視界を閉じ、外界を遮断してしまえば、この恐ろしい時間はやがて過ぎ去ってくれるのではないか。
目を開けて世界を認識していなければ、これ以上の異常は起こらないはずだ。
そんな、子供じみたの命乞いのような祈りを、心の奥底で必死に繰り返していた。
しかし、それは致命的な判断ミスだった。
視覚を自ら放棄したことで、私の脳は、残された他の五感を異常なほど鋭敏に研ぎ澄ませてしまったのだ。
ドクン、ドクン、と耳の奥で自分の心臓が早鐘を打つ音がうるさいほどに響く。
自分の浅い呼吸の音さえもが、静寂の中で不気味に拡大されていく。
部屋全体の空気が凍りつくような、得体の知れない『冷たい気配』が、どろりと室内に満ちていく――
(早く、早く朝になってくれ……!)
身動きの取れない私は、布団の中でただひたすらに、心の中で念じ続けた。
音も、前触れすらもない。
完全な無音の底から
それは唐突に現れた。
『ふーーっ……』
耳の穴の奥深くに、直接、生暖かく湿った風が吹き込まれた。
あまりの衝撃に、心臓が裏返るかと思った。
部屋を支配する空気は、あれほど氷のように冷え切っているというのに、その風だけが、ねっとりとした不快な熱を帯びていた。
エアコンの風でもなければ、窓からの隙間風でも断じてない。
それは、明確な悪意を持って私を覗き込んでいる、何者かの『吐息』そのものだった。
すぐそこに、誰かの口元がある。
いつの間に近づいたのか、私の顔のわずか数センチ上の空間に、それはすでに存在していた。
金縛りで硬直して微動だにできない私を、楽しむように見下ろしながら、耳元で何度も、何度も、規則的に息を吹きかけているのだ。
『ふーっ……ふーっ……』
吐き出される息は、ひどく湿り気を帯びていた。
水死体が放つような、あるいは夏の生ゴミが腐敗したような、悍ましい臭いが鼻腔を強烈に突き刺す。
胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくるほどの嫌悪感に襲われるが、嘔吐することすら叶わない。
(嫌だ、嫌だ、助けてくれ――!)
狂いそうになる頭で、私はただひたすらに祈り続けた。
これ以上、何も聞きたくない。
これ以上、あの不快な温度を肌で感じたくない。
耳を塞ぐことすらできない自分の肉体をが憎い。
閉じた瞼の裏側で、恐怖のあまり涙が滲む。
しかし、私の絶望をあざ笑うかのように、耳元の息遣いは次第にさらなる熱を帯び、蠢き始めた。
粘着質のある冷気と死臭が脳髄の中でどろどろに混ざり合い、私の精神の輪郭を摩耗させていく。
(お願いだ、もうやめてくれ……!)
心の中の悲鳴が最高潮に達したとき、その不快な風の音が形を変えた。
『……ねえ、起きてるんでしょ?』
ぞくりと、背筋から脳天に向けて強烈な悪寒が突き抜けた。
頭の中にダイレクトに響くような、湿り気のある女の声。
その瞬間、私の恐怖は完全に許容量を超えた。「見てはいけない」、「見たら終わりだ」と本能が全力で警告している。
しかし、目を閉じていることで膨れ上がる妄想の恐怖と、すぐ隣にいる存在への耐えがたい圧迫感が、防衛本能を完全に狂わせていた。
このまま見ずにいれば、本当に発狂してしまう。
瞼をあけ、これまでのことすべてが、恐怖による幻覚であると証明したかったのだ。
そして私は――
固く閉じていた瞼を、開いてしまった。