今回のエピソードは、少し趣向を変えて「意味がわかると怖い話」風の構成になっています。もし途中で「……ん?」と違和感を覚えた方は、ぜひ理由を考察してみてください。
分からなければ、あとがきにて答え(解説)を載せています。それでは、お楽しみください。
ある日のこと。
次郎の部下たちが、部屋の一角で雑談をしていた。
任務の合間に生まれた、ほんの僅かな休息。
普段なら緊張感に包まれている場所だったが、今だけは肩の力を抜いている。
「……なあ」
一人が、周囲を確認してから小声で口を開いた。
「うちの班長ってさ」
「ん?」
「いや……やっぱり、なんでもない」
「なんだよ。言いかけてやめるなよ」
「いや、でも班長のことだからな」
「だから何だよ」
少しの沈黙。
そして、最初に口を開いた男が、ぽつりと言った。
「班長って、本当に見た目若いよな」
「……そこか?」
「そこだよ」
別の男が苦笑する。
「確かに若いよな。年齢聞いた時、最初は冗談かと思った」
「俺も。あの顔であの落ち着き方だから、余計に年齢が分からなくなる」
「それに仕事も仕事だろ。あんな危険な任務を何度も経験してるのに、全然老けてる感じがしない」
「まあ、班長だからな」
「それでいて――」
男が言葉を濁す。
「……家庭まで持ってるんだよな」
「奥さんもいて、給料も高くて理想の家庭だよな」
「……そうなんだよ」
何とも言えない顔で、男がため息を吐く。
「正直、羨ましいよな」
「羨ましいっていうか……」
「いうか?」
「なんか、ずるくないか?」
「何がだよ」
「仕事はできる。金はある。家に帰れば奥さんと娘さんたちがいる。しかも、奥さんは美人」
「お前、そこまで言うとただの嫉妬だぞ」
「嫉妬だよ」
開き直った返事に、周囲から小さな笑いが起こる。
「でも、班長の家って本当にすごいらしいな」
「前に何度か用事でお邪魔させてもらったんだけどさ、奥さん、班長と同い年くらいの見た目で若々しい美人だったよ」
「マジで?」
「ああ。最初、班長の妹さんかと思った」
「それは失礼だろ」
「いや、だって本当に若く見えたんだから仕方ないだろ」
「……しかし、あれだけの仕事をしてて、家では夫婦円満ってのもすごいよな」
「そこなんだよ」
先ほどまで冗談を言っていた男が、少し真面目な顔になる。
「俺だったら、あんな危険な仕事してる夫なんて心配で仕方ないと思う」
「実際、奥さんも心配してるんじゃないか?」
「そりゃそうだろ」
「だったら、家では結構大変なんじゃないのか?」
その言葉に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
誰もが同じことを考えた。
仕事では誰よりも冷静で、部下からも信頼されている次郎。
しかし、家庭の中ではどうなのか。
危険な仕事に就いている以上、妻が不満を抱えていても不思議ではない。
「……いや、それがさ」
すると、一人が口を開いた。
「奥さん、班長に対してすごく嬉しそうなんだよ」
「嬉しそう?」
「ああ。班長の顔を見た瞬間に表情が変わってた」
「へえ……」
「それだけじゃない。班長が疲れてるって分かったら、何も言わずに食事を用意してたし」
「それは……」
「班長が何か言うたびに、ちゃんと話を聞いてた。あれは夫婦仲が悪いどころか――」
そこで言葉を切る。
「ものすごく好きなんだと思う」
「……マジか」
「ああ」
「そんなに?」
「見てれば分かる」
男は苦笑しながら肩をすくめた。
「班長が奥さんを見る時も、結構分かりやすいけどな」
「班長が?」
「本人は隠してるつもりなんだろうけど、家にいる時は明らかに表情が柔らかい」
「へえ……」
「娘さんたちへの接し方もそうだ。仕事中の班長しか知らない奴には、想像できないと思うぞ」
「……いいな、そんな結婚憧れるわ」
「お前は、まず相手を見つけろよ」
「うるせえな」
再び笑い声が起こった。
「班長みたいに仕事もできて、家庭も円満。ああいうのが理想ってやつなんだろうな」
「確かに。仕事じゃ怖いくらい冷静なのに、家では普通に奥さんと仲良くしてるみたいだからな」
「それ、聞いたことある。娘さんたちともかなり仲がいいんだろ?」
「ああ。家じゃ結構いい父親らしい」
「完璧すぎるだろ……」
誰かが小さく笑った。
「俺たちにも、そういう人生が待ってるのかね」
「さあな。でも、憧れるくらいは自由だろ」
「だよな」
そんな他愛のない会話が、部屋の外にまで響いていた。
本人の知らないところで語られる、ほんの小さな評判。
そこには悪意など欠片もない。
むしろ、最初に漏れた言葉とは正反対だった。
彼らが話していたのは、次郎への不満ではない。
その家庭への羨望だった。
そして――。
そんな会話が交わされていることなど知らない次郎は、廊下を歩いていた。
一定の歩調を崩すことなく、静かに廊下を進んでいる。
周囲には何人かの職員がいたが、次郎は特に気に留めることなく、そのまま歩いていた。
ふと、ポケットの中のスマートフォンに触れる。
次郎は足を止めた。
妻とは普段から連絡を取り合っている。
家族とのやり取りを見るのは、次郎にとって仕事の合間のささやかな楽しみでもあった。
その一方で、次郎の頭には別のものが浮かんでいた。
妻が密かに運用している裏アカウント。
その存在を、次郎は知っている。
だが――。
今まで、ほとんど覗いたことはなかった。
見ようと思えば見られる。
けれど、見てはいけない気もしていた。
そこは妻自身の言葉を自由に書くための場所だ。
夫である自分が、そこに書かれていることをすべて知ろうとするのは、少し違うのではないか。
そんな思いがあった。
夫婦だからといって、すべてを共有しなければならないわけではない。
夫婦だからこそ、相手だけの時間や、相手だけの感情を尊重することも必要だ。
次郎は、そう考えていた。
だから、今までは見なかった。
だが――。
最近、ふと気になることがある。
妻は自分に何も言わない。
帰宅すれば笑顔で迎えてくれる。
仕事の話をすれば真剣に聞いてくれる。
危険な任務へ向かう時も、心配しているはずなのに、自分を責めるようなことは一度も言わない。
だからこそ。
次郎は、時々思う。
本当に、それだけなのだろうか。
自分に言えないことを抱えているのではないか。
自分が気づいていないだけで、妻は何かを我慢しているのではないか。
「……」
次郎はスマートフォンを握る。
もし、裏アカウントに自分への不満が書かれていたら。
仕事ばかりで家族を顧みない夫への不満。
危険な場所へ行く夫への不安。
もっと家にいてほしいという寂しさ。
あるいは、自分自身に対する怒り。
そういうものが書かれているのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が僅かに重くなる。
見ないほうがいい。
そう思う自分もいる。
知らなければ、今まで通りにいられる。
妻が何を思っているのかを知らなければ、余計な傷を負わせることも、自分が傷つくこともない。
だが――。
それでは駄目なのではないか。
次郎はそう考えた。
もし妻が本当に不満を抱えているのなら。
もし、自分に直さなければならないところがあるのなら。
知らないことを理由に、そのままにしていいはずがない。
妻が直接言えないのなら、自分から知ろうとするべきなのではないか。
夫として。
家族を守る人間として。
次郎はそこまで考えて、再び躊躇した。
それでも、やはり抵抗がある。
妻の秘密を覗き見るような行為ではないか。
自分に向けられた不満を知るためとはいえ、それを正当化していいのか。
「……」
親指が画面の上で止まる。
開こうとして――止める。
スマートフォンをしまおうとする。
だが、また取り出す。
何度かそれを繰り返した。
次郎ほど冷静な男でも、こればかりは簡単には決められなかった。
敵を前にした時なら迷わない。
危険を判断し、必要な行動を選び、実行する。
だが、相手が自分の妻となれば話は別だった。
何を知るべきで、何を知らないままでいるべきなのか。
それを決めることのほうが、よほど難しい。
長い沈黙の後。
次郎は小さく息を吐いた。
「……一度だけ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「不満があるなら、ちゃんと知っておかないとな」
妻を責めるつもりはない。
言い訳をするつもりもない。
ただ、もし自分に直すべきところがあるのなら――。
知って、変わらなければならない。
次郎は意を決して、妻の裏アカウントを開いた。
そこには、妻が普段口にすることのない言葉が並んでいた。
日常の出来事。
娘たちのこと。
家であった些細な出来事。
そして、その中に混じる夫への言葉。
次郎は少し意外そうに目を細めた。
自分への不満が書かれていると思っていた。
だからこそ、改善すべきところを見つけるつもりで開いた。
ところが――。
画面をスクロールすると、多くの文章が目に入る。
『あの人って、いつも私たちの前では何でもない顔をしてるけど、本当は誰よりも家族のことを考えてくれてるんだよね』
『危ない仕事だから、帰ってくるまで心配で仕方ない。それでも、帰ってきた時に疲れた顔を見せながら「ただいま」って笑ってくれるのを見ると、この人の帰ってくる場所を守ってあげたいって思う』
『仕事では何でもスマートに片付けちゃうから、たまにはもっと私を頼ってくれてもいいのにな』
『格好いいところも、優しいところも、ちょっと不器用なところも、全部ひっくるめて大好きです』
『娘たちに向ける顔を見るたびに、この人と家族になれて本当によかったって思う』
『私にとっては、世界で一番頼りになる人』
『でも、私にとっては、それ以上に大切な人です』
『あなたは変わらない人だから、私も負けないように綺麗でいなきゃね』
『これから先、何年経っても、あなたが帰ってきた時に「おかえり」って言える私でいたい』
次郎の指が止まる。
「……」
思わず、口元が緩んだ。
普段なら、こんな言葉を面と向かって言われれば、照れ臭さが先に立つ。
だが、こうして不意に目にすると、不思議と胸の奥が温かくなった。
次郎はもう一度、その文章を読む。
何度読んでも、書かれている内容は変わらない。
それでも、何となくもう一度読み返してしまう。
そして、さらに画面をスクロールする。
『これからもずっと、お互いに「この人と一緒になってよかった」って思える夫婦でいましょうね』
「……」
次郎は何も言わなかった。
ただ、穏やかに微笑む。
ほんの少しだけ目を伏せ、画面を見つめる。
そこに並んでいる言葉を、静かに噛み締める。
自分が思っていたものとは、まるで違った。
不満を探すつもりだった。
妻が何かを我慢しているのなら、それを知りたかった。
けれど、そこにあったのは責める言葉ではなかった。
自分を心配してくれる言葉。
自分を好きだと言ってくれる言葉。
そして、これからも夫婦であり続けたいという言葉。
次郎はしばらく画面を眺めていた。
やがて、視線を左手へ落とす。
任務中には決して身につけることのできないもの。
普段なら当たり前のように左手の薬指にあるはずのもの。
戦場に持ち込むことのできない指輪。
次郎は、何も身につけていない薬指を一瞬だけ眺めた。
次郎の表情には、戦場で見せる鋭さも、仕事中の冷静さもなかった。
ただ、妻から向けられた愛情を静かに噛み締める、一人の夫の顔だった。
「……ありがとう」
誰に聞かせるでもなく、次郎は小さく呟いた。
そしてスマートフォンをしまう。
いつものように姿勢を正す。
仕事へ戻るために、再び歩き出す。
その顔には、先ほどと変わらない穏やかな笑みが浮かんでいた。
廊下の先には、部下たちが集まっている部屋がある。
次郎は何も知らない。
自分がいない場所で、部下たちがどんな話をしていたのか。
あるいは、知っていたとしても気にすることはなかっただろう。
今の次郎にとって、それよりも大切なのは、スマートフォンに残された妻の言葉だった。
次郎は穏やかな笑みを浮かべたまま、部下たちのいる部屋へと向かって歩き出した。
前半の部下の噂話や、あさみの裏アカの件で一安心……。
読者目線では、そんな「肩透かしの惚気話」に見えたかと思います。
ですが、読者の皆様はご存知の通り、次郎は『Тウイルス適応者』です。
原作(ジル・バレンタイン等)でも描写されている通り、Тウイルスの適応者はウイルスの影響で細胞の劣化が極限まで抑制され、肉体がほとんど老化しません。
部下たちの「若くて羨ましい」という言葉は、彼が人間を辞めている証拠。
そしてあさみの「いつまでも理想の夫婦で」という純粋な願い。
あさみの現在の年齢は26歳、次郎は43歳ですが見た目はラクーンシティ事件当時の28歳と殆ど変わらない。
──あさみの外見年齢が次郎に追いつき、そして残酷に追い抜いていくカウントダウンは、既に始まっています。
彼にとっての本当の『不安の種』は、裏アカなどではなく、自身の体の中に深く根を張っている──というお話でした。
次回から掲示板回が続きます。
まずはレオン編Epilogueから。