(――何か。何か、すごく大切なことを忘れている気がする)
休日の麻帆良学園。
木漏れ日がきらめく遊歩道を一人で歩きながら、刀太は自分の胸元を右手でぎゅっと握りしめていた。
心臓の奥が、なんだか落ち着かずにドクドクと脈打っている。
焦燥感。
それも、何か大切な約束を破ってしまったような、あるいは、やらなきゃいけない大事な用事があったような、そんなもやもやとした焦りだった。
(思い出せねぇな……。俺、何をしなきゃいけなかったんだっけ……?)
いくら頭を振っても、記憶の霧は晴れない。思い出せないもどかしさと不安だけが胸の内に広がり、ため息をついて視線を落とした、その時だった。
「――あーーーっ! 君、朝倉さんの壁新聞に載ってた、トータくんでしょ!」
鈴を転がすような元気な声が、刀太の耳に飛び込んできた。
ハッと顔を上げると、お下げ髪を輪っか状に結んだ見知らぬ少女が、嬉しそうに指を差してこちらへ駆け寄ってくるところだった。
その後ろからは、そっくりな顔立ちでお下げを普通に下ろした少女が、トコトコとついてきている。
「お姉ちゃん、指を差すのは失礼ですよ。……でも、本当に壁新聞の写真の通り、片腕のトータさんですね」
「え、誰だ……? なんで俺の名前を知ってるんだ!?」
刀太が目を丸くして戸惑っていると、二人の後ろから、長身で青い髪を後ろで結んだ少女が、おっとりとした歩調で歩み寄ってきた。
「ふむ。昨日の朝、2年A組の黒板横にデカデカと貼り出された『朝スポ』を見た者なら、誰でも知ってござるよ。五月殿のところに転がり込んだ、謎のトータ殿、とね」
「また朝スポかよ」
朝倉和美のニヤニヤ顔が脳裏に浮かび、刀太はガシガシと頭を掻いた。
たかが学校内の新聞記事と甘く見ていたが、意外と影響力はありそうだと頭の中で修正した。
そんな刀太の様子を見て、お下げの少女が元気よく胸を張った。
「あ、自己紹介が遅れちゃった! 私は鳴滝風香! こっちは妹の史伽!」
「鳴滝、史伽です。よろしくお願いします、トータさん」
「拙者は長瀬楓と申す。よろしくでござるよ、トータ殿」
「ふうか、ふみか、かえで……。おう! よろしくな!」
刀太がいつものように笑うと、風香はニカッと太陽のような笑みを浮かべ、刀太の右手をぐいっと引っ張った。
「じゃあお近づきの印に! トータくん、今から私たちの『さんぽ部』の活動に付き合ってよ!」
「え、さんぽ部……?」
「そうでござる。今日は風も心地よく、絶好のさんぽ日和。体験入部として歓迎するでござるよ」
楓はそう言うと、刀太の意思を聞く前に、その大きな手で刀太の右肩を優しく、けれど断らせない強さでぽん、と叩いた。
戸惑う刀太を真ん中に挟むようにして、散歩部の「お散歩」が始まった。
彼女たちのお散歩は、本当に「ただ歩くだけ」だった。
途中で見つけたベーカリーショップで、焼き立てのメロンパンをみんなで買って、ちぎって分け合って食べる。
「あ、トータくん、口の横にクッキー生地ついてるよ!」と風香に笑われ、史伽が「もう、お姉ちゃん、ハンカチ貸してあげて」と苦笑いする。
「トータ殿、あそこの川の飛び石、片足跳びで何秒で渡れるか勝負でござる!」と楓に挑まれ、「望むところだ!」と刀太がムキになって片手でバランスを取りながら飛び跳ねる。
特別なことは、何一つない。
ただ、暖かい太陽の光を浴びて。
焼き立てのパンの甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んで。
他愛のない冗談に、お腹を抱えて笑い合う。
そうして、学園の裏手にある、世界樹が美しく見上げる広大な緑の丘にたどり着いた時。
「ふはぁ――っ! 気持ちいい!」
風香が勢いよく芝生の上に大の字に寝転がった。
「あ、ずるい! 俺も!」と刀太も隣に倒れ込む。史伽と楓も、その隣に並んで横たわった。
さらさらと、心地よい風が芝生を撫でていく。
どこまでも青い空。その中央にそびえ立つ、雄大な世界樹の葉が、さわさわと優しく歌うように揺れていた。
「……あ」
刀太は、自分の胸にそっと右手を当てた。
(消えてる……)
あれほど自分を苦しめていた、胸を焦がすような正体不明のもやもやとした焦りが、今は跡形もなく消え去っていた。
冷え切っていた胸の奥がじんわりと温かい。
体中が深く、深くリラックスして、芝生と一体化していくような心地よさに包まれていた。
「……トータくん」
静かな風の音に混ざって、風香の優しい声が聞こえた。
見上げると、寝転がったまま横を向いた風香が、安堵したような、とても優しい目で刀太を見つめていた。史伽も、楓も、同じように刀太を穏やかに見守っている。
「トータくん、さっき会ったとき、なんだかすごく……恐い顔をしてたんだよ?」
「え……?」
「はい」
史伽が小さく頷く。
「なんだか、すごく難しそうな顔をして、今にもどこか遠いところへ行っちゃいそうなくらい……苦しそうな顔をしていました。だから、お姉ちゃんが『一緒にお散歩しよう』って誘ったんです」
楓が、おっとりと草の葉を弄びながら、いつものござる口調で言った。
「トータ殿は、記憶がないと聞いてござる。きっと、拙者たちには計り知れぬほどの不安や、焦りがあるのだろう、と。……なれば、拙者たちにできるのは、この麻帆良の温かい風と、美味しいメロンパンをトータ殿に分けてあげることくらいでござるよ」
「みんな……」
刀太は目を見開いた。
初対面のはずの彼女たちは、自分の「暗い表情」にいち早く気づき、けれど同情したり深く詮索したりして傷つけないように、ただ「散歩」という形で、そっと寄り添って、刀太の心を救ってくれたのだ。
そのさりげない、けれど海のように深い優しさが、刀太の胸の奥にじわじわと染み渡っていく。
不覚にも、視界が少し潤みそうになる。
刀太はそれを誤魔化すように、右腕で思い切り目元をごしごしと擦り、それから――この世界に来て、一番の、120%の太陽のような笑顔を彼女たちに向けた。
「……ありがとな、みんな。俺、すげぇ身体が軽くなった。すっげぇ、元気出た!」
起き上がった刀太は、芝生を握りしめ、少し照れくさそうに、けれど真剣に彼女たちを見つめた。
「なぁ……。俺、また今度も、みんなと一緒に歩いてもいいか?」
風香と史伽は顔を見合わせ、それから弾けるような笑顔で答えた。
「もちろん! さんぽ部は、体験入部から『永久部員』への昇格を歓迎します!」
「はい。またいつでも、一緒にお散歩しましょうね、トータさん」
楓もまた、刀太の頭を優しく撫でるように、おっとりと目を細めた。
「いつでも歓迎でござるよ、トータ殿。この学園には、まだまだトータ殿の知らない、美しい景色がたくさんござるからな」
世界樹から吹き抜ける風は、どこまでも温かく、記憶のない刀太の背中を、優しく未来へと押し出してくれるようだった。