観客席の男 ―ここまで遊んでくれてありがとう! 作:ザキグン
ベルン砦を離れて、二日が経った。
街道は南西へ向かうにつれて細くなり、やがて馬車が一台通るのがやっとの幅になった。
左右には背の高い木々が連なっている。
陽はまだ高いが、重なった枝葉が光を遮り、道の上には薄暗い影が落ちていた。
帝国軍が次に使う可能性のある進軍路は、俺の記憶では三つ。
そのうち二つは主要街道だ。
補給が容易で、大部隊を動かすにも向いている。
だが、ディルクの部隊がベルン砦で足止めされた以上、帝国が原作どおりの道を選ぶ保証はない。
既に一度、筋書きは変わっているのだ――いや、正確に言えば、俺が変えた。
帝国軍の先鋒を止め、アルディスたちを生き延びさせた。本来なら失われていた兵や物資も残っている。
ならば、敵が次の手を変えるのは当然だった。
原作知識があるからといって、同じ場所で同じ出来事が起きると思い込む方が危険だ。
今後は、帝国の進軍経路を先回りして確認する。
原作で罠や襲撃が起きた場所を調べ、必要なら崩す。
アルディス軍へ合流するつもりはない。
俺があの軍に居続ければ、原作からのずれはさらに大きくなる。
それに、俺が立つ場所はあそこではない。
アルディスは主役だ。
彼が仲間を集め、軍を率い、この大陸を東から西へ進む。
俺は、その道が途中で閉ざされないように、外側から少し手を入れるだけでいい。
そのはずだった。
「……進」
隣を歩いていたノーチェが、俺を見上げた。淡銀色の髪が、木漏れ日を受けて淡く輝いている。小柄な身体には少し大きく見える旅装の上から、白と藍の外套を羽織っていた。
「何だ?」
「……また、難しい顔」
「生まれつきだ」
「……嘘」
「最近、遠慮がなくなってきたな」
ノーチェは少しだけ首を傾げた。
「……同行者だから」
その言葉に、返事が一拍遅れた。
同行者……そうだ。
ノーチェは、もう勝手についてきているだけの少女ではない。
ベルン砦を発つ前、俺は彼女の意思を改めて確認した。
神殿へ戻る道もある、今ならまだ引き返せる――そう伝えた俺に、ノーチェは迷わなかった。
俺と一緒に行く。変わり始めた未来を見る。そして、見えたものを伝える。
それが自分の選択なのだと、静かな、けれど揺るがない声で言った。
だから俺も、その意思を受け入れた。
同行を認めたこと自体を、間違いだとは思っていない。
できることなら、神殿へ戻ってほしい、それが本音だ。
神殿が絶対に安全だとは言えないし、未来を見る力を持つ彼女が、いつまでも穏やかに暮らせる保証もない。
それでも、帝国軍の進軍路を歩き、戦場になるかもしれない場所へ向かうよりはましだ。
だが、ノーチェの力がなければ、変わり始めた原作の歯車を読み直すことは、今よりはるかに難しくなる。
俺が知っているのは、既に過去のものになりつつある筋書きだ。
俺が一度手を伸ばすたびに、帝国の進軍経路も、仲間の加入時期も、誰かが死ぬ場所も少しずつ変わる。
その変化の先を見られるのは、ノーチェだけだった。
だから必要だと考えるのは簡単だ。
彼女自身が道を望んだし、彼女には未来を見る力がある。
さらには危険を事前に知ることもできる……、どれも間違いではない。
だが、それを理由に十六歳の少女を危険な場所へ連れていくことを、正当化してはいけない。
仕方がないと諦めてもいけない。
それは分かっている……、分かっているが――どうしようもない、必要としているのも事実だった。
「……進」
「今度は何だ?」
「……考えすぎ」
「未来を見られる奴に言われたくないな」
ノーチェは少しだけ目を細めた。
「……私は、見るだけ」
「それが一番大変なんだよ」
未来が見えるからといって、楽になるとは限らない。
むしろ、避けられない結果まで見えてしまう可能性がある。
ベルン砦でも、ノーチェは一人でいくつもの未来を見ていた。
その中には、俺やアルディスたちが死ぬものもあったはずだ。
彼女はそれをほとんど口にしなかった。
俺の判断を鈍らせないために、たった一人で抱えていたのだ。
そう考えると、ますます神殿へ戻せという言葉は言えなくなる。
仲間として扱うと決めたのなら、彼女の意思も能力も信じなければならない。
だが、信頼することと、危険に慣れることは違う。
彼女を戦場へ連れていくことに、俺自身が慣れてはいけない。
俺は小さく息を吐き、前方へ視線を戻した。
その時だった。
森の奥で、枝が一本だけ揺れた。
風は、右から左へ吹いている。だが、その枝だけが逆方向へ戻った。
足を止めれば、ノーチェも、ほとんど同時に立ち止まった。
俺は視線を動かさないまま、小さな声で尋ねる。
「……気づいているか」
「……三回目の曲がり角から」
「最初から言ってくれ」
「……進も、気づいていた」
「確認だ」
「……強がり」
本当に遠慮がなくなってきたな……だが、今はそれどころではない。
気配は一つ、俺たちから一定の距離を保ち、森の中を移動している。
足音はほとんど聞こえない。
枝を踏む音も、衣服が葉へ擦れる音もない。
ただ、完全に自然へ溶け込んでいるわけではなかった。
こちらが歩く速度を変えるたび、相手も同じように距離を調整している。
帝国の斥候か?アルディスたちを追う別働隊か?それとも、ベルン砦に現れた《彼》の正体を探る者か?
俺は袖の内側にある魔道触媒へ指を触れた。
刀は背負い籠の底……今の俺は、生成りの麻シャツに茶色いベストを着た、どこにでもいる行商人姿だ。
覆面装束へ着替える余裕はない。もっとも、相手が一人なら、今のままでもどうにかなる。
「ノーチェ」
「……うん」
「俺の後ろへ」
「……隣」
「今だけは後ろだ」
ノーチェは不満そうに一度だけ瞬きをしたが、反論せずに一歩下がる。
その判断に安堵した自分を、俺は少しだけ嫌悪した。
俺はわざと歩調を戻した。
何も気づいていない顔で、街道を進む。
十歩、二十歩。
右手には木々、左手には緩やかな斜面。
そして前方には、少しだけ開けた場所がある。
追跡者が仕掛けるなら、そこだ。
俺は開けた場所の中央まで進み、立ち止まった。
ノーチェも背後で止まる。
鳥の鳴き声が消えた。風だけが枝葉を揺らしている。
来る――そう思った瞬間、気配が消えた。
「……?」
右ではないし、左でもない……斜面の上にもいない。
視界の外へ出たのとも違う。
存在そのものを、こちらの感覚から丸ごと切り離されたような消え方だった。背筋に冷たいものが走る。
直後――すぐ後ろで、落ち葉を踏む小さな音がした。
「……っ! 誰だ!」
左手でノーチェを庇いながら振り返り、右手を背負い籠の紐へ掛ける。
必要なら、籠ごと捨てて刀を抜く。
だが、そこにいたのは帝国兵ではなかった。
木の幹の陰から、一人の少女がひょいと顔を出している。
年齢は、十七か十八ほどだろう。
長い黒髪を緩く束ね、旅装の上から薄い外套を羽織っている。
細身で、武器らしいものは見当たらない。
口元には、人懐っこい笑み。
両手を軽く上げたまま、少女は楽しそうに首を傾けた。
「おやおや〜。酷いですよ。そんなに警戒しないでください〜♪」
敵意は感じない。
それでも、俺の警戒は解けなかった。
これほど近づかれるまで、気配を掴めなかった……普通の旅人ではない。
俺は少女の顔を見る……、知らない。少なくとも、記憶にはない。
「へ……?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「あれ……?」
もう一度、顔を見るが、やはり知らない。
「誰……?」
少女の笑顔が固まった、ほんの一瞬だけ。
次の瞬間には、胸を押さえて大きくのけぞる。
「わ〜、ひど〜い!」
「何がだ」
「わたしのことを、あんなにもみくちゃめちゃくちゃにして〜」
「は?」
「服の中まで触って、押さえつけて、最後には気を失わせたのに〜」
「はぁ!?」
少女は両手で顔を覆った。
肩が小刻みに震えている。泣いている――ように見えるが、指の隙間からこちらを見ている。
「それなのに、用が済んだら、ぽいっ! ですよ〜。しくしく〜」
「何を訳の分からないこと言ってるんだ!?」
背後から、ノーチェの声がした。
「……進」
嫌な予感がする。振り返りたくない。
「違うぞ」
「……まだ、何も言ってない」
「言う前に否定しておく」
ノーチェが、少女と俺を交互に見る。
「……女の敵」
「誤解だ!」
「……覚えた」
「変なことを覚えるんじゃない、ノーチェ!」
少女は、ますます楽しそうに言葉を重ねる。
「本当に酷かったんですよ〜。暴れるわたしを床へ押さえつけて、服を切って、肌をあちこち触って〜」
「傷を確認しただけだ!」
言ってから、気づく。ノーチェの目が細くなった。
「……覚えがある」
「違う! そういう意味じゃない!」
「やっぱり、覚えているじゃないですか〜♪」
「断片的な言葉に反応しただけだ!」
「では、気を失わせたことは?」
「治療のために仕方なくだ!」
「……治療」
ノーチェの視線が、少しだけ柔らかくなる。
「そうだ。治療だ」
「でも、押さえつけた」
「暴れたからだ!」
「服を切った」
「傷が見えなかったからだ!」
「身体に触った」
「治療だからだ!」
ノーチェは少し考えた。
「……ぎりぎり、無罪」
「最初から無罪だ!」
少女はついに堪えきれなくなったらしい。顔を覆っていた手を下ろし、くすくすと笑い始める。
「ふふっ。相変わらずですねえ」
「相変わらずと言われても、本当に分からないんだが」
俺は改めて少女を見る。
黒髪に整った顔立ち、よく動く目に、何より、笑っている。
記憶の中に、これほどよく喋る少女はいない。
「悪いが、人違いじゃないのか?」
「それは、本気で傷つきますねえ」
少女の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。だが、次の瞬間には元へ戻る。
「では、ヒントを差し上げましょうか〜」
「ヒント?」
「はい。裏稼業、雨の夜、血まみれの倉庫」
俺は眉を寄せた。
覚えがないわけではない、似たような状況へ首を突っ込んだことは、一度や二度ではなかった。
原作では死ぬはずだった兵士。
賊に襲われた商隊。
帝国に処分されようとしていた密偵。
どれも、俺にとっては大筋に影響しないはずの小さな介入だった。
少女は人差し指を立てる。そして、最後の言葉だけを少しゆっくり口にした。
「それから――《宵雀》」
「……っ」
雨音、血の匂い、暗い倉庫。
短剣を握り、壁際に追い詰められていた少女。
視界へ浮かんでいた、名前ではない呼び名。
【識別名:《宵雀》】
忘れていたわけではない。
ただ、目の前の少女と結びつかなかった。
あの時の少女は、顔の下半分を黒い布で覆っていた。
髪も短く、今よりずっと痩せていた。何より――一度も、笑わなかった。
「……まさか」
少女が、嬉しそうに目を細める。
「やっと思い出してくれました〜?」