新学期が始まってから、数日が過ぎた一月の昼休み。
冬特有の澄んだ冷気が麻帆良学園のグラウンドを包み込んでいたが、敷地の片隅にある静かな訓練場には、寒さを吹き飛ばすような熱気が満ちていた。
「ふぅ……はぁ……。よし、解れてきたぞ!」
刀太は肩をぐるぐると大きく回しながら、アキレス腱をグッと伸ばした。
その向かい側では、体操着姿の佐倉愛衣が少し緊張した面持ちで手首と足首を柔らかく解している。
「あ、愛衣。体調はバッチリか? 寒さで動きが鈍ったりしてねえか?」
「うん、大丈夫! ちゃんと身体能力強化の魔法もウォーミングアップに合わせて調整してるから」
愛衣は小さく息を吐き出すと、刀太を真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳には、以前京都に行く前に刀太から一本取った時以上の、確かな自信と強い意志が宿っている。
平日は毎日のように特訓を行っている2人。
戦う前の緊張感もありつつ、2人はリラックスしたように話をしていた。
「前回の勝負で、刀太君の速さや『気』の使い方は身をもって分かったから……今回はしっかりと対策を練ってきたんだ。
簡単に懐には入らせないよ!」
「へへっ、言ってくれるじゃねえか!
どれくらい強くなったか、楽しみだぜ。
……よし、ルールはおさらい通りだな!
俺は体の前で一発、寸止めを決められたら勝ち。
愛衣は魔法を一発でも俺に当てられたら勝ち。
……いいな?」
「うん、了解! ……それじゃあ、行くよ!」
愛衣がすっと足幅を開き、腰を落として構えをとる。
その瞬間、彼女の全身から微かな魔力が立ち上り、真剣な空気が場を包み込んだ。
「――メイプル・ネイプル・アラモード!」
始動キーが響き渡った、まさにその瞬間。
二人の交戦が始まった。
(まずは一瞬で距離を詰める――ッ!)
始動キーの残響が消えぬうちに、刀太の足裏に激しい「気」が集束した。
バンッ! と地面を爆破するかのような踏み込みとともに、刀太の身体が弾丸と化して一直線に愛衣へ肉薄する。
人間離れしたその加速は、目視すら困難な領域だ。
しかし、愛衣の表情に焦りはなかった。
(来た……! だけど、速さは想定内!)
愛衣は身体能力強化の魔法で全身の運動能力を引き上げると、間合いを詰められるよりコンマ数秒早く、軽やかに後方へバックステップを打った。
そしてすぐさま短縮詠唱を紡ぐ。
「――『魔法の射手 火の三矢(サギタ・マギカ セリエス・イグニス)』!!」
愛衣の前方に瞬時に生成された三本の「火の矢」が、空気を焦がしながら刀太の突進ライン上へと一斉に放たれる。即座に放たれた完璧なタイミングの牽制射撃。
「うおっ!?」
直進すれば火の矢に突っ込む形になる。刀太は鋭い足さばきで体軸をわずかに傾け、飛来する火の矢を紙一重でかわしながらも、前進の勢いを殺すことなく一気に愛衣の懐へと飛び込んだ。
「捉えた――寸止め一発ッ!!」
刀太の握り拳が、気合いとともに愛衣の胸元へと突き出される。速い。かわし切る時間はない。
だが、愛衣の狙いは最初から「体さばきだけでかわすこと」ではなかった。
バックステップで距離を保ちつつ、刀太の拳が迫る直前のタイミングに合わせ、至近距離で防衛呪文を打ち込む!
「――『風盾(デフレクシオ)』ッ!!」
ドォンッ!!
刀太の拳が愛衣の身体に触れる直前、愛衣の手元から圧縮された風の障壁が展開された。
強烈な風圧が刀太の繰り出した拳の勢いを強引に殺し、二人の間に壁を作り出す。
「くっ……風の壁……!?」
寸止めを決める前に拳を押し戻され、刀太の体勢がわずかに浮く。
愛衣はその風盾が巻き起こした反動と衝撃波をうまく利用し、自らの身体をふわりと後方へ弾き飛ばすようにして、再び刀太との間合いを大きく開いて着地した。
「ふぅ……っ!」
一瞬の静寂。
刀太は体勢を立て直すと、自分の拳を見つめ、それから前方の愛衣へと視線を向けた。
(即座に火の矢で突進を牽制して、それでも詰めてきた俺の拳を風盾で綺麗にいなした……! 完璧なバックステップと合わせ技かよ!)
引き撃ちの態勢を崩さず、手元で待ち構える愛衣の凛とした姿に、刀太の口元が自然と大きく吊り上がった。
「へへっ、なら今度はもっと速く懐に入ってやるぜ!」
刀太は不敵に笑うと、間髪入れずに脚へ「気」を再集束させた。
ドオンッ! と地煙が弾け、先ほどを上回るスピードで直線の突進を開始する。
しかし、距離を取った愛衣の動きに迷いはなかった。
「――『魔法の射手 火の七矢(サギタ・マギカ セリエス・イグニス)』!!」
愛衣の前に七本の火の矢が生成される。
うち五本を前方の空中に配置し、残りの二本はそのまま愛衣の周囲でグルグルと円を描くように対空滞留させた。
そして間髪入れず、次なる呪文を叩きつける!
「――『風花(フランス) 風障壁(バリエース・アエリアーリス)』ッ!!」
ゴォォォッ!!
愛衣が展開した風の障壁が五本の火の矢を巻き込み、熱風とともに激しい炎の旋風となって立ち昇った。
二人の間に、完全に視界を遮断する巨大な【炎の壁】が創り出される。
(炎の壁……!? 視界を隠す気か!)
刀太が足を止めることなく炎へ突っ込もうとしたその時――炎の壁のすぐ向こう側から、はっきりと愛衣の詠唱する声が聞こえてきた。
『――ものみな(オムネ) 焼き尽くす(フランマンス)……』
長めの強力な呪文の詠唱。
壁のすぐ裏で、愛衣が新たな大技を練り上げている音が響く。
(壁の向こうで呪文を唱えてやがる……!
詠唱中なら隙だらけだ! 炎の壁ごと突き破るッ!)
刀太は全身に「気」を力強く巡らせて防御を固め、声のする正面へ向けて迷わず炎の中へ飛び込んだ。
真っ赤な炎が視界を埋め尽くし、熱風が全身を襲う。
だが、その炎を突っ切る一瞬の刹那――刀太の頭の中で、鋭い違和感が跳ね上がった。
(……待てよ?)
思考のギアが高速で回転する。
(今までバックステップでずっと距離を取って牽制してきた愛衣が……いくら炎の壁があるからって、壁のすぐ裏で足を止めて長めの呪文を唱えるか……!?
危険すぎるだろ、絶対におかしい!!)
直感が警鐘を鳴らす。
しかし、すでに勢いのついた身体は完全には止まらない。刀太は炎の壁を突き破り、声の聞こえた正面へと飛び出した!
――だが、そこに愛衣の姿はなかった。
「……ッ!? なにっ!?」
声が聞こえたはずの場所に誰もいない。
愛衣は風の魔法で自らの詠唱音だけを伝播させ、位置を壁の直前だと錯覚させていたのだ。
そして、声のブラフに誘い込まれた刀太の斜め前方――壁から遠く離れた位置に立つ愛衣が、すでに対空させていた残りのふたつの火の矢を、突き破ってきた刀太へ向けて放つ!
「しまっ――!」
直撃コース。
だが、突入前に「違和感」を覚えていた刀太は、強引に足裏の「気」を破裂させ、体を真横へ大きく滑り込ませて間一髪でこれを回避した。
しかし、愛衣は刀太がそれをかわすことすら完全に織り込み済みだった。
攻撃が避けたかどうかの確認など一切せず、刀太が回避運動で身体を滑らせた「その先」へ、間髪入れずに次の火の矢を放ち込んでいる。
「うおあッ!?」
回避先に正確に置かれた攻撃に対し、刀太は泥に塗れながら地面を連続で転がるしかなく、体勢を完全に崩されてしまう。
愛衣はその隙を見逃さず、さらに後方へと大きくバックステップを踏み、刀太との間に絶望的なまでの間合いを作り出した。
「――『ものみな(オムネ) 焼き尽くす(フランマンス) 浄北の炎(フランマ プルガートゥス) 破壊の王に(ドミネー エクスティンク) して(ティオーニス) 再生の(エト シグヌム) 徴よ(レゲネラティオーニス) 我が手に宿りて(イン メアー マヌー エンス) 敵を喰らえ(イニミークム エダット) 紅き焔(フラグランティア・ルビカンス)』!」
走る動作のまま、愛衣の口から滑らかに流れる長大な呪文。
矢の直撃を確認するために足を止めるような甘さは一切ない。
徹底的な後退、徹底的な牽制、そして完璧な詠唱。
唱え終わると同時に、愛衣の手元から圧倒的な魔力の奔流が溢れ出す
――はずだった。
しかし、呪文が完遂されたにもかかわらず、炎の一筋すら発生しない。魔法は解き放たれず、何事もなかったかのように静寂が保たれている。
愛衣自身も何が起きたかを確かめるそぶりすら見せず、まるで当然のことのように、そのまま身軽な動作で次なる足場へと着地した。
「……っ、ハァ……っ!」
土煙の中から、泥だらけになった刀太が慌ただしく立ち上がる。
体勢を崩され、徹底的に距離を取られた刀太の視線の先には、次の行動へ移ろうとしている愛衣の姿があった。
(距離を離されても関係ねえ……! 一気に詰める!)
立ち上がった刀太は、即座に足裏に「気」を叩き込み、鋭い地鳴りとともに愛衣へ向けて一直線に爆発的な突進を再開した。
愛衣は後退しながら、すぐさま手をかざす。
「『魔法の射手 火の三矢(サギタ・マギカ セリエス・イグニス)』!」
牽制のために放たれた三本の火の矢が、空気を切り裂いて一直線に迫る。
普通なら体を捻って回避するか、弾く動作で一瞬の隙が生じる場面だ。
だが、刀太の選択は愛衣の予測を超えていた。
「そんなもん、受けて立つかよッ!」
刀太は走りながら、足元に転がっていた拳大の石コロを「気」を纏わせた手で引ったくるように拾い上げ、寸分の狂いもなく一直線に投擲した!
バツンッ!!
超高速で放たれた石は、向かってくる火の矢と正面から激突。
爆炎を散らして相殺する!
回避による時間ロスを完全にゼロにした刀太は、一瞬の減速すらないまま、最短ルートで一気に愛衣の眼前に肉薄した。
(石で魔法を相殺……!?
だけど、詰めてくるスピードが速すぎて、次の魔法を構築する時間がない!)
距離を殺され、完全に間合いに入られた愛衣。
しかし、彼女の瞳に恐怖の色はない。
最初からこの状況すら織り込み済みだったかのように、愛衣は継続して発動している「身体能力強化」の力を一気に脚部へ集中させた。
タァンッ!!
愛衣の身体が、地面を強く蹴って真上へと高く跳躍する。
刀太の寸止めの拳は、愛衣が残した空風を虚しく切り裂いた。
(上かよッ! だけど――!)
「空中じゃ、流石の愛衣も逃げ場がないだろ!」
空中では横に逃げることも、足場を使って切り返すこともできない。
刀太は躊躇することなく、愛衣を追って真上へと爆発的な跳躍を敢行した。
一瞬で愛衣と同じ高さまで跳び上がり、空中で無防備になった愛衣へ向けて手を伸ばす。
捉えた――そう確信した刀太の視界で、愛衣の口元がかすかに緩んだ。
(――罠だよ、刀太君)
愛衣は、先ほどあらかじめ詠唱を完了させて手元に保持(ストック)しておいた大技を、迷わず解き放つ。ただし、その対象は目の前の刀太ではなく――【真上の空間】!
「――『解放(エーミッタム)』ッ!!」
ゴォォォォオオッッ!!!
真上で爆発的に解き放たれた『紅き焔』の巨大な熱量と衝撃波。
その猛烈な風圧と推進力を、愛衣は全身で受け止める。
まるで弾丸のような速度で急降下した愛衣は、軽やかに地面へと急着地を果たした。
『遅延呪文』
基本的に、魔法を発動させるためには呪文を詠唱する必要がある。
しかし、その呪文をあらかじめ唱えておき、それを体内に溜めておくことで、任意のタイミングで魔法を開放(発動)することができる。
それこそが『遅延呪文』。
高度な魔力コントロールと集中力が必要となり、完成した魔法のエネルギーを爆発させないよう体内に繋ぎ止めておくため、術者には強い精神力と体力が求められる高等技術。
それを、実戦の中で成功させてみせた。
「うおっ!?」
空中にひとり置き去りにされたのは、刀太の方だった。
足場を失い、慣性に従って宙に浮く完全な無防備状態。
地上に着地した愛衣は、着地の衝撃を逃がしながら、滑るようにバックステップを踏む。
そして、見上げる空中の刀太へ向けて右手を一閃させた。
「『魔法の射手(サギタ・マギカ) 火の三矢(セリエス・イグニス)!!』」
空中の逃げ場のない刀太へ向けて、拘束の性質を持つ火の矢が一斉に襲いかかる!
(うわっ、マジかよ……ッ!?)
絶体絶命の空中。しかし、刀太の野性的な身体能力は常識の枠に収まらなかった。
「ぬおおおおおッ!!」
刀太は全身の「気」を爆発的に周囲へ噴出させた。その強引な「気」の衝撃波を推進力に変え、空中で強引に身体の軸を力任せにねじ曲げる!
シュバッ!!
放たれた捕縛の矢は、刀太の着ている服の端を掠め、空を切って消えた。
ドサッと地煙を上げて地上に着地した刀太は、すぐさま態勢を立て直して素早く前を見据える。
――だが、そこにいたのは、すでに十分な距離を保ち、再び完璧な「引き撃ち」の体制を整えた愛衣の姿だった。
愛衣は足を緩めることなく後退しながら、牽制の火の矢を構え、さらに口元では流れるように次の魔法の詠唱を紡ぎ始めている。
一度は空中に誘導されて追撃をいなされ、着地した頃には、再び完璧な遠距離戦の体制に引き戻されている。
隙などどこにも存在しない。
「……すっげぇ」
刀太は呆気に取られたように目を丸くした。
思考を巡らせ、こちらの動きを先読みし、一切の甘さもなく攻め立ててくる愛衣の驚異的な手強さ。
その完成度の高さに感動すら覚えた刀太の顔に、ゾクゾクするような熱い笑みが広がっていく。
刀太はニヤリと不敵に口元を吊り上げると、自分の頬をポンと叩いた。
そこからの攻防は、まさに圧巻の一言だった。
「――『魔法の射手 火の七矢(サギタ・マギカ セリエス・イグニス)』!!」
「――『風盾(デフレクシオ)』ッ!!」
愛衣は自らに施した身体能力強化を限界まで維持したまま、絶え間なくバックステップを踏み続けた。
一歩引いては火の矢で牽制し、間合いを詰められれば風の障壁でいなし、さらに後退しながら次の呪文を短縮詠唱で練り上げていく。
一つ一つの魔法の構築速度、判断の精度、遅延保持の切り替え――そのすべてが、これまでの愛衣の限界を超えた領域へと達していた。
(ハッ……ハッ……! まだ、まだ止まっちゃダメ……!)
すでに愛衣の呼吸は乱れ、体操着の胸元が激しく上下していた。
全身から滝のような汗が吹き出し、視界の端が明滅し始める。
体内の魔力がごっそり削り取られ、魔力器官が悲鳴を上げているのが痛いほど分かった。
本来なら、とっくに足を止めて倒れ込んでいてもおかしくない。
だが、どれだけ魔力を消費しようと、愛衣の集中力が途切れることはなかった。
(――『魔法の射手 火の五矢』……ッ! )
振り絞るように、最後の魔力の底をさらって魔法を連発する。
いつしか――周囲の感覚が変わっていた。
冬の冷たい風の音も、グラウンドから遠く聞こえていた生徒たちの歓声も、すべてがすーっと遠のいていく。
世界から余計な雑音が削ぎ落とされ、互いの一挙手一投足だけが鮮明に浮かび上がっていた。
(あ、分かる……!)
刀太は直感していた。
愛衣が魔力切れ寸前の限界状態でありながら、それでもなお、研ぎ澄まされた思考で次にどこへ着地し、どの軌道で魔法を解放しようとしているのか。
言葉を交わさずとも、会話をしているかのように手に取るように伝わってくる。
それは愛衣にとっても同じだった。
刀太がどちらの足に「気」を溜め、どのような軌道で踏み込んでくるのか。
その思考の奔流が、視線や微妙な重心の傾きだけで手に取るように理解できる。
二人が激しく交錯するたびに、世界の深度が上がっていく。
互いの手の内を読み合い、裏をかき、限界の先で応酬を重ねる極限の集中状態――『ゾーン』。
お互いのことが何でも分かるような、二人だけの高次元の世界。
「――ふふっ」
「――ははっ!」
どちらからともなく、小さく息が漏れ、弾けたような笑い声が重なった。
極限の疲労と魔力枯渇の中にありながら、愛衣の瞳はかつてないほど美しく澄み渡り、純粋な歓喜に輝いていた。
命がけの戦いでも、憎しみ合った殺し合いでもない。ただ全力をぶつけ合い、高め合っているという圧倒的な歓喜。
愛衣が限界を超えて繰り出す幾重もの戦略。
それを野性的な直感と「気」の力押しで打ち破ろうとする刀太。
二人の世界の深度は、どこまでも深く、濃密に研ぎ澄まされていく。
愛衣は身体能力強化の残光だけでバックステップを踏み、刀太を誘い込む体勢をとってみせる。
(――これで、決め――ッ!!)
ゾーンの絶頂の中、刀太はこの日一番の爆発的な「気」を足裏で爆ぜさせた。
ドオンッッ!!
地面が爆破されたかのような衝撃とともに、刀太の身体が光の筋となって愛衣の眼前へ躍り出る。
完全に捉えた至近距離。渾身の気を拳に込め、愛衣の胸元に向けて一気に振りかぶった。
――だが。
ガシッ……!!
「――そこまでだ、刀太君」
空気を引き裂くはずだった刀太の腕が、ピタリと空間で固定された。
振りかぶった右腕を強固な力で押さえつけられ、刀太の突進の勢いが完全に殺される。
急激な制動に髪を揺らしながら、刀太は驚愕に目を見開いた。
腕を掴んでいたのは――いつの間にか二人の間に割り込んでいた、長身の男。
黒いコートを羽織り、鋭い眼光を覗かせている、ガンドルフィーニ先生だった。
ハッと我に返った刀太は、視界を覆っていたゾーンの熱気がすーっと引いていくのを感じながら、腕を掴む厳格な教師の顔を見上げた。
「な、なんだよガンドルフィーニ先生!
邪魔すんなよ、今すっげぇ良いところだったのにッ!」
不満たらたらに文句を言う刀太に対し、ガンドルフィーニ先生は深く被った帽子の庇(ひさし)を指先で少し持ち上げると、落ち着いた声で短く告げた。
「入り込みすぎだ、刀太君。……彼女を見てごらん」
「え……? 彼女って――」
言われて、刀太は視線を振りかざした拳の先――目の前の愛衣へと向けた。
そこには、全身から温かい湯気のような汗を立ち上らせ、膝をがくがくと震わせている愛衣の姿があった。
手元に纏っていた魔力の残光は完全に霧散し、その瞳はぐるぐると渦を巻いている。
「あ……あう……刀太……くん……」
か細い声を漏らした瞬間、糸が切れた人形のように力が抜け、愛衣の身体が前へと崩れ落ちた。
「キュ〜……」
「うおっ!? 愛衣っ!?」
焦った刀太が咄嗟に手を伸ばすよりも早く、ガンドルフィーニ先生が長い腕をすっと伸ばし、倒れ込む愛衣の身体を壊れ物を扱うように優しく受け止めた。
愛衣は先生の腕の中で、すやすやと心地よさそうな寝息を立て始めている。
「えっ、な、なに!? 愛衣、どうしちゃったんだよ!?
俺、まだ一発も当ててねえぞ!?」
頭を掻きむしりながらパニックになる刀太に、ガンドルフィーニ先生は呆れたように大きな溜め息をひとつ吐き出した。
「魔力切れさ。全身の魔力を最後の一滴まで絞り出して戦っていたんだ。
……まったく、まだ昼休みなんだがね」
そう言うと、先生は愛衣を軽々と横抱きに抱え直した。
「この状態では、午後からの授業を受けるのは無理だろうね。
私が寮の方へ送り届けておこう。刀太君、君も午後の仕事に遅れないようにしなさい」
黒いコートを翻し、そのまま女子寮の方角へ向かって歩き出そうとするガンドルフィーニ先生。
その背中に向かって、刀太はパッと目を輝かせると、大声で呼びかけた。
「あっ、待てよ先生! 最初から俺たちの戦い、見てたんだろ!?
なあ、俺たちの特訓、どうだった!?
愛衣のやつ、すげぇ強くなってただろ!?」
無邪気でまっすぐな瞳で感想を求めてくる少年に、ガンドルフィーニ先生は足を止め、振り返ることなく「ふむ……」と顎に手を当てた。
(……どうだった、か)
先生は心の中で、先ほど繰り広げられた激闘の光景を反芻した。
基礎的な魔力制御、応用力、そして状況に応じた柔軟な戦略。
細かく言っていけば、彼女の成長したポイントは多岐にわたるだろう。
だが、それより何より――一番評価されるべき、明確な成長の証がある。
(何より素晴らしいのは、愛衣君が『魔力切れになるまで戦い抜けた』ということだ)
魔法を使う者たちは、大きく分けて二つのタイプに分類される。
遠距離から圧倒的な火力を叩き込む『魔法使い』と、魔法で身体や武器を強化しながら直接殴り合う『魔法剣士』だ。
愛衣は「身体能力強化」の魔法を使用してはいるものの、それはあくまで相手との距離を離すための回避手段であり、彼女の本質は完全に『魔法使い』に分類される。
『気』を使い、異常な脚力と反応速度で距離を詰めてくる接近戦の専門家――刀太のような相手に対し、一度でも近接戦を持ち込まれれば、魔法使いがそれを凌ぎ切るのは至難の業だ。
本来なら、一度懐に入られた時点で勝負は決している。
それを彼女は、一発ネタもあるが、ブラフや音の位置偽装、遅延魔法のストック、そして旋風の反動を利用した急降下といったアイデアを極限まで絞り出し、刀太の猛攻をことごとく捌き切ってみせた。
『気』の使い手を相手に、接近を許しながらも攻撃をいなし続け、魔力が完全に底を突くその最後の瞬間まで対等以上に戦い抜いたのだ。
それは、魔法使いの見習いとして賞賛されて然るべき、見事な戦闘ぶりだった。
(……だが)
ガンドルフィーニ先生はチラリと時計に視線をやった。
(今からこの熱血少年に、そのあたりの理論と解説を丁寧に噛み砕いて伝えてやるような時間の余裕は……無さそうだな)
先生はチラリと肩越しに刀太を振り返ると、あえて短く、素気なく告げた。
「私もこの後授業があってね。
……まあ、前に見た時よりは良くなっているんじゃないかな」
「え〜っ!? それだけかよ! もっとこう、ここがスゴかったとかねぇのかよー!」
不満そうに声を上げる刀太を見送り、先生は今度こそ去ろうと足を踏み出した。
――その瞬間。
ガシッ!
「ん?」
ガンドルフィーニ先生のコートの袖が、強い力で引っ張られた。
驚いて視線を落とすと、そこにはいつの間にか距離を詰め、先生の袖をしっかりと掴んでいる刀太の姿があった。
刀太は白い歯を見せ、不敵で悪ガキのような笑みを浮かべた。
「じゃあさ、先生。
――放課後なら、たっぷり時間があるってことだよな?」
「……なに?」
「放課後、愛衣が目を覚ましたら、二人で先生の研究室に行くからさ! 待っといてくれよな!」
「おい待ちなさい、私は放課後も――」
「じゃあな先生! 愛衣をよろしくなーっ!」
ガンドルフィーニ先生が制止の声をかけるよりも早く、刀太は手をバッと振ると、脱兎のごとき勢いでグラウンドの方へと走り去っていった。
あっという間に小さくなっていく少年の背中。
強引にもほどがある展開に、残されたガンドルフィーニ先生は、腕の中で眠る愛衣と走り去った刀太の方向を交互に見比べ、本日何度目になるか分からない溜め息を深く吐き出した。
「ハァ……まったく、調子のいい少年だ」
だが、帽子を目深にかぶり直した先生の口元には、どこか呆れつつも温かい苦笑が浮かんでいた。
「……まあ、こういう賑やかな放課後というのも、たまには悪くないか」
先生はひとりごちると、腕の中の教え子を落とさないよう抱え直し、静かな冬の空気の中を女子寮に向けてゆっくりと歩き出した。
そして、放課後。
夕陽が赤々と校舎を染める時間帯、麻帆良学園の一角にあるガンドルフィーニ研究室の扉が、威勢よくノックもなしに開け放たれた。
「先生ー! 約束通り来たぞー!」
「刀太君、ノックくらいしなきゃダメだよ……!
すみません先生、お邪魔します……っ」
十分に体力を回復し、すっかり元気を戻した愛衣と、待ち切れずに目を輝かせた刀太が研究室になだれ込んでくる。
部屋の中央にある大きな木製のデスクには、温かい紅茶のカップが三つと、ガンドルフィーニ先生が用意した魔法戦闘に関する資料や図面が広げられていた。
「さあ、席につきなさい。二人とも」
先生の促しで、刀太と愛衣は向かい合わせに椅子に腰掛けた。
そこから始まったのは、大人一人と少年少女二人による、熱血と興奮に満ちた「模擬戦反省会」だった。
「なあ愛衣! やっぱり、俺が空中で的になった時さ、下へ降りた後、バックステップで距離を取るんじゃなくて、その場で一気に決めに行った方が良かったんじゃないか!?」
身乗り出して熱弁する刀太に、愛衣はカップを両手で持ちながら、眉をひそめて首を横に振った。
「う~ん、でもね、あの時は地上に降りるための推進力で『紅き焔』を解放(エーミッタム)しちゃってたから、手元にはストックの魔法が何も残ってなかったんだよ!
あのまま刀太君に直接撃とうとしても、詠唱の時間がないし……刀太君なら空中でも『気』で強引に防ぐか、全部捌いちゃいそうだったもん!」
「ふむ……愛衣君の判断は正しいね」
ガンドルフィーニ先生がパイプ代わりにペンを指に挟みながら、冷静に口を挟む。
「あの局面での刀太君の『気』の集中度は凄まじかった。ストックがない状態で中途半端な魔法を放っていれば、むしろカウンターを受けていた可能性が高い。
……ただ、今回持ってきた戦略の中で、最も刀太君を崩しかけた『最大のチャンス』が、まさにあの空中の瞬間だったのも事実だ」
「やっぱりそうだよな!?」
刀太が「ほら見ろ!」と言わんばかりに胸を張る。
「だからね、愛衣君。
あの『空中に誘導してからの反撃』という戦略は、君の手元にもう一発、即応できる遅延魔法のストックが残っているような『余裕のある状況』で組み立てるべきだったね。
そうすれば、急降下した直後に、より決定的な一撃を叩き込めたはずだ」
「なるほど……! 確かに、ストックが空っぽの状態で博打みたいに使っちゃったのは反省点です……」
愛衣はノートを取り出し、ガンドルフィーニ先生のアドバイスを真剣な表情でサラサラとメモしていく。
「でも先生!
あそこの場面、刀太君の詰めるスピードが予想以上に速くて、本当に空中に逃げるくらいしか選択肢が無かったんです!
刀太君が石コロを投げて火の矢を相殺してくるなんて、全然考えてなかったから……っ!」
「へへっ! あの石投げは自分でも名案だと思ったぜ!
避ける時間がもったいねぇからな!」
「もう、刀太君のそういう野性的なところ、本当にズルいんだから!」
「ズルくねぇよ、戦略だよ戦略!」
「なるほど。
では次は、その『石投げ』に対する対策も考えておかなければならないね。
例えば、飛来する石に対して風の障壁を自動反応させるような呪文の組み込み方は……」
「えっ、そんなこともできるんですか先生!?」
「ああ。高度な魔力制御が必要だが、今の愛衣君なら練習次第で可能だろう」
「すげぇ! 教えてくれ先生! 俺もそれ破る方法考えるからさ!」
「君に教えてどうするんだい、刀太君……」
あきれ顔の先生の言葉に、愛衣と刀太は顔を見合わせて「あはは!」と声を揃えて笑い転げた。
窓の外ではすっかり日が落ち、夜の静寂が学園を包み込み始めている。
だが、温かいランプの光が灯るガンドルフィーニ研究室の中だけは、熱い議論と賑やかな笑い声が、夜遅くまでどこまでも絶えることなく響き渡り続けるのだった。
少しずつ強くなっていく愛衣。
原作前から強化しておかないと、インフレに置いて行かれてしまうので・・・