本日二度目の投稿です。
車庫へ向かう石畳の小道を、次郎はゆっくりと歩く。
途中ですれ違う使用人たちは、皆笑顔で挨拶を交わした。
「アリスさん、おはようございます」
「おはよう」
洗濯係の女性は、大きな籠を抱えながら軽く頭を下げる。
「今日は天気が良くて助かりますね」
「ああ」
「洗濯日和だな」
その何気ない会話だけで、相手は嬉しそうに笑顔になる。
次郎は必要以上に話さない。
それでも、屋敷の誰もが彼を信頼していた。
四年間、一度も護衛対象に危険を近づけなかった実績。
困っている使用人がいれば黙って手を貸す性格。
そして、身分で人を区別しない態度。
それらが少しずつ積み重なり、今の信頼を築いていた。
車庫へ入ると、黒塗りのセダンが静かに佇んでいる。
専属の運転手が、ちょうど車体を磨き終えたところだった。
「おはようございます、アリスさん」
「おはよう」
「今日も車は絶好調ですよ」
「そうか」
次郎はボンネットへ軽く手を置き、エンジンルームを開ける。
冷却水。
エンジンオイル。
ブレーキフルード。
バッテリー。
手慣れた動きで一つひとつ確認していく。
運転手は苦笑した。
「少しは私を信用してくださいよ」
「信用はしてる」
次郎はボンネットを静かに閉めながら答える。
「でも、確認は俺の仕事だ」
「護衛っていうのは、何も起きなかった時が成功だからな」
運転手は感心したように息を漏らす。
「だから皆さん、あなたを頼りにするのでしょうね」
次郎は返事の代わりに小さく笑った。
その時、車庫の隅で作業をしていた若い整備士見習いが声を掛けてきた。
「アリスさん!」
「昨日教えてもらったタイヤ交換、一人でできました!」
「そうか」
「じゃあ見せてみろ」
見習いは少し緊張した面持ちで作業車の前へ立つ。
次郎はしゃがみ込み、ホイールナットを一本ずつ目視で確認した。
最後に軽く力を加えて確かめる。
「悪くない」
「締め付けも均等だ」
「ありがとうございます!」
見習いは嬉しそうに頭を下げた。
「でも一つだけ」
次郎はホイールキャップを指差す。
「ここ」
「少しだけズレてるな」
「あっ!」
見習いは慌てて付け直した。
その様子を見ていた運転手が笑う。
「本当に細かいですね」
「命を乗せる車だからな」
「細かいことの積み重ねが事故を防ぐ」
その言葉に、車庫にいた全員が静かに頷いた。
次郎は最後に車内へ乗り込み、無線機と救急セットを確認する。
懐中電灯。
予備バッテリー。
簡易工具。
救急用品。
どれも所定の位置に収まっていた。
「問題なし」
そう呟いて車を降りる。
まだ空は青く、遠くから教会の鐘が穏やかに鳴り響いている。
屋敷へ戻る途中、次郎は警備室へ足を向けた。
室内では二人の警備員が監視モニターを確認している。
「おはようございます、アリスさん」
「異常は?」
「ありません」
「正門、裏門、外周カメラ、全て正常です」
「警備犬も普段どおりです」
次郎はモニターを順番に見渡した。
正門。
裏門。
庭園。
車庫。
裏手の森。
どの映像にも異変はない。
「録画装置は?」
「正常稼働しています」
「停電用の非常電源も点検済みです」
「そうか」
次郎は短く頷いた。
護衛は襲われてから考える仕事ではない。
何かあった時に、すぐ動ける状態を維持することも重要だった。
警備室を出ると、ちょうどエレンが玄関から姿を現した。
白を基調としたワンピースに薄い水色のジャケット。
派手さはないが、上品で清楚な装いだった。
「お待たせ」
「いや、待ってない」
「車は?」
「問題ない」
「警備も異常なし」
「さすが」
エレンは満足そうに微笑んだ。
「それじゃあ、行こうか」
玄関前では運転手がセダンを横付けして待機している。
後部座席のドアを開けると、エレンは慣れた様子で乗り込んだ。
次郎は乗車する前に、いつものように周囲を一周見渡す。
屋根。
塀の外。
植え込み。
車の下。
異常なし。
確認を終えると、自らも後部座席へ乗り込んだ。
「出発します」
運転手の声とともに、セダンは静かに屋敷の門をくぐる。
窓の外には、のどかな英国の田園風景が広がっていた。
石造りの家々。
緩やかな丘。
放牧される羊。
青空の下を自転車で走る子どもたち。
どこまでも平和な景色だった。
エレンは窓の外を眺めながら、小さく笑う。
「こうして出掛けられる日って、やっぱり好き」
「あまり屋敷に籠もって仕事してばかりだと息が詰まるもの」
「だから今日は楽しみましょう」
「ああ」
次郎も窓の外へ視線を向ける。
その返事は短かったが、表情はどこか穏やかだった。
少なくとも今、この時間だけは。
四年前の悪夢とは無縁の、平和な一日が続いている。
セダンは緩やかな丘陵地帯を走り、やがてロンドン市街へ近づいていく。
交通量は少しずつ増え、通勤中の会社員や学生の姿が目立ち始めた。
「今日は混んでないわね」
エレンが窓の外を眺めながら言う。
「予定どおり着けそう」
「ええ」
運転手がバックミラー越しに答えた。
「このままでしたら十分ほど早く到着できます」
「じゃあ、子どもたちと遊ぶ時間が増えるわね」
嬉しそうに微笑むエレンを見て、次郎も小さく口元を緩めた。
慰問先の児童福祉施設には、年に数回訪れている。
最初は緊張していた子どもたちも、今では二人の訪問を心待ちにするようになっていた。
「あ」
エレンが鞄を開ける。
「大丈夫」
「忘れてなかったわ」
中から何冊もの絵本が現れる。
さらに色鉛筆や折り紙、小さなぬいぐるみまで入っていた。
「また増えたな」
次郎が苦笑する。
「偶然見つけちゃったのよ」
「喜んでくれるかなと思って」
「荷物は重くないのか?」
「平気」
そう答えた直後だった。
次郎は黙ってエレンの足元から鞄を持ち上げ、自分の隣へ移した。
「護衛対象に重い荷物を持たせるわけにはいかない」
「そんなに重くないのに」
「それでもだ」
エレンは困ったように笑う。
「相変わらず真面目ね」
「仕事だからな」
短い返事に、車内へ穏やかな笑いが広がった。
市街地へ入ると、赤い二階建てバスがゆっくりと交差点を横切る。
観光客らしき人々が地図を広げ、カフェのテラスでは朝食を楽しむ人々の姿も見えた。
どこにでもある、平和なロンドンの朝。
その中で一つだけ、次郎の視線が止まる。
歩道脇には救急車が停車し、救急隊員が一人の男性を診察していた。
警察官も数名集まっている。
事件というほどではない。
交通事故でもないようだった。
男性は頭を抱えながら何かを叫び、周囲の人間を激しく振り払っている。
「……」
次郎は数秒だけその光景を見つめた。
「どうしたの?」
エレンが尋ねる。
「いや」
「体調を崩した人がいるみたいだ」
「そう」
信号が青へ変わり、セダンはその場を通り過ぎる。
振り返れば、もう救急車の姿は建物の陰へ消えていた。
次郎もそれ以上気にすることはなかった。
セダンは市街地を抜け、住宅街の一角へ入っていく。
やがて、レンガ造りの二階建ての建物が見えてきた。
門柱には、
『セント・マーガレット児童福祉施設』
と書かれたプレートが掲げられている。
車が門をくぐると、庭で遊んでいた子どもたちが真っ先に気付いた。
「あっ!」
「エレンお姉ちゃんだ!」
「アリスだー!」
元気いっぱいの声が響き渡る。
エレンは思わず笑顔になった。
「みんな、久しぶり!」
車が止まるより早く、子どもたちは玄関前へ集まってくる。
職員の女性が苦笑しながら頭を下げた。
「申し訳ありません」
「朝からずっと楽しみにしていたものですから」
「気にしないでください」
エレンはそう言って車を降りると、一人ひとりへ笑顔を向けた。
「背が伸びたわね」
「学校は楽しい?」
「うん!」
「この前、テストで百点取ったんだ!」
「すごいじゃない」
子どもたちは我先にと話し始める。
その輪の少し外で、次郎は静かに周囲を見渡していた。
出入口。
避難経路。
職員の配置。
敷地を囲むフェンス。
不審者の有無。
癖のように確認を終えると、ようやく肩の力を抜く。
「アリス!」
小さな男の子が駆け寄ってきた。
「勝負しよう!」
「またか」
次郎は苦笑する。
「今日は何だ?」
「かけっこ!」
「前は負けたから!」
「今日は勝つ!」
「俺は護衛なんだが」
「ちょっとだけ!」
男の子は両手を合わせてお願いする。
その様子を見ていたエレンが笑った。
「アリス」
「少しだけ付き合ってあげたら?」
「……分かった」
次郎はジャケットの前を軽く整え、拳銃が見えないことを確認してから子どもたちの前へ歩み出る。
「よーい!」
「スタート!」
子どもたちが一斉に走り出す。
次郎も走る。
しかし、その速度は子どもたちよりほんの少し速い程度だった。
本気ではない。
それでもフォームだけは無駄がなく、美しかった。
「待ってー!」
「アリス速い!」
「ほら」
「あと少しだ」
次郎は振り返りながら速度を緩める。
最後は男の子が勢いよく飛び込み、ほんのわずかな差で先にゴールした。
「やったぁ!」
「勝った!」
男の子は飛び跳ねる。
周囲の子どもたちも拍手して喜んだ。
「おめでとう」
次郎は笑いながら男の子の頭を軽く撫でる。
その様子を見ていた職員が、小さく目を細めた。
「アリスさんは、本当に子どもたちに人気ですね」
「最初は少し無口だから緊張していた子もいましたけど、今ではみんな大好きなんですよ」
エレンは嬉しそうに頷く。
「アリスは口数が少ないだけなの」
「子どもたち一人ひとりのことをちゃんと見てくれるから、ちゃんと仲良くなれるのよ」
次郎は照れくさそうに頭をかいた。
「大げさだな」
「俺は普通に接しているだけだ」
その言葉に、子どもたちは一斉に笑い声を上げた。
◇
気が付けば、時計の針は正午を回っていた。
施設での慰問は予定どおり終わり、玄関前には子どもたちと職員が集まっていた。
「もう帰っちゃうの?」
「また来てね!」
「約束だよ!」
子どもたちが名残惜しそうに手を振る。
エレンも笑顔で手を振り返した。
「もちろん」
「またすぐ遊びに来るわ」
次郎も一人ひとりへ目を向け、小さく手を上げる。
「元気でな」
その短い一言に、子どもたちは満面の笑みを浮かべた。
「うん!」
「アリスもね!」
職員と施設長に見送られながら、一行はセダンへ乗り込む。
ドアが閉まり、車はゆっくりと門を出た。
窓の外では、子どもたちが姿が見えなくなるまで手を振り続けている。
エレンはその様子を見つめながら、小さく息をついた。
「何度来ても、帰る時が一番寂しいわね」
「ああ」
次郎も窓の外へ視線を向ける。
「みんな元気そうだったな」
「ええ」
「それが一番嬉しい」
エレンは穏やかに微笑んだ。
運転手がバックミラー越しに尋ねる。
「お嬢様、この後は予定どおり美術館へ向かいますか?」
「お願い」
「少し時間に余裕がありそうね」
セダンは住宅街を抜け、ロンドン中心部へ向けて走り始める。
夏の日差しが石畳を照らし、街には休日らしい穏やかな空気が流れている。
ロンドン中心部へ近づくにつれ、車窓の景色は少しずつ賑わいを増していった。
歴史ある石造りの建物が並び、歩道には買い物を楽しむ家族連れや観光客の姿が見える。
信号待ちで車が止まると、ストリートミュージシャンが軽快な音楽を奏でていた。
「今日は人が多いわね」
エレンが窓の外を眺めながら呟く。
「休日ですから」
「この辺りはいつも賑わっています」
運転手が穏やかに答えた。
エレンは嬉しそうに頷いた。
「活気のある街って、歩いているだけで元気をもらえる気がするわね」
その隣で、次郎は会話に加わることなく静かに周囲へ視線を巡らせていた。
交差点。
歩道。
停車中の車。
建物の屋上。
護衛としての習慣は、移動中でも変わらない。
「アリス」
エレンが小さく笑う。
「今日は仕事を忘れて楽しんでもいいのよ?」
「仕事中だからな、それは難しい」
次郎は苦笑した。
「そう言うと思った」
エレンも苦笑を返す。
そのやり取りに、運転手も思わず口元を緩めた。
車内には穏やかな空気が流れる。
やがて前方に、美しい石造りの建物が姿を現した。
目的地である美術館だった。
運転手は速度を落とし、来館者用の車寄せへとセダンを静かに滑り込ませる。
セダンが停車すると、運転手はすぐに車を降り、後部座席のドアを開けた。
「到着しました」
「ありがとう」
エレンは微笑みながら車を降りる。
次郎も続いて外へ出ると、まず周囲へ視線を巡らせた。
車寄せには数台の高級車が停まり、観光客や来館者が思い思いに館内へ向かっている。
制服姿の警備員も複数配置されており、特に不審な様子は見当たらない。
「問題なさそうだな」
小さく呟くと、エレンが振り返った。
「アリス」
「今日はゆっくり見て回りたい絵があるの」
「付き合ってくれる?」
「もちろんだ」
「護衛対象の希望だからな」
「ふふっ」
エレンは思わず笑った。
「仕事として付き合ってくれるのね」
「結果は同じだ」
次郎もわずかに口元を緩める。
二人は並んで美術館の正面階段を上る。
重厚な石造りの建物は長い歴史を感じさせ、入口では係員が来館者を丁寧に迎えていた。
館内へ足を踏み入れると、外の賑わいが嘘のように静寂が広がる。
高い天井。
磨き上げられた大理石の床。
壁一面に並ぶ名画。
穏やかな空気の中、エレンはどこか嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、ここの空気は落ち着くわ」
次郎は静かに頷きながらも、展示室より先に非常口や館内の配置へ目を向けていた。
護衛である以上、その癖だけはどうしても抜けない。
美術館で穏やかな午後を過ごした一行は、夕方になる頃には館を後にしていた。
セダンはロンドン市街を抜け、屋敷へ向けて走る。
西へ傾いた陽が街並みを赤く染め、行き交う人々も帰路を急ぎ始めていた。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
エレンが満足そうに微笑む。
「子どもたちにも会えたし、久しぶりにゆっくり絵も見られたわ」
「充実した一日だった」
「それなら良かった」
次郎は短く答えた。
車内には穏やかな空気が流れる。
運転手もバックミラー越しに二人の様子を見て、小さく笑みを浮かべていた。
やがて市街地を抜けると、車窓には再び広々とした田園風景が広がる。
屋敷までは、あと三十分ほど。
エレンは景色を眺めながら、静かに目を細めた。
「こんな毎日が、ずっと続けばいいのに」
次郎はその言葉にすぐ返事をしなかった。
ただ、穏やかな景色を眺めながら小さく頷く。
「ああ。そうだな」
その一言だけを返し、再び窓の外へ視線を向けた。