観客席の男 ―ここまで遊んでくれてありがとう!   作:ザキグン

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原作は、三日後に始まるはずだった

神殿の巫女が宿の入口に居座った場合、どう対処するべきか。

少なくとも、俺が遊んでいたゲームの攻略本には書かれていなかった、当然である……。

 

「帰れ」

「……嫌」

「さっきも聞いた」

「……さっきも、答えた」

 

まったく話が進まない。

ステータス表示には、今も視界の端に、こう残っている。

 

【同行判定:暫定】

【本人の離脱意思:なし】

 

本人の意思だけで同行者を決めるな。

俺は宿の入口に立ったまま、目の前の少女を見下ろした。

淡い銀色の髪。

白と藍の巫女装束。

両腕には、身体の幅ほどもある青銅の星盤を抱えている。

どう見ても旅人ではない。どう見ても神殿から勝手に抜け出してきた巫女だ。

そして、本人はまったく悪びれていなかった。

 

「ノーチェ」

「……うん」

「職場は、東方辺境の星降りの遺跡だな」

「……そう」

「ここは中立自由都市フェルマータだ」

「……知ってる」

「どう考えても、遠いよな」

「……急いだ」

「なぜ」

ノーチェは俺の頭上を見る。正確には、俺にしか見えないはずだった表示の位置を見た。

「……ヒーローが、動いたから」

「その呼び方をやめろ!」

「……表示に、書いてある」

「表示が間違っている」

「……神様は、そう書いてない」

「そいつを神様扱いするな!」

 

仮に、世界を作った神が本当に存在するとして、転移者の説明文へ星をつけるような軽い性格であってほしくない。

宿の主人が、帳場の奥からこちらを見ていた。俺とノーチェを交互に見ている。

このままでは、少女相手に帰れと迫り続ける怪しい男になる……もうなっている気もするが。

「タナカ」

「何です」

「その子、知り合いなんだよな?」

「先ほど知り合いました」

「そんな相手へ帰れ帰れと言っていたのか」

「事情があります」

「女の子一人、入口へ立たせたままにする事情か?」

 

説明ができない。

 

『俺のステータスを読み、世界の外から来たことまで見抜いた未来視の巫女が、俺を観測するために職場放棄してきました』

 

このような言葉を口にしようものなら、さらに状況が悪くなるのは眼に見える。

宿の主人はノーチェへ視線を移した。

「泊まる場所はあるのか?」

「……ここ」

ノーチェが床を指差した。

「入口で寝る気か?」

「……タナカの近く」

再び宿の主人が俺を見る。何だ、その目は!俺は何もしていない!

「部屋は空いているんですか」

「二階の端なら一つある」

「神殿へ請求してください」

「お前が払うんじゃないのか」

「俺が呼んだわけではありません」

ノーチェは小さな革袋を差し出した。中で硬貨が鳴る。

「……持ってる」

「どこから持ってきたよ、それ」

「……神殿」

「神殿に謝れ」

「……後で?」

「事後報告で済ませるな!」

 

宿の主人が深いため息をついた。

「まあ、金を払うなら客だ。名前は?」

「……ノーチェ」

「姓は?」

「……ない」

「出身は?」

「……星降りの遺跡」

宿の主人の手が止まった。

「星降りの遺跡? まさか、星詠み神殿の巫女か?」

「……たぶん」

「たぶんで巫女をやるな……」

俺が口を挟むと、主人は慌てて背筋を伸ばした。

 

星詠み神殿は、国境を越えて知られている。

王侯貴族が未来を尋ね、商人が旅路の吉凶を占い、農村では天候と収穫を祈る。

そこに仕える巫女が一人で宿へ来るなど、普通なら大事だ。

そう……、普通なら。

ノーチェは宿帳へ、ゆっくりと自分の名だけを書いた。

隣の欄には、前日に俺が書いたタナカの文字が残っている。

「変わった名前同士だな」

一緒にするな。片方は俺の名字なんだよ。

 

 

 

 

 

 

宿泊手続きが済んだあとも、ノーチェは自分の部屋へ行かなかった。

俺の後ろをついてくる。

階段を上がっても、廊下を曲がっても、俺の部屋の前で止まっても、隣に立ったままだった。

「お前の部屋は向こうだぞ?」

「……知ってる」

「なぜここにいる」

「……観測」

「俺は見世物ではないって」

「……見世物?」

「忘れてくれ……」

正しく闘技場では見世物だった、自分で言っておいて何だか、ちょっぴり傷ついた。

俺は部屋へ入り、扉を閉めようとする。

が、閉まらなかった。

ノーチェが星盤の端を扉の間へ差し込んでいた。

「挟まるぞ」

「……入る」

「だめだ」

「……どうして?」

「どうしてもだ」

「……観測できない」

「廊下から観測しろ」

「……壁がある」

「未来視は壁で止まるのか」

「……ときどき」

ときどきなら、今日は止まることにしてほしい。

 

俺が黙ると、ノーチェも黙った。

扉を挟んだまま一分ほど動かない。

根負けしたのは俺だった。

「一刻だけだぞ」

「……うん」

ノーチェは何のためらいもなく部屋へ入り、星盤を抱えたまま椅子へちょこんと座った。

机には、ミレアから届いた手紙が積み上がっている。

一番上には、大きな字で『師匠へ 七手目が少し分かってきました!』と書かれていた。

ノーチェが手紙を見る。

「勝手に読まないでくれ」

「……読んでない」

「見ているだろ」

「……字は、見える」

「人はそれを、読むと言う」

ノーチェは小さく首を傾げた。

俺は手紙の山をまとめ、机の端へ押しやる。

その下から、大陸の地図と手帳が出てきた。

 

東端のリュームリア聖王国。

西のヴァイセンベルク帝国。

北方連峰。

南の海洋連邦。

そして、連邦北部の中立自由都市フェルマータ。

地図の東側には、何度も書き直した日付が並んでいる。

【リュームリア侵攻開始】

【原作開始予定日】

【王都陥落】

【アルディス脱出】

 

一番上の日付まで、あと三日。少なくとも、俺が知っている筋書きでは。

「……三日」

「読むなと言っただろ」

「……声に出してない」

「今、出した」

「……三日後?」

彼女は地図の東端を指差した。

俺は少し迷った。どこまで話すべきか。

ノーチェは、俺が世界の外から来たことを知っている。

ステータスの説明文も読めるし、未来が書き換わっていることも把握している。

ここで何も説明しない方が、かえって危険かもしれない。

「三日後、東の王国へ帝国軍が侵攻する」

「……うん」

「知っているのか」

「……見たことがある」

「未来視で?」

「……燃える城。折れる旗。逃げる王子」

 

原作どおりだ。

リュームリア聖王国は帝国の電撃侵攻を受ける。

十日で王都が落ち、第一王子アルディスは少数の忠臣とともに脱出する。

そこから『聖剣戦記エルドガルド』の物語が始まる。

 

「その王子は生き延びる」

「……アルディス」

「名前まで知っているのか」

「……星に、いる」

星盤の観測対象という意味だろう。

アルディスは世界の中心人物だ、原作主人公なのだから当然――と考えそうになり、やめる。

この世界の人間にとって、原作主人公という言葉に意味はない。

「アルディスが生き延びなければ、この先、多くの人間が死ぬ」

「……知ってる」

「だから、俺は必要以上に関わらない」

「……どうして?」

「彼が歩くべき物語だからだ」

アルディスは誠実で、真っ直ぐで、仲間の死を誰より恐れる。

亡国の王子という立場に絶望しながら、それでも人々の前へ立つ。

仲間を集めるのも、聖剣を受け継ぐのも、帝国の闇を暴くのも、彼がやるから意味がある。

俺が先回りして敵将を倒し、仲間を勧誘し、道を全部整えれば、物語ではなく作業になる。

それに、俺は英雄ではない。

観客席から、必要な時だけ少し手を出せばいい。

 

「三日後までは、何も起きない」

俺は日付を指した。

「それまでに準備して、原作どおり始まるかだけ確かめる」

ノーチェは返事をしなかった。地図ではなく、窓の外を見ている。

「どうした」

「……違う」

「何が」

 

 

「……もう、始まってる」

 

 

その瞬間、階下から何かが倒れる大きな音がした。

続いて、宿の主人の声が響く。

「おい! 誰か、水を持ってこい!」

俺は椅子を蹴るように立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宿の一階へ降りると、入口近くに男が倒れていた。

旅装は泥と埃にまみれ、外套の端が焦げている。

背負っていた荷物は床へ散らばり、革袋から乾燥肉や地図がこぼれていた。

商人ではない。護衛だ。腰には短剣。肩には、途中で折れた矢が刺さったままになっている。

俺が意識を向ける。

 

【名称:ヨハン】

【兵種:商隊護衛】

【HP:19/42】

【状態:失血/疲労/軽度火傷】

【出発地:リュームリア聖王国西部国境】

【遭遇:帝国軍先遣部隊】

 

「……は?」

男が薄く目を開けた。

「閉めろ……門を……」

宿の主人が屈み込む。

「何があった」

「帝国軍だ」

店内が静まり返った。

食事をしていた客たちの動きが止まり、誰かの匙が床へ落ちた。

護衛の男は荒い息を繰り返した。

 

「国境を、越えた……三日前に……西の砦が落ちた……」

 

三日前。

俺は手帳の日付を思い出した。

原作開始予定日まで、あと三日。

つまりは……

 

「六日、早い……?」

 

六日。

ゲームの歴史全体から見れば、誤差に近い。

だが戦争では、六日あれば軍が町を一つ落とすことも可能な場合がある。

王都へ向かう進軍路を変えられるし、死ぬ人間が変わる。

出会うはずだった仲間が、出会わなくなる可能性だってある。

「帝国軍は、どの道を通ったんですか?」

俺は男の近くへ膝をついた。

「タナカ、今は傷の手当てが先だ」

「っ……、分かっています」

肩の矢は無理に抜けない。

出血箇所を清潔な布で圧迫し、呼吸を確かめる。

ノーチェが隣にしゃがみ込み、星盤を床へ置いた。

「……どの道?」

男は唇を動かした。

 

「白樺の谷……新しい、交易路……」

 

俺の手が止まった。

白樺の谷……その名前に聞き覚えがあった。

原作開始の二年ほど前だが、帝国斥候に襲われ、住民の大半が死ぬ運命にある、小さな村があった。

ゲームでは地名すら残らず、後の章で、焼けた家と墓だけが背景として映る場所。

俺はその村を助けた、ほんの少しだけ。

斥候の人数を減らし、村人へ避難路を教え、襲撃の日時をずらした……、ただ、それだけだった。

結果、村は残り、人が残った。

人が残れば、道ができるし、壊れていた橋が直されれば、商人が通り、宿場ができ、荷馬車が行き交う。補給できる道になる。

 

「ち、違う……」

 

思わず呟いた。俺は村を救っただけだ。

進軍路を作るつもりなどなかった。

だが、帝国軍にとっては同じだ。

使える道があれば使う。

地図にない廃村より、人と井戸と倉庫のある交易路の方が軍を通しやすい。

 

一人を救った。

 

村が残った。

 

道が残った。

 

そして、その道が……、軍を動かしてしまった。

 

視界の端に文字が浮かぶ。

【歴史分岐:更新】

【リュームリア侵攻経路:変更】

【原作中央街道:不使用】

【白樺谷交易路:使用】

【原因候補:対象による過去介入】

「原因候補ではなく、ほぼ確定じゃないか……」

 

護衛の男が咳き込んだ。

「王子が……西へ来ている……」

俺は顔を上げた。

「王子?」

「アルディス殿下が……国王陛下の名代で、交易路の視察へ……」

今度こそ、思考が止まった。

 

原作開始時、アルディスは王都にいる。

侵攻の報せを受け、父王に脱出を命じられる。

王都南門から忠臣たちと抜け、古い水道橋を通って東の森へ逃げる。

そこが第一章の開始地点だ。

西部にはいなければ、交易路の視察にも来ないはずだった。

 

俺が残した村から報告が上がり、交易が増えた。

国境周辺の動きが変わったため、王家が調査を命じた。

その結果、アルディスが西へ来た。

侵攻経路だけではない。主人公の初期位置まで変わっている。

 

【重要人物:位置情報更新】

【アルディス】

【原作開始位置:リュームリア王都】

【現在位置:西部国境ベルン砦周辺】

【敵軍接触:発生】

 

「ふざけんな……、何なんだよ、これ」

小さく漏れた。

俺は何度も歴史へ手を出した、大筋には影響しないと、そう思っていた。

救ったのは原作に出ない人間だし、助言したのは原作開始より前の話。

ヴェスナもミレアも、今すぐ本筋を壊す存在ではない。

そう思っていた。

けど、違った……。

原作に出ない人間にも、当然生活がある。

生活が残れば、道が残るし、道が残れば、人が動く。

そして、人が動けば……、国が動く。

原作に名前のない一人を救うことと、原作本編を変えることは、別ではなかった。

最初から、全部つながっていたんだ……。

 

「……タナカ」

ノーチェの声。

「未来を見て欲しい」

「……ここで?」

「アルディス殿下が生きているか、確認してくれ」

ノーチェは少しだけ眉を寄せた。

「……遠い。星盤も、小さい」

彼女が抱えてきた青銅星盤は、遺跡の巨大な観測装置を補助する祭具だ。単体でも未来視を安定させられるが、遠くの戦場を正確に映すものではない。

「見える範囲でいい、頼む!」

「……分かった」

 

ノーチェは星盤へ両手を置いた。

小さな指が刻まれた星図をなぞる。

淡い銀髪が、風もないのに揺れた。

左の瞳に、細い金色の環が浮かぶ。

店内の明かりが一瞬暗くなり、星盤の中心から青白い光が立ち上った。

ノーチェの視線は俺たちを通り越し、ここではない場所を見ていた。

 

「……城壁」

訥々と、言葉が落ちる。

「……燃えてる」

誰も声を出さない。

「……青い旗。折れる」

原作と同じ、王家の青い旗。

「……金色の髪」

アルディス。

「……剣。光」

生きている。少なくとも、今は戦っている。

「……人を、逃がしてる」

それもアルディスらしい。自分が逃げるより先に、民間人を逃がす。

 

「それから?」

ノーチェの左眼の金環が揺れた。

「……森」

「どこの森だ」

「……分からない」

「敵は」

「……黒い鎧」

帝国兵。珍しくない。

「……槍」

槍兵もいる。

「……大きい」

ノーチェの眉がさらに寄る。星盤の光が乱れた。

「く……黒い、槍」

 

激しく嫌な予感がした。

 

「持っている男は?」

「……まだ、遠い」

「誰なんだ」

「……星が、強い」

体格、黒い槍、そして強い星という例え……、それだけで、誰かを特定するのには十分だった。

 

 

『ディルク・ファルケンラート』

 

帝国最年少の上級大将。原作終盤の武の壁。

アルディスたちが中盤まで積み上げた戦力をもってしても、撤退戦を強いられる重装槍将。

そんな男が、原作開始より前に動いている。

 

「アルディス殿下は生きているのか!?」

「……生きてる」

息を吐く。まだ間に合う。

そう考えた直後、ノーチェが続けた。

「……今は」

「三日後は?」

沈黙。星盤の光が弱くなる。ノーチェの左眼から金の環が消え、身体が傾いた。

俺は反射的に肩を支えた。

「おい、大丈夫!?」

「……分からない」

「なぜ……」

「……未来が、多すぎる」

ノーチェは目を閉じた。額に薄く汗が浮かんでいる。

「俺の……知ってる未来が、ない」

「知っている未来?」

「……王子が、王都から逃げる未来」

原作の流れだ。

 

「……その未来は、もうない」

 

店内の雑音が遠ざかった。

 

大筋には関係ないと勝手な解釈をして大小様々に手を出してきた……。

細部が変わっても、きっと、中心は同じだと。

アルディスは原作どおり生き残る。

仲間を集め、聖剣を手にし、最後に帝国を倒す。

大筋だけは残る……そう信じて。

だが、その大筋とやらは、誰かが保証したものではない。

原作開始前にアルディスが死ねば、物語そのものが始まらない。

俺が救った人間たちも、これから救えるはずの人間たちも、全部、別の結末へ流れていく。

 

「タナカ」

宿の主人が声をかける。

「この男は、医者へ運ぶ。お前はどうする」

俺は立ち上がった。答えは決まっていた。決まっていないふりをしていただけだ。

「東へ行きます」

「今からか?」

「今からです」

「戦争が始まったんだぞ!?」

「だからです」

宿の主人が眉を寄せる。俺は言葉を選んだ。

王国を救うつもりはなければ、帝国軍を倒すつもりもない。

アルディスに代わって主人公になる気など、絶対にない。

確認するだけだ、本来あったはずの脱出経路が消えたのなら、新しい道を一つ探す。

詰んでいるなら、一手だけ空ける。

あとは、アルディスが進めばいい。

 

「知り合いが、巻き込まれているかもしれません」

嘘ではない。

まだ会ったことはないが、俺はアルディスを何周も見てきた。

何度も育てたし、仲間の死に耐えられず、章を最初からやり直した。

支援会話も、敗北台詞も、結末も知っている。

一方的ではあるが、知らない人間とは言い切れなかったんだ。

 

「……行くんだ」

「確認するだけだ」

「……助けるんだ」

「詰んでいればな」

「……ヒーロー」

「その呼び方をやめろ!」

ノーチェは、少しだけ笑ったように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

部屋へ戻り、背負い籠の中身を全て床へ出した。

乾燥豆、根菜、保存肉、予備の衣類。

その下に、油紙で包んだ漆黒の装束がある。

面頬、頭巾、金糸紋章の入った外套、籠手、印を刻んだ小太刀、袖へ仕込む魔道触媒。

最後に、壁へ立てかけていた刀を、布を巻いてから背負い籠の中へ入れる。

 

フェルマータからリュームリア西部までは、通常の荷馬車なら一週間以上かかる。

だが東へ向かう交易路には、戦火を避けて引き返す早馬と乗合馬車が集まり始めている。

金を惜しまず宿駅ごとに馬を替えれば、三日余りまで縮められる。

原作どおりなら、まだ間に合った、今はそうではない……。

荷物を詰め直し、上に野菜を載せる。覆面装束を隠すためだ。

ノーチェは当然のように、自分の星盤と小さな荷物をまとめ始めた。

「なぜ準備しているんだ?」

「……同行」

「暫定だ」

「……本人の離脱意思、なし」

「表示を根拠にするなよ」

「……未来を見る人が、必要」

正論だった。

認めたくはないが、攻略知識の信頼性は落ちている。

地形も、敵配置も、増援時期も、全て変わる可能性がある。

未来視が正確でないとしても、何もないよりは何倍もましだ。

 

「危険になったら下がってくれ」

「……うん」

「戦場へ勝手に出ないでくれ」

「……うん」

「俺の指示を聞いてくれ」

「……たぶん」

「最後だけ怪しいな!?」

ノーチェは星盤を抱え直した。その顔が少し青い。先ほどの未来視の反動だろう。

「頭が痛むのか?」

「……少し」

「なら休んでくれ」

「……時間が、ない」

「倒れたら余計に時間を使う」

俺は水差しから杯へ注ぎ、ノーチェへ渡した。

彼女は両手で受け取り、少しずつ飲む。

その間に、机の上の手紙をまとめる。

ミレアからの巨大な封筒だ。

留守中にまた届くかもしれないし、宿の主人へ預けておけばいい。

封筒の隙間から一枚の紙が落ちた。

 

『次は東の闘技場へ行きます!』

 

嫌な予感がした。

その下には、さらに小さな字で続いている。

『最近、帝国の兵隊さんが多いです! 師匠も気をつけてね!』

「……ミレア」

ノーチェが紙を見た。

「読むな」

「……東に、いる?」

「おそらくな」

原作中盤加入の剣士。

兵種が変わり、大陸中の闘技場を巡っている。

今さら予定どおりの場所にいるとは思っていない。

だが、よりにもよって東へ向かっている可能性がある。

「会わないことを祈ろう」

「……どうして?」

「面倒が増える」

「……師匠」

「その呼び方まで覚えるな!」

ノーチェは小さく首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

出発前に《琥珀亭》へ立ち寄った。

保存食と水だけで東へ向かう気にはなれない。

最後に温かいものを食べておきたかった。

店主は戦争の噂を聞きつけた客への対応で忙しくしている。

それでも俺を見つけると、いつもの席へ顎を向けた。

「煮込みでいいな」

「お願いします」

「そっちの子は?」

ノーチェが俺の隣に座る。

「……同じ」

「俺の分とは別にしてください」

「分かってるさ」

 

少しして、湯気の立つ器が二つ運ばれてきた。

肉と豆と根菜の煮込み、そして黒パン。

ノーチェは匙を持ち、まず一口食べた。

「……おいしい」

「そうだろ」

無意識に答えてから、妙な気分になった。

琥珀亭の煮込みを褒められると、自分のことのように少し嬉しい。

ノーチェは二口目を食べる、そして三口目。

食べる速度は遅いが、止まらない。

未来視で消耗した分、腹が減っているのだろうか。

 

俺は黒パンをちぎり、煮込みへ浸した。

これから向かう先は戦場だ。

原作第一章……、本来なら、何度も遊んだ場所で、地形も敵も、全て知っている。

だが、今そこにあるのは俺の知らない戦場なはずだ。

 

「……怖い?」

「何が」

「……戦争」

「怖いに決まってるだろ」

狼三匹でも怖かったんだ。

闘技場の大男も、雷をまとった少女も。

死ぬかもしれない戦いが怖くないわけがない。

《戦意恒常》は、恐怖を消してくれない。

ただ、怖いまま考えられるだけだ。

 

「でも、怖くても、行かないといけない」

「……うん」

「アルディスが死ねば困るからな」

「……それだけ?」

「それだけだ」

ノーチェはしばらく俺を見た。

「……神様は、そう書いてない」

「何と書いてある」

彼女は俺の頭上へ目を向ける。俺も意識を向けた。

 

【田中 進】

【兵種:《ヒーロー》】

【状態:警戒/焦燥/出発準備】

【新規目的:原作主人公の生存確認】

 

その下に、一行増えている。

【行動傾向:救援】

 

「勝手に追加するな」

「……合ってる」

「確認だ」

「……救援」

「確認」

「……ヒーロー」

「違う!」

ノーチェは煮込みを一匙食べた。

「……おいしい」

勝手に話を終わらせるな……。

 

 

 

          ☆

 

 

リュームリア聖王国西部。

ベルン砦の外壁では、三日前から煙が絶えていなかった。

石造りの城壁にはいくつもの亀裂が走り、帝国軍の投石によって砕かれた部分を、兵士たちが木材と土嚢で補強している。

砦の東門からは、避難民が途切れることなく外へ出ていた。

 

老人、子ども、荷物を抱えた母親、傷ついた兵士に肩を貸す農夫。

 

その流れの最後尾に、青いマントをまとった青年が立っている。

淡い蜂蜜色の髪と、澄んだ碧眼。

白と青を基調にした軽装鎧を纏い、腰には王家制式の長剣。

 

リュームリア聖王国第一王子、アルディス。

 

「殿下、ここは我々にお任せください」

老騎士が言った。

「避難民とともに東へ」

アルディスは首を横に振った。

「僕が先に退けば、兵たちも持ち場を離れられません」

「ですが、殿下を失えば王国は――」

「だからこそ、生き残るための道をここで作ります」

穏やかな声だった。

しかし、剣を握る手に迷いはない。

 

城壁の外では、帝国軍の先遣隊が隊列を整えている。

数は砦側の倍以上。

重装歩兵、弓兵、騎兵。

本来なら、ここまでの規模がこの時期に現れるはずはなかった。それを知る者は、この場にはいない。

 

「民の避難は」

「残り三百名ほどです」

「荷車に乗れない者を優先してください。歩ける者には東の森を抜けてもらいます」

「森には魔物が」

「狩人を先行させます。松明を絶やさないように」

 

「殿下!」

 

若い兵士が駆け寄った。顔から血の気が引いている。

「敵の後方に、新しい旗が」

アルディスは城壁の隙間から西を見る。

帝国軍の背後……、森の向こうに、黒と銀の軍旗が上がっていた。

現在いる先遣隊とは違う。

規律の取れた重装兵たちが、道を埋めるように進んでくる。

 

老騎士が息を呑んだ。

「増援……」

「数は?」

「少なくとも二個大隊」

砦側の兵力では、とてもではないが防げない。

避難民を逃がす時間も足りない。

 

アルディスは剣の柄へ手を置いた。

怖くないわけではない。

初めて見る大軍に、燃える砦、そして、泣く子ども。

自分の判断一つで、何百人もの命が失われる。

それでも、目を逸らさなかった。

 

少年の頃、お忍びで訪れた闘技場で、一人の覆面闘士を見たことがある。

誰も勝てないと思った大男を前にして、その闘士は一度も諦めなかった。

力で劣るなら流れを変える。

正面から勝てないなら、別の一手を探す。

戦い方そのものが、そう語っていた。

 

 

――どんな盤面でも、道は残っている。

 

 

あの人が実際にそう言ったわけではない。

けれど、アルディスにはそう聞こえた。

「西門を捨てます」

「殿下?」

「王家の旗を北へ動かし、敵の主力を引きつけます」

「囮になるおつもりですか!」

「囮ではありません」

アルディスは剣を抜いた。

淡い光が刃へまとわりつく。

「僕が前へ出ます。その間に、避難民を東へ」

老騎士が何か言おうとするが、アルディスは彼をまっすぐ見た。

 

「誰も置いていきません」

城壁の外で、帝国軍の角笛が鳴った。

大地を揺らすような足音が近づく。

アルディスは青いマントを翻し、西門へ向かった。

「道がないなら、作ります」

 

 

          ☆

 

 

 

 

ヴァイセンベルク帝国西方軍、臨時本営。

黒い甲冑をまとった男が、封を切られた命令書を読んでいた。

 

『ディルク・ファルケンラート』

 

帝国最年少の上級大将。平民出身でありながら、槍一本で現在の地位まで上り詰めた男。

傍らには、人の背丈を優に超える大身槍《断界》が立てかけられている。

命令書には、簡潔な文面が並んでいた。

 

 

【リュームリア第一王子アルディスの生存を確認。

 

 西部国境に滞在。

 

 王国軍再編の旗となる前に、捕縛または排除せよ】

 

 

ディルクは最後まで読み、紙を折りたたんだ。

副官が一歩前へ出る。

「直ちに追撃隊を編成いたします」

「必要ない」

「しかし」

「砦に避難民が残っている」

「王子が民を盾にしている可能性も」

 

ディルクの琥珀色の目が細くなる。副官は口を閉じた。

「その王子が、民を盾にする男かどうかは、俺が見れば分かる」

ディルクは立ち上がった。

腰の兜には手を伸ばさない。

戦場で兜を着けないのが、彼の主義だった。

 

「先遣隊へ伝えろ。東門への攻撃を禁ずる。避難民を追うな」

「上層部の命令は、王族の排除です」

「民を殺せとは書かれていない」

「ですが、逃走を許せば」

「責任は俺が取る」

迷いのない声だった。副官が頭を下げる。

「はっ」

ディルクは大身槍を手に取った。黒い穂先が、天幕の明かりを鈍く返す。

「王子本人には、俺が問う」

国を背負う器か。

戦場に立つ覚悟があるか。

旗となるに値する男か。

 

そして――帝国が刃を向けるべき相手なのか。

 

ディルクが天幕を出る。

 

          ☆

 

 

 

 

 

東へ向かう乗合馬車の御者台で、俺は視界に浮かんだ表示を見上げていた。

 

【重要人物:早期出現】

【名称:ディルク・ファルケンラート】

【原作初出:終盤】

【現在位置:リュームリア西部】

【行動目的:アルディスの捕縛または排除】

【推奨交戦時期:該当なし】

 

「……おい」

隣に座るノーチェも、同じ場所を見ている。

表示の最後に、もう一行増えた。

 

【接触予測:三日以内】

 

三日。

原作が始まるはずだった日。

その日に俺は、原作終盤の最強敵将と接触するらしい。

 

「終盤ボスが、第一章へ来るな」

御者が怪訝そうに振り返る。

「何か言ったか?」

「いえ、独り言です」

 

ノーチェが俺の袖を引いた。

「……来る」

「見れば分かる」

「……強い」

「それも知っている」

「……楽しみ?」

「誰が」

ノーチェはしばらく考えた。

「……槍の人」

「そいつは全く持って楽しみにしていない。まだ会ったこともない」

「……未来で、笑ってた」

 

嫌な情報を足すな。

表示が、さらにわずかに揺れた。

 

【ディルクから対象への関心:未発生】

 

未発生。

まだ、という意味にしか見えない。

俺は頭を抱えた。

 

乗合馬車は東へ進む。

原作にはなかった道を通り、原作にはなかった戦場へ。

原作では出会わないはずだった者たちが、それぞれ同じ場所へ向かい始めていた。

 

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