観客席の男 ―ここまで遊んでくれてありがとう! 作:ザキグン
人間は長時間、終盤の敵将に槍で殴られ続けると、世界へ求めるものが少なくなる。
柔らかい寝床に、温かい食事。
そして、鍵の掛かる板戸。
何より近くに、ディルク・ファルケンラートという化け物がいないこと。
最後の条件だけは、自分の努力で確かめようがなかった。
「……閉まる」
ノーチェが板戸を閉めた。
木枠と板が噛み合い、がたん、と音を立てる。
少し待ってから、また開ける。
「……開く」
「板戸だからな」
「……もう一回」
「何を確認しているんだよ……」
ノーチェは答えず、また閉めた。
がたん……、開ける。
ぎい……、閉める。
また、がたん。
「壊すなよ~」
「……大丈夫」
「宿の設備で耐久試験をしないでくれ」
黒騎士団が西へ退いたあと、俺たちは王国側の救護兵と合流した。
自力で歩けると言ったのだが、右腕と左肩を見た救護兵に無言で荷車へ載せられた。
反論しようとしたら脇腹が痛み、結局そのまま街道を運ばれた。
辿り着いたのは、戦場から十分に離れた小さな宿場だった。
名も知らないし、地図にも大きくは載っていない。
石造りの立派な旅籠ではなく、木造二階建ての古びた宿だ。
板戸には細かな傷があり、床板は歩くたびに軋む。
寝台は藁詰めで、部屋には、小さな卓と椅子が二脚。
窓の外には厩と井戸。
豪華さとは無縁だったが、屋根があるし、壁がある。
そしてなにより、帝国最強の槍将がいない。
もうそれだけで、今の俺には、王宮より価値があった。
「……槍、入ってこない」
ノーチェが板戸へ手を添えたまま言う。
「普通の宿へ槍は入ってこないと思うぞ?」
「……黒い人は?」
「来ない…、いや、来るな……」
「……探す、って」
「来るな」
「……次は、刀を抜かせるって」
「思い出させるなよ!」
ディルクは撤退したし、黒騎士団も西へ戻った。
ここは戦場から離れているから、一晩で追いつける距離ではない。
理屈では分かっている。
それでも、板戸の向こうから大身槍《断界》が突き出してきても、今ならあまり驚かない気がした。
それくらい、あの男の印象が強すぎたんだ。
俺は寝台の端へ腰を下ろした。
全身から力が抜ける。
「痛っ……」
身体を曲げた瞬間、脇腹が痛んだ。
息を吸うだけでも少し響くし、左肩は上がりにくい。
右腕の指先は、まだ感覚が鈍い。
戦いが終わった直後は興奮で動けたが、安全な場所へ着いた途端、身体が一斉に不調を訴え始めた。
「……見る」
ノーチェがこちらへ来る。
「何を」
「……怪我」
「宿の主人が治療師を呼んでくれる」
「……その前」
ノーチェは卓の上へ青銅の星盤を置けば、旅袋から包帯と傷薬を出す。
星詠み神殿を出る時に持ってきたのだろうか、職場を離れる準備だけは良い。
「手当てできるのか」
「……見たこと、ある」
「自信が不安になる答えだ……」
「……動かないで」
外套と籠手を外し、右腕の袖をめくる。
赤黒い痣がいくつも浮いていたが、骨は折れていないと思う。
ただし《断界》を何度も鞘で流した影響で、前腕全体が腫れている。
ノーチェが薬を塗る。
「……痛い?」
「それなりには……」
「……我慢」
「うぅ、辛いな……」
包帯を巻かれる。
一周、二周、三周……おい。まだ巻くんかい!?
「待ってくれ!」
「……何?」
「巻きすぎだって!」
「……守る」
「何から守るんだよ!」
「……黒騎士。もっと厚かった」
「比較対象を黒騎士団にしないでくれ!」
さらに一周されれば、右腕が白い筒のようになった。
「鎧じゃねえか、これ……」
「……守備、上がる?」
「包帯を重ねても守備は上がらない」
「……少しは?」
「気分の問題……」
ノーチェは少し考え、巻いた包帯を一周だけ戻した。
たった一周だけだった……俺は諦めた。
技術が巧いとは言えないが、それでも、ノーチェの指は慎重だった。
未来を見ている時とは違い、目の前の傷だけを確かめている。
「……死ななくて、よかった」
不意に、ノーチェが言った。
俺は彼女を見る。
淡い銀髪が俯いた顔へ落ちている。
「簡単に死ぬつもりはないさ」
「……槍、刺さる未来。たくさん、あった」
「見えていたのか?」
「……途中から、多すぎて分からなかった」
未来が分岐しすぎて読めない、一騎打ちでも、何度かそう言っていた。
俺とディルクが互いの動きへ対応するたび、次の未来が変わる。
未来視に頼り切れなかったのは、むしろよかったのかもしれない。
ノーチェの警告は助かった。
だが、全ての答えを受け取って戦ったわけではない。
「怖かったか?」
「……うん」
「それでも残ったのか」
「……うん」
「逃げてもよかったんだぞ?」
ノーチェは顔を上げる。
「……進も、逃げなかった」
呼び方が変わった。
これまではタナカ、あるいは、ヒーロー。
今、初めて自然に名前で呼ばれた。
「逃げ道がなかっただけだよ」
「……同じ」
「違う」
「……同じ」
言い返す気力なんてなかった……、俺は視界へ意識を向け、自分の状態を開く。
【田中 進】
【兵種:《ヒーロー》】
【HP:31/68】
【魔力残量:9%】
【状態:全身疲労/右前腕感覚低下/左肩打撲/肋骨亀裂疑い/軽度失血】
【装備損耗:外套・中/籠手・小/鞘・大】
「引き分けでこれかよ……」
敵兵の大半と戦ったわけではない。
ディルク一人だ。
あの男一人を足止めして、この有様。
原作終盤の壁という評価は正しかった……むしろ、ゲーム画面の数字では足りていなかった。
現実のディルクは、判断する。
学習すれば会話するし、こちらの目的まで読んでくる、それが、能力値以上に厄介だった。
表示が切り替わる。
【《自主制約》終了判定】
【敵兵死亡数:0】
【抜刀回数:1】
【保護対象の離脱:成功】
【戦闘目的:達成】
【総合判定:成功】
続いて、新しい項目。
【選択肢限定下での戦闘経験を獲得】
【鞘術・体術・風術・印術の複合精度が上昇】
【派生奥義候補:《緋月・無刀返し》】
【装備への負荷:甚大】
「候補のままでいいって」
「……奥義」
「見ないでくれ」
「……緋月」
「読むなって!」
「……無刀返し」
「繰り返すなよ!」
「……使わない?」
「できれば二度と使いたくない」
あれは、状況が全て噛み合って成立した技だ。
刀を抜けない。
鞘へ戦闘技術が収束している。
風術と加速印を使える。
ディルクが全力で一直線の突きを放つ。
どれか一つ欠けても、同じ形にはならない。
それに、鞘が耐えれない。
壁へ立てかけた刀を見ると、鞘には大きな亀裂が走っていた。
表面だけではなく、内部の木地まで傷んでいる。
これは、専門の職人に直してもらう必要がある。
ただ問題は、この世界に刀の鞘を直せる専門職がいないことだ。
また武器職人へ構造から説明するのか。
以前、古代文明の武器だと誤解されたが、次は《緋月を封じる黒鞘》などと論文を書かれかねない。
「戦術としては正しかった」
俺は自分へ言い聞かせる。
刀を残していても、ディルクへ勝てたとは思えない。
制約で得た集中と受け流し精度がなければ、夜明けどころか数合で終わっていた。
「もう一度やるかと聞かれたら、絶対に嫌だが」
「……次は、刀」
「次はない」
「……槍の人、あるって」
「あいつが勝手に言っているだけだ」
「……表示も」
「表示を根拠にするな」
【再戦イベント:発生予定】
「予定に入れるなよ!」
宿の食堂では、豆と麦を煮込んだ雑炊が出た。
肉はほとんど入ってなく、塩味も薄い。
それでも温かい……、今の俺には、それだけで十分だった。
「うまい……」
思わず漏れた。
琥珀亭の煮込みには及ばないが、戦場で冷えた保存食を齧るより何倍もいい。
向かいに座ったノーチェも、一口食べる。
「……おいしい」
「今は何でもうまく感じるな」
「……煮込みも、食べたい」
「フェルマータへ戻ったらな」
言ってから、少し止まる。
戻る……、当然、そのつもりだった。
フェルマータの宿、琥珀亭、闘技場。
俺がこの三年間で作った生活。
原作開始を見届けたら、またそこへ戻る予定だった。
だが、もう原作は始まっている。
しかも俺の知っている形ではない。
アルディスの開始地点は変わったし、帝国軍の侵攻経路も変わった。
ディルクと黒騎士団まで序盤へ出てきた。
俺がフェルマータへ戻り、観客席へ座り直せば済む状況ではない。
食堂の入口が開けば、冷たい風とともに、旅人が三人入ってくる。
商人風の男に、護衛らしい若者、そして杖をついた老人。
三人とも席へ着くなり、戦場の噂を話し始めた。
「ベルン砦の方は、王子が脱出したらしい」
商人が声を潜める。
「帝国の黒騎士団に囲まれたんじゃなかったのか」
「それが、正体不明の剣士が現れたそうだ」
早い、噂が広がるのが早すぎるって。
護衛の若者が身を乗り出す。
「聞いたぞ。黒い仮面の男だろ?」
「そうだ。《彼》と呼ばれているらしい」
なぜフェルマータの呼び名まで届いているんだよ!?
黒騎士団の報告か?王国兵が知っていたのか?
あるいは闘技場の観客が戦場にいたのか?
「古い見張り塔を、一刀で真っ二つにしたとか」
違う、断じて違う!
「塔を倒したのは投石だって」
思わず小さく言う。
ノーチェがこちらを見る。
「……支柱も」
「そうだ。俺は支柱を斬っただけだ」
「何の話だ?」
近くの客が振り返った。
「あぁ……独り言です」
老人が話を続ける。
「それだけではない。黒曜の軍神ディルクと、百余合もの間、渡り合ったそうだ」
斬り合ってはいないって……、俺はほとんど鞘だった。
「一晩中だと聞いたぞ」
商人が目を丸くする。
「いや、三日三晩だったという話もある」
どうしてそうなったよ……、俺は内心頭を抱えていた。
「その覆面男、赤い月を呼び出したらしい」
もう、匙を置きたくなってきたわ。
「……緋色」
ノーチェがつい、口を挟んでしまった。
商人がこちらを見る。
「お嬢ちゃんも見たのか?」
「……見た」
「おい。ノーチェ!」
「……綺麗だった」
「やめろって!」
老人の目が輝く。
「では本当なのか!」
「布です」
全員が俺を見る。
「外套の裏地が風で翻っただけです」
「なぜそこまで知っている?」
「詳しい御者でした」
便利だな、御者、全て押しつけられる。
護衛の若者が卓を叩いた。
「きっと古代の奥義だ! 緋色の月で大槍を包んだんだろう!」
大体合っているのが、すげぇ腹立たしい!
「技の名前は?」
「知りません」
即答したが、ノーチェが口を開こうとする。
俺は匙で彼女の口元へ雑炊を運んだ。
「……ん」
「食べていろ」
「……熱い」
「すまん」
少し冷ましてから、もう一度渡す。
技名まで一般へ広まるのは避けたい。
帝国軍の正式記録には残ったし、黒騎士団は全員聞いている。
そこはもう諦めるしかないが、民間伝承にまで《緋月・無刀返し》が載れば、闘技場で必殺技を求められる。
「緋月を見せろ!」
「今日は無刀返しか!」
そんな声が客席から飛んでくる未来が見える……絶対に嫌だ!
「もう盛られてるや……」
俺は額を押さえた。
ノーチェが雑炊を食べながら答える。
「……綺麗だったから」
「美しさは誇張していい理由にならない」
「……格好よかった」
「もう言うなって」
「……神様も、最高って」
「俺はそいつの評価は聞いていない……」
まだまだ旅人たちの会話は続く。
王子が生き延びた、黒騎士団が撤退した。
正体不明の男が帝国兵を一人も殺さなかった。
話は少しずつ形を変えながら、すでに街道を走っている。
完全に消すことはできない。
進路を変えることも、聞いた人間の記憶を奪うこともできない。
俺がやったことは、もう俺だけのものではなくなってしまった。
食事を終え、俺達は部屋へ戻る。
ノーチェが卓へ地図を広げた。
俺は椅子へ座り、リュームリア西部の位置を指でなぞる。
アルディスたちは東の森を抜けた。
その先で、残存兵力と避難民をまとめるはずだ。
原作では王都南部から脱出し、古い水道橋を経て東方の村へ向かう。
そこで最初の仲間と出会う。
だが、今は違う。
位置がずれているし、同行する兵士も違う。
さらに、避難民まで抱えている。
「……追う?」
ノーチェが尋ねると、俺はしばらく地図を見る。
アルディスと会ったし、言葉も交わした。
真っ直ぐな目だった。
俺が道を開けた後、その道を自分の責任で進むと答えた。
本物だった……彼こそが、誰かの前に立てる人間、そう実感した。
「追わない」
「……助けない?」
「必要なら助ける」
「……同じ?」
「同行はしない」
俺は地図の上で、アルディスたちが向かうと思われる東方の道を示す。
「アルディスは、自分で仲間を集める」
「……知ってる未来?」
「元はな」
原作では、亡国の王子が各地を巡る。
村を救い、傭兵を雇い、旧臣と再会する。
山岳諸国の支持を取りつけ、仲間との信頼を積み上げ、やがて解放軍を作る。
その過程に意味がある。
最初から俺が隣にいれば、戦力は上がるし、詰む場面も減ると思う。
だが、《彼》の名声がアルディスより先に広まればどうなる。
王子の軍ではなく、正体不明の英雄が率いる軍に見える。
俺が否定しても、周囲がそう受け取る。
アルディスが自分の力で人々の信頼を得る機会を奪う。
「それに、俺が知っている異常は、アルディスの進路だけではない」
地図の西側へ目を移す。
ヴァイセンベルク帝国。
本来なら終盤まで帝国側に立ち続けるはずだった者。
俺の余計な言葉で、選択を変え始めた者。
原作より早く力を得た者。
そして、本来なら最後まで交わらないはずだった者。
名前を並べるだけで頭が痛い。
「原作から外れた人間が、増えている」
「……進のせい?」
「大半はな」
全く否定できない。
村を救った、道が残った、侵攻経路が変わった。
軽い助言のつもりで、誰かの進む先を変えた。
ノーチェに至っては、俺の説明文を読んで神殿を飛び出した。
本人の判断だと言いたいが……、原因は俺だ。
「アルディスのそばにいれば、他の場所へ手が届かない」
「……別の道?」
「そうだ」
俺は地図の余白へ線を引く。
アルディスの進路とは重ならないが、離れすぎない。
情報を集められ、必要なら救援へ向かえる距離。
「アルディスは表を進む」
王国を再建して人々を集める。やがて、国と国を動かす。
「俺たちは、その道の外で崩れそうな場所を塞ぐ」
ノーチェが地図を見る。
「……陰から?」
「そうだ」
「……秘密の軍?」
「違う」
「……別働隊」
「違う」
「……裏の解放軍」
「絶対に違う!」
何で軍にしたがるんだよ、今二人しかいないじゃないか。
俺とノーチェ、特に片方は自称一般人。
もう片方は、神殿から無断でついてきた巫女だ。
軍ですらなければ、組織ですらない。
「必要な異常を調べるだけだ」
「……旅?」
「まあ、そうなる」
「……一緒に?」
そこで、話を止める。
今後の方針を決める前に、一つ確認しなければならない。
「お前は神殿へ戻ってくれ」
ノーチェの表情は変わらなかった。
「……嫌」
「予想どおりの答えをしないでくれ」
「……戻らない」
「星降りの遺跡には、お前の仕事があるだろう?」
「……ここにも、ある」
「俺の観測か」
「……うん」
ノーチェの未来視が役に立ったのは間違いない。
侵攻が始まっていることを最初に見抜いたし、アルディスの未来を探した。
塔が崩れる入口を見つけたし、ディルクとの戦いでも、危険をいくつも警告した。
俺一人なら、どこかで死んでいた可能性はある。
だが、それと同行を認めることは別だ。
ノーチェはまだ若く、身体は華奢。
未来視を深く使えば、頭痛と視界不良を起こす。
どう見ても、戦場向きではない。
「次は死ぬかもしれないんだ」
「……今回も」
「そうだ、今回だって死んでいたかもしれないんだ」
「……でも、いた」
「それは……」
ノーチェは少し考える。
短い言葉を選ぶ時の沈黙。
「……進、一人だと」
「ん?」
「……誰かを助けて、自分を忘れる」
言葉に詰まった。
「忘れていない」
「……槍の前に、残った」
「アルディスたちを逃がすためさ」
「……刀、使えないのに」
「制約の恩恵があったんだ」
「……怪我、たくさん」
「結果、そうなっただけさ」
「……逃げ道、ないって出てた」
……ステータスを見ていたのか。
ノーチェは俺のステータスを一部読める。
戦闘中も、表示を見ていたらしい。
「……未来を見る人、必要」
「深く見すぎれば、お前が倒れるぞ」
「……止める人も、必要」
ノーチェが俺を指差す。
「俺かよ」
「……うん」
「止まると思うか」
「……少し」
「少しか」
「……あと」
ノーチェが空になった器を見る。
食堂から持ってきたわけではない。
思い出しただけだろう。
「……煮込みを、一緒に食べる人も」
最後だけ、声が少し柔らかかった。
観測対象で、世界の外から来た異物。
俺への印象など、最初はそれだけだったはずだ。
でも、今は違うらしい。
そして俺にとっても、ノーチェは単なる未来視の道具なんかでは、決してない。
戦場で一人ではなかった。
短い声が届いた。
危険を教えた。
馬鹿な技名を聞かれた。
全部覚えられた。
……、助かった。
「それでも、神殿の許可は必要だろ」
「……後で取る」
「先に取ってくれ」
「……急いでた」
「毎回それで押し通すな」
ノーチェは黙るが、戻る気はない。
無表情に近いが、こういう時だけ妙に頑固だ。
「なら、お前の神様へ聞くのはどうだ?」
「……何を?」
「神殿へ戻るべきか、俺についてくるべきか」
半分はやけだった。
星詠み神殿の巫女なのだから、神託が本当にあるなら戻れと言うはずだ。
世界の外のお告げとやらも、さすがに無断同行を推奨しないだろう。
「……分かった」
ノーチェは星盤を卓の中央へ置けば、両手を添えて、目を閉じる。
左眼へ淡い金環が浮かび、青銅の星盤に刻まれた文字が、淡く光った。
部屋が静かになる。
板戸の隙間から、夜の風が細く入る。
しばらくして……、ノーチェが口を開いた。
「……賽は投げられた」
「急に格調高い言葉がでてきたな!?」
聞いたことのある表現……、後戻りできないという意味。
何だか、すっごく嫌な予感がする。
「……ヒーロー」
「……おい、ちょっと!」
「……大地に立つ」
「ちょっとまってくれ!」
「……顔が書かれてる」
「……顔?」
ノーチェが目を開けると、\(・・)/、と表現するかのように、いきなり勢いよく万歳のポーズをした。
「なんだよそれぇ!?神様が顔文字を使ってのか!?」
「……顔文字?……よくわからないけど、神様はきっと喜んでる」
「何をだよ!」
「……物語が、動いたから?」
「物語として数えるな!」
完全に運営のお知らせみたいで、神託ではない。
「それを神様だと思うのはやめた方がいい……」
「……神様」
「神様はもっと荘厳であれ!」
「……賽は投げられた」
「そこだけ荘厳にするな!」
嫌な予感がさらに強くなった俺は、すかさず自分のステータスを開いた。
【田中 進】
【所属:なし】
【兵種:《ヒーロー》】
【状態:負傷/疲労/説明文への警戒】
状態欄が正確すぎる。
更に下へ送る。
【同行者候補:ノーチェ】
「候補になっている」
ノーチェが隣から覗く。
「……うん」
「うんではないわ!」
さらに下。
【物語進行:第一章完了】
「勝手に区切るな!いや、一区切りついたのかもしれないが、表示するな!」
そして、問題の説明文。
以前は、
『ここまで遊んでくれてありがとう!
君はこの世界のヒーローさ☆』
だった。
文字が揺れれば、新しい文章へ切り替わる。
【説明】
『賽は投げられた!ヒーロー、大地に立つ!\(^^)/最初の仲間と、世界を救う旅へ出よう!』
俺は停止した、ノーチェも表示を見ている。
「……仲間」
「まだ決めていない」
文字はさらに続く。
【新規機能:《同行者編成》】
【第一同行枠:ノーチェ】
【状態:正式化待機】
「待機するなって!お前は、これでいいのか」
ノーチェは表示を見る。
「……うん」
「危険なんだぞ」
「……知ってる」
「神殿へ戻る道もあるから」
「……戻らない」
「俺についてくると、また変な表示を見ることになる」
「……見たい」
「そこは否定してくれよ」
ノーチェは、ほんの少しだけ笑った。
即答ではないし、勢いでもない。
それでも、自分で選んでいる。
だから少しだけ、俺も怒る勢いを失う。
「なら、条件がある」
「……何?」
俺は指を一本立てる。
「無断で深い未来視を使わない」
「……うん」
「体調が悪い時は隠さない」
「……うん」
「危険な時は、俺が退けと言ったら退く」
ノーチェが少し止まる。
「……状況による」
「今、うんと言ってくれ」
「……努力する」
二本目。
「神殿へ定期的に連絡する」
「……後で」
「定期的という言葉を理解しているか」
「……たぶん」
三本目。
「他人の食事を勝手に取らない」
「……取ってない」
「俺の煮込みを食べた」
「……一匙」
「量の問題ではない」
四本目。
「人前で俺のステータスを読まない」
「……うん」
「特に説明文と奥義名」
「……緋月」
「今、言わなくいていい!」
「……無刀返し」
「今分かった……。そこは絶対条件だぞ!」
ノーチェはわずかに頬を膨らませた。
「最後」
俺は手を差し出す。
「勝手についてくるのではなく、俺の旅の仲間として来てほしい」
ノーチェが自分自身の手を見て、次に、俺の顔を見る。
そして、ゆっくりと、俺の手に自分の手を重ねた。
小さくて、冷たい。
だが、しっかり握り返してくる。
「ノーチェ。これから、よろしく頼む」
「……うん……よろしく、進」
表示が更新される。
【第一同行枠:ノーチェ】
【状態:正式加入】
【関係:観測対象】
文字が揺れた。
【関係:旅の仲間】
今度は叫ばなかった。
その文字を少しだけ見てから、表示を閉じる。
板戸の外で、風が鳴った。
宿の夜は静かで、戦場の音は聞こえない。
俺とノーチェ。
正式な旅の仲間は、まだ二人だけだ。
でも、それで十分だった。
少なくとも、その時はそう思っていた。
翌朝。
卓の上へ地図と手帳を広げる。
身体はまだ痛いが、昨夜よりはましだった。
ノーチェは窓際の椅子へ座り、星盤を膝へ載せている。
俺は今後の方針を手帳へ書く。
【アルディスへ直接同行しない】
【原作の異常箇所を調査】
【侵攻経路変更の原因を確認】
【過去に関わった人物の動向を把握】
【帝国中枢の計画を探る】
【必要時のみ介入】
これでいい、原作主人公の物語を奪わないが、放置もしない。
世界の外側から崩れた部分だけを直す。
「これでいい」
ノーチェが手帳を覗き込む。
「……仲間、増える?」
「今は考えない」
「……二人?」
「二人だ」
「……小規模」
「軍ではない」
「……個人の実力は?」
「俺は一般人だ」
ノーチェが黙ってこちらを見る。
「何だ」
「……一般人は、軍神と朝まで戦わない」
「例外もあるさ」
「……塔も倒さない」
「忘れてくれ……」
ノーチェは納得していない。
俺は手帳へ大きく書き足した。
【少人数で行動】
【組織を作らない】
【解放軍ではない】
「これで完璧だな」
ノーチェが読んでいる。
「……否定、多い」
「大事なことだからな」
視界の端に文字が浮かんだ。
【暫定行動単位:二名】
【組織判定:未成立】
「そうそう、これだ。これでいい」
俺は初めて表示へ素直に頷いた。
次の一行が出る。
【将来的拡張性:高】
「余計なことを書くな!」
朝の宿へ、俺の声が響いた。
階下から宿の主人が叫ぶ。
「怪我人なら静かに寝てろ!」
「すみません!」
ノーチェが小さく頷く。
「……拡張性、高」
「読むな」
「……増える?」
「増やさない」
「……未来」
「見るな」
ノーチェは、ほんの少し笑った。
板戸の向こうには、朝の街道がある。
アルディスは別の道を進むし、帝国も動く。
俺が変えてしまった人々も、それぞれの場所で選び始めている。
俺はいずれ、観客席へ戻るつもりだった。
必要な時だけ手を出し、終われば消えるつもりだった。
だが、どうやらもう遅いらしい。
賽は投げられた。
ヒーロー、大地に立つ。
顔文字だけは、絶対に認めない。
俺は手帳を閉じた。
隣では、最初の旅の仲間が星盤を抱えている。
「行くか」
「……うん」
「まずはフェルマータだ」
「……煮込み」
「それから情報整理だ」
「……煮込みの後?」
「そうだ」
「……麦酒も?」
「お前は飲むなよ?」
「……一匙」
「匙でもだめだからな!」
ノーチェが星盤を抱えて立ち上がる。
俺も傷んだ身体を庇いながら、背負い籠を持った。
新しい旅の始まりにしては、格好がつかない。
刀の鞘は割れかけで、外套は裂けている。
さらに、包帯だって厚い。
そして同行者は、神殿へ無断で飛び出した巫女。
それでも、一人ではない。
それだけは、悪くなかった。