わず回転を与えた。
――【回天】。
まるで超高速の遠心分離機のように、体内の魔力が激しく旋回を始める。
その瞬間、刀太の足元から円を描くように円環状の風が巻き起こった。
竜巻とまではいかないものの、サラサラと音を立てて足元の砂煙がくるりと舞い上がり、彼を中心に渦を巻く。
その渦巻くエネルギーの中で、混ざり合っていた異質な魔力が、綺麗に二つへと分断されていった。
(……あぁ。これだ)
刀太の全身から、それまでの荒々しさが嘘のように消え去った。
舞い上がっていた風と砂煙がすっと収まり、深く静寂な気配が彼を包み込む。
刀太は無言になり、ゆっくりと己の右手を見つめた。
そこに満ちていくのは、深く静かな「火星の白」――あらゆる魔を無に還す、打ち消しの波長。
「おいガキ! 死ねぇッ!」
隙を見せたと思った鬼の式神が、鋭い爪を立てて刀太の首元へ襲いかかってきた。
風香が「刀太くん! 危ないーーッ!」と悲鳴を上げる。
だが、刀太は振り返りもせず、ただ右手をすっと後ろへ差し出し、襲いかかる鬼の腕にそっと触れた。
――フッ。
次の瞬間。
衝撃音も、破壊音すらもなく。
触れられた鬼の腕から全身にかけて、目にも留まらぬ速さで白い光の波紋が広がった。
「ガ……ッ!?」
鬼は叫び声を上げる隙すら与えられず、一瞬にして構成魔力を解体され、パラパラと霧散して消滅した。
「「「「……!?」」」」
それを見ていた術士たちも、あやかやはるなたちも、全員が言葉を失った。
打撃で破壊したのではない。存在そのものが、触れただけで「消えた」のだ。
『な……なんだあのガキは!? 何をした!? 式神が一瞬で消えただと!?』
術士たちの動揺が人払いの結界内に伝波する。
『おのれ……ええいッ! 数人がかりで最大級のものを呼び出せ! あのガキごと押し潰せッ!!』
追い詰められた術士たちが集まり、必死の形相で複雑な印を結び始めた。
公園の地面が激しく揺れ、池の水が吹き上がる。
空間が大きく裂け、そこから出現したのは――ビルほどもある巨大な、四つ目の鬼の式神だった。
「グオオオオオオオオオオオッ!!」
山が鳴るような咆哮。その巨大な足が一歩踏み出すだけで、公園の地面が崩れ落ちる。
「嘘……でしょ……ッ!? あんな大きなの、勝てるわけないよ!!」
風香が顔を青ざめさせて叫ぶ。
「刀太君! 危ない、下がって!!」
木乃香が悲鳴のような声を上げた。
しかし――。
刀太は、その巨大な絶望を正面から冷静に見つめていた。
(……懐かしいな)
胸の奥から湧き上がる、静かな確信。
どれほど巨大な魔力の塊であろうと、どれほど恐しい呪いであろうと関係ない。
刀太は無言のまま、ゆっくりと、一歩、また一歩と巨大な鬼に向かって歩き出した。
「グオォォォッ!」
巨大な鬼が、家一軒ほどもある巨大な拳を振り上げ、刀太を叩き潰さんと直上から振り下ろす!
だが、刀太の足取りは止まらない。
頭上から迫る巨大な拳を見上げることもなく、刀太は叩きつけられる直前、静かに右腕を上げた。
事故も躊躇もなく――ただ横へ、フッと払うように右手を振った。
パァン……ッ。
乾いた、小さな音が響いた。
その瞬間、巨大な鬼の拳から腕、肩、そして全身へと、無数の白い亀裂が走り抜けた。
「……ッ!?」
巨鬼が驚愕に目を見開く。
次の瞬間、ビルほどもあったその巨体は、まるで最初から存在しなかったかのように、光の粒子となってパラパラと空中に解け、一瞬で消滅したのだった。
後には、静かに佇む少年と、穏やかに吹き抜ける冬の風だけが残されていた。