元殺し屋がバイオ事件に巻き込まれる話   作:オッパッピー

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ちなみに主人公の有栖という苗字は今際の際のアリスから頂戴しました。


Chapter2 悪夢の始まり Part2

 繁華街へ向かう道は、すでに混乱の渦と化していた。

 

 道路の中央では玉突き事故を起こした車が何台も折り重なり、黒煙を上げて燃えている。

 

 歩道には買い物袋や靴、スーツケースが散乱し、つい先ほどまで人々が必死に逃げていたことを物語っていた。

 

 遠くでは断続的に銃声が響き、悲鳴が途切れることはない。

 

 ラクーンシティそのものが、ゆっくりと崩壊し始めていた。

 

 次郎は足を止めずに走る。

 

 助けを求める声が聞こえても、今は立ち止まれない。

 

(店長……)

 

 まずはJ's Barだ。

 

 あの店だけは守りたい。

 

 それが今、自分にできる最善だった。

 

 繁華街へ入ると、見慣れたネオンはまだ灯っていた。

 

 しかし、いつもの賑わいはどこにもない。

 

 シャッターを閉める店。

 

 泣きながら逃げ惑う人々。

 

 誰もが恐怖に追われていた。

 

 その時だった。

 

「お母さーん!」

 

 幼い少女の泣き声が響く。

 

 歩道を見ると、小学校低学年ほどの少女が転んでいた。

 

 数メートル先では母親が必死に手を伸ばしている。

 

「早く!」

 

「立って!」

 

 だが、その背後から一体の化け物がゆっくりと近付いていた。

 

 母親は少女しか見えていない。

 

(まだ間に合う)

 

 次郎は地面を蹴った。

 

 一瞬で少女の前へ滑り込み、小さな体を抱き上げる。

 

「えっ……?」

 

 無言で少女を母親へ押し返す。

 

 母親は娘を抱き締め、涙を流しながら何度も頭を下げた。

 

「ありがとうございます!」

 

 その瞬間、化け物が腕を振り下ろす。

 

 次郎は身を翻してかわし、すぐさまリボルバーを抜いた。

 

 パンッ!

 

 乾いた銃声。

 

 弾丸は側頭部を撃ち抜き、化け物はその場へ崩れ落ちた。

 

「今のうちに!」

 

 母親は少女の手を引き、その場から走り去る。

 

 次郎は倒れた化け物を一瞥すると、再びJ's Barへ向かって走り出した。

 

 路地を抜けた先に、見慣れた看板が目に入る。

 

 J's Bar。

 

 次郎は思わず安堵の息を漏らした。

 

 入口のガラス越しには店長の姿が見える。

 

 客たちをカウンターの奥へ避難させている。

 

 全員、まだ生きていた。

 

 だが、その入口には一体の化け物が張り付き、何度もガラスへ体当たりを繰り返していた。

 

 ガンッ!

 

 ガンッ!

 

 ガラスには細かなひびが入り始めている。

 

「……間に合った」

 

 次郎はゆっくりとリボルバーを構えた。

 

 照準を頭部へ合わせる。

 

 パンッ!

 

 一発で頭部を撃ち抜く。

 

 化け物は力なく崩れ落ち、入口の前に倒れた。

 

 周囲を素早く見回す。

 

 今のところ、他に化け物の姿はない。

 

 次郎は扉を強く叩いた。

 

「店長! 俺だ!」

 

 一瞬の静寂。

 

 やがて聞き慣れた声が返ってくる。

 

「……アリスか!」

 

「今開ける!」

 

 鍵が外れる音が響き、扉が人ひとり通れるだけ開いた。

 

 次郎は素早く店内へ滑り込み、すぐに扉を閉めて閂を落とした。

 

 そして、ゆっくりと店内を見渡した。

 

 

 店内には重苦しい空気が漂っていた。

 

 カウンターの奥へ身を寄せ合う客は九人。

 

 誰もが青ざめた表情で入口を見つめている。

 

 店長は次郎の姿を確認すると、大きく息を吐いた。

 

「無事だったか……」

 

「何とかな」

 

 短く答えながら、次郎は店内を見回した。

 

 割れたグラス。

 

 倒れた椅子。

 

 床には血の跡が点々と続いている。

 

 そして、壁にもたれ掛かる一人の男性が目に留まる。

 

 額には脂汗が浮かび、顔色は土気色へ変わり始めていた。

 

 左腕をジャケットで押さえているが、その隙間から血が滴り落ちている。

 

 次郎の目が細くなる。

 

「……その傷」

 

 店長が苦しそうな表情で頷いた。

 

「逃げ込んできた時には、もう噛まれてた」

 

 男性は力なく笑う。

 

「大丈夫ですよ……」

 

「少し休めば、良くなりますから……」

 

 その声にはまるで力がなかった。

 

 次郎は男性の前へ膝をつく。

 

「腕を見せてくれ」

 

 男性はゆっくりとジャケットを外した。

 

 そこには、人間の歯形がはっきりと残っていた。

 

 肉は深く抉られ、傷口は赤黒く腫れ上がっている。

 

 一目で普通の咬傷ではないと分かった。

 

「店長、救急箱を」

 

「あ、ああ」

 

 店長は慌てて棚から救急箱を持ってくる。

 

 次郎は消毒液で傷を洗い、止血を始めた。

 

 手際は驚くほど慣れていた。

 

 包帯を巻き終えると、男性の額へそっと手を当てる。

 

「熱い……」

 

 異常な高熱だった。

 

 男性は小刻みに震えながら呟く。

 

「寒い……」

 

「なのに……体が熱くて……」

 

 次郎は静かに手を離す。

 

 交差点で見た男性。

 

 タクシーの女性。

 

 どちらも噛まれた後、異常な高熱を出していた。

 

 店長が不安そうに尋ねる。

 

「なあアリス、助かるよな?」

 

 次郎はすぐには答えられなかった。

 

「……分からない」

 

「でも、今は安静にしてくれ」

 

 希望を捨てたくはない。

 

 しかし、胸の奥では最悪の可能性が大きくなっていた。

 

 男性はゆっくりと壁へ背中を預ける。

 

「あ、ありがとう……」

 

「俺、まだ娘が小さくてさ」

 

 苦しそうに息を吐きながら、小さく笑う。

 

「明日……誕生日なんだ」

 

「祝ってやりたいんだ」

 

 店内の空気がさらに重くなる。

 

 誰も言葉を返せない。

 

 次郎もただ静かに男性を見つめることしかできなかった。

 

 その時だった。

 

 ガンッ!

 

 入口から鈍い衝撃音が響いた。

 

 全員が一斉に振り返る。

 

 ガンッ!

 

 もう一度。

 

 ガラス越しには、先ほどはいなかった一体の化け物が入口へ体当たりを始めていた。

 

 そして、その奥の暗闇からも、ゆっくりと人影が近付いてくる。

 

 店長が息を呑む。

 

「……また来やがった」

 

 次郎は静かに入口を見据えた。

 

 ガンッ!

 

 ガンッ!

 

 入口へ体当たりが繰り返される。

 

 ガラスに入ったひびが、少しずつ広がっていく。

 

 店内の客たちは身を寄せ合い、不安そうに入口を見つめていた。

 

「また増えてる……」

 

「どうして……」

 

 誰かが震える声で呟く。

 

 次郎はガラス越しの様子を冷静に観察する。

 

 一体だった化け物の後ろへ、また一体。

 

 さらにもう一体。

 

 暗い通りの向こうから、ふらつく足取りでこちらへ歩いて来る。

 

(偶然か……?)

 

 さっき撃った銃声。

 

 繁華街のあちこちで聞こえる悲鳴。

 

 断続的な発砲。

 

 まだ確証はない。

 

 だが、何かが奴らをこの場所へ集めている。

 

 その考えが頭をよぎった。

 

「店長」

 

 次郎は小声で呼び掛ける。

 

「念のため、照明を落として」

 

 店長は頷き、すぐにスイッチを切った。

 

 店内は非常灯だけが灯る薄暗い空間へ変わる。

 

 入口から見える人影もほとんど分からなくなった。

 

 ガンッ。

 

 ガンッ。

 

 体当たりはしばらく続く。

 

 店内の誰もが息を潜めた。

 

 やがて――

 

 ガンッ……。

 

 最後の一撃を境に、体当たりが止まる。

 

 代わりに聞こえてきたのは、低いうなり声だけだった。

 

「グルル……」

 

「ガァ……」

 

 化け物たちは店の前をうろついている。

 

 しかし、さっきのように扉へぶつかってはこない。

 

 次郎は静かに呟いた。

 

「……やっぱり」

 

 店長が小声で尋ねる。

 

「何か分かったのか?」

 

「まだ確証はない」

 

 次郎は入口を見つめたまま答える。

 

「でも、明るい場所や人の動きには敏感みたいだ」

 

「それに、店内が静かになってから体当たりが減った」

 

 店長は眉をひそめる。

 

「音か……?」

 

「その可能性はある」

 

 まだ推測に過ぎない。

 

 しかし、この発見は後の行動を大きく左右することになる。

 

 その時だった。

 

「うっ……」

 

 壁にもたれていた男性が苦しそうに胸を押さえた。

 

 肩で荒く息をし、全身が小刻みに震え始める。

 

 次郎はすぐに駆け寄る。

 

「どうした?」

 

「く……苦しい……」

 

 男性の額からは滝のような汗が流れ落ちていた。

 

 呼吸は急速に乱れ、瞳の焦点も少しずつ合わなくなっていく。

 

 そして、包帯を巻いた左腕の血管が黒く浮かび上がり始めた。

 

 次郎の表情が険しくなる。

 

(やっぱり……)

 

 交差点で見た男性。

 

 タクシーの女性。

 

 どちらも、この症状の直後に命を落とした。

 

 店長も異変に気付き、顔色を変える。

 

「おい、大丈夫か!」

 

 男性は返事をしない。

 

 震えはさらに激しくなり、歯がぶつかり合う音だけが静かな店内へ響いた。

 

 客たちは息を呑み、不安そうにその様子を見守る。

 

 誰も、これから何が起きるのかを理解できていない。

 

 ただ一人、次郎だけが最悪の事態を覚悟していた。

 

 

 男性の呼吸はさらに荒くなっていく。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 胸を押さえ、苦しそうにもがく姿に、店内の空気は張り詰めた。

 

 店長は思わず駆け寄ろうとする。

 

「おい! しっかりしろ!」

 

「店長!」

 

 次郎が鋭い声で制した。

 

「近付かないでくれ」

 

 店長は足を止める。

 

「でも、このままじゃ!」

 

「頼むから」

 

 次郎は男性から目を離さない。

 

「今は様子を見よう」

 

 店長は苦しそうに唇を噛み、拳を握り締めた。

 

「……分かった」

 

 男性の痙攣はさらに激しくなる。

 

 腕。

 

 肩。

 

 全身が大きく跳ね上がり、苦しげな呻き声が漏れた。

 

「た……助け……」

 

 それが最後の言葉だった。

 

 男性の体から、一気に力が抜ける。

 

 静寂。

 

 店内から物音が消えた。

 

 客の一人が震える声で呟く。

 

「死んだ……のか?」

 

 誰も答えられない。

 

 次郎はゆっくりとリボルバーへ手を添えた。

 

 交差点で見た男が脳裏をよぎる。

 

 一度死亡し、その直後に動き出した男。

 

 もし同じなら――。

 

「全員、壁際まで下がってくれ」

 

 静かな声だった。

 

 しかし、有無を言わせない迫力があった。

 

 客たちは互いに身を寄せ合いながら後退する。

 

 店長だけは、その場から動けなかった。

 

 目の前で倒れている男性は、数十分前まで笑いながら酒を飲んでいた常連客だったからだ。

 

「マーク……」

 

 かすれた声で名を呼ぶ。

 

 その瞬間。

 

 ぴくり。

 

 男性の右手が動いた。

 

「っ!」

 

 女性客が口を押さえる。

 

 指先。

 

 腕。

 

 肩。

 

 壊れた人形のような不自然な動きで、ゆっくりと上体を起こしていく。

 

 首が力なく傾き、骨が軋む音が小さく響いた。

 

 やがて男は完全に立ち上がる。

 

 瞳は白く濁り、焦点は合っていない。

 

 口元から血の混じった唾液が糸を引いていた。

 

「グルルル……」

 

 低いうなり声が店内に響く。

 

 店長の顔から血の気が引いた。

 

「そんな……」

 

 目の前にいるのは、もうマークではない。

 

 人の姿をした、別の何かだった。

 

 男はゆっくりと首を巡らせる。

 

 そして、一番近くにいた店長へ視線を向けた。

 

 次郎はリボルバーを抜きながら叫ぶ。

 

「店長! 離れろ!」

 

 しかし、一瞬早く、

 

「ガアアアアッ!」

 

 男は獣のような咆哮を上げ、店長へ飛び掛かった。

 

 次郎は一気に踏み込んだ。

 

 店長とマークの間へ滑り込み、マークを前蹴りで吹き飛ばした。

 

 マークは近くのテーブルへ激突する。

 

 椅子が倒れ、グラスが床へ散乱した。

 

 しかし、倒れたままでは終わらない。

 

 マークはすぐに起き上がると、割れたガラスを踏み付けながら次郎へ向かってきた。

 

 足裏が切れ、血が流れても全く気にする様子はない。

 

(やっぱり痛みを感じてない)

 

 次郎は静かに距離を取る。

 

「店長!」

 

 視線を逸らさず叫ぶ。

 

「もうマークさんじゃない!」

 

「近付いたら駄目だ!」

 

 店長は拳を震わせながら一歩、また一歩と後ろへ下がった。

 

「そんな……」

 

 信じたくなかった。

 

 だが、目の前にいるのは、もう笑って酒を飲んでいた常連客ではない。

 

 マークは低いうなり声を漏らしながら標的を変える。

 

 今度は近くで腰を抜かしていた若い女性へ向かって歩き始めた。

 

「いや……」

 

 女性は恐怖で動けない。

 

 距離は三歩。

 

 二歩。

 

 次郎は静かにリボルバーを構えた。

 

 照準の先にいるのは化け物。

 

 しかし、その姿は数十分前まで店長と笑い合い、娘の誕生日を楽しみに話していた一人の父親でもあった。

 

 引き金に掛けた指が、わずかに重く感じる。

 

 その時だった。

 

「……アリス」

 

 店長が低く呟く。

 

 次郎は視線を動かさないまま返事をした。

 

「ああ」

 

 店長は帽子を脱ぎ、胸の前で強く握り締める。

 

 目には涙が滲んでいた。

 

「……頼む」

 

 短い一言だった。

 

 その言葉には、友人を救えなかった悔しさと、これ以上誰も犠牲にしたくないという覚悟が込められていた。

 

 次郎は小さく頷く。

 

「……すまない」

 

 パンッ!

 

 乾いた銃声が店内へ響く。

 

 弾丸はマークの側頭部を正確に撃ち抜いた。

 

 マークの体から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。

 

 今度は、もう動かなかった。

 

 店内は静まり返る。

 

 誰一人、言葉を発することができない。

 

 店長はゆっくりとマークの前へ歩み寄ると、その場へ膝をついた。

 

「……すまん」

 

 震える声だった。

 

 次郎は何も言わない。

 

 慰めの言葉など、今は何の意味も持たないと分かっていた。

 

 静かな時間だけが、店内を包んでいた。

 

 

 やがて次郎は静かに口を開いた。

 

「……みんな、聞いてくれ」

 

 店内にいた全員の視線が集まる。

 

 誰も言葉を発しない。

 

「今見た通り、噛まれた人は高熱を出して、一度死ぬ」

 

 一呼吸置く。

 

「そして、その後……ああなる」

 

 誰も否定しなかった。

 

 目の前で起きた出来事が、何よりの証拠だった。

 

 女性客の一人が震える声で尋ねる。

 

「じゃあ……噛まれたら終わりなの……?」

 

 次郎はゆっくり首を横へ振る。

 

「まだ分からない」

 

「今見たのは三つの症例だけだ」

 

「だから、助からないとは言い切れない」

 

 断言はしなかった。

 

 希望まで奪うつもりはない。

 

 しかし、最悪の事態を想定する必要はある。

 

「でも、もし同じ症状が出たら、絶対に隠さないでくれ」

 

「必ず俺か店長に知らせてほしい」

 

 全員が静かに頷く。

 

 その時だった。

 

 ガンッ!

 

 入口から激しい衝撃音が響いた。

 

 全員が反射的に振り向く。

 

 ガンッ!

 

 ガンッ!

 

 さっきまで消えていた化け物が三体集まっている。

 

 さらに暗闇の向こうからも、ゆっくりと人影が近付いてくる。

 

 店長が息を呑んだ。

 

「どんどん増えてる……」

 

 次郎はガラス越しに外を見据える。

 

 入口だけではない。

 

 店の横にある窓の外にも、人影が現れ始めていた。

 

(まずい……)

 

 数分前には一体しかいなかった。

 

 それが、もう五体近くになっている。

 

 街中では今も銃声や悲鳴が響き続けている。

 

 そのたびに、外の化け物たちはゆっくりと集まって来ていた。

 

「店長」

 

 次郎は小声で言う。

 

「このままここにいるのは危険だ」

 

 店長も窓の外を見ながら頷いた。

 

「ああ……俺もそう思う」

 

「裏口から出られるか?」

 

 次郎は店の見取り図を頭に思い浮かべる。

 

 厨房の奥には裏口。

 

 その先は細い裏路地。

 

 正面よりは人通りが少なく、逃げ道として使える可能性が高い。

 

「まだ外の数は少ない」

 

「動くなら今だ」

 

 その言葉に、店内の全員が息を呑んだ。

 

 

 店長は静かに立ち上がると、店内にいる客たちを見回した。

 

「みんな、聞いてくれ」

 

 震える声だった。

 

「ここには、もういられない」

 

 誰も反論しなかった。

 

 入口では化け物たちが絶え間なく体当たりを続けている。

 

 ガラスには無数のひびが走り、今にも砕け散りそうだった。

 

 次郎も頷く。

 

「厨房の裏口から出る」

 

「一本道になるが、正面より安全だ」

 

 店長は客たちへ視線を向ける。

 

「ジローが先頭を歩く」

 

「俺が最後尾で警戒だ」

 

「絶対に列を乱さないでくれ」

 

 全員が小さく頷いた。

 

 誰も泣き言は言わない。

 

 極限状態の中でも、生きたいという思いだけは全員同じだった。

 

 次郎は厨房へ向かい、裏口の小窓から外を確認する。

 

 薄暗い裏路地には人影はない。

 

 耳を澄ませても、近くからうなり声は聞こえなかった。

 

「……今なら行けそうだ」

 

 店長は静かに深呼吸をした。

 

「よし」

 

 客たちも荷物を握り直す。

 

 次郎がゆっくりと鍵を外した。

 

 ギィ……。

 

 裏口をほんの少しだけ開く。

 

 冷たい夜風が店内へ流れ込んできた。

 

 外をもう一度確認する。

 

 異常なし。

 

 次郎は小さく頷いた。

 

「行こう」

 

 先頭に立ち、静かに裏路地へ足を踏み出す。

 

 客たちが一人、また一人と続く。

 

 最後に店長が店内を振り返った。

 

 カウンター。

 

 棚に並んだ酒瓶。

 

 常連客たちと笑い合った場所。

 

 そして、床に横たわるマークの遺体。

 

 長年守り続けてきた店だった。

 

「……必ず戻ってくる」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 静かに裏口を閉めると、店長も一行の後を追った。

 

 その直後――

 

 バキィィンッ!

 

 店の正面からガラスが砕け散る音が夜へ響く。

 

 何体もの化け物が店内へ雪崩れ込んだのだろう。

 

 獣のような咆哮が、暗い街へ響き渡る。

 

 店長は振り返らなかった。

 

 次郎も前だけを見つめて歩き続ける。

 

 もう戻れない。

 

 守るべき場所は失った。

 

 これから守るべきなのは、共に歩く生存者たちの命だった。

 

 夜の裏路地へ、十人の足音だけが静かに響く。

 

 その先に待つ運命など、誰一人知る由もなかった。

 

 




窓や扉を突き破ってくるゾンビって恐いですよね。
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