本日はChapter1を一挙投稿します。
30分に一度投稿していきます。
まずはPart1から、嵐の前の静けさをどうぞお楽しみください。
ラクーンシティ消滅事件から四年。
世界は表面上の平穏を取り戻していた。
だが、その裏ではアンブレラ社は依然として存続していた。
ラクーンシティの壊滅によって国際的非難を浴びたものの、巨額の資金力と政治的影響力、そして複数国の政府との契約により、アンブレラは崩壊には至らなかった。
むしろ、表向きは「医療企業」としてのイメージ改善を進め、裏では旧アンブレラ研究員たちが極秘裏に新型B.O.W.やウイルス研究を継続していた。
ラクーンシティで流出した研究資料やウイルスサンプルは、各国政府、製薬企業、そして正体不明の組織によって奪い合われ、世界は水面下で静かに、しかし確実に不穏な方向へ進んでいた。
バイオテロは終わっていない。
ただ、人々に見えない場所へ姿を変えただけだった。
◇
イギリス・ロンドン郊外。
緑豊かな丘陵地帯に建つ、由緒ある貴族の屋敷。
広大な庭園では庭師が花を手入れし、使用人たちは慌ただしく朝の支度を進めていた。
その穏やかな光景を、一人の青年が静かに眺めている。
黒いスーツにグレーのカッターシャツ。
ジャケットの裏には護身用のホルスター。
有栖次郎――通称、アリス。
三十二歳となった彼は、四年前のラクーンシティ事件を経てもなお、その落ち着いた性格を変えていなかった。
Tウイルスへの適応によって、中性的だった顔立ちはさらに整い、凛々しさを備えた美貌へと変化している。
しかし、その鋭い観察眼だけは四年前と何一つ変わらない。
庭師が帽子を取った。
「おはようございます、アリスさん」
「おはよう」
短く返すと、庭師も笑顔で仕事へ戻っていく。
屋敷へ勤め始めて四年。
今では主人だけでなく、使用人たちともすっかり打ち解けていた。
そこへ執事長が歩いてくる。
「アリスさん、今日も早いですね」
「護衛対象より遅く起きるわけにはいかないからな」
執事長は穏やかに笑った。
「相変わらず真面目ですな」
「紹介された時は驚きましたよ」
「まさか、ラクーンシティ事件を生き延びた方が護衛になるとは」
次郎は少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「俺も英国へ来るとは思ってなかった」
「紹介してくれた人には感謝してる」
「ラクーンシティで助けたバーのお客様でしたな」
「ああ」
「イギリスで護衛を探してる知り合いがいるって話を持ってきてくれた」
「店長にも背中を押された」
執事長は頷く。
「J's Barの皆様とは今も?」
「連絡は取ってる」
次郎は少し笑う。
「店長は相変わらず店に立ってる」
『お前がロンドンから帰ってきたら、一杯おごってやる』
電話越しの店長の声を思い出し、自然と口元が緩む。
マービンさんも最近は、店へちょくちょく顔を出してるらしい。
ラクーンシティを生き延びた人たちは、それぞれ自分の人生を歩き始めていた。
「それは何よりです」
執事長も安心したように微笑んだ。
その時だった。
屋敷の玄関が勢いよく開く。
「アリス!」
明るい声が庭へ響いた。
振り向くと、一人の少女が玄関から軽やかに駆け寄ってくる。
朝日に照らされた金色の長い髪。
澄み切った青い瞳。
貴族らしい気品を漂わせながらも、その笑顔には年相応のあどけなさが残っていた。
エレン。
次郎が四年間護衛を務めている十八歳の少女だった。
「おはよう」
次郎が軽く手を上げる。
「おはよう!」
エレンは笑顔で応え、そのまま次郎の前で立ち止まる。
「そういえばアリス」
「最初に会った時のこと、覚えてる?」
「ああ」
「敬語がひどかった時だろ」
執事長が思わず吹き出した。
「あれは私も忘れられません」
「丁寧に話そうとなさるあまり、ずいぶん独特な英語になっておりました」
「『あなたのお紅茶を私は嬉しく飲みます』って言われた時は、何を言われたのか分からなかったもの」
エレンは楽しそうに笑う。
次郎は少し照れくさそうに頭をかいた。
「単語も話し方も分かるんだ」
「でも、綺麗な言い回しが苦手でな」
「下手に丁寧に話そうとすると、直訳みたいになる」
「だから敬語はやめたのね」
「ああ」
「言葉を飾ろうとすると、余計に変になる」
「今みたいに普通に話す方が、俺には合ってる」
執事長は苦笑しながら頷いた。
「最初は皆驚きましたが、今ではすっかり慣れました」
「むしろ、アリスさんらしい話し方だと感じております」
エレンも嬉しそうに頷く。
「そうそう」
「だから契約書も書き直したんだから」
「『護衛に過度な礼儀は求めない』って」
「助かったよ」
次郎は素直に礼を言う。
「言葉を飾るより、その分周りを見ていたい」
「それが俺の仕事だからな」
エレンは満足そうに微笑んだ。
「そういうところ、アリスらしいよ」
執事長は二人のやり取りを眺めながら、小さく目を細める。
四年前はどこかぎこちなかった二人も、今では兄妹のような信頼関係を築いていた。
「それより」
エレンはぱっと表情を明るくした。
「今日の予定、ちゃんと覚えてる?」
「ああ」
「午前は児童福祉施設への慰問」
「午後は美術館」
「最後に本屋だ」
「正解!」
エレンは嬉しそうに拍手する。
「今日は新刊の発売日なの」
「予約までしてあるんだから」
「もちろん護衛優先だけどな」
「分かってるって」
そう言って笑い合う二人を見て、周囲の使用人たちも自然と笑みを浮かべた。
屋敷へ来た当初は必要最低限しか話さなかった護衛が、今では主人とこんな穏やかな会話を交わせるようになっている。
それだけで、この四年間がどれほど平和だったかが伝わってきた。
「朝食の準備が整っております」
執事長が恭しく一礼する。
「お嬢様、アリスさん、どうぞ食堂へ」
「あ、今日は紅茶を新しい茶葉に変えたって聞いたの」
「楽しみだわ!」
エレンは弾むような足取りで屋敷へ向かう。
その少し後ろを、次郎は周囲を警戒しながら歩く。
屋敷の正門。
警備室。
塀の外へ続く林道。
監視カメラの向き。
警備犬の様子。
一瞬で全てを確認し終えると、何事もなかったように食堂へ入っていった。
護衛とは、危険が起きてから動く仕事ではない。
危険が起きないよう、日常を守り続ける仕事だ。
食堂へ入ると、焼きたてのパンの香りが一行を包み込んだ。
長いダイニングテーブルには、英国らしい朝食が整然と並べられている。
スクランブルエッグ。
厚切りベーコン。
ソーセージ。
焼きトマトにマッシュルーム。
香ばしく焼き上げられたパンと、銀のポットに入った紅茶。
料理長が無言で一礼する。
エレンは嬉しそうに席へ着く。
次郎も向かい側の席へ腰を下ろした。
「いただきます」
料理長が紅茶を注ぐ。
ふわりと立ち上る香りに、エレンは目を細めた。
「いい香り……」
「今日はダージリンのファーストフラッシュをご用意しました」
「春摘みなんだ?」
「はい」
エレンは一口含み、満足そうに微笑む。
「うん、美味しい」
その表情を見た料理長も嬉しそうに頭を下げた。
次郎もカップを口元へ運ぶ。
一口飲むと、小さく頷いた。
「美味い」
「本当?」
エレンが身を乗り出す。
「紅茶の違い、分かるの?」
「詳しくはない」
「でも飲みやすい」
「……あと、いい匂いだ」
その率直すぎる感想に、料理長も執事長も思わず笑みを浮かべた。
エレンも吹き出す。
「もう」
「アリスって、本当に飾らないよね」
「難しいことは分からないからな」
「美味いものは美味い」
「それで十分だ」
その一言に、食堂の空気が柔らかく和んだ。
朝食が進む中、執事長が今日の予定を確認する。
「十時に児童福祉施設へ到着予定です」
「慰問は約一時間」
「その後、市立美術館へ移動いたします」
「昼食は館内のレストランをご予約しております」
「午後三時頃に書店へ立ち寄り、その後帰邸の予定です」
「予定どおりだな」
次郎は短く頷いた。
「書店だけは絶対に忘れないでね」
エレンが念を押す。
「予約してある本なんだから」
「忘れない」
「護衛対象の予定は全部頭に入ってる」
「えへへ」
満足そうに笑うエレン。
そんな何気ないやり取りを、使用人たちは微笑ましく見守っていた。
食事も終盤に差しかかった頃、一人の若いメイドが新聞を持って入ってくる。
「失礼いたします」
「本日の朝刊でございます」
執事長が新聞を受け取り、一面を開く。
「今朝は少々物騒な記事が載っております」
そう言って視線を走らせた後、新聞を次郎へ差し出した。
「アリスさんもご確認ください」
「ああ」
次郎は受け取り、一面へ目を落とす。
『ロンドン東部で集団暴動』
大きな見出しの下には、規制線の張られた道路や警察車両の写真が掲載されていた。
記事には、
『複数の住民が突発的に暴徒化』
『警察官や救急隊員にも負傷者』
『原因は現在も調査中』
と記されている。
エレンも身を乗り出した。
「暴動……」
「最近はこういうニュース、多い気がするわ」
執事長は静かに頷く。
「ええ。しかし今回は規模が大きいようです」
「もっとも、こちらまで影響が及ぶことはないでしょうが」
料理長も笑いながら言った。
「ロンドンは広いですからな」
「東部とこちらでは、ずいぶん距離があります」
「警察もすぐに鎮圧するでしょう」
食堂には楽観的な空気が流れていた。
次郎だけが新聞を閉じず、記事を読み返している。
暴動。
原因不明。
住民同士の襲撃。
短い文章の一つ一つが、四年前の記憶を静かに呼び起こしていた。
――ラクーンシティ。
あの時も始まりは、小さな暴力事件だった。
感染者という言葉はどこにもなく、警察も暴動として処理していた。
(……考え過ぎか)
次郎は心の中で呟く。
ラクーンシティのような事件が、そう何度も起こるはずがない。
ましてやイギリスで。
新聞を畳み、テーブルへ戻す。
「何か気になるの?」
エレンが尋ねた。
「いや」
「少し昔を思い出しただけだ」
「昔?」
「ああ」
それ以上は語らない。
エレンも深く聞こうとはしなかった。
次郎が過去を話したがらないことは、この屋敷では誰もが知っている。
執事長は空気を変えるように手帳を開いた。
「では、本日の出発は九時三十分を予定しております」
「車は正門前へ回しておきます」
「分かった」
次郎は腕時計へ視線を落とした。
出発まで、まだ一時間ほどある。
その間に車両の点検を済ませ、携行装備を確認しておきたい。
「先に車を見てくる」
席を立つ次郎に、エレンが少しだけ頬を膨らませる。
「また?」
「朝くらいゆっくりしてもいいのに」
「護衛対象を乗せる車だ」
「念入りなくらいで丁度いい」
「ほんと、仕事人間」
苦笑するエレンに、次郎も肩をすくめて笑った。
「安心して本屋に行きたいだろ?」
「……それはそうなんだけど」
「だったら、俺も安心できるように準備するよ」
エレンは観念したように小さく笑う。
「分かった」
「じゃあ私は出掛ける支度をしてくるわ」
「ああ」
次郎は食堂を後にした。
窓の外では、穏やかな朝日が庭園を照らしている。
鳥のさえずりが響き、庭師が鼻歌交じりに花壇を手入れしていた。
誰もが、この一日がずっと続いていくと信じていた。
オリキャラ紹介
エレン・クロフォード
英国出身の貴族令嬢。2002年時点で18歳。
昨年、父親を遠方で起きた事故によって亡くし、一時は深い悲しみに暮れていた。しかし、その悲しみを乗り越え、現在はクロフォード家の当主代行として屋敷と領地を守っている。
穏やかで心優しい性格だが、芯は強く、どんな困難にも前を向いて立ち向かおうとする意志を持つ。世間知らずな一面もあるが、人を思いやる気持ちは誰よりも強く、使用人たちからも深く慕われている。
【挿絵表示】