本日ラストの投稿です。
三日目、東の空が白み始める頃、ようやく屋敷内の作業は一区切りを迎えた。
一階の主要な窓は大型家具と木材で塞がれ、二階へ運び込む非常用物資もまとめられている。
浴槽や鍋、保存容器には水が満たされ、階段付近には封鎖用の家具が整然と並べられていた。
屋敷は一夜にして、生活の場から籠城のための拠点へと姿を変えていた。
それでも次郎は気を緩めなかった。
「交代で三時間ずつ休んでくれ」
「警備は二十四時間体制を維持する」
「無理だけはするな」
「了解しました」
警備主任が頷く。
疲労は全員の顔に浮かんでいた。
だが、不満を漏らす者はいない。
昨夜の停電と通信断絶が、誰もが事態の深刻さを理解するには十分だった。
午前八時。
エレンが寝室から姿を現した。
目の下には少しだけ隈ができている。
「おはよう、アリス」
「ああ、おはよう」
「眠れたか?」
「少しだけ」
エレンは苦笑した。
「夜中もずっと音がしてたから」
廊下には固定された家具が並び、窓から朝日が差し込むこともない。
昨日まで見慣れていた屋敷とは、まるで別の建物だった。
「本当に要塞みたいね」
「これでようやく安心だ」
次郎は短く答える。
食堂では簡単な朝食が用意されていた。
料理長は苦笑しながら言う。
「停電の影響で使えない設備もありますから、しばらくは簡単な料理になります」
「十分だ」
次郎は静かに答えた。
屋敷には昨夜の疲労が色濃く残っていたが、誰も弱音は吐かなかった。
朝食を終えた次郎は、いつものように警備室へ向かう。
監視モニターには、昨夜と変わらぬ静かな屋敷の外が映し出されていた。
警備主任が席を立つ。
「アリスさん」
「自家発電機は正常に稼働しています」
「外周にも異常はありません」
次郎は頷く。
「電話はどうだ」
主任は申し訳なさそうに首を横へ振った。
「夜通し何度も確認しましたが、固定電話は発信音すら鳴りません」
「携帯電話も圏外のままです」
「通信は依然として回復していません」
次郎はモニターへ視線を向けたまま短く答える。
「分かった」
「監視を続けてくれ」
「了解しました」
次郎はそのまま外周カメラへ目を向けた。
風に揺れる木々。
芝生を横切る野ウサギ。
何一つ異常はない。
しかし、道路だけが違っていた。
「……車が全く来ない」
警備主任がぽつりと呟いた。
昨日は数時間に一台程度だった車が、この日は朝になっても一台も通らない。
物流も、人の往来も止まり始めている。
次郎は画面を見つめたまま言った。
「街はもっと酷いことになってる」
「ここが静かなのは、安全だからじゃない」
「単に人がいなくなっただけかもしれない」
警備主任は返事を失った。
しばらく監視モニターを眺めていた次郎は、不意に口を開く。
「倉庫に非常用のラジオがあったな」
「はい。災害対策用に保管しています」
「持って来てくれ」
数分後、警備主任は電池式の携帯ラジオを抱えて戻ってきた。
新品の乾電池を入れ、電源を入れる。
ザーッという激しい雑音だけが警備室に響いた。
主任がゆっくりと周波数を合わせる。
雑音。
無音。
そして再び雑音。
何度もダイヤルを回した末、ようやく人の声が混じり始めた。
『――こちら、英国放送協会です』
途切れ途切れではあるが、放送は続いている。
『政府は現在も各地で発生している暴動への対応を続けています』
『不要不急の外出は控え、自宅など安全な場所で待機してください』
『一部地域では通信障害と停電が続いており――』
そこで再び雑音が入る。
警備主任が顔をしかめた。
「聞き取りづらいですね」
「それでも十分だ」
次郎は静かに答えた。
「外の情報が入るだけでも違う」
ラジオは断続的に雑音を挟みながら放送を続ける。
『警察および軍は、治安維持活動を継続しています』
『市民の皆様はデマに惑わされず、公式発表を――』
そこで再び電波が途切れた。
次郎は腕を組む。
原因には一切触れていない。
暴動。
停電。
通信障害。
それらの事実だけを繰り返している。
四年前のラクーンシティでも同じだった。
行政は混乱を避けるため、真実を最後まで伏せ続けた。
「定時になったらまた聞こう」
「二十四時間、ラジオも監視対象だ」
「何か変化があれば、すぐ俺に知らせてくれ」
「了解しました」
次郎は再び監視モニターへ目を向ける。
屋敷の外は、相変わらず静まり返っていた。
だが、その静寂の向こうで、確実に何かが近づいている。
そんな予感だけが、時間とともに強くなっていった。
昼を過ぎても、屋敷の周囲に変化はなかった。
正門前の林道には車の姿はなく、人影も見えない。
風が木々を揺らし、時折、小鳥が枝から枝へ飛び移るだけだった。
静かすぎる。
そのことが、かえって不気味だった。
次郎は警備室を出ると、屋敷の外周を歩いて確認する。
家具で補強した窓。
溶接された裏口。
外周フェンス。
どこにも異常はない。
警備員たちも緊張を保ちながら巡回を続けていた。
「異常なしです」
「ご苦労」
短いやり取りを交わし、次郎は屋敷へ戻る。
談話室ではエレンが一冊の本を開いていた。
昨日、博物館の帰りに買った本だ。
しかし、ページをめくる手は止まりがちだった。
「安心して読めないか」
次郎が声を掛ける。
エレンは苦笑した。
「うん……」
「文字は読んでるんだけど、頭に入ってこないの」
「外のことが気になるか?」
その問いに、エレンは小さく頷いた。
「みんな、ちゃんと避難できているといいなって」
「ニュースでは暴動って言ってたけど、本当にそれだけなのかな」
次郎は答えなかった。
自分の中にも同じ疑問があったからだ。
「考えても答えは出ない」
「今はここで待つしかない」
「……うん」
エレンは本を閉じた。
午後三時。
警備室のラジオから再び雑音が聞こえ始めた。
定時放送だった。
『臨時ニュースをお伝えします』
『暴動はロンドン近郊にも拡大しており、警察および軍による警戒が続いています』
『住民の皆様は不要不急の外出を控え、屋内で待機してください』
『また、一部地域では物流の停滞により、食料品や生活物資の供給に遅れが生じています』
放送はそれだけだった。
原因については、やはり何も触れられない。
警備主任がラジオの音量を下げる。
「状況は悪くなっていますね」
「ああ」
次郎は短く答えた。
「でも、まだここまでは来ていない」
「だからこそ油断するな」
「分かりました」
夕方になっても、屋敷の外に変化はなかった。
警備員が交代で巡回し、使用人たちは節電を心掛けながら普段どおりの仕事を続ける。
夕食も簡素ではあったが、全員が同じテーブルを囲んだ。
誰も明るく振る舞おうとはしない。
しかし、不安を口にする者もいなかった。
食事を終えた次郎は再び警備室へ向かう。
ラジオから流れる雑音に耳を澄ませながら、監視モニターへ目を向けた。
今日も一日、屋敷には何も起きなかった。
だが、それは決して安心を意味してはいない。
静寂は続いている。
その静寂が破られる日は、そう遠くない。
四日目の朝。
次郎は短い仮眠を終えると、いつものように警備室へ向かった。
警備主任は一礼すると、昨夜からの報告を始める。
「外周に異常はありません」
「ラジオも定時ごとに確認していますが、大きな変化はありませんでした」
「了解した」
次郎は監視モニターへ目を向ける。
相変わらず道路には車が一台も通らない。
人影もなく、森だけが風に揺れている。
まるで世界から人が消えてしまったようだった。
その時。
厨房の方から慌ただしい足音が近づいてきた。
料理長だった。
「アリスさん!」
「水が出ません!」
次郎はすぐに厨房へ向かう。
料理長が蛇口をひねる。
何も出ない。
別の蛇口も同じだった。
洗面所、浴室、客室。
屋敷中の蛇口を確認したが、一滴の水も流れない。
「断水か……」
次郎は静かに呟いた。
驚きはなかった。
あらかじめ水を確保しておいた判断は正しかった。
「備蓄水へ切り替える」
「飲料水は一日分ずつ配給」
「生活用水は浴槽の水を使え」
「承知しました」
使用人たちは慌てることなく動き始めた。
混乱は起きない。
準備を済ませていたからこそだった。
昼過ぎ。
今度は厨房から小さな声が上がる。
「あれ、火が……」
コンロに火が点かない。
何度試しても反応しなかった。
料理長は静かに首を振る。
「ガスも、止まりました」
屋敷のライフラインは、自家発電による電気だけになった。
次郎は館内放送で全員を広間へ集める。
「今日から、さらに節約する」
「発電機の燃料には限りがある」
「照明は夜間のみ必要最低限」
「暖房も使用禁止」
「食事は調理時間を短縮しろ」
全員が静かに頷いた。
誰も不満は言わない。
今、自分たちが置かれている状況を理解していた。
午後三時。
定時のラジオ放送が始まる。
『臨時ニュースをお伝えします』
『政府は本日、非常事態宣言の対象地域をさらに拡大しました』
『各地で暴動が続いています』
『住民の皆様は屋外へ出ず、安全な場所で待機してください』
『また、水道・ガスなど公共インフラの復旧時期は未定です』
雑音が入り、放送は途切れた。
警備室は静まり返る。
「……復旧は期待できませんね」
警備主任が呟く。
「ああ」
次郎は短く答えた。
「これで、完全に孤立したな」
窓の外へ視線を向ける。
それでも屋敷の周囲は静かだった。
静かすぎるほどに。
しかし次郎は知っていた。
ラクーンシティでも、本当の地獄は静寂のあとにやって来たことを。
――DAY4・終了――
インフラの止まる日数や順番に関しては28日後を見たうえでAIとの打合せで決めております。
明日からは18時と19時の二本投稿とさせて頂きます。