ガンドルフィーニ先生の研究室での熱い反省会を終え、女子寮の自室へと戻ってきた佐倉愛衣は、シャワーを浴びると、パジャマに着替えるなり、吸い寄せられるように自分のベッドへと倒れ込んだ。
「ふぅ……っ……」
柔らかなマットレスに身を沈め、深く息を吐き出す。
昼休みの限界を超えた魔力消費と、放課後の白熱した議論。
身体も頭もとっくに疲れ果てているはずなのに、興奮の冷めやらない神経が、心地よい痺れとなって全身を駆け巡っていた。
愛衣はゆっくりと瞼を閉じた。
暗闇の中に、昼間の特訓の光景が色鮮やかに蘇ってくる。
(まずは……第一交戦と第二交戦)
脳内で一人、今日の戦いの反省会をもう一度なぞり始める。
最初の踏み込みに対する『風盾(デフレクシオ)』での対処。
タイミングは悪くなかったけれど、刀太君の『気』の威力を殺し切れてはいなかった。
もしあの時、彼がさらに強引に押し込んできていたら、一発で突き破られていたかもしれない。
そして、第二交戦。
七本の火の矢と風障壁を組み合わせた炎の壁。
風の魔法を使った『声の位置偽装(ブラフ)』は我ながらうまくいったと思う。
刀太君の直感による回避は想定外だったけれど、その回避先を先読みして『火の矢』を置いたのは、前回の反省が生かせていた。
(でも……『紅き焔』の長大な呪文を唱え終わったあとの隙。
あそこはもう少し距離を離してから唱えるべきだったかな……。
刀太君の石投げなんて、全然計算に入れてなかったし……)
冷静に自分の立ち回りを分析し、改善点を整理していく。
ここまでは、いつもの「戦略家」としての愛衣の思考だった。
――だが。
反省が後半……あの幾度もの応酬の果てに訪れた「一瞬」へと差し掛かった時、愛衣の思考の歯車が、おかしな音を立てて狂い始めた。
(あの……最後のほう……)
思い出すのは、勝敗も、戦略も、魔法の構築すらも超越してしまった、あの不可思議な時間。
踏み込み、かわし、いなし、また間合いを詰める。
目まぐるしく入れ替わる攻防の中で、気づけば周囲の音がすーっと消え去っていた。
冬の冷たい風の音も、遠くに見える校舎の喧噪も、グラウンドの砂煙すらも。世界から余計な雑音がすべて削ぎ落とされ、全神経が刀太君の存在だけに注ぎ込まれていった。
(周りの音が……何も聞こえなくなって……)
お互いの一挙手一投足、目線の動き、筋肉の緊張、吐き出される息の熱量。そのすべてが、まるで自分の身体のことのように手に取るように分かった。
言葉なんて交わさなくても伝わっていた。
彼が次にどこへ踏み込みたいのか。
どうやって自分を攻略しようとしているのか。
そして、自分が次に何をしようとしているのかも、彼には完璧に伝わっているのだという確信。
お互いがお互いを理解し尽くし、やりたいことが全部できる。
二人だけで創り上げた、誰にも踏み込めない高次元の空間――『ゾーン』。
(刀太君の……感情までもが、全部伝わってきて……)
彼が感じていたのは、危険への恐怖でも、勝ち負けへの執着でもない。
ただ純粋に、限界の先でぶつかり合えることへの「圧倒的な歓喜」。
そして、刀太君のその感情は――寸分たがわず、愛衣自身の感情と同じだった。
(それが……すごく……)
回想の中の刀太君が、白煙の向こうでニヤリと不敵に笑う。
その瞬間、愛衣の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
(――すごく楽しくて……すごく、ドキドキした)
「っ……!?」
愛衣は弾かれたようにパチッと目を開けた。
天井の木目が視界に広がる。薄暗い自室の静寂が、急に耳を刺すように響いた。
「ハァ……ハァ……っ」
おかしい。
戦いはとっくに終わったはずなのに。
研究室で温かい紅茶を飲んで、十分に休息を取ったはずなのに。
自分の胸の上に置いた右手を通して、ドクン、ドクン、と痛いくらいに激しい拍動が伝わってくる。
胸の高鳴りが、一向に収まらない。
それどころか、昼間の特訓の最中よりも、今この瞬間の方が、はるかに強く、はるかに早く、心臓が鐘のように鳴り響いている。
「な……なに、これ……っ」
落ち着こうと、ゆっくり深呼吸を試みる。
『吸って……吐いて……』
だが、息を吸い込むたびに、肺に満たされる空気が熱を帯びていくようだった。
トク、トク、トク、トク、と加速していく鼓動は、愛衣の意志など無視して走り続けている。
たまらなくなって、愛衣は掛け布団を跳ね除け、ベッドから足を下ろした。
ひんやりとしたフローリングの感触が素足に伝わるが、全身に上せた熱はちっとも冷めてくれない。
「落ち着いて、愛衣……。これはただの疲れ。
魔力を使い果たして、神経が高ぶってるだけ……。」
自分に言い聞かせるように呟きながら、部屋の中をうろうろと歩き回る。
気を紛らわせようと、視線を部屋のあちこちに泳がせた。
明日の授業の予習のこと、高等部のお姉様(高音先輩)に提出する今週の報告書のこと、麻帆良学園の冬休みの課題のこと――どんなことでもいい、頭を別の話題で埋め尽くそうとした。
だが、ダメだった。
どんな思考を組み立てようとしても、思考の糸は磁石に引き寄せられる金属のように、すべて『あの少年』のところへと戻ってしまう。
消そうとすればするほど。忘れようとすればするほど。
頭の中に、いろんな『刀太君』が次から次へと溢れ出してくる。
(……あっ)
戦っている最中、愛衣が繰り出した思わぬ罠に引っかかり、目を丸くして驚いていた表情。
石コロを投げて火の矢を相殺し、突進してきた時の、子供みたいにワクワクした瞳。
寸止めを決めた後、「すっげぇ!」と無邪気に自分を褒めてくれた時の、眩しいくらいの満面の笑顔。
それだけじゃない。
戦っている時の顔だけじゃないのだ。
前回の特訓の前、準備運動をしながら真剣な目つきでストレッチをしていた横顔。
新しい魔法の知識や、学園の不思議な話を聞いている時の、目を輝かせた無垢な顔。
食堂や超包子で、大きな口をこれでもかと開けて、肉まんやご飯を豪快に頬張っていた時の満足そうな顔。
脳裏を駆け巡る彼の面影が、どれも鮮明で、優しくて、熱い。
(……かっこいい)
ふと、頭の中に降り積もったその一言に、愛衣は自分の部屋の真ん中でピタリと足を止めた。
(……え?)
自分の心の中で聞こえた言葉の重みに、全身の血が逆流するような衝撃が走る。
(かっこいい……? 私……今、刀太君のこと……かっこいいって……!??)
(えええっ!? ――え!? えええっ!??)
愛衣は両手で自分の顔を覆った。
手のひら越しに伝わってくる自分の頬は、まるで火傷しそうなくらい真っ赤に熱していた。
「な……なに考えてるの、私っ……!?」
パニックになり、その場に屈み込む。
刀太君は、友達だ。
賑やかで、破天荒で、ちょっと強引だけど、誰よりもまっすぐで仲間想いの男の子。
それ以上の存在じゃないはずだ。
ついさっきだって、一緒に研究室で難しそうな顔をして反省会をしていたばかりじゃないか。
「そうよ……特訓で変な状態になっちゃっただけ! 『ゾーン』なんていう特別な感覚を経験したから、脳が勘違いしてるだけ……!」
自分に必死で言い訳をしながら、愛衣は逃げ込むように再びベッドへと潜り込んだ。
掛け布団を頭までスッポリと被り、小さく丸まる。
(大丈夫、寝て起きたら……明日になれば、いつもの私に戻ってるはずだから……!)
強く目を閉じ、羊の数を数え始める。
『羊が1匹……羊が2匹……』
しかし、脳裏に浮かぶ羊の顔は、なぜか全部あの少年の顔にすり替わってしまう。
『へへっ、愛衣!』と声まで聞こえてくる気がして、愛衣は「あ〜〜〜っもうっ!」と布団の中でジタバタと足を暴れさせた。
どれだけ体を丸めても、どれだけ強く目を閉じても。
胸の中で打つ早鐘のような拍動は、夜が更けても決して小さくなることはなかった。
結局、佐倉愛衣は朝を迎えるその瞬間まで、一秒たりとも眠りに就くことができないまま、眠れぬ夜を明かすことになったのだった。
一睡もできないまま迎えた、翌日の昼休み。
冬の澄み渡る青空の下、麻帆良学園の空き地には、昨日と同じ冷たい風が吹き抜けていた。
だが、そこに立つ佐倉愛衣のコンディションは、昨日とは比べものにならないほどボロボロだった。
(ど、どうしよう……全然集中できない……っ)
体操着姿で構えをとる愛衣の目の前には、ウォーミングアップを終えて「よしっ!」と肩を叩く刀太の姿がある。
昨日までは、彼がどれほど速く踏み込んできても、その動きの先を読み、幾重もの戦略を脳内で組み立てることができていた。
しかし今の愛衣の頭の中は、重い睡魔と、それ以上に脳裏にへばりついて離れない『昨夜のパニック』のせいで、完全に処理能力を失っていた。
視線の先にいる刀太の顔を見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられ、昨夜反芻した「かっこいい」という言葉が熱いリフレインとなって脳内を駆け巡るのだ。
「――メイプル・ネイプル・アラモード!」
愛衣の口から放たれた始動キーも、心なしか声が上ずっていた。
次の瞬間、刀太の足裏で「気」が爆ぜる。
(あ……来――)
「――そこまでッ! 俺の勝ちだな!」
「――えっ!?」
愛衣が魔法を構築しようと指先を動かした時には、すでにすべてが遅かった。
風を切る音とともに視界が歪んだかと思えば、目の前コンマ数ミリの位置に、刀太の力強い握り拳がぴたりと寸止めされていたのだ。
交戦開始から、わずか一秒。
愛衣は魔法の一筋すら放つことができず、あっけない敗北を喫してしまった。
「ふぅ……! へへっ、今日は俺のストレート勝ちだな!」
刀太は拳を引くと、ニシシと満足そうに笑った。
だが、すぐに違和感を覚えたように首を傾げ、愛衣の顔をのぞき込んでくる。
「……? なんだ愛衣、今日は顔色が悪いぞ? 動きも全然キレがなかったし……どうかしたのか?」
「あ……えっと、それは……っ」
刀太の心配そうな声。
そして、無防備に近づいてくるその顔。
昨夜、頭の中で何度も反芻した「大好きな笑顔」や「真剣な目つき」が、至近距離で現実の像として愛衣の視界いっぱいに広がった。
その瞬間、愛衣の胸の鼓動が爆破されたかのようにドクンッと 跳ね上がった。
(ち、近い近い近い近い近ーいッ!??)
「――きゃあっ!?」
「うおっ!?」
半ば悲鳴のような声を上げ、愛衣は反射的に全身の身体能力強化をフル稼働させて後方へと飛び退いた。
バサッと風を切り、数メートルも距離を開けて着地する。
あまりの反応の激しさに、のぞき込んでいた刀太は目を丸くして固まってしまった。
「な、なんだよ!? 急に飛び退いて……俺、なんか汚いものでもついてたか!?」
「あ、え、えとえと!ち、ちがっ……ちがうの刀太君! その……っ!」
(やだあぁぁぁっ! 私ったら何やってるのよーっ!??)
愛衣の内心は、パニックと羞恥心で大悲鳴の嵐だった。
心配して顔をのぞかせてくれただけなのに、まるでバイキンでも避けるように全力で距離を取ってしまうなんて。
これでは刀太に嫌われてしまっても文句は言えない。
どうにかして言い訳をしなければと、真っ赤になった頭をフル回転させ、しどろもどろになりながら絞り出した。
「あ、あのねっ! その……わ、私、ちょっと……汗かいちゃったから! そう! 汗をかいちゃって、ニオイとか気になっちゃって……だからあんまり近づかないでほしくて……っ!」
「あ、あー……なんだ、そうだったのか。びっくりしたぜ」
刀太は納得したようにポンと手を打つと、「分かった分かった」と頷いた。
そして、両肘を90度に曲げて両手を胸の高さまで上げるような、大げさな「お手上げ」のポーズをとってみせる。
「分かった、ここからもう近づかないから! 安心しろって!」
「うぅ……っ……」
(うわあぁぁん! 刀太君にすっごく気を遣わせちゃってるよ~っ!!)
降参ポーズをとる刀太の無邪気な優しさに、愛衣の心は罪悪感で押し潰されそうだった。
本当は汗のニオイなんてどうでもよくて、ただ刀太の顔が近すぎて胸が爆発しそうだっただけなのに。本当の理由なんて口が裂けても言えるはずがなかった。
「ま、昨日すっからかんになるまで特訓したもんな。先生も言ってたろ? 無理はよくねぇって。今日はこのへんで休みにするか!」
刀太は腕を解くと、からっとした笑顔でそう言った。
そのまま「じゃ、片付けるか」と訓練場の掃除用具入れに向かって歩き出してしまう。
「あ……」
解散の流れ。
当然だ。
体調が悪そうで、集中もできていない相手と特訓を続けられるわけがない。刀太の判断は100%正しい。
だけど――愛衣の胸の奥で、小さな、寂しそうな声が上がった。
(……やだ。もう少し……刀太君と一緒にいたかったな……)
昨夜あんなにパニックになって、顔を合わせるだけで胸が苦しいはずなのに。
いざ「今日は終わり」と言われると、引き止めたい気持ちが溢れ出してくる。
けれど、自分から「やっぱりまだ一緒にいたい」なんて言えるはずもない。
「……あ、うん。そうだね……そうしようか……」
愛衣は消え入りそうな声で返事をし、小さく肩を落とした。
それからの片付けは、お互いに少し距離を置いたまま、無言で進められた。
刀太は愛衣に言われた「汗が気になる」という言葉を律儀に守り、意識的に数メートル離れた場所で散らばった石コロを拾い集め、土を慣らしている。
愛衣はそんな刀太の背中を、悲しげな視線でこっそり盗み見ていた。
(バカだなあ、私……。せっかく刀太君と二人きりで過ごせる時間だったのに。変な態度取っちゃって、自爆して……)
片付けが終わり、静まり返った訓練場の出口へと向かう。
足取りは重く、影が長く伸びていた。
(そっか……もう、今日は会えないんだ……)
次の特訓がいつになるかも分からない。
このまま「汗が気になるから近づくな」と言った気まずい空気のまま別れてしまったら、明日から刀太君とどんな顔をして話せばいいんだろう。
胸を押し潰す切なさと後悔に、愛衣の表情はどんどん暗く沈んでいった。
訓練場の重い扉を開け、外の空気に触れたその時。
「――じゃ、時間もあるし、どっかで何か食って行くか!」
前を歩いていた刀太が、ひょいと振り向いて言った。
「……え?」
愛衣は思わず足を止め、パチクリと目を丸くした。
「え……なに?」
「なにって、昼飯だよ! まだ時間残ってるし、腹減ったろ? 昨日は最後まで粘られちまったしな。ご褒美に俺がなんか奢ってやるよ!」
太陽のような屈託のない笑顔。
気まずい空気なんて最初から無かったかのように、刀太はごく自然に愛衣を誘ってくれたのだ。
その瞬間、愛衣の暗く沈んでいた世界に、パッと光が差し込んだようだった。
落ち込んでいた胸の奥が、途端にぽかぽかと温かくなっていく。
「う、うん……っ! 行く……行くよ!」
溢れ出る嬉しさを隠しきれず、愛衣はパッと表情を華やがせると、元気よく頷いた。
そして、離れていた距離を縮めるように、トコトコと刀太のすぐ隣へと駆け寄って並んだ。
「へへっ、よーし! どこ行くかなー」
刀太は嬉しそうに呟きながら、学園のカフェテラスがある通りへと歩き出す。
愛衣もその隣を、少し弾むような足取りで付いていった。
――だが。
歩き始めて数歩。
刀太がちらりと愛衣を見下ろすと、ススス……と自然な動作で、愛衣から一歩、二歩と横へ間を開けるように離れていく。
「……? 刀太君……?」
なんで離れていくの?
愛衣は不思議に思い、横へ離れた刀太のほうへ、ちょこんと一歩近づいた。
すると刀太は、さらにススス……と一歩離れる。
「???」
愛衣がもう一歩近づくと、刀太はさらに離れ――ついに耐えかねたように、刀太が顔を大きく歪めてツッコミを入れた。
「いや、お前が『汗が気になるから近づくな』って言ったんだろうがッ! なんで自分から寄ってくるんだよ!」
「あ…………っ!!」
愛衣はハッと口を手で押さえた。
すっかり嬉しくなって忘れていた。自分がさっき、とんでもない嘘を言ったばかりだったことを!
「あ、あはは……! そ、そうだったね! ご、ごめんなさいっ!」
自分の滑稽さに、思わず愛衣の口からクスッと小さな笑いが零れ落ちた。
顔を真っ赤にしながらも楽しそうに笑う愛衣を見て、刀太も呆れたように肩をすくめつつ、笑いを漏らす。
「まったく、なんなんだよお前はー」
呆れ声の中には、愛衣の暗かった表情が消え、いつもの元気が戻ったことに対する安堵が、はっきりと滲み出ていた。
冬の澄んだ空気の中、二人の距離は少しだけ開きつつも、並んで歩く影はどこまでも穏やかに、暖かく伸びていた。
カフェの看板が見えてくるまでのその短い道のりが、愛衣にとってはたまらなく愛おしい時間となっていた。
学園内にある落ち着いた雰囲気のカフェテラスへ足を踏み入れると、コーヒーの芳醇な香りと香ばしいパンの匂いが二人を出迎えてくれた。
券売機で食券を買い、運ばれてきたのは出来立てのハムと野菜のサンドウィッチと、湯気が立ち上る二つのホットコーヒー。
「うお〜、うまそう!」
刀太はテーブルに運ばれてきたサンドウィッチを見るなり、目を輝かせてがぶりと大きな口で噛みついた。
もぐもぐと頬を膨らませて実に幸せそうな顔をする。
「うん、うめぇ! やっぱ運動した後の飯は最高だな!」
「ふふ、そうだね……」
目の前の席で豪快に食べる刀太を見つめながら、愛衣もサンドウィッチを小さく口へと運んだ。
だが、その手元はどこかぎこちない。
(う、うう……っ!
向かい合って座ると、刀太君の顔が嫌でも視界に入っちゃう……!)
テーブル越しという至近距離。
湯気の向こうで見える刀太の無邪気な笑顔や、動くたびに覗く男の子らしい首筋、そしてまっすぐ自分に向けられる視線。
そのひとつひとつが胸に刺さって、愛衣は心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキしていた。
刀太とふと目が合いそうになるたび、愛衣はビクッと肩を跳ねさせて、慌ててコーヒーカップへと視線を落としてしまう。
「ん? 愛衣、食わねえのか?」
「えっ!? あ、ううん! 食べてるよ! 美味しいです!」
「……? なんか今日、言葉遣いまで変だぞ?」
「な、なんでもないよっ! ちょっと……考えごとをしてただけだから!」
冷めかけたコーヒーを一口飲んで誤魔化す愛衣。
刀太は「ふ〜ん?」と少し不思議そうな顔をしながらも、特に深くは追及せず、二個目のサンドウィッチへ手を伸ばした。
「そういえばさ」
サンドウィッチを飲み込んだ刀太が、思い出したように口を開く。
「愛衣って、すげぇ尊敬してる年上の人がいるんだっけ? 前にちらっと言ってたような気がするけど」
「え……? あ、うん!」
不意に振られた話題に、愛衣の瞳がパッと輝いた。緊張で強張っていた表情が柔らかくなり、声に熱が戻ってくる。
「お姉様のことだよね?」
「おねえさま? 愛衣の姉ちゃんか?」
「あ、血の繋がったお姉ちゃんじゃなくてね。高等部2年生の、高音・D・グッドマン先輩のことなの。」
愛衣は両手を胸の前で小さく握りしめ、うっとりとした眼差しで語り始めた。
「お姉様は……ちょっと不器用で、プライドが高くて、周りからは高飛車に見られちゃうこともあるんだけど……本当は誰よりも真面目で、自分にすごく厳しくて、誰よりも仲間想いで優しい人なんだよ!」
熱弁を振るう愛衣の頬は、先ほどまでの緊張とはまた違う、憧れと誇らしさでぽっと赤く染まっていた。
「自分のためじゃなくて、いつだって誰かのために影で努力を重ねていて……私、お姉様のそういう姿をずっと見てきたから。だから、心から尊敬してるの!」
愛衣の熱のこもった言葉に、刀太は感心したように大きく頷いた。
「へえー! なるほどな。愛衣はその先輩のこと、ホントに大好きなんだな!」
「はいっ! もちろん!」
愛衣は迷いのない笑顔で力強く頷いた。
お姉様の話をしている時の愛衣の活き活きとした表情を見て、刀太もどこか嬉しそうにへへへと笑う。
「それにね、お姉様には大きな夢があるの」
愛衣は少し背筋を伸ばし、自慢するように胸を張った。
「お姉様は、本気で『マギステル・マギ』を目指しているの」
「マギステル・マギ……?」
案の定、刀太は首を傾げて大きなクエスチョンマークを頭の上に浮かべた。
「なんか強そうな響きだけど……それって何なんだ?」
「えっとね、マギステル・マギというのは――『偉大なる魔法使い』っていう意味でね」
愛衣は刀太にも分かりやすいように、噛み砕いて説明を始めた。
「ただ魔法が強いだけじゃなれないの。
自分の力や魔法を、人のため、世界のために正しく使って、人々に夢や希望を与えることができる最高峰の魔法使い……いわば『正義の魔法使い』に与えられる、最高の称号のことなんだよ」
「へえーっ! 正義の魔法使い! なんかヒーローみたいでめちゃくちゃカッコいいじゃねえか!」
刀太は目を輝かせ、子供のように身を乗り出した。
「だよねっ!
お姉様は昔からその夢に向かって、一歩ずつ一生懸命努力しているの。だから……私はお姉様の一番近くで、その夢を応援したいんだ」
自分のことのように誇らしげに胸を張る愛衣。
刀太のまっすぐな感心と称賛が嬉しくて、愛衣の胸の奥は温かい誇らしさで満たされていく。
「へぇ……愛衣のお姉様って人もすげぇんだな。……あ、でも待てよ? 『一番近くで応援したい』って言ってたけど、それって具体的にどういうことなんだ?」
「ふふ、それはね……」
愛衣は少しだけ声のトーンを落とし、極上の秘密を打ち明けるように悪戯っぽく微笑んだ。
「私とお姉様は、すでに『仮契約』を結んでいるんだよ」
「かりけいやく……?」
本日何度目かの難解な単語に、刀太は「また新しい言葉が出てきたぞ」という顔で眉をひそめた。
「それも魔法の用語か?」
「うん。仮契約――正式には『パクティオー』って言うんだけどね」
愛衣はコーヒーカップを置いて、指を一本立てて説明を続けた。
「魔法使い(マギステル)と、その魔法使いを支える従者(ミニステル)が結ぶ『絆の契約』のことなの。これを結ぶとね、従者になった人の潜在能力が引き出されたり、魔法使いと精神的な繋がりができたりするの。いわば、パートナーの証明みたいなものかな」
「へぇ~! パートナーの証明! なんかチームを結成するみたいで面白そうだな!」
「ううん、ただのチームじゃないよ。仮契約を結ぶと、『パクティオーカード』っていう特別なカードが生まれるの。従者はそのカードを使うことで、アーティファクトっていう専用の特別な魔法道具を喚び出して戦えるようになるんだよ」
「マジで!? カードから武器や道具が出てくるのか!? すっげぇーっ!!」
刀太の男の子らしい興奮ぶりに、愛衣は思わずクスッと笑ってしまった。
「本当だよ。私とお姉様の絆の証……見たい?」
「見たい見たい! 見せてくれよ愛衣!」
「ふふ、ちょっと待ってね」
愛衣は足元に置いていた鞄に手を伸ばし、大切そうにファスナーを開けた。
内側のポケットから取り出されたのは、光沢のある綺麗なカードだ。
「これが、私とお姉様の『パクティオーカード』だよ――」
愛衣の指先からテーブルの上へと滑り出されたのは、独特の魔法陣と美しい装飾が施された一版のカードだった。
中央には、従士(ミニステル)となった愛衣の全身写真が映し出されている。制服姿で、箒に跨るようにして乗る愛衣の姿だった。
「うおっ……! これがパクティオーカードか!」
刀太は目を皿のようにして身を乗り出し、穴が開くほどジロジロと眺め回した。
「へぇ~! なんかカッコいいな! 愛衣、すっげぇ似合ってるじゃねえか!」
「あ……う……っ」
刀太のあまりに真っ直ぐで無遠慮な視線に、愛衣の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
カードに描かれているのは、自分の姿そのものだ。それを至近距離で、男の子に凝視されているという事実。
熟視されればされるほど、なんだか自分の全身を舐めるように見られているような気がして、たまらない羞恥心がこみ上げてくる。
「も……も、もういいっ!?」
「うわっ!?」
耐えかねた愛衣は、逃げるように素早く鞄の奥深くへと押し込んでしまった。
パタンと鞄を閉じ、胸の前でぎゅっと抱え込む。
「なんだよ、減るもんじゃないだろー」
名残惜しそうに指を叩く刀太だったが、ふと何かを思いついたようにポンと自分の手を叩いた。
「あ、そうだ! それってさ……愛衣と俺もできるのか?」
「……へ?」
愛衣は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
「私と、刀太君……が?」
「そう! 愛衣も魔法使いなんだろ?
俺がその『従者』ってやつになれば、さっき言ってたカードとかアーティファクトってのが手に入るんだろ?」
「う……うん。
私はまだ見習いだけど、一応魔法使いだから……契約の呪文と正しい手順さえ踏めば、仮契約を結ぶこと自体はできると思うけど……」
愛衣は戸惑いながらも答えた。
「おぉ! じゃあいいじゃねえか!」
刀太はニシシと嬉しそうに笑い、自分の胸をドンと叩いた。
「俺も別に今、何か目標とかがあるわけじゃないし。愛衣の助けになれるなら、俺が喜んで協力してやるぜ!」
「ほ……本当に!?」
思ってもみなかった言葉に、愛衣の胸が跳ね上がった。
(刀太君が……私のパートナーに……!?)
けれど、すぐに理性がブレーキをかける。仮契約は、従者にとっても魔法使いにとっても重い意味を持つ絆の儀式だ。
ただの好奇心や親切心で決めていいものではない。
「で、でもね? そりゃ仮契約だから『仮』の物ではあるけれど……やっぱり相手は慎重に選んだ方がいいと思うの。
私なんかより、もっとすごい魔法使いの人だって学園にはたくさんいるし……」
「大丈夫だって!」
言葉を遮るように、刀太は迷いのない瞳で愛衣をまっすぐに見つめた。
「俺、愛衣ならすっげぇ信用できるし! それに……」
刀太は少し照れくさそうに鼻の下を指で掻きながら、心からの言葉を紡ぐ。
「これまでお前とは特訓で戦ってばっかりだったろ? だからさ、今度は『一緒に戦う』っていうのも、すごく良いなと思ってさ」
「――っ……!」
胸の奥が、熱い衝撃で満たされた。
『愛衣なら信用できる』
『一緒に戦うのも、すごく良いなと思って』
邪気の一切ない、真っ直ぐすぎる信頼の言葉。
自分が彼を認めていたように、彼もまた自分を、一人の仲間として、パートナーとして認めてくれていた。
その事実がたまらなく嬉しくて、胸が押し潰されそうになる。
(嬉しい……! すごく、すごく嬉しい……っ!)
こんなに素敵な提案を断る理由なんて、どこにもなかった。
刀太君となら、もっと強くなれる。彼となら、どんな困難だって乗り越えられる気がする。
「うん……! ありがとう、刀太君! 私――」
返事をしようと口を開かけた、その瞬間。
(……あれ?)
愛衣の思考に、ふと一つの疑問が掠めた。
(仮契約のやり方って……具体的にどうやるんだっけ……?)
お姉様と契約を結んだ時の記憶を辿る。
契約の魔法陣が施されたカード(または羊皮紙)を挟んで、魔法使いと従者が特定の場所に立ち……そして……。
――『契約の証として、互いの唇を重ね合わせる』。
(……え?)
一瞬、思考が真っ白になった。
(くちびるを……重ねる……?)
(それって……キス……するんだったーーーっ!??)
雷に打たれたような衝撃が愛衣を襲った。
目の前には、何も知らずに爽やかな笑顔を向けている刀太。
もし仮契約を結ぶとしたら。
彼の手が私の両肩に優しく置かれて。
彼の顔がスッと近づいてきて。
息が触れ合うほどの至近距離で……私の唇と、刀太君の唇が……重なって――。
(キ……キ……キ、キスーーーーーっ!!??)
妄想の映像が脳内で超高画質で再生された瞬間、愛衣の全身の血液が激流となって頭頂部へと吹き打った。
「あわわわわ…」
シューーーーーーッッ!!!!
「うおあっ!?」
愛衣の顔面が熟し切ったトマトどころか発火寸前の赤色に染まり、頭頂部から勢いよく真っ白な蒸気が噴き出した。あまりの熱量に目の前が真っ暗になる。
「お、おい愛衣!? 大丈夫か!?」
急に頭から湯気を噴き出して混乱する愛衣を心配し、刀太が身を乗り出して「おいっ」と愛衣の肩に手を添えた。
ガタッッ!!!!
「――っっっ!?!?!?」
触れられた肩の感触。刀太の体温。
それが決定打となった。
愛衣は弾かれたように椅子から飛び起きると、机の上に千円札を叩きつけるように押し付けた。
「す、す……っ!!」
「す?」
「少し考えさせてくださーーーーーいっっ!!!!」
「ええぇっ!?」
カフェ中に響き渡るような叫び声を残し、愛衣は鞄を抱えて脱兎のごとき勢いで店を飛び出していった。
猛烈なダッシュで遠ざかっていく愛衣の背中を、残された刀太は口をぐわっと開けたまま、呆然と見送るしかなかった。
「な……なになに!? 俺、またなんか変なことしちゃったのか……!?」
頭を抱えて困惑する刀太の声は、すでに風の中に消えていた。
「ハァ……ッ! ハァ……ッ! ハァ……ッ!」
どれくらい走っただろうか。
学園の敷地の外れ、静かな木立の中で、愛衣は大きな桜の木に両手をついて立ち止まった。
肩を激しく上下させながら、必死に息を整える。
けれど、走ったことによる息切れなど比ではないほど、胸の中の鼓動が激しく打ち鳴らされていた。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――。
爆発しそうなほどの感情の渦。
熱くて、苦しくて、だけど愛おしくて堪らない波が、何度も何度も押し寄せてくる。
木肌に額を押し付けながら、愛衣はそっと目を閉じた。
(……ダメだ)
もう、誤魔化すことなんてできなかった。
目を閉じれば、すぐに浮かんでくる。
昨日のゾーンの中で、言葉を超えて繋がり合ったあの瞬間の歓喜。
自分を認めてくれた時の、眩しいくらいの笑顔。
「一緒に戦うのも良いな」と言ってくれた時の、まっすぐな瞳。
そして……さっき思い浮かべてしまった、彼の唇の感触の想像。
思い出すたびに、胸が痛いくらいにキュンと鳴る。
もう「特訓で変な状態になったから」なんて言い訳は通用しない。
(私……っ)
愛衣は胸の前の制服を、ギュッと強く掴み締めた。
(私……刀太君のこと……)
(刀太君のことが……大好きなんだ……っ!!)
ずっと溢れ出したがっていた感情の正体に、ついに辿り着いた。
自分が恋をしたのだと自覚した瞬間、鼓動はさらに大きくなった。
それは切なさでもあり、同時に飛び上がりたいほどの愛おしさだった。
木漏れ日の中で、愛衣は赤くなった顔を両手で覆い、一人静かにその甘い痛みを噛み締めていた。
刀太には、まだ言えない。
仮契約のことだって、キスのことだって、パニックになって逃げ出してしまった。
だけど、愛衣の心の中に広がる世界は、昨日までとはまるで違う、鮮やかなピンク色に染まり上がっていたのだった。