麻帆良学園の朝は、いつもどこかが騒がしい。
「おっと、ちょっと急がねぇとな!」
ツナギの袖をまくり上げた刀太は、朝のさわやかな空気の中を、軽快な足取りで走っていた。
今日は少し用務員室への到着が遅れそうだった。朝のご飯当番交代制のおかげで、五月との何気ない朝食の時間が楽しく、ついつい話し込んでしまったのが原因だ。
タタタッとアスファルトの道路を力強く蹴り、速度を上げていく。
すると前方の広場に、何やら大きな「人だかり」ができ始めているのが見えた。
実はこの広場、毎朝のようにちょっとした「名物行事」が行われる場所でもあった。
原因は、中国武術の達人である中等部3-Aの少女、古菲(クーフェイ)だ。彼女の規格外の強さを聞きつけた運動部や格闘技系の男子生徒たちが、腕試しやステータス欲しさに、毎朝のように彼女へ勝負を挑みにやってくるのだ。
今朝もまた、道着を着た大柄な格闘系の男子生徒が、古菲の前に立ち塞がっていた。
「古菲! 今日こそお前に勝って、格闘技部の意地を見せてやる!」
男が気合十分に叫ぶと、三つ編みお下げを揺らした中華服の少女――古菲は、退屈そうにあくびを噛み殺しながらも、ニッと八重歯を見せて拳を構えた。
「ほーう、威勢だけはいいアルな。望むところアル! かかってくるヨシ!」
古菲が受けて立つと同時に、二人の拳と拳が激しくぶつかり合う。
「おおっ、始まったぞ!」「今朝は空手部の奴か!?」と、登校中の生徒たちが足を止め、面白がって二重、三重に輪を作り、あっという間に大きな人だかりが出来上がっていった。
そんな騒がしい人だかりへと、刀太が走って近づいていく。
(なんだ? 人だかりか……。回り道するの、面倒くさいな)
少しでも早く事務所に着きたい刀太にとって、その人だかりを迂回するのは時間の無駄だった。
刀太は走る速度を一切緩めず、周囲の地形を瞬時に見極める。
道路脇に植えられた大きな街路樹、そして広場を囲う石のフェンス。
(よし、上を越えていくか!)
タッ、と石フェンスに足をかけると、刀太は驚異的な脚力で一気に真上へと跳躍した。
踏み込んだ芝生やコンクリートが、ほんの一瞬きしむほどの爆発的なジャンプ。
刀太の体は、人だかりを作っている生徒たちの頭上、はるか数メートル上空へと軽々と吸い込まれていく。
まるで重力を失ったかのように、青空を背景にして綺麗な放物線を描き、人だかりを丸ごと飛び越えようとした――その、まさに空中にいた時のことだった。
人だかりの中央から、すさまじい肉体の打撃音と、空気を引き裂くような鋭い咆哮が響き渡った。
「哈(ハッ)!!」
ドゴォン!! と、まるで爆発でも起きたかのような凄まじい衝撃音。
次の瞬間、古菲の完璧なカウンターの掌打を食らった大柄な男子生徒が、まるで大砲から打ち出された弾丸のように、猛烈な勢いで上空へと吹き飛ばされてきた。
その軌道は、まさに空中を飛び越えようとしていた刀太の、ちょうど真下から突き上げるようなルートだった。
「うわっ、危ないっ!?」
「誰か上を飛んでるぞ! ぶつかる――ッ!」
周囲のギャラリーから悲鳴が上がる。
まともに激突すれば、空中での衝突だ。吹き飛ばされている男の質量と、そのスピードは並大抵のものではない。並の人間なら、激突した衝撃で二人とも骨折は免れない。
だが、空中の刀太の目は、恐ろしいほどに冷静だった。
(おっと、あぶねぇ!)
刀太は空中で、すっと体を反転させた。
そして、猛スピードで迫り来る格闘家の男に対し、唯一の右腕をそっと、けれど驚くほど正確に伸ばした。
激突の瞬間。
刀太は右腕を男の道着の帯と背中に滑り込ませると、自分の体全体をサスペンションのようにしならせた。
ギギ、と刀太の右肩の筋肉が強烈な負荷に耐えて軋む。
吹き飛ばされてきた凄まじい衝撃と推進力を、刀太は空中でクルリと一回転しながら、自らの肉体の「いなし」だけで完全に殺しきってみせたのだ。
それは、物理の法則を無視したかのような、完璧な衝撃吸収だった。
「ほいさっと!」
刀太は格闘家の男を右手一本でしっかりと小脇に抱えたまま、人だかりの向こう側の芝生へと、羽毛のように静かに着地した。
ストン。
信じられないほど軽い着地音。
刀太は抱えていた男を、そっと芝生の上に立たせてやった。男は目を白黒させ、何が起きたのか全く理解できていない様子でふらついている。
「よっと。……おい、大丈夫か? ちょっとびっくりしたけど、怪我はなさそうだな!」
「え、あ……、お、おう……?」
「よかった! 格闘技の練習か何か知らねぇけど、飛ばされる時は後ろに気をつけろよな。じゃ、俺、急ぐから! 気ぃつけてな!」
刀太はにっと白い歯を見せて笑うと、そのまま一度も振り返ることなく、風のように用務員室の方へと走り去っていった。
その場は、静寂に包まれていた。
人だかりを作っていた生徒たちは、全員が口をあんぐりと開けて固まっている。
今、何が起きた?
古菲の、コンクリートに叩きつければ一撃で気絶するほどの威力の打撃。それによって吹き飛ばされた大柄な男を、片腕しかないツナギ姿の少年が、空中でキャッチして、その威力を完全に殺して無傷で着地させたのだ。
人間業ではない。
そんな中、人だかりの中央にぽつんと立っていた少女――古菲は、自分の拳をそっと下ろした。
彼女の鋭い中国武術の目には、今の刀太の一連の動作が、どれほど凄まじいものだったかがはっきりと見えていた。
ただの力自慢ではない。
吹き飛ばされた相手の慣性と力を、空中で、しかも片腕一本で「全て受け流して無に帰す」という、達人以上の極限の身体操作。
古菲は、刀太が走り去っていった遊歩道を見つめ、にやりと不敵で、けれど非常に楽しそうな笑みを浮かべた。
「……ほう。あのツナギの男の子、なかなか面白そうなやつがいるアルな」
彼女の胸にあるのは、純粋な、武術家としての「やるな」という心地よい驚嘆と、底知れない強者への興味だけだった。
麻帆良学園に現れた、片腕の不思議な事務員。
その存在が、また一人、学園の猛者の心を強く惹きつけていた。
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麻帆良学園工学部の、奥深くにある研究室。
薄暗い室内には無数の電子機器やモニター、そして分解された機械のパーツが所狭しと並んでいた。
「よし、これで関節の調整は完了ですよ、茶々丸」
白衣を着たメガネの少女――葉加瀬聡美は、ドライバーをポケットに突っ込むと、満足そうに額の汗を拭った。
その目の前で、からくり人形(ロボット)の少女、絡繰茶々丸が静かにその琥珀色の瞳を開いた。
「システム起動。各部駆動系、正常。ハカセ、メンテナンスの実施、感謝いたします」
「いいえいいえ、これくらいお安い御用です。茶々丸の体は私の最高傑作ですからね。……おや?」
その時、研究室の頑丈なスライド式の扉が、ガラガラと勢いよく開いた。
「ちわーす! 用務員室から、お届け物だぜー!」
入ってきたのは、作業用ツナギを着た片腕の少年だった。
だが、その登場の仕方は普通ではなかった。
少年は、本来なら大人3~4人がかりで台車を使い、慎重に搬入するはずの『精密実験用の超高密度金属パーツが詰まった重たい木箱』を、右手一本だけで小脇に抱え、まるで宅配便の小さなダンボールでも持つかのように平然と立っていたのだ。
「え、ええええええっ!?」
葉加瀬は自慢のメガネをズリ落とし、指を差して絶叫した。
「き、君! それ、さっき運送業者から『大人数人で慎重に運んでください』って警告されて、私が台車を取りに行こうとしていた精密重量部品の木箱なんですけど!? なんで片手で、しかもそんなに軽そうに持ってるんですか!?」
「え? ああ、これか。用務員室に届いてたから持ってきてやったぜ。まぁ、ちょっと中身がずっしり詰まってる感じはしたけど、これくらいなら余裕だろ!」
ドスン、と少年が右手だけで木箱を床に置くと、ずしりと重い金属音が部屋に響いた。
本当に、人間が片手で持っていい重さではない。
少年が「受領書にハンコ、もらえるか?」と右手を差し出した時、葉加瀬の視線は、少年のツナギの左袖――安全ピンで留められ、中身が欠損している左肩の包帯へと注がれた。
その瞬間、葉加瀬の目がギラリと妖しく輝いた。
「君……! その左腕、どうしたんですか!?」
「あ、これ? いや、目が覚めた時から無くてさ。まぁ、片手でも生活には困ってねぇからいいんだけどよ」
「よくありません!!」
葉加瀬は少年の目の前まで一気に詰め寄ると、その右肩や左肩の断面を、機械でも測るように至近距離で観察し始めた。完全にマッドサイエンティストのスイッチが入っている。
「片腕がないなんて、工学者として、そしてロマンを追い求める者として見過ごせません! 君、その左腕、私に改造させてもらえませんか!? 男のロマンのロケットパンチ、あるいは高出力レーザー、それとも一撃必殺の超硬度ドリルなんてどうでしょう!? 何なら全部盛りで、ガトリング砲も搭載してあげますよ!?」
「う、うおっ……! な、なんだこのお姉さん……!?」
あまりの勢いに、さしもの少年も顔を引きつらせて一歩後ずさった。
「いや、遠慮しとくぜ! 腕にそんな物そばに置いといたら、五月にもめちゃくちゃ怒られそうだし!」
葉加瀬が「えー! ロケットパンチですよ!? もったいない!」と駄々をこねる中、その横で静かに控えていた茶々丸のオプティカルセンサーが、小さく駆動音を立ててズームされた。
(……対象をスキャン。生体エネルギー、計測開始)
茶々丸の視界に、少年の全身の骨格や筋肉、生命活動のデータが青いグリッド線となって投影されていく。
だが、その解析結果を見た瞬間、茶々丸の電子頭脳に微弱なノイズが走った。
『――警告。対象の生体反応に、極めて異常な数値を検出。
心拍数:極めて安定。
細胞の活性速度:通常の人間を遥かに凌駕する、未知の不死性、あるいは超再生能力の残滓あり。
さらに、欠損した左肩の断面から、魔力とも氣とも異なる、測定不能な未知のエネルギー出力を検知。
物理的な生物学の定義に当てはまりません。……脅威度、中から高へ。要警戒』
茶々丸の琥珀色の瞳の奥で、冷徹な光が鋭さを増す。
目の前にいる少年は、無邪気で陽気な人間の子供に見えるが、その中身は、学園の安全を脅かしかねない「未知の異常体」だ。
茶々丸は静かに身構え、いつでも戦闘駆動系を起動できるよう、右袖の裏に仕込まれた武装に微弱な電流を流した。
「……こちらの個体は、通常の人間ではありません。学園に害をなす不審者、あるいは未知の兵器である可能性があります。不用意に接近するのはおやめください」
茶々丸の淡々とした、けれど明確な警戒を含んだ声。
だが、少年はその殺気や警戒を向けられているにもかかわらず、全く怯む様子はなかった。それどころか、茶々丸の関節が微かに駆動する音や、その無機質で綺麗な容姿に目を輝かせた。
「おっ! あんた、ロボットなのか!? すっげぇな! 本当に人間そっくりで、めちゃくちゃ精巧にできてんじゃん!」
無邪気にそう言って、茶々丸の体を感心したように覗き込んでくる少年。
茶々丸は、自分のセンサーに異常な数値を送り続ける相手に対し、感情を徹底的に配した冷たい声で返した。
「お褒めに預かり光栄です。ですが、私のセンサーをこれ以上刺激するのはおやめください。これ以上の接近は、自衛行動としての排除対象とみなします」
「あはは、すまねぇ! 怒らせちまったか。機械のことはよく分かんねぇけど、本当にすげぇ技術なんだな!」
少年は悪びれずに頭を掻くと、葉加瀬から受領書のハンコを受け取り、ツナギのポケットにしまった。
「よし、配達完了だな! じゃあな、メガネのお姉さんに、ロボットの女の子!」
少年は元気よく手を振ると、軽快な足取りで研究室を後にした。
ガラガラ、と扉が閉まり、静寂が戻った研究室。
「……不思議な少年ですね。あの重量を片腕で運び、私のセンサーにも一切の怯えを見せませんでした」
茶々丸が静かに警戒レベルを通常に戻しながら言うと、葉加瀬はズレたメガネをクイッと押し上げ、不敵な、けれど最高に楽しそうな笑顔を浮かべた。
「ええ! あんなに面白くて素晴らしい検体、ただの用務員さんとして放っておくなんて、工学者として絶対にあり得ませんよ……! いつか絶対に、私の手で最強の義手をつけさせてみせます!」
「……ハカセの悪い癖が出ないことを祈ります」
茶々丸はそっとため息をつき、少年が残していった未知のデータを、自らのメモリーの最重要フォルダへと静かに格納するのだった。
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放課後、夕日が麻帆良学園を黄金色に染める頃。
「超包子(チャオパオズ)」のキッチンカーは、夜の営業に向けて着々と開店準備を進めていた。
刀太は用務員の仕事を終えるとすぐに超包子へ戻り、作業用ツナギから、五月に手渡された片腕仕様のエプロンへと着替えていた。
「よし! テーブルの準備はこれでオッケーだな!」
刀太が右手だけで手際よくテラス席の椅子を並べていると、学校を終えたばかりの従業員たちが、賑やかな声を上げて戻ってきた。
「ただいま戻ったアルよー!」
「ふぅ、今日の講義は少し長引いてしまいましたね、茶々丸」
「はい、ハカセ。お疲れ様でした」
戻ってきたのは、中華服のお下げ髪の少女――古菲。
そして白衣を着たメガネの少女――葉加瀬聡美と、その後ろを静かに歩くからくり人形の少女――絡繰茶々丸だった。
テラス席にいた刀太と、戻ってきた三人の視線が、ばちり、と正面から交錯する。
次の瞬間、時が止まったように全員の動きがピタッと止まり、目が見開かれた。
「――っ!? あ、あんたは、朝の!!」
「――ええええっ!? 工学部の研究室に超重量部品を片手で持ってきた男の子!?」
「――対象の顔貌、生体データを照合。ハカセ、やはり学園から通達のあった不審個体、トータです」
「おっ! 朝のカンフーの女の子に、工学部のマッドなお姉さんとロボットの女の子じゃねぇか!」
刀太も右手でぽんとお腹を叩き、嬉そうに笑いかけた。
そんな四人の騒ぎを聞きつけて、キッチンカーの奥の勝手口から、エプロン姿の五月が「はーい」とおっとり顔を出した。
「あらあら、みんなお帰りなさーい。あ、トータくん、もうお着替えしてくれたんだねぇ」
「サツキ! この人と知り合いアルか!?」
古菲が驚いて五月に詰め寄る。葉加瀬もメガネをクイッと押し上げて
「サツキ、彼はいったい何者なんですか?」と興味津々で尋ねた。
五月はふふっと優しく微笑むと、刀太の隣に立って、みんなに説明を始めた。
「うん。少し前にね、世界樹の下で行き倒れていたトータくんを、私が保護したの。記憶がなくて行く当てがないから、超包子の空いているお部屋を一つ、間借りさせてあげることにして。これからは、ここでお仕事も手伝ってもらうことになったんだよぉ」
「間借り……! そういうことアルか」
納得したように古菲がポンと手を叩く。刀太はにっと笑って、三人に頭を下げた。
「そういうわけだ! 改めて自己紹介させてくれ。俺はトータ! 右も左もわからねぇ居候だけど、やる気だけはあるぜ。よろしくな!」
刀太の真っ直ぐな言葉に、三人にも自然と笑みがこぼれた。
「私は古菲アル! 格闘系ならウチに任せるヨロシ! トータ、朝のキャッチは見事だったアル。よろしくネ!」
「私は葉加瀬聡美です。工学部で日々ロマンを追い求めています。トータ君、あなたの体にはすごく興味があるので、また今度ゆっくりお話ししましょうね!」
「私はハカセのサポートを務める、絡繰茶々丸です。トータさん、どうぞよろしくお願いします」
「おう、みんなよろしくな!」
お互いに名前を名乗り合い、一瞬にして距離が縮まっていく。その様子を、五月は心底嬉しそうに見守っていた。
そこへ、キッチンカーの奥から「ハオハオ、賑やかでいいネ!」と、もう一人の少女が姿を現した。
お団子頭に、赤いチャイナドレスをベースにした衣服。
にこやかで知的な、けれどどこか底の知れない雰囲気をまとった少女――超包子のオーナー、超鈴音(チャオ・リンシェン)だった。
「私がこの店のオーナー、超鈴音アル。トータくん、よろしくネ。サツキから君のことは聞いてるアルよ」
「おう! よろしくな、オーナー!」
刀太が差し出した右手を、超はにこやかに握り返した。
「ふふ、片腕がなくても、朝から学園内で大活躍だったと聞いてるアル。うちの古菲の『人間大砲』を受け止めたそうネ。期待の新人アル、今夜からバリバリ働いてもらうネ!」
「おう! 任せてくれ!」
そこへ「すみませーん、肉まん3つとラーメン!」とお客さんの声が響き、超包子の夜の営業がスタートした。
営業が始まると、超包子のテラス席はあっという間に満席になった。
だが、今夜の超包子の回転率は、いつもと比べ物にならないほど高速だった。
「ラーメン3丁、お待たせだぜ!」
刀太は右手一本で3つのアツアツの丼が乗ったトレイを器用に持ち、障害物(並んでいるお客さんや椅子)を、まるでダンスでも踊るかのように身軽にひらりと飛び越えて配膳していく。
重心のブレが一切ない、アクロバティックな配膳。
「お、おい! 今のツナギの店員、片手でラーメン運びながら、テーブルを飛び越えたぞ!?」
「す、すごい身のこなしね……!」
お客さんたちが驚愕の声を上げる中、調理場からその様子を見ていた古菲が、にやりと不敵に笑った。
「ほう、やっぱりただの身のこなしじゃないアルな」
「うう、あのおアクロバティックなバランス感覚、やっぱり私の手でロケットパンチを(以下略)」
「ハカセ、マスターに怒られます。……しかし、配膳の動線に無駄がありません。非常に効率的です」
茶々丸も刀太の動きに静かに感心し、超もまた、にこにこと嬉しそうにその様子を眺めていた。
「ふぅーーーっ! 働いた働いた!」
夜9時。すべての営業が終了し、テラス席の片付けも終えた店内で、刀太は気持ちよく伸びをした。
心地よい疲労感が体を包む中、従業員たちが一堂に会してお互いの健闘を称え合う。
「トータ、お疲れ様アル! 初日なのに、ウチより働いてたんじゃないアルか?」
古菲が刀太の右肩をパシパシと叩いて笑う。
「いやいや、古菲の餃子を焼くスピードもすっげぇ早くて驚いたぜ! お疲れ様!」
「トータ君、お疲れ様です。お皿洗いの効率、素晴らしかったです」
「ハカセ、お疲れ様でした。……トータさん、今日はお疲れ様でした。あなたのサポートのおかげで、私も非常に助かりました」
茶々丸の言葉に、刀太はにこっと笑いかけた。
「茶々丸もお疲れ様! お前がテキパキ指示してくれたおかげで動きやすかったぜ、ありがとな!」
「……! 恐縮です」
お互いに労い合い、認め合うことで、店内の空気は驚くほど温かくなっていた。そこには、ただの「不審な居候」ではなく、大切な「仲間」として刀太を受け入れる、確かな信頼関係が芽生え始めていた。
みんなが片付けを終え、それぞれ帰路につこうと支度を始めたその時、超鈴音がトータの肩を軽く叩いた。
「トータくん、ちょっといいアルか?」
「ん? なんだ、オーナー」
超は刀太を促すと、少し賑やかさから離れた、静かなキッチンカーの裏手へと二人で移動した。夜風が心地よく吹き抜ける中、超はいつものにこやかな笑顔を刀太に向けた。
「改めて、トータくんにちゃんとお礼が言いたかったアル」
「お礼? 超包子で働いてることなら、俺も楽しんでやってるから気にすんなよ」
「それもあるアルけど……何より、サツキのことネ」
超は夜空を見上げながら、どこか愛おしそうに目を細めた。
「あの子、少し前まではどこか一歩引いているような、寂しそうなところがあったアル。でも、トータくんが来てから、最近すごく明るくなった気がするアル。友達として、店長として、サツキのあんなに嬉しそうな笑顔が見られて、私は本当に嬉しいネ。……ありがとう、トータくん」
「へへ、そうか? 五月には美味い飯食わせてもらってるし、部屋まで貸してもらってさ。俺の方こそ感謝してるぜ。五月が笑ってくれるなら、俺も嬉しいしな!」
刀太が真っ直ぐにそう言うと、超はフッと表情を和らげた。
「ふふ、頼もしいアルな。これからもよろしくネ、トータくん」
「おう! 任せてくれ! じゃ、おやすみ、オーナー!」
刀太は元気よく手を振ると、超包子の奥にあてがわれた自分の間借り部屋へと戻っていった。
それを見届けてから、古菲や葉加瀬、茶々丸たちも「じゃあねー」「お疲れ様でした」と手を振り合いながら、それぞれの帰路につき、夜の闇へと静かに消えていく。
誰もいなくなり、静まり返ったキッチンカーの厨房。
超鈴音は一人、窓の外に広がる麻帆良学園の夜景、そして暗闇の中に巨大な影となって静かにそびえ立つ世界樹を見上げていた。
先ほどまでの愛嬌のある笑顔は完全に消え去り、そこにあるのは、冷徹な知性を宿した真面目な顔だった。
(……私の持っている、すべての『未来の歴史の記録(データベース)』に、あんな少年は存在しないネ)
(本来なら存在しないはずの、完全なる『歴史のイレギュラー』。……どこから紛れ込んできたのかしらネ)
彼女には、この世界で成し遂げねばならない巨大な計画がある。
(あのイレギュラーが、私の計画(プラン)の邪魔になるかはわからないアル。けれど、警戒だけはしておくネ。……もし彼が、私たちがこれから起こす『革命』の阻害要因になるなら、その時は――)
超の琥珀色の瞳が、夜の闇の中で冷たく、鋭く光り輝いた。
麻帆良の日常の裏で、歴史の歯車は、誰も予期せぬ方向へと静かに狂い始めていた――。
同じ頃、麻帆良学園の奥深くに広がる森の片隅。
うっそうとした木々に囲まれた一軒のログハウスに、絡繰茶々丸は帰宅していた。
静まり返ったリビング。
暖炉の温かな光に照らされながら、ロッキングチェアに深く腰掛け、優雅に紅茶を嗜んでいる小さな影があった。
「おかえり、茶々丸。随分と遅かったではないか」
金髪ツインテールの幼い吸血鬼――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが、気だるげに赤い瞳を向けた。
その膝の上には、不気味な球体関節の人形、チャチャゼロがちょこんと座っている。
「はい、マスター。超包子での夜の営業が少々立て込んでしまいまして、遅くなりました」
茶々丸は丁寧に一礼すると、お茶の準備を整えながら、今日起きた出来事をポツリと話し始めた。
「……実は少し前から、超包子に新しい従業員の少年が入りました。本日お会いしてきました。何らかの魔法関係者のようですが、記憶を失っているとのことです」
「ふん、記憶喪失の魔法使いか。この退屈な学園には似合わぬ、随分と使い古された設定のガキだな」
エヴァは興味なさそうに、ふいっと視線を窓の外の闇へと戻した。
すると、膝の上のチャチャゼロが、カタカタと首を揺らしながら不敵に笑う。
「ケケッ! 記憶喪失ねぇ。そいつは強そうなのかよ、茶々丸? アタシの退屈を紛らわせてくれるような、骨のある奴なんだろうな?」
「はい。私のセンサーの計測を狂わせるほどの、未知の生体反応と超再生能力を検知しました。片腕でありながら、その身のこなしは常軌を逸しています」
「ほう……?」
エヴァは少しだけ眉を動かしたが、すぐにまたつまらなそうに紅茶のカップに口をつけた。
「まあ、どうせ私を縛るこの退屈な『呪い(登校地獄)』を解く役には立たぬだろう。……で、そのおかしなガキの名前はなんというのだ?」
茶々丸はカップに静かにお茶を注ぎ、
そして、ほんの少しの沈黙を置いてから、その名を口にした。
「――トータさん、と言うようですよ」
トータ。
その響きが室内に落ちた瞬間。
エヴァの持つティーカップが、微かにカタ、と小さく音を立てて揺れた。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ。
(トータ……? )
一瞬の静寂。
だが、エヴァは小さく目を閉じ、ふぅとため息をついてカップをソーサーに戻した。
「……トータ、か。どこかで聞いた気もするが……まあ、いい。どうせ、どこぞの有象無象の名か何かだろう」
チャチャゼロがケラケラと笑い、エヴァもまた、窓の外の退屈な闇を見つめるいつもの表情に戻っていた。
――それが、かつての過去で、そして未来で、彼女のすべてを奪い、すべてを救うことになる「近衛刀太」その人であるとは、今の彼女は知る由もない。
運命の出会いが二人を巡り合わせる瞬間は、まだ、もう少しだけ先のお話――。