カサリ、と落ち葉が擦れる音が、静かな武道場裏に響く。
刀太と佐倉愛衣の共同作業は、驚くほど静かに、けれど不思議と心地よいテンポで進んでいた。
「……あ、トータさん。そちらのペットボトルは、まだキャップがついていますよ」
「おっと、本当だ。ありがとな、愛衣」
「いいえ、どういたしまして」
ぽつり、と言葉を交わしては、また黙々と手を動かす。
その沈黙は気まずいものではなく、お互いの呼吸が少しずつ噛み合っていくような、穏やかな空気だった。
刀太は右手だけで器用にゴミを分別し、愛衣はそれを見守りながら、優しく、丁寧に袋を縛っていく。
しばらくして、沈黙の合間に、刀太がふと思い出したように顔を上げた。
「なぁ、愛衣」
「はい、何ですか?」
「愛衣って、その……いわゆる『魔法関係者』なんだよな? 魔法って、本当に使えるのか? 多分、そういう勉強をしてるんだろ? 俺、まだちゃんと見たことなくてさ」
愛衣はゴミ袋の口を右手で押さえながら、少し照れくさそうに人差し指を立ててみせた。
「ええ、使えますよ。それほど大したものではありませんけれど……」
そう言うと、愛衣はすっと目を閉じ、精神を集中させて短く呪文を紡いだ。
「――炎よ、集え」
愛衣の細い人差し指の先に、ポッと、小さな、けれど驚くほど澄んだ赤い炎が灯った。
熱は完全に制御されており、すぐ近くにいる刀太に熱気が届くこともない。まるで、暗闇を優しく照らす一本のキャンドルのように、美しく完璧な球体を描いて揺れている。
「うおおっ! すげえ! 本物の火だ!」
刀太は目を輝かせ、愛衣の指先をぐっと覗き込んだ。
「すっげぇな! 呪文を唱えただけで、本当に火が出るなんて! 愛衣、お前、めちゃくちゃ優秀なんじゃないか!?」
「ふふ、ありがとうございます。……でも、そんなことありませんよ」
刀太の裏表のない、100%の称賛を浴びて、愛衣は少し嬉しそうに微笑んだ。だが、その炎をスッと消した瞬間、彼女の表情に、ふっと寂しげな影が差した。
二人の間に、また少しの間、静かな沈黙が流れる。
愛衣は自分の小さくて綺麗な両手を見つめ、静かに言葉をこぼした。
「……アメリカの魔法学校での私の成績は、確かにいつもオールAでした。でも、それはあくまで『お勉強』での成績なのです。ペーパーテストや、決められた手順通りに魔法を発動させる演習なら、誰にも負けない自信があるのですけれど……」
「お勉強……?」
「はい。私は、本物の『戦い』というものを、一度も経験したことがないのです。もし、本当に悪い魔法使いや魔獣がこの学園に現れて、誰かを守らなければならなくなった時……今の私に、何ができるのだろうって。実戦経験が皆無な私には、呪文を唱えることすらできなくなってしまうのではないかしら、と……」
愛衣は、長いまつ毛を伏せて、小さく肩を震わせた。
ポツリ、ポツリと紡がれる彼女の本音。普段は「美化委員の模範生徒」として、そして「優秀な魔法生徒」として気を張っている彼女が、なぜか出会ったばかりの刀太には、心を開いて不安を打ち明けていた。
「私の憧れている高音お姉様は、とても強くて、本当に格好良い方なのです。いつも私の前を走っていらっしゃって……。でも、私がいつまでもこんな風に『お勉強の魔法』しか使えない未熟なままだと、いつか……いつか、高音お姉様に見放されて、置いていかれてしまうのではないかって、すごく不安になるのです」
愛衣はギュッと自分の服の裾を握りしめた。
お姉様のために強くなりたい。けれど、実戦という未知の世界に対する自分の無力さが、怖くてたまらないのだ。
そんな愛衣の様子を、刀太は静かに、けれど真剣な目で見つめていた。
そして、ガシガシと頭を掻きながら、豪快に笑った。
「なんだ! そんなことなら、簡単じゃないか!」
「え……?」
「お勉強じゃなくて、本物の戦い方が知りたいんだろ? だったらさ、明日から俺と一緒に特訓しようぜ!」
刀太はそう言って、ぽんと自分の胸を叩いた。
「俺さ、自分でもよく分かんねぇんだけど、すっげぇ体が頑丈なんだ。五月の話だと、どんな怪我をしても、寝れば次の日にはすっかり元通りに治っちまうらしい。だからさ、愛衣。俺相手なら、怪我させる心配もねぇし、本気で、いくらでも魔法をぶつけて練習していいぜ!」
「そ、そんなのダメですよ!」
愛衣は慌てて首を振った。
「いくら頑丈だからって、生身の人間に魔法を撃ち込むなんて……そんな危ないこと、私にはできません」
「へへ、そう言うと思ったぜ。……よし!」
刀太は落ち葉の詰まったゴミ袋を片手で軽々と持ち上げると、用務員の倉庫の陰へと置いた。そして、不敵にニカッと笑って、愛衣を真っ直ぐに見つめた。
「じゃあさ、今から、ちょっとだけやってみようぜ」
「え? 今から、ですか?」
「おう! 魔法じゃなくて、ただの追いかけっこでも何でもいい。とにかく、動く相手に自分の攻撃(技)を当てるってのが、どんなもんか。場所を移して、一度試してみよう!」
刀太は身を翻すと、武道場の裏手にある、普段は誰も使わない芝生の広場へと、タタッと軽い足取りで走り出した。
「あ、待ってください、トータさん!」
愛衣は戸惑いながらも、その背中を追いかけて走り出すのだった。
「よし、ルールはこうだ!」
武道場の裏手、普段は人通りのない芝生広場。
刀太はツナギの袖をまくり上げ、右手一本を軽く前に出して構えた。
「俺は一切、攻撃を当てねぇ。愛衣の体に触れる前に、全部ピタッと寸止めする。だから愛衣は、怪我させることなんて気にすんな! 本気で、ありったけの魔法を俺に叩き込んできてみろ!」
「す、寸止めですか……?」
愛衣は、まだ不安そうに胸の前で両手をぎゅっと握りしめていた。
「いくら怪我をしないと言われましても、生身のトータさんに私の魔法を撃ち込むなんて、やっぱり抵抗があります。手加減、しますからね……?」
「手加減なしだ! じゃなきゃ練習になんねぇだろ? ほら、いつでも来い!」
刀太が不敵にニカッと笑い、さらに一歩深く踏み込んで重心を落とす。
――その瞬間、刀太自身、奇妙な感覚に襲われていた。
(……あれ?)
頭の記憶は、相変わらず真っ白のままだ。
なのに、いざ「戦い」を意識して身構えた瞬間、自分の体がどうしようもなく熱く、歓喜に震え出すのが分かった。
頭で考えるより先に、筋肉が、関節が、そして呼吸の深さそのものが、一番無駄のない『戦闘の姿勢』を勝手に思い出し、カチリと型にはまっていく。
まるで、自分の肉体そのものが、もっと果てしなく、もっと過酷な戦場を何度も潜り抜けてきたのだと主張しているかのように。
「――っ!?」
愛衣の視界の中で、刀太の姿が爆発的な踏み込みとともに「ブレた」。
刀太自身、自分の足がこれほど鋭く芝生を蹴り上げるとは思っていなかった。ただ「前へ」と思っただけで、体が最適解の足運びを勝手に選択し、風を切り裂くような速度で一気に間合いを詰めていく。
「っ、我が指先を以て――」
慌てて呪文を続けようとした愛衣の目の前で、刀太の肉体が、さらに本能的な躍動を見せた。
右足を一歩外側へと強く踏み込み、左へと大きく上体を揺らす。
(左から来る!?)
愛衣の意識が、反射的に左側へと引きずられる。
――だが、刀太にとってそれは、考えるまでもなく体が勝手に繰り出した、極めて自然な揺さぶり(フェイント)だった。
「ほいさっと!」
刀太の肉体は、次の瞬間には逆方向――右側へと弾丸のようにサイドステップを踏み、愛衣の死角へと一瞬で消え去っていた。
「えっ、どこに……!?」
完全に視界から刀太を見失った愛衣が混乱して上空を見上げた時、刀太は芝生の脇に生い茂る大きな桜の木の幹を、鋭く一歩蹴り上げていた。
重力に抗うように木の幹をバネにして、頭上からコマのように鋭く回転しながら飛び降りてくる。
頭では「どう動こうか」なんて一切計算していない。ただ、体に刻み込まれた無意識の戦闘センスが、周囲の地形を利用した立体的なルートを勝手に選び、弾けさせているのだ。
(当たらない……! 的が、全然絞れません……!)
愛衣はパニックになりそうになる頭を必死に抑え、今ある全力の魔法を、上空の刀太へと放った。
「――魔法の射手(サギタ・マギカ) 火の三矢(セリエス・イグニス)!!」
愛衣の指先から、三筋の赤い光弾が鋭い風切り音を立てて放たれる。ジョンソン魔法学校オールAの技術。弾道は完璧だった。
しかし、刀太は空中で、失われた左肩をすっと引き、右手を大きく使って強引に体の軸をひねった。
「躱せる」と、本能が確信していた。アクロバティックな身のこなしで、三発の火の矢を紙一重、わずか数センチの隙間でひらりと躱してみせる。
「うお、危ねぇ! でもすっげぇ威力だな!」
そのまま芝生へと着地した刀太が、すかさず地を走るような鋭いステップで愛衣の懐へと潜り込んでいく。
「きゃっ、風よ(アネモス)――」
愛衣は反射的に、自分を囲う防御魔法『風楯(デフレクシオ)』の呪文を唱えようとした。
だが、焦りと目の前の恐怖で口がうまく回らない。発動キーの最初の二文字を紡いだところで、脳の思考が完全にストップした。
ハッと気づいた時には。
「――はい、おしまい!」
愛衣の喉元。その皮膚から、わずか数ミリのところで。
刀太の太く温かい人差し指が、ピタッ……と完全に静止していた。
指先から伝わってくる風圧が、愛衣の首元の髪をさらりと揺らす。
頭では忘れていても、その右腕は、寸分のブレもなくコントロールされた完璧な「寸止め」を覚えていた。
「は、はぁ、はぁ……っ……」
愛衣は、指先を突きつけられたまま、息を切らせて呆然と立ち尽くしていた。
ドクドクと、早鐘のように心臓が脈打っている。
魔法を避けられた衝撃。刀太の、まるでもっと恐ろしい実戦を繰り返してきたかのような、底知れない身のこなしへの驚愕。
そして何より、至近距離で見つめ合う、刀太の真っ直ぐで力強い瞳。男の子の体温が至近距離から伝わってきて、愛衣の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
刀太がスッと手を下ろすと、愛衣はその場にへなへなと力なく座り込んでしまった。
「……全く、当たる気がしません。……それに、トータさんがこちらに迫ってくるのが、あんなに恐ろしいなんて……。頭が真っ白になって、呪文を噛んでしまいそうになりました……」
愛衣は悔しそうに膝を抱え、ぽつりと言った。
お勉強の演習では、的は動かない。自分を襲ってもこない。
しかし本物の実戦では、標的は縦横無尽に動き回り、フェイントをかけ、自分の死角から狙ってくる。その肉体的なプレッシャーの中で、冷静に詠唱を完成させることがいかに難しいか、愛衣は今、初めて身を以て理解したのだった。
「へへ、でも愛衣の魔法、まじで凄かったぜ。躱すとき、ちょっと熱かったもん。当たりさえすれば、絶対に強い!」
刀太は芝生の上にしゃがみ込み、愛衣の目線に合わせてニカッと笑いかけた。
「だからさ、毎日特訓しようぜ! 俺、いくらでも動く的になるからよ。お前が俺に一発当てるか、呪文を完璧に唱え終わるまで、毎日付き合ってやる!」
「ですが、トータさん……。放課後は、私、美化委員の仕事もありますし、魔法の演習や部活もあります。それに、放課後は人通りも多くて、他の生徒にこの特訓を見られてしまったら……」
「あー、そっか。愛衣は忙しいもんなぁ……。んー、じゃあさ!」
刀太はぽんと右手を叩き、名案を思いついたように声を弾ませた。
「お互いの時間が空く『昼休み』はどうだ!? 飯をさっと食い終わった後の、ちょっとした時間。ここなら奥まった場所だし、誰も来ねぇ。昼休みの短い時間に、毎日こっそり特訓しようぜ!」
「昼休みに……こっそり、ですか?」
愛衣は、少し驚いて刀太を見つめた。
誰もいない静かな広場で、毎日、お昼休みに二人きりの秘密の特訓。
そう考えると、戦闘の緊張感とはまた違う、奇妙な高鳴りが胸の奥で小さく弾けた。
けれど、強くなりたい。高音お姉様を自分の力で守れる、本当の魔法使いになりたい。その想いが、愛衣の背中を強く押した。
愛衣は小さく息を吸い込み、少し赤くなった顔を綻ばせて、立ち上がった。
「……わかりました。お勉強ではない、本物の強さを身につけるために、トータさん、私と特訓してください」
「おう! 決定だな! よろしく、愛衣!」
刀太が差し出した大きな右手を、愛衣は両手で優しく、しっかりと握り返した。
二人の手と手がしっかりと握り合わされた直後、愛衣が「あ、そういえば……」と、何かに気がついたように声を上げた。
「あの落ち葉、私がここで全部燃やしてしまいますね。その方がゴミ袋を無駄に使いませんし、用務員室への持ち運びの手間も省けますから」
「え? 燃やすって、ここでか?」
「はい。見ていてくださいね」
愛衣は小さく息を整えると、おもむろに右手を宙へとかざした。
先ほどまで真面目にお説教をしていた時とも、模擬戦の時とも違う、とても自然で淀みのない、柔らかな呼吸。
「――風よ(アネモス)。……そして、炎よ、集え」
愛衣がすっと指先を回すと、地面に集められていた大量の落ち葉の山が、目に見えない優しい風の渦に巻き上げられ、宙でふわりと丸くまとまった。
そこへ、愛衣の指先から放たれた極小の火種が吸い込まれる。
ボウッ、と静かな音がして、空中で落ち葉の球体が赤く燃え上がった。
しかし、火の粉が一瞬たりとも周囲の芝生に散ることはない。愛衣が紡いだ風の障壁が、熱も、煙も、灰も、すべてをその球体の内側に完璧に閉じ込めていた。
ものの数秒で、大量の落ち葉は熱を失い、完全に無害な、手のひらに収まるほどの細かな灰へと変わり、風の檻の中で静かに消滅した。
「ふぅ……。よし、これで完璧です!」
愛衣は満足そうに胸を張り、刀太に向かって丁寧にお辞儀をした。
「ではトータさん。また明日、お昼休みに。……失礼いたしますね」
そう言って、愛衣は軽やかな足取りで、夕暮れの道を去っていった。
その場に取り残された刀太は、灰一つ残っていない、あまりにも綺麗な芝生と、彼女が消えていった赤く染まる遊歩道を、呆然と見つめていた。
「……なんだよ」
刀太は右手でぽりぽりと頭を掻き、ぽつりと呟いた。
「あいつの方が、俺なんかより何倍もすげぇじゃねぇか……」
刀太の胸の奥に、言葉にできない温かい感心が広がっていく。
俺がさっき模擬戦で見せたのは、ただ素早く動いて、相手の懐に入り込むだけの、言わば『暴力』のための力だ。そんなものは、誰かを傷つけるか、あるいは何かを壊す時にしか役に立たない。
だけど、愛衣が今見せた魔法は違った。
誰かの暮らしを綺麗にするため。みんなの仕事を楽にするため。
人が生きて、日々を営んでいく、その生活をほんの少し便利に、豊かにするために、彼女は自分の高い技術を無意識のうちに使ってみせた。
刀太にとって、本当に価値のある『力』とは、そういうものだった。記憶がなくても刀太の奥底に根付く信念。
何かを壊すための力なんかより、人の営みを助け、前へ進めるために使われる技術の方が、何百倍も格好よくて、何百倍も尊い。
(あいつは『お勉強の魔法だ』なんて悩んでたけどさ……。あれこそが、本物のすごい魔法じゃねぇか)
「よーし、負けてらんねぇな!」
刀太はぐっと右拳を握りしめ、沈みゆく夕日に向かって、にっと白い歯を見せて笑った。
記憶がなくても、腕がなくても、この温かい学園で、守りたいと思える素敵な人たちが、また少しずつ増えていく。
明日からのお昼休みが、今から楽しみで仕方がなかった。
魔法や気は使えませんが、まあ身体は化け物なのでこのくらいはできるんじゃないでしょうか?