観客席の男 ―ここまで遊んでくれてありがとう! 作:ザキグン
翌朝になっても、フェルマータの町は昨日の試合で浮かれていた。
「これが《彼》の仮面だよ! 今なら銅貨三枚!」
市場へ入って真っ先に聞こえた声に、俺は足を止めた。
露店の台に、黒く塗られた木製の仮面が並んでいる。
目の穴は左右で高さが違い、鼻の部分だけ妙に尖っていた。俺が実際に使っている面頬とは、似ても似つかない。
「子どもでも着けられる幸運の仮面! 昨日の試合を見逃したあんたも、これで《彼》の加護を――」
加護なんかねぇし、あってたまるか!
俺は何も聞かなかったことにして、野菜籠を背負い直した。
その三軒隣では、別の商人が灰色の焼き菓子を売っている。
「名付けて、《彼》の月刃焼きだ!」
細長く伸ばした生地を、申し訳程度に曲げただけの菓子だった。
てか、月刃とは何ぞや。
しかも昨日まで、同じものを《港町の小枝焼き》という名前で売ってなかったか?
「食べれば剣の腕が上がるよ!」
んなものが銅貨数枚で買えるなら、序盤から買い占めて全員の能力を上げまくるに決まっているわ!
ステータス上昇アイテムは貴重なんだぞ!?
誰に何を使うか、終盤まで温存するか、推しへ全部注ぎ込むかで、何時間悩むと思っている!
焼き菓子で剣の腕が上がってたまるかっての!
「兄ちゃん、一つどうだい?」
「いや~結構です」
「そうかい。見たところ、剣には縁がなさそうだもんな」
「ええ、まあ~」
昨日、その剣に縁がなさそうな男が数千人の前で刀を抜いたんですがね。
言う必要はないし、そう思ってくれるのが理想だった。
俺は市場の中央通りを歩いた。
道の左右では、子どもたちが木の棒を腰へ差し、昨日の俺の動きを真似している。
一人が棒を抜こうとして、隣の子どもの耳を叩いた。
やめなさい、鞘から抜く練習の前に、周囲を確認しなさい。
「昨日の《彼》は、こうやったんだ!」
「違うぞ! もっと低く構えてた!」
「最後に剣を回してた!」
回してねぇし……。
血糊を払っただけだ。
そもそも血はついていなかったんだがね。
誰だ、余計な演出を足したのは……俺か。
俺は黙って通り過ぎた。
人気があるのは、ありがたい。
試合を楽しみにしてもらえるのも悪い気はしない。
だが、どうして俺が姿を見せるたびに、町の土産物が一種類ずつ増えていくのだろう。
これ以上続けば、《彼》の酒、《彼》の石鹸、《彼》の寝間着まで売られかねない。
最後のものは本当にやめてほしい。
人気酒場《琥珀亭》は、朝と昼の境目にあたるこの時間だけ、少し静かになる。
夕方になれば、傭兵、商人、闘技場帰りの客で足の踏み場もなくなる店だ。
俺は奥まった壁際の席へ座った。
厨房の方から、店主の太い声が飛んでくる。
「いつものか?」
「お願いします」
「煮込みと黒パン。今日は麦酒なしだな」
「昼前ですから」
「昨日なら、祝杯でもよかっただろうに」
木の器を拭いていた店主が、俺を見た。
いや、正確には俺が座っている席を見た。
「そういや、あんたも闘技場に行ってたんだろ?」
「いましたね」
「《彼》を見たか?」
「一応」
「一応、で済ませる戦いじゃなかっただろう。あのボルガスに《月刃》を抜かされたんだぞ」
月刃。
誰が呼び始めたのかは知らないが、昨夜のうちに町へ広がったらしい。
俺にとっては、ただの刀だって……。
もっとも、この世界では誰もその名を知らない。
「妙な名だが、良い剣だったな」
「そうですか?」
「あんたは興味なさそうだな」
ありますって……、だってその武器、俺のですから。
「剣は扱えないもので」
俺がそう答えると、店主は納得したように頷いた。
疑ってくれとは言わない。
言わないが、もう少し考えてもいいんじゃないかな。
「ところで……あんたの名前、何だった?」
「タナカです」
「そうだった、タナカだ」
店主は一度大きく頷き、厨房へ戻ろうとした。
その足が止まる。
「前もタナカだったか?」
「いや、少なくとも、この店ではずっとそうですって」
「そうか」
納得したらしい……。
俺の顔を覚えられない者は珍しくない。
というより、ほとんどの者がそうだ。
顔立ちが地味なだけだと、俺は思っている。
少々、いや、かなり地味なのかもしれない。
闘技場の係員は、覆面姿の俺を控室へ案内した数分後に、一般人姿の俺とすれ違っても気づかなかった。
だが便利なので、深く考えないことにしている。
店主が煮込みを運んできた。
肉と豆、根菜を長時間煮込んだ、琥珀亭の看板料理だ。
湯気と香草の香りが立ち上る。
賞金の価値は、こういうものを食べる時に実感する。
「昨日の《彼》は、しばらく出ないと思うか?」
店主が尋ねた。
「どうなんでしょう」
「次に出る日が分からんのも、人気の理由だからな」
少なくとも、当分は出ないつもりだ。
昨日の賞金で、宿代と食費はしばらく保つ。
刀の手入れにも金はかかるが、今すぐ必要ではないしな。
何より、頻繁に出れば調べる者が増える。
「次に出たら教えてくれ。店を閉めてでも見に行く」
「善処します」
「何であんたが善処するんだ?」
「いえ、言葉の綾です」
やっべ、危なかった……。
俺は黒パンをちぎり、煮込みへ浸した。
食事をしながら、机の下で小さな手帳を開く。
そこには、大陸の簡略地図と細かな書き込みがある。
東端のリュームリア聖王国。
西半分を占めるヴァイセンベルク帝国。
北の山岳諸国。
南の海洋連邦。
そして俺がいる中立自由都市フェルマータ。
ここは、俺が元いた世界で遊び尽くしたゲーム――『聖剣戦記エルドガルド』の舞台に、恐ろしいほど酷似している。
ファンからは、単に『聖剣戦記』と呼ばれていた。
俺の場合、生活時間のかなりの部分を吸い取ったゲーム、と呼ぶ方が正確かもしれない。
剣と魔法の大陸を舞台にした、仲間育成型の戦略ゲーム。
東の聖王国を失った王子アルディスが、わずかな忠臣とともに脱出する。
各地で仲間を集め、帝国に抵抗する勢力をまとめ、東から西へ進軍する。
最後には帝都へ辿り着き、魔王再誕を企む帝国中枢を打ち倒す。
筋だけを抜き出せば、王道そのものだ。
ただし、仲間は普通に死ぬ。
倒れた瞬間、戦場へ響くような断末魔が流れる。
少し遅れて音楽が細くなり、声に淡い反響が重なって、最後にその人物らしい言葉を残す。
家族への謝罪。
仲間への別れ。
果たせなかった約束。
言葉が終わると倒れ伏した姿がゆっくり消え、その人物は会話にも、支援にも、結末にも二度と戻らない。
味方は言わずもがなだ。
だが、このゲームは敵まで全力で泣かせにくるんだよ。
倒すしかない敵将が、最後に部下や故郷を思って小さく笑う。
名もないはずの敵ですら、その人間なりの願いを残して散る。
声優の迫真の演技でさぁ。
人の心を狙い撃ちしてくる音楽。
台詞の後へわざわざ挟まれる、数秒の無音。
開発スタッフは、プレイヤーを泣かせることに命を懸けていた。
俺が画面の前で何度慟哭したと思っているんだ!!
だから俺は何度も遊んだ。
全員を生かす方法を探して。
味方だけではない。
敵だって、救えるものなら救いたかった。
全員生存。
最低人数。
低成長率の仲間だけ。
二軍限定。
上級職禁止。
購入武器禁止。
今思えば、相当暇だったのだろう。
当時の俺には重大な挑戦だったのだが。
なぜ俺が今、そのゲームに酷似した世界で暮らしているのか。
それはまあ、色々あったんだよ。
光る画面とか。
ふざけた文章とか。
目を覚ましたら森の中だったとか。
話せば長い。
何より、俺自身にも説明できていない部分が多い。
今のところ確かなのは、ゲームで見た大陸、国、人物、事件が実在するということ。
そして俺に、ゲームの頃と似た情報が見えるということだ。
手帳の端へ目を落とす。
原作開始予定日まで、あと三日。
少なくとも、俺が知っている筋書きでは。
その日に、帝国軍がリュームリアへ侵攻する。
王都は十日で陥落。
国王は戦死。
第一王子アルディスは数名の仲間と脱出し、物語が始まる。
俺が好きだった主人公だ。
誠実で、真っ直ぐで、敵にも礼を失わない。
仲間の死を誰より恐れ、それでも王子として前に立つ。
俺がこの世界の物語を壊したくない最大の理由でもある。
あの物語は、アルディスが歩くから意味がある。
俺が先に帝国の将を倒し、仲間を集め、聖剣まで手にしたら、ただの攻略荒らしだ。
だから、原作には必要以上に関わらない。
死ななくていい者だけ助ける。
詰みそうな場所だけ少し手を貸す。
手柄は残さない。
あとは観客席から見守る。
我ながら完璧な方針。
少なくとも、考えた当時はそう思っていた。
手帳に引かれた何本もの訂正線から、目を逸らす。
原作では滅びる村が残っている。
原作では悲劇の敵として散るはずの帝国魔術師が、別の選択肢を抱え始めている。
原作では中盤加入の剣士が、なぜか大陸中の闘技場を巡っている。
どれも大筋には影響しない。
たぶん、おそらく……影響しないと思いたい。
「タナカ」
店主に呼ばれ、俺は顔を上げた。
「あの若いの、お前の知り合いか?」
店主が入口を顎で示した。
昨日の闘技場で見た若い槍兵が、仲間らしい二人と話していた。
ルッツ。
昨日、死亡イベントが見えた男だ。
俺が視線を向けた瞬間、半透明の文字列が意識の中へ浮かび上がる。
【名称:ルッツ】
【原作登録:該当なし】
【兵種:槍兵】
【HP:27/31】
【状態:右脇腹打撲/軽度内出血】
【成長傾向:守備・技】
【二日後:死亡イベント発生】
原作登録、該当なし。
つまり、ゲームには存在しなかった人物だ。
会話に出ないし、敵にも味方にもならない。
顔付きの立ち絵も、ステータスも、死亡台詞もない。
原作開始前の町で生きている、ただの一人。
だから助けても、大筋には影響しない。
「知り合いではありません」
「さっきから、ずいぶん見てるぞ」
「少し気になっただけです」
「若い男が?」
「いや、言い方……」
店主は笑いながら厨房へ戻った。
俺は煮込みを食べるふりをして、ルッツたちの会話へ耳を傾ける。
「北門外の捜索依頼?」
「ああ。昨夜戻るはずの荷馬車が来ていないらしい」
ルッツの仲間が声を潜めた。
「最近、北街道で魔物を見たって話もあるぞ」
「だから報酬がいいんだろ」
「傷が治ってからにしろよ」
「これくらい、どうってことない」
ルッツが脇腹を押さえた。
どうってことはある。
内出血だ。
今すぐ死ぬほどではないが、まともに走れば悪化する。
「依頼は二日後だ。休めば間に合う」
二日後。
表示と一致した。
俺は意識を集中する。
文字列が揺れ、新しい情報が浮かぶ。
【イベント分類:非正規】
【関連地点:フェルマータ北門外街道】
【死亡原因:穿刺/失血】
【推定敵兵種:騎兵系】
【生存条件:依頼を受けない/同行者二名以上/???】
死因は魔物ではなく、騎兵系。
しかも非正規イベント。
俺が知っているゲームには存在しない事件だ。
なら、原作とは関係ない。
関係ないなら放っておいてもいい。
そう考えた直後、ルッツの表示の端で数字が一つ減った。
【HP:26/31】
内出血が進んでいる。
くそっ、見えてしまった。
本当に、この能力は趣味が悪い。
顔色が少し悪いだけの人間を見て、普通なら気づかずに済む。
俺には数字で分かる。
いつ死ぬかまで表示される。
それを見た上で、「原作に存在しないから関係ない」と言えるほど、俺は割り切れていない。
俺は残った黒パンを口へ押し込み、席を立った。
「もう帰るのか?」
「少し用事ができました」
「代金は?」
机の上に置いてある。
「本当に支払いだけは正確だな、あんた」
それ以外も覚えてほしいが、Theモブな容姿の俺なら仕方ないか……。
「北門外へ行くなら、単独はやめた方がいいですよ」
酒場を出たルッツへ声を掛けると、三人が同時にこちらを見た。
反応は予想どおりだった。
誰だ、こいつ?
顔にそう書いてある。
「……俺たちに言ったのか?」
「ええ」
「何で依頼のことを知ってる?」
「店内で話していたので」
ルッツの仲間二人が、少し気まずそうに視線を逸らした。
声を潜めるなら、もう少し小さく話すべきだ。
「北街道の東側は、雨で斜面が緩んでいます。道幅も狭い。馬に囲まれれば、歩兵は逃げられません」
「馬?」
「魔物じゃないのか?」
「可能性の話です」
ステータスに表示された、とは言えない。
「何か根拠があるのか」
「地形を見れば分かります」
「見てきたのか?」
「似た場所を知っているだけです」
ルッツは俺を頭から足先まで眺めた。
生成りの麻シャツに、くたびれたベスト。
野菜の入った背負い籠。
どう見ても軍事に詳しい格好ではない。
「あんた、傭兵なのか?」
「違います」
「なら、元兵士?」
「いえいえ」
「あっ、冒険者か!」
「それも違います」
「じゃあ何者なんだよ?」
「通りすがりの一般人です」
我ながら怪しすぎだろ……。
ルッツの仲間が露骨に眉をひそめた。
「一般人が、騎兵の待ち伏せなんて考えるか?」
「考える一般人もいます」
「どんな一般人だよ、それ……」
俺だ!
「とにかく、行くなら三人以上で。盾を持てる者を一人。治療薬は二本。東の斜面には入らない。馬蹄の跡を見つけたら、荷馬車を追わずに戻ってください」
「ずいぶん具体的だな、おい!?」
「用心に越したことはありませんから」
ルッツはしばらく俺を見ていた。
やがて、真面目な顔で頷く。
「分かった。覚えておくよ」
素直だ……、原作に存在しないのが惜しいくらいである。
いや、存在しないからこそ助けても問題ないはずだ。
「もう一つ」
俺はルッツの槍を見る。
穂先は手入れされている。
柄には補修跡が多い。
構えた時、少し右肩へ力が偏る癖があった。
「槍で全部倒そうとしない方がいいですよ」
「何?」
「槍は一人で敵陣へ入る武器ではありません。味方の隣に立って、近づけさせない方が向いてますから」
ルッツの表示を見る。
【守備成長:良好】
【技成長:良好】
【個人傾向:護衛適性】
突撃型ではなく、守備寄りの槍兵だ。
「守る相手を一人決めて、その一歩前に立つ。あなたはその方が強い、そう感じました。」
ルッツが目を瞬いた。
「俺の戦いを見たことがあるのか?」
「まぁ……昨日、少し」
昨日の二試合目も、俺は観客席から最後まで見ていた。
ルッツは相手を倒そうとして前へ出すぎ、短時間で敗れた。
「昨日の試合じゃ、すぐ負けたんだぞ」
「負けたから適性がないとは限りませんよ」
ゲームでは、初期能力が低くても成長率が高い人物はいくらでもいる。
反対に、最初だけ強くて後半伸びない人物もいる。
「今の戦い方が合っていないだけです」
「……あんた、本当に何者なんだ?」
「一般人です」
「だからそれはもう聞いたって……」
それ以上追及される前に、俺は背を向けた。
助言はした。
同行者を増やせば、生存条件の一つを満たせる。
治療薬を持たせれば、失血死の危険も減る。
これで十分だろう。
数歩進み、もう一度だけルッツの表示を見る。
【推定生存確率:18%】
表示が揺れる。
【推定生存確率:43%】
上がった、倍以上!
ならいい……、四割あれば――
俺は足を止めた。
人の生死で、四割あれば十分など、どの口が言うんだ……。
十回のうち六回は死ぬ。
ゲームならリセットする数字だ。
現実には、やり直しがない。
「くそっ……ふざけんなよ!」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
そもそも、見なければ知らずに済んだ。
名前も知らない槍兵が三日後に死んだところで、俺は何も感じなかっただろう。
だが、見たし、話した。
助けられる可能性も知った。
そこで背を向けたなら、死ぬと分かって見捨てるのと同じじゃないか。
俺は振り返った。
ルッツたちは、依頼人の話をするため北門近くへ向かっている。
あぁ、もう!仕方がない。
少し調べるだけだ、介入するとは決めていない。
調べて、本当に危険なら依頼を止める。
それだけだ。
大筋には影響しない。
北門近くの荷運び広場は、商隊と馬車で混雑していた。
俺は積み荷を確認するふりをしながら、ルッツたちの後を追った。
彼らが話しかけたのは、灰色の外套を着た二人組だった。
商人には見えない。
荷馬車の扱いに慣れているが、視線が周囲を警戒しすぎている。
一人の腰には短剣、もう一人の靴には乾いた赤土が付いている。
北街道の土は黒い。
赤土は、西へ二日ほど行った地域に多い。
俺が二人を意識すると、情報が浮かんだ。
【兵種:帝国斥候】
【状態:偽装】
【所属:ヴァイセンベルク帝国西方軍】
【任務:現地案内役確保/密書輸送】
【敵対判定:潜伏】
帝国斥候。
原作開始前。
フェルマータ。
西方軍。
くそっ、嫌な単語が並んでいやがる!
「出発を早める?」
ルッツの声が聞こえた。
「事情が変わった。荷馬車に生存者がいる可能性がある。今日中に向かいたい」
斥候の一人が答える。
「依頼書では二日後だったはずだ」
「報酬は倍にする」
イベント表示が乱れた。
【二日後:死亡イベント発生】
文字が崩れ、別の内容へ変わる。
【本日夕刻:先行接触】
俺が助言したからなのか。
ルッツが同行者を増やそうとしたため、相手が予定を変えた。
未来は固定ではない。
俺が動けば、未来も動く。
知っていた、はずだった……、これまで何度も経験している。
それでも、表示が書き換わる瞬間は好きになれない。
「傷がある。今日の出発は無理だ」
「馬車へ乗ればいい」
「俺たちは荷馬車を捜す依頼を受けた。人を運ぶ話は聞いてないぞ」
ルッツが警戒し始めた。
悪くない、俺の助言を、少しは真面目に受け止めたらしい。
斥候の目が細くなる。
「詳しい説明は道中でする」
「なら依頼は断る」
ルッツがそう答えた瞬間、もう一人の斥候が外套の下へ手を入れた。
人通りは多いが、荷馬車の陰になっている。
騒ぎになる前にルッツを気絶させ、運び出すつもりか。
俺は背負い籠を下ろした。
野菜が一つ、籠の縁から転がる。
よりによって、昨日少し高く買った玉葱だった。
「すみません」
斥候の背後から声を掛ける。
二人が振り向く。
「何だ」
「落とし物です」
「何を――」
俺は地面に落ちた玉葱を蹴った。
玉葱は低い軌道で転がり、外套の下に忍ばせていた短剣を手に取ろうとしていた男の踵へ当たる。
男の足がわずかにずれた。
それだけで十分、俺は距離を詰める。
右手首を掴み、外側へ捻る。
短剣が外套の中で引っ掛かる。
男の肘を背負い籠の縁へ押し付け、そのまま体勢を崩す。
「ぐっ――!」
もう一人が拳を振るう。
俺は籠を持ち上げて受けた。
衝撃で中身が飛び出す。
芋。
葉物。
残りの玉葱。
今日の夕飯が広場へ散った。
「俺の野菜……」
思わず素が漏れた。
「何だ、こいつ!」
二人目が短剣を抜く。
俺は足元の芋を一つ踏み、前へ滑らせた。
男が踏み、身体が傾く。
短剣を持つ腕を外側へ払い、肩を押す。
男は荷車の側板へ顔から突っ込んだ。
鈍い音。
気絶はしていないが、しばらく立てないだろう。
一人目がようやく短剣を抜いた。
俺は男の手首を両手で掴み、その勢いを利用して地面へ投げる。
落ちた短剣を靴で遠くへ弾いた。
そこで、門衛の怒鳴り声が響いた。
「何の騒ぎだ!」
間がよすぎる。
いや、俺が来る前から斥候を監視していたのかもしれない。
門衛たちが駆け寄り、倒れた二人を拘束する。
「こいつら、帝国の通行証を持っているぞ」
「商人じゃないのか?」
「偽造だ。印が古い」
門衛が男の荷物を調べる。
油紙で包まれた細長い筒が出てきた。
俺の視界に表示が浮かぶ。
【重要イベントアイテム:北方命令書】
【原作での初出:第五章】
【現在時期:序章開始前】
【送付先:ヴァイセンベルク帝国西方軍】
【関連人物:ディルク・ファルケンラート】
俺はその場で固まった。
ディルク・ファルケンラート。
帝国最年少の上級大将。
原作終盤に登場する武の壁。
主人公たちを何度も追い詰め、最後まで帝国への忠義を貫き、救済手段のないまま散る敵将。
どうして、その名前が原作開始前のフェルマータにあるんだよ!
「この二人を詰所へ連れていけ!」
門衛が命じ、密書も押収していく。
本来届くはずだった命令が届かなくなった。
あるいは、原作第五章で初めて明るみに出る情報が、今ここで連邦側へ渡った。
どちらにしても、これはまずい気がする……原作に影響しかねない。
「おい」
ルッツに声を掛けられた。
「あんた、さっきの動き……本当に一般人か?」
「一般人です」
「一般人は斥候を二人も投げないって!」
「今日は地面が滑りやすかったのでしょう」
「いや、晴れてるぞ?」
「まぁまぁ、それより~、依頼はなくなりましたね」
「ああ。助かった」
ルッツは拘束される斥候を見た。
「俺たちを道案内に使って、その後で殺すつもりだったのだろうな」
死亡イベントの表示が消える。
【死亡イベント:解除】
【新規分岐:発生】
【所属予定:判定不能】
よし、死なない……それで十分だ。
所属予定の判定不能は気になるが、仕事くらい自分で決めればいい。
原作に存在しない人物なのだから、どこへ行こうと大筋には影響しない。
「礼を言わせてくれ」
「門衛が捕まえただけですよ」
「最初に気づいたのは、あんただ」
「それは偶然です」
「槍のことも」
「それは思いつきを言っただけです」
ルッツはしばらく俺を見つめた。
この顔を覚えようとしているのだろう。
いやぁ、無駄だと思うなぁ。
明日には、黒髪だったか茶髪だったかも曖昧になるはずさ。
「名前は?」
「タナカです」
「タナカ……変わった名だな」
「はは、よく言われます」
「俺はルッツだ」
「知っています」
「言ったか?」
「さっき仲間が呼んでいましたから」
ふぅ~、危ない!
ステータスで読んだとは言えない。
「タナカ。あんたの言ったこと、覚えておくよ」
「ん、何のことです?」
「槍は、守る相手の一歩前で使えって話だ」
そこまで大げさなことを言ったつもりはない。
槍兵の運用を説明しただけだ。
「俺は今まで、敵を倒せる奴が強いと思ってた」
「それも間違いではありませんよ」
「でも、守る方が向いてる奴もいるんだろ」
「それは、そうですね」
「だったら、そういう場所を探してみる」
妙に良い顔で言う。
その顔に、嫌な予感がした。
だが、表示には問題がない。
【新規分岐:発生】
【所属予定:判定不能】
判定不能なだけだ、危険表示ではない。
「頑張ってください」
「ああ。また会えたら礼をする」
おそらく、会っても俺だと分からないだろうさ。
俺は散らばった野菜を拾い始めた。
玉葱が一つ潰れている。
葉物にも土がついた。
帝国の斥候二人と密書一つを止めた代償としては安い。
安いのだが、夕飯としては悲しい。
背後でルッツたちが去っていく。
俺は密書を運ぶ門衛を見送った。
一人助けただけだ。
原作に存在しない槍兵。
ゲームの物語とは関係がない。
確かに、原作第五章で初出する密書が出てきた。
確かに、ディルクの名も表示された。
しかし、密書一通が届かなかった程度で、終盤の敵将が原作開始前から動き出すはずはない。
帝国軍ほどの大組織なら予備の経路もある。
使者が一人捕まったところで、別の使者が送られる。
「……大筋には影響しない」
口に出してみる。
借りている部屋へ戻り、背負い籠を床へ置いた。
使えそうな野菜と、駄目になった野菜を分ける。
玉葱二個。
葉物半分。
芋は全部無事。
芋は強い。
俺は机の前へ座り、手帳を開いた。
フェルマータの北側に、小さく印をつける。
帝国斥候。
北方命令書。
ディルク・ファルケンラート。
どう見ても、大筋に影響しそうな単語しかない。
だが今回、俺がやったことはルッツを助けただけだ。
帝国の密書を探しに行ったわけではない。
斥候を捕らえたのも門衛だ。
俺は野菜を撒いただけである。
そう結論付け、手帳を閉じる。
机の端に積まれた手紙が目に入った。
一番上は、封筒の端が黒く焦げている。
紫紺の上質な紙。
帝国式の封蝋。
差出人の名はない。
だが、誰が送ったものかは分かっている。
その下には、雑な字で大きく、
「師匠へ」
と書かれた分厚い封筒がある。
挑戦状が十二枚入っていた。
なぜ一通にまとめず、十二通分の内容を詰めたのかは知らない。
さらに、救った村から届いた乾燥肉。
本来ならまだ存在しない紋章の礼状。
俺がこの世界で行った、小さな介入の痕跡。
「どこから変わったんだろうな」
ルッツを助けた今日からではない。
もっと前、俺が原作に関わらないと決めるよりも前。
まだ、この世界をゲームの延長として見ていた頃。
死というものが、セーブとロードでは戻らないと、頭では分かっていても実感できていなかった頃。
俺が最初に助けたのは、名もない槍兵ではない。
雷の中で倒れていた、一人の少女だった。
原作では、やがて帝国最強の魔術師となり、終盤で主人公たちの前に立ちはだかる女。
仲間にしたかった。
救いたかった。
それでも、ゲームでは倒すしかなかった人気ボス。
後に《雷姫》と呼ばれる少女――ヴェスナ。
あの時の俺は、彼女を一度助けたところで、大筋には影響しないと思っていた。
彼女が、あの時の言葉を何年も覚えているとも知らずに。
今となっては、その時の自分を一度座らせて、三時間ほど説教したい。
いや。
説教しても、どうせ助ける。
俺はそういう人間だった。
机の上の焦げた手紙へ触れる。
数年前。
俺がこの世界へ落とされた、その日のことを思い出した。