観客席の男 ―ここまで遊んでくれてありがとう!   作:ザキグン

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宵雀という名前ではなかった①

ベルン砦を離れて、二日が経った。

街道は南西へ向かうにつれて細くなり、やがて馬車が一台通るのがやっとの幅になった。

左右には背の高い木々が連なっている。

陽はまだ高いが、重なった枝葉が光を遮り、道の上には薄暗い影が落ちていた。

帝国軍が次に使う可能性のある進軍路は、俺の記憶では三つ。

そのうち二つは主要街道だ。

補給が容易で、大部隊を動かすにも向いている。

 

 だが、ディルクの部隊がベルン砦で足止めされた以上、帝国が原作どおりの道を選ぶ保証はない。

既に一度、筋書きは変わっているのだ――いや、正確に言えば、俺が変えた。

帝国軍の先鋒を止め、アルディスたちを生き延びさせた。本来なら失われていた兵や物資も残っている。

ならば、敵が次の手を変えるのは当然だった。

原作知識があるからといって、同じ場所で同じ出来事が起きると思い込む方が危険だ。

今後は、帝国の進軍経路を先回りして確認する。

原作で罠や襲撃が起きた場所を調べ、必要なら崩す。

アルディス軍へ合流するつもりはない。

俺があの軍に居続ければ、原作からのずれはさらに大きくなる。

それに、俺が立つ場所はあそこではない。

 

 アルディスは主役だ。

彼が仲間を集め、軍を率い、この大陸を東から西へ進む。

俺は、その道が途中で閉ざされないように、外側から少し手を入れるだけでいい。

そのはずだった。

 

「……進」

 隣を歩いていたノーチェが、俺を見上げた。淡銀色の髪が、木漏れ日を受けて淡く輝いている。小柄な身体には少し大きく見える旅装の上から、白と藍の外套を羽織っていた。

「何だ?」

「……また、難しい顔」

「生まれつきだ」

「……嘘」

「最近、遠慮がなくなってきたな」

 

 ノーチェは少しだけ首を傾げた。

「……同行者だから」

 その言葉に、返事が一拍遅れた。

 

同行者……そうだ。

ノーチェは、もう勝手についてきているだけの少女ではない。

ベルン砦を発つ前、俺は彼女の意思を改めて確認した。

神殿へ戻る道もある、今ならまだ引き返せる――そう伝えた俺に、ノーチェは迷わなかった。

俺と一緒に行く。変わり始めた未来を見る。そして、見えたものを伝える。

それが自分の選択なのだと、静かな、けれど揺るがない声で言った。

だから俺も、その意思を受け入れた。

同行を認めたこと自体を、間違いだとは思っていない。

できることなら、神殿へ戻ってほしい、それが本音だ。

神殿が絶対に安全だとは言えないし、未来を見る力を持つ彼女が、いつまでも穏やかに暮らせる保証もない。

 それでも、帝国軍の進軍路を歩き、戦場になるかもしれない場所へ向かうよりはましだ。

 

だが、ノーチェの力がなければ、変わり始めた原作の歯車を読み直すことは、今よりはるかに難しくなる。

俺が知っているのは、既に過去のものになりつつある筋書きだ。

俺が一度手を伸ばすたびに、帝国の進軍経路も、仲間の加入時期も、誰かが死ぬ場所も少しずつ変わる。

その変化の先を見られるのは、ノーチェだけだった。

だから必要だと考えるのは簡単だ。

彼女自身が道を望んだし、彼女には未来を見る力がある。

さらには危険を事前に知ることもできる……、どれも間違いではない。

 だが、それを理由に十六歳の少女を危険な場所へ連れていくことを、正当化してはいけない。

仕方がないと諦めてもいけない。

 

それは分かっている……、分かっているが――どうしようもない、必要としているのも事実だった。

 

「……進」

「今度は何だ?」

「……考えすぎ」

「未来を見られる奴に言われたくないな」

 ノーチェは少しだけ目を細めた。

「……私は、見るだけ」

「それが一番大変なんだよ」

 

 未来が見えるからといって、楽になるとは限らない。

むしろ、避けられない結果まで見えてしまう可能性がある。

ベルン砦でも、ノーチェは一人でいくつもの未来を見ていた。

その中には、俺やアルディスたちが死ぬものもあったはずだ。

彼女はそれをほとんど口にしなかった。

俺の判断を鈍らせないために、たった一人で抱えていたのだ。

そう考えると、ますます神殿へ戻せという言葉は言えなくなる。

仲間として扱うと決めたのなら、彼女の意思も能力も信じなければならない。

 

 だが、信頼することと、危険に慣れることは違う。

彼女を戦場へ連れていくことに、俺自身が慣れてはいけない。

俺は小さく息を吐き、前方へ視線を戻した。

 

 その時だった。

 

森の奥で、枝が一本だけ揺れた。

風は、右から左へ吹いている。だが、その枝だけが逆方向へ戻った。

足を止めれば、ノーチェも、ほとんど同時に立ち止まった。

俺は視線を動かさないまま、小さな声で尋ねる。

 

「……気づいているか」

「……三回目の曲がり角から」

「最初から言ってくれ」

「……進も、気づいていた」

「確認だ」

「……強がり」

 

 本当に遠慮がなくなってきたな……だが、今はそれどころではない。

気配は一つ、俺たちから一定の距離を保ち、森の中を移動している。

足音はほとんど聞こえない。

枝を踏む音も、衣服が葉へ擦れる音もない。

ただ、完全に自然へ溶け込んでいるわけではなかった。

こちらが歩く速度を変えるたび、相手も同じように距離を調整している。

帝国の斥候か?アルディスたちを追う別働隊か?それとも、ベルン砦に現れた《彼》の正体を探る者か?

 俺は袖の内側にある魔道触媒へ指を触れた。

刀は背負い籠の底……今の俺は、生成りの麻シャツに茶色いベストを着た、どこにでもいる行商人姿だ。

覆面装束へ着替える余裕はない。もっとも、相手が一人なら、今のままでもどうにかなる。

 

「ノーチェ」

「……うん」

「俺の後ろへ」

「……隣」

「今だけは後ろだ」

 ノーチェは不満そうに一度だけ瞬きをしたが、反論せずに一歩下がる。

その判断に安堵した自分を、俺は少しだけ嫌悪した。

俺はわざと歩調を戻した。

何も気づいていない顔で、街道を進む。

 

十歩、二十歩。

右手には木々、左手には緩やかな斜面。

そして前方には、少しだけ開けた場所がある。

 

追跡者が仕掛けるなら、そこだ。

 

 俺は開けた場所の中央まで進み、立ち止まった。

ノーチェも背後で止まる。

鳥の鳴き声が消えた。風だけが枝葉を揺らしている。

 

来る――そう思った瞬間、気配が消えた。

 

「……?」

 右ではないし、左でもない……斜面の上にもいない。

視界の外へ出たのとも違う。

存在そのものを、こちらの感覚から丸ごと切り離されたような消え方だった。背筋に冷たいものが走る。

 

 直後――すぐ後ろで、落ち葉を踏む小さな音がした。

 

「……っ! 誰だ!」

 左手でノーチェを庇いながら振り返り、右手を背負い籠の紐へ掛ける。

必要なら、籠ごと捨てて刀を抜く。

だが、そこにいたのは帝国兵ではなかった。

 

木の幹の陰から、一人の少女がひょいと顔を出している。

年齢は、十七か十八ほどだろう。

長い黒髪を緩く束ね、旅装の上から薄い外套を羽織っている。

細身で、武器らしいものは見当たらない。

口元には、人懐っこい笑み。

両手を軽く上げたまま、少女は楽しそうに首を傾けた。

 

「おやおや〜。酷いですよ。そんなに警戒しないでください〜♪」

 敵意は感じない。

それでも、俺の警戒は解けなかった。

これほど近づかれるまで、気配を掴めなかった……普通の旅人ではない。

俺は少女の顔を見る……、知らない。少なくとも、記憶にはない。

 

「へ……?」

 思わず、間の抜けた声が出た。

「あれ……?」

 もう一度、顔を見るが、やはり知らない。

「誰……?」

 少女の笑顔が固まった、ほんの一瞬だけ。

次の瞬間には、胸を押さえて大きくのけぞる。

 

「わ〜、ひど〜い!」

「何がだ」

「わたしのことを、あんなにもみくちゃめちゃくちゃにして〜」

「は?」

「服の中まで触って、押さえつけて、最後には気を失わせたのに〜」

「はぁ!?」

 少女は両手で顔を覆った。

肩が小刻みに震えている。泣いている――ように見えるが、指の隙間からこちらを見ている。

 

「それなのに、用が済んだら、ぽいっ! ですよ〜。しくしく〜」

「何を訳の分からないこと言ってるんだ!?」

 背後から、ノーチェの声がした。

「……進」

 嫌な予感がする。振り返りたくない。

「違うぞ」

「……まだ、何も言ってない」

「言う前に否定しておく」

 ノーチェが、少女と俺を交互に見る。

「……女の敵」

「誤解だ!」

「……覚えた」

「変なことを覚えるんじゃない、ノーチェ!」

 

 少女は、ますます楽しそうに言葉を重ねる。

「本当に酷かったんですよ〜。暴れるわたしを床へ押さえつけて、服を切って、肌をあちこち触って〜」

「傷を確認しただけだ!」

 言ってから、気づく。ノーチェの目が細くなった。

「……覚えがある」

「違う! そういう意味じゃない!」

「やっぱり、覚えているじゃないですか〜♪」

「断片的な言葉に反応しただけだ!」

「では、気を失わせたことは?」

「治療のために仕方なくだ!」

「……治療」

 ノーチェの視線が、少しだけ柔らかくなる。

「そうだ。治療だ」

「でも、押さえつけた」

「暴れたからだ!」

「服を切った」

「傷が見えなかったからだ!」

「身体に触った」

「治療だからだ!」

 ノーチェは少し考えた。

「……ぎりぎり、無罪」

「最初から無罪だ!」

 

 少女はついに堪えきれなくなったらしい。顔を覆っていた手を下ろし、くすくすと笑い始める。

「ふふっ。相変わらずですねえ」

「相変わらずと言われても、本当に分からないんだが」

 俺は改めて少女を見る。

黒髪に整った顔立ち、よく動く目に、何より、笑っている。

記憶の中に、これほどよく喋る少女はいない。

「悪いが、人違いじゃないのか?」

「それは、本気で傷つきますねえ」

 少女の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。だが、次の瞬間には元へ戻る。

 

「では、ヒントを差し上げましょうか〜」

「ヒント?」

「はい。裏稼業、雨の夜、血まみれの倉庫」

 

 俺は眉を寄せた。

覚えがないわけではない、似たような状況へ首を突っ込んだことは、一度や二度ではなかった。

 

原作では死ぬはずだった兵士。

賊に襲われた商隊。

帝国に処分されようとしていた密偵。

 

どれも、俺にとっては大筋に影響しないはずの小さな介入だった。

少女は人差し指を立てる。そして、最後の言葉だけを少しゆっくり口にした。

 

「それから――《宵雀》」

「……っ」

 

 雨音、血の匂い、暗い倉庫。

短剣を握り、壁際に追い詰められていた少女。

視界へ浮かんでいた、名前ではない呼び名。

 

 

【識別名:《宵雀》】

 

 

 忘れていたわけではない。

ただ、目の前の少女と結びつかなかった。

あの時の少女は、顔の下半分を黒い布で覆っていた。

髪も短く、今よりずっと痩せていた。何より――一度も、笑わなかった。

 

「……まさか」

 少女が、嬉しそうに目を細める。

「やっと思い出してくれました〜?」

 

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