本日から毎日18時と19時に投稿します。
五日目の朝。
屋敷は静寂に包まれていた。
電気は自家発電によって維持されているものの、水道もガスも止まったまま。
使用人たちは備蓄水を無駄なく使い、最低限の朝食を準備していた。
食堂には、重苦しい空気が流れている。
誰もがラジオの定時放送を待っていた。
午前八時。
警備主任が携帯ラジオの音量を少し上げる。
ザーッという雑音の後、男性アナウンサーの声が聞こえてきた。
『臨時ニュースをお伝えします』
『本日未明、○○地区において大規模な暴動が発生しました』
『警察および軍が出動していますが、現在も鎮圧には至っていません』
『住民の皆様は現地へ近づかず、安全な場所で待機してください』
エレンの手が止まった。
「……え?」
その地区を聞き間違えるはずがなかった。
数日前、二人が訪れた児童福祉施設のある街だった。
「アリス……」
エレンはゆっくりと次郎を見た。
その瞳には隠しきれない不安が浮かんでいる。
「あの子たち……」
「孤児院のみんなが……」
次郎は何も答えなかった。
ラジオは続ける。
『現地では一部の道路が封鎖され、地域への立ち入りが制限されています』
『住民の皆様は、警察および軍の指示に従ってください』
そこで放送は雑音に変わった。
食堂は静まり返る。
エレンは俯き、小さく拳を握り締めた。
「約束したのに……」
「また会いに行くって」
孤児院の子どもたちの笑顔が脳裏に浮かぶ。
元気よく駆け寄ってきた子。
照れながら話しかけてきた子。
別れ際に何度も手を振ってくれた子。
その全員が、今もあの街にいる。
「みんな……無事だよね……?」
その問いに答えられる者はいなかった。
次郎もまた、静かにラジオを見つめている。
ラクーンシティでも、最初は「暴動」と報じられた。
そして、真実が明らかになった頃には、手遅れだった。
嫌な予感だけが胸の中で膨らんでいく。
エレンはもう一度、小さな声で呟いた。
「アリス……」
「私、あの子たちが心配……」
その言葉に、次郎は静かに目を閉じた。
彼には、この先エレンが何を言い出すのか、おおよその見当がついている。
食堂を包む沈黙は、誰にも破れなかった。
次郎は冷めかけた紅茶を一口飲み、静かにカップを置く。
「……心配なのは分かる」
その一言に、エレンは顔を上げた。
「だが、今の情報だけで動くのは危険だ」
「暴動がどの程度なのかも分からない」
「道路が使えるのか、街が封鎖されているのか、それすら不明だ」
エレンは唇を噛み締める。
頭では理解できる。
だが、気持ちは納得してくれない。
「あの子たちは……」
「大きい子だけじゃないの」
「小さい子もたくさんいるんだよ……」
震える声だった。
次郎は静かに頷く。
「あの日、俺も行った」
「だから、君が心配する気持ちも分かる」
エレンは俯いたまま、小さく呟く。
「何もしないまま待つなんて……」
「私にはできない」
次郎は静かに目を閉じた。
予想していたとおりだった。
エレンは、自分が危険な目に遭うことよりも、他人を助ける事を優先してしまう。
「アリス」
エレンは真っ直ぐに次郎を見つめた。
「お願い」
「私、孤児院へ行きたい」
「みんなが無事かだけでも、確かめたいの」
食堂の空気が凍りつく。
執事長も料理長も、思わず息を呑んだ。
次郎はすぐには答えなかった。
家具で塞がれた窓へ視線を向ける。
静かな森。
誰も通らない道路。
それらを思い浮かべ、やがて彼はゆっくりとエレンへ向き直った。
「……少し、時間をくれ」
「準備するから、それまでは待っていてくれ」
エレンは目を見開いた。
「……いいの?」
「ああ」
「ただし、準備が整うまでは絶対に屋敷を出るな」
「約束できるか?」
エレンは力強く頷いた。
「うん、約束する」
その返事を聞いて、次郎は静かに席を立った。
彼はもう、エレンが孤児院へ向かうことを止められないと理解していた。
仮にここで駄目だと言えば、エレンは次郎を置いて勝手に行ってしまうだろう。
ならば、自分ができることは一つしかない。
最悪の事態を想定した準備を整え、少しでも生きて帰れる可能性を高めることだった。
次郎は自室へ戻ると、扉に鍵を掛けた。
部屋の中は静まり返っている。
ゆっくりとクローゼットの扉を開く。
一見すると、スーツやシャツが整然と並ぶだけの普通の収納だった。
しかし、その衣類を脇へ寄せると、奥に隠された頑丈な金属製の保管庫が姿を現した。
ダイヤルを回し、鍵を差し込む。
重い音を立てて扉が開いた。
中には銃器と弾薬が整然と収められていた。
拳銃。
アサルトライフル。
ショットガン。
予備弾倉。
箱詰めされたライフル弾と拳銃弾。
そして、手入れの行き届いた複数のナイフ。
それら裏ルートで密かに入手し、隠し持っていた武器の状態を次郎は一つひとつ確認していく。
スライドを引く。
安全装置を確かめる。
弾倉を抜き、装填状態を確認する。
異常はない。
やがて大型のダッフルバッグを床へ置くと、必要な装備を迷いなく詰め始めた。
最初に入れたのはアサルトライフルだった。
屋敷の周囲なら拳銃で十分だ。
だが、今の街へ入るなら話は別である。
拳銃だけでは突破できない状況があるかもしれない。
距離を取り、火力で押し返さなければ生き残れない場面があるかもしれない。
そのためのアサルトライフルだった。
続いて予備弾倉を何本もバッグへ収める。
拳銃用の弾薬。
ライフル弾。
救急用品。
懐中電灯。
予備電池。
水と携行食。
必要と判断した物を無駄なく詰め終え、ファスナーを閉める。
次郎が部屋を出た頃には、屋敷はすでに厳戒態勢へ移行していた。
警備員たちは持ち場を再確認し、使用人たちも必要最低限の移動だけを行っている。
廊下には張り詰めた空気が漂っていた。
次郎は肩にダッフルバッグを担ぎ、裏口からガレージへ向かう。
バッグにはアサルトライフルをはじめ、複数の銃器、大量の弾薬、救急用品、携行食が詰め込まれている。
普通の人間なら両手でようやく持ち上げられるほどの重量だった。
しかし次郎は、その重さを意に介することなく片手で持ち、歩調を変えることなく歩き続ける。
Tウイルスへの適応によって得た怪力。
常人離れした膂力は、これほどの重量ですら負担にならなかった。
ガレージでは運転手が車両の点検を終え、静かに待っていた。
次郎は軽く会釈すると、そのまま車の後部へ回る。
運転手がトランクを開ける。
次郎はダッフルバッグを片手で持ち上げると、そのまま奥へ静かに収めた。
金属同士がぶつかる鈍い音が、トランクの中で短く響く。
運転手はバッグの重さを知らない。
だが、それを何事もないように持ち運ぶ次郎の姿を見て、思わず息を呑んだ。
「……準備は整っています」
運転手はそれだけ告げる。
次郎は静かに頷き、トランクを閉めた。
あとは、エレンとの約束どおり、出発の時を待つだけだった。
トランクを閉める音が、静かなガレージに響いた。
次郎が車から離れようとした、その時だった。
「アリス!」
聞き慣れた声に振り返る。
ガレージの入口には、息を弾ませたエレンが立っていた。
急いで来たのだろう。
髪を整える余裕もなかったのか、肩で小さく息をしている。
「もう準備できたの?」
「ああ」
次郎は短く答えた。
「待っていてくれと言っただろ」
エレンは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい……」
「でも、部屋で待っているだけなんて無理だった」
「気になってしまって……」
次郎は小さく息を吐いた。
予想どおりだった。
彼女が大人しく部屋で待ち続けられる性格でないことは分かっていた。
「出発はまだだ」
「準備が終わっただけだ」
「分かってる」
エレンはそう答えると、車へ視線を向けた。
「この車で行くの?」
「その予定だ」
「四輪駆動で車高も高い」
「舗装されていない道でも走れる」
エレンは静かに頷いた。
その表情からは、先ほどまでの焦りが少しだけ薄れていた。
「ありがとう」
「私のために準備してくれて」
次郎は首を横に振る。
「礼は無事に戻ってから聞く」
「それまでは気を抜くな」
エレンは真剣な表情で頷いた。
「うん」
短い返事だった。
その瞳には、不安と決意が入り混じっている。
しばらくの間、二人は無言で車を見つめていた。
沈黙を破ったのは次郎だった。
「エレン」
「出発する前に、約束してほしい」
エレンは次郎へ向き直る。
「何を?」
「俺が危険だと言ったら、すぐに従うこと」
「逃げろと言ったら逃げる」
「伏せろと言ったら伏せる」
「車へ戻れと言ったら戻る」
「理由を聞かずに従う」
次郎は真っ直ぐにエレンを見据えた。
「約束できるか」
エレンは少しだけ俯く。
葛藤しているのが分かった。
孤児院の子どもたちが目の前にいれば、自分よりもそちらを優先したくなる。
そんな自分の性格を、彼女自身も理解していた。
やがて顔を上げる。
「……うん」
「約束する」
「アリスの言うことを聞く」
次郎は小さく頷いた。
「それでいい」
その時、ガレージへ足音が近づいてきた。
執事長だった。
「アリスさん」
「運転手から、準備が整ったと報告を受けましたので、確認に参りました」
次郎は軽く頷く。
「問題ない。あとは出発の時を待つだけだ」
次郎は一度だけ車へ視線を向ける。
そしてエレンへ向き直った。
「行く前に、屋敷のみんなへ一言だけ伝えておいてくれ」
「心配させたまま出るのはよくない」
エレンは静かに頷いた。
「分かった。すぐに戻るわ」
そう言って屋敷へ駆けていく。
その後ろ姿を見送りながら、次郎は腕時計に目を落とした。
出発まで、あとわずか。
エレンの姿が屋敷の中へ消える。
次郎はその背中を見届けると、ゆっくりと車へ向き直った。
運転席では運転手が静かに待機している。
「出発したら、目的地までは最短で向かう」
次郎が言うと、運転手は頷いた。
「承知しました」
「道路の状況次第では迂回も考えます」
「ああ」
「無理はしない」
「危険と判断したら引き返す」
運転手は真剣な表情で答えた。
「分かりました」
その時、再び足音が聞こえてきた。
エレンだった。
少し息を切らせながらガレージへ戻ってくる。
「待たせちゃった?」
「いや」
次郎は首を横に振る。
「みんなには伝えられたか」
「うん」
その言葉を聞き、次郎は静かに頷く。
「行こう」
運転手が後部座席のドアを開けた。
エレンは一度だけ屋敷を振り返る。
玄関先には執事長をはじめ、使用人たちが並び、二人を見送っていた。
エレンは小さく頭を下げる。
そして車へ乗り込んだ。
次郎も反対側から後部座席へ乗り込み、静かにドアを閉める。
運転手はルームミラー越しに二人を確認した。
「出発します」
エンジンが低く唸りを上げる。
ゆっくりと車はガレージを出て、屋敷の正門へ向かった。
数日ぶりに開かれる重厚な鉄門。
車は静かに屋敷の外へと走り出した。
誰もいない道路の先には、不気味な静寂だけが広がっていた。
レイジウイルス感染者の特徴
1. 身体能力と攻撃性
爆速で全力疾走する:従来の遅いゾンビとは異なり、アスリート並みの速度で生存者を追いかける。
圧倒的な凶暴性:理性を完全に失い、生存者を見つけると激しい怒りのままに襲いかかる。
痛覚の鈍麻:興奮状態にあるため、多少の怪我や攻撃を受けても怯まずに突進してくる。
2. 感染経路と発症速度
数秒で即発症:ウイルスが体内に侵入すると、わずか数十秒足らずで完全に凶暴化する。
体液感染:感染者の血液や唾液が、口・目などの粘膜や傷口に触れることで感染する。
噛みつきと血の噴射:噛みつくだけでなく、激しい攻撃の際に口から血を噴射して周囲を汚染させる。
3. 人間としての弱点・限界
餓死する:生きた人間であるため、何も食べなければ一般人と同じように飢えで死亡する。
致命傷で死ぬ:心臓や脳への攻撃、大量出血、銃撃など、人間が死に至るダメージを与えれば活動を停止する。
あきらめる:標的を見失ったり、絶対に追いつけないと判断すると追跡を断念するような、人間らしい脳の判断が一部残っている。