本日二度目の投稿です。
車は一定の速度を保ったまま、静かな道路を走り続ける。
車内にはエンジン音だけが響いていた。
エレンは窓の外へ視線を向けたまま、一言も口を開かない。
やがて住宅地へ入る。
普段なら通勤や買い物客で賑わうはずの道路には、人影がまったくなかった。
歩行者はいない。
対向車も来ない。
信号だけが律儀に赤と青を繰り返している。
最初に目に入ったのは、一台の乗用車だった。
ハザードランプを点滅させたまま、道路脇へ乗り捨てられている。
運転席のドアは開いたまま。
車内に人の姿はない。
さらに進む。
今度は配送トラックが歩道へ乗り上げ、街路樹に突っ込んだ状態で止まっていた。
フロントガラスは蜘蛛の巣状に割れている。
荷台の扉は開き、積み荷だけが道路へ散乱していた。
それでも誰もいない。
街は、音を失っていた。
交差点を曲がると、大きく横転したバスが道路を半分塞いでいた。
運転手は速度を落とし、空いた隙間を縫うように慎重に車を進める。
「……静かすぎるわね」
エレンが小さく呟いた。
次郎は窓の外から目を離さない。
「ああ」
「この静けさは普通じゃない」
車はさらに街の中心部へ近づいていく。
商店のシャッターは閉じられたまま。
ガラスの割れた店。
放置された自転車。
道路へ散乱した新聞。
風に転がる空き缶だけが、わずかに人の気配を感じさせていた。
まるで一夜にして、人だけが姿を消してしまったかのようだった。
運転手は慎重にハンドルを握り続ける。
「このまま目的地まで行けそうです」
「ああ」
次郎は短く答えた。
その後も誰一人として見かけることはなかった。
暴徒も。
避難する住民も。
警察も軍も。
生きて動く人間とは、一度も遭遇しないまま車は街を抜けていく。
やがて見覚えのある坂道が現れた。
エレンが身を乗り出す。
「あそこ……」
坂の先。
木々に囲まれた敷地の中に、一軒の建物が静かに佇んでいた。
セント・マーガレット児童福祉施設。
車はゆっくりと正門の前で停止する。
あたりは不気味なほど静まり返っている。
子どもたちの笑い声はない。
人の気配もない。
ただ、庭に設置された木で作られたブランコだけが、風に押されてゆっくりと揺れている。
三人はしばらく周囲へ視線を巡らせた。
正門。
建物の窓。
庭。
どこにも人影は見当たらない。
「……静かね」
エレンが不安そうに呟く。
次郎は周囲を見渡したまま答えた。
「ああ」
「だが、静かだから安全とは限らない」
次郎は後部座席のドアを開け、先に車を降りた。
続いてエレンへ手を差し伸べる。
「降りよう」
エレンは頷き、その手を借りて車を降りた。
次郎は二人へ視線を向けた。
「離れるのは危険だ」
「ここから先は三人で行動する」
「常にお互いの姿が見える距離を保とう」
エレンは真剣な表情で頷く。
「分かったわ」
「アリスから離れないようにする」
運転手も力強く頷いた。
「承知しました」
運転手がエンジンを切り、運転席から降りて車の鍵を掛ける。
次郎は小さく頷く。
「行こう」
三人は正門をくぐり、ゆっくりと孤児院の敷地へ足を踏み入れた。
砂利を踏む足音だけが静寂の中に響く。
庭は手入れが途絶えてまだ数日しか経っていないはずなのに、人の気配が消えただけで、まるで別の場所のように感じられた。
荷物はひとまず車のトランクに積んだままにしてある。
まずは周囲の安全を確認することが先だった。
建物の玄関までは、あと数メートル。
警戒を緩めることなく、一歩ずつ歩みを進める。
三人は玄関の前で足を止めた。
木製の扉はわずかに開いている。
次郎は扉へ視線を向けたまま、小さく押し開けた。
軋む音が静かな建物の中へ響く。
薄暗い玄関ホール。
床には靴が何足も脱ぎ捨てられ、壁に掛けられた時計だけが規則正しく時を刻んでいた。
三人は慎重に中へ足を踏み入れる。
次郎が先頭。
エレンが中央。
運転手が最後尾。
周囲へ視線を巡らせるが、人の気配は感じられない。
「誰も……いないの?」
エレンの声は不安に震えていた。
次郎は静かに首を横へ振る。
「まだ分からない」
「気を緩めるな」
食堂の扉は開いたまま。
廊下にも人影はない。
子どもたちの笑い声も、駆け回る足音も聞こえなかった。
静寂だけが建物全体を支配している。
そのあまりの静けさに耐え切れず、エレンは口を開いた。
「みんな!」
次郎は即座に低い声で制した。
「エレン、大声を出すな」
しかし、エレンは焦りを抑えきれなかった。
「お願い! 返事をして!」
声が廊下の奥まで響き渡る。
一瞬の静寂。
やがて廊下の奥の扉がゆっくりと開いた。
小さな人影が姿を現す。
十歳にも満たない、孤児院の子どもだった。
「……!」
エレンの表情が一気に明るくなる。
「よかった……無事だったのね!」
安心したように、その子へ一歩踏み出そうとした。
だが、次郎はエレンの肩を掴んで引き戻す。
「痛い、ちょっと何するのよ!」
俯いた顔。
力なく垂れた腕。
「エレン」
「絶対に近づくな」
警告が飛ぶ。
しかし、その瞬間だった。
子どもが勢いよく顔を上げる。
血走った目。
口からは唾液と血が溢れている。
「ギャアアアッ!!」
子どもは甲高い奇声を上げると、小さな身体とは思えない勢いでエレンへ飛びかかった。
「っ!」
エレンの表情が凍り付く。
次郎の右手がジャケットの内側へ滑り込むと、リボルバーが一瞬で抜き放たれる。
乾いた銃声。
放たれた一発は、子どもの額を正確に撃ち抜く。
小さな身体は空中で力を失い、そのまま床へ崩れ落ちた。
静まり返る玄関ホール。
エレンは呆然と、その子どもを見つめたまま立ち尽くしていた。
硝煙の匂いだけが、ゆっくりと漂う。
「いやあああああっ!」
エレンの悲鳴が玄関ホールに響き渡る。
床に倒れた小さな身体を見た瞬間、彼女は震えながら次郎を糾弾する。
「アリス……!」
「あなた、何てことをするの!」
涙を浮かべながら叫ぶエレン。
だが、次郎は答えなかった。
リボルバーを構えたまま、廊下の奥へ鋭い視線を向けている。
その表情が険しく変わる。
「まずいな」
短く呟いた直後だった。
廊下の奥。
二階へ続く階段。
閉ざされていた扉という扉が次々と勢いよく開いた。
バンッ!
ガタンッ!
激しい物音が建物中へ響き渡る。
そして次の瞬間、建物の奥から怒りと苦痛が入り混じったような絶叫が一斉に響いた。
「アアアアアッ!!」
「ガアアアッ!!」
廊下の奥から飛び出してきたのは、孤児院の子どもたちだった。
しかし、その姿は先日までとは違っていた。
全身を激しく震わせ、血走った目を見開き、口からは唾液と血が飛び散っている。
四肢を力任せに振り回し、獣のような全力疾走でこちらへ突進してきた。
「エレンを連れて出口へ!」
「は、はい!」
運転手は我に返り、エレンの腕を掴む。
「お嬢様、急いでください!」
「でも!」
「今は逃げます!」
感染した子どもたちは理性を失ったまま絶叫し、互いにぶつかりながらも一直線に襲いかかってくる。
次郎は一歩前へ出た。
乾いた銃声。
一人が床へ倒れる。
三発目。
四発目。
リボルバーが火を噴くたび、高速で迫る感染者が勢いよく床へ転がった。
六発目を撃ち終えた瞬間。
次郎はリボルバーのシリンダーを跳ね出す。
空薬莢が床へ弾け飛ぶ。
左手には、いつの間にかスピードローダーが握られていた。
弾丸が一瞬で装填される。
ローダーを放り捨て、シリンダーを閉じる。
その一連の動作は一秒にも満たない。
次の瞬間には、再び銃口が前を向いている。
乾いた銃声。
また一人。
さらに一人。
飛びかかる感染者を次々と撃ち抜いていく。
しかし、その奥からさらに何人もの子どもたちが全力疾走で現れる。
廊下を埋め尽くす勢いだった。
「止まるな! 急げ!」
次郎が叫ぶ。
運転手はエレンを庇いながら玄関へ向かって後退する。
次郎は最後尾で二人との距離を保ち、飛びかかる感染者を迎え撃ちながら後退した。
やがて背中に冷たい外気を感じる。
玄関の外だ。
「急いで車へ!」
三人は一斉に駆け出した。
運転手は運転席へ飛び乗り、エンジンを始動させる。
エレンは後部座席へ滑り込み、次郎も最後に乗り込む。
ドアが閉まるのと同時に、車は勢いよく孤児院を離れようとする。
その瞬間だった。
「ッ!」
二階の窓から黒い影が一直線に飛び降りる。
「危ない!」
次郎が叫ぶ。
ドンッ!!
幼い感染者がボンネットへ叩きつけられた。
「きゃあっ!」
エレンが悲鳴を上げる。
「しっかり掴まってください!」
運転手はアクセルを踏み込み、ハンドルを左右へ激しく切る。
車体が大きく蛇行する。
感染者を振り落とそうとしていた。
しかし――。
感染者はボンネットへ爪を食い込ませたまま離れない。
次の瞬間、フロントガラスへ全身を叩きつける。
バキィッ!
蜘蛛の巣状の亀裂が一気に走る。
「ガラスが!」
エレンが青ざめて叫ぶ。
「振り切れない!」
運転手が歯を食いしばる。
感染者は狂ったように両拳を振り下ろした。
ガンッ!
ガンッ!
ガンッ!
そして――。
ガシャァァン!
フロントガラスが粉々に砕け散り、無数の破片が車内へ降り注ぐ。
「うわあっ!」
運転手は目をつぶって顔を片手で覆い、ガラスの破片を防ごうとする。
感染者は割れた窓から身を乗り出し、絶叫しながら運転手へ手を伸ばす。
その牙が届く寸前。
パンッ!
乾いた銃声。
次郎のリボルバーから放たれた一発が感染者の頭部を正確に撃ち抜く。
小さな身体は崩れ落ち、そのまま外へ転げ落ちた。
だが、その瞬間だった。
撃ち抜かれた頭部から飛び散った血液が、運転手の顔と首へ降りかかる。
彼は息を呑み、反射的に目元を拭った。
「……大丈夫です」
そう言った声が止まる。
全身が小刻みに震え始めた。
呼吸が荒くなる。
瞳が充血し、血走っていく。
「ぐっ……あ……」
数秒。
それだけだった。
運転手の全身が激しく痙攣する。
両手がハンドルを強く握り締め、筋肉が不自然に膨れ上がる。
「がっ……!」
苦しげな呻き声は、次第に人のものではなくなっていく。
エレンは震える声を漏らした。
「バーニー……?」
返事はなかった。
次の瞬間、運転手のバーニーは獣のような咆哮を上げる。
「アアアアアアアアッ!!」
勢いよく上半身を反転させ、血走った瞳で後部座席の二人を睨みつけた。
口から唾液を飛び散らせ、今にも飛びかかろうとする。
そのこめかみへ、次郎はリボルバーの銃口をそっと合わせた。
エレンは息を呑み、涙を浮かべる。
「や、やめて……」
次郎は視線を逸らさなかった。
静かな声で、最後の別れを告げる。
「……さようなら、バーニー」
パンッ。
乾いた銃声が車内に響く。
弾丸はこめかみを正確に撃ち抜いた。
バーニーの身体から力が抜け、そのまま座席へ崩れ落ちる。
車内を包むのは、エンジン音とエレンの押し殺した嗚咽だけだった。
しかし、車は止まらない。
バーニーの右足はアクセルペダルを踏み込んだまま硬直していた。
エンジンが唸りを上げ、車は速度を上げながら一直線に走り続ける。
「アリス……!」
エレンが悲鳴を上げる。
前方には、石造りの高い塀が迫っていた。
もう避けられない。
次郎は一瞬だけ前方を見据えると、鋭く叫んだ。
「伏せろ!!」
エレンは反射的に身体を丸める。
次郎も、その上に覆いかぶさる。
次の瞬間――。
ドゴォォォン!!
凄まじい衝撃が車体を襲う。
前部が塀へ激突し、ボンネットが大きく潰れた。
車内は激しく揺れ、荷物が飛び散る。
ようやく車は停止した。
しばらく耳鳴りだけが響く。
次郎はゆっくりと顔を上げた。
「……動けるか」
「う、うん……」
エレンは震えながら頷く。
次郎は体の痛みを無視して壊れたドアを蹴り開け、外へ這い出た。
続いてエレンも、彼に支えられながら車外へ脱出する。
次郎は周囲を一瞥する。
感染者の姿はまだない。
迷うことなく車の後方へ回り込み、ひしゃげたトランクを両手で力任せに引き開けた。
中には大型のダッフルバッグがそのまま残っていた。
次郎はバッグを担ぎ上げ、車から距離を取る。
素早くファスナーを開き、中身を取り出していく。
アサルトライフルを肩へ掛ける。
ショットガンを背中へ固定する。
予備拳銃を腰へ装着。
サバイバルナイフをベルトへ差し込む。
予備弾倉とスピードローダーを各ポーチへ収め、救急用品も携行する。
最後にリボルバーを握り直し、周囲へ鋭い視線を向けた。
「ここにはもういられない」
「行くぞ」
エレンは涙を拭い、小さく頷く。
二人は大破した車を後にし、その場から足早に離れていった。
崩壊した街を、二人はひたすら走り続けた。
遠くから聞こえるのは、感染者たちの咆哮と耳をつんざくような奇声だけだった。
黒煙が夜空を覆い、燃え上がる建物が街を赤く染めている。
「アアアアアッ!!」
横道から感染者が飛び出した。
パンッ!
次郎のリボルバーが火を噴き、眉間を撃ち抜かれた感染者はその場に崩れ落ちる。
「い、嫌ぁっ!」
エレンは悲鳴を上げ、次郎の腕にしがみついた。
「何なの!? あれは何なの!?」
「どうして人があんな姿に……!」
さらに路地から二体、三体と感染者が姿を現す。
「アアアアアッ!!」
「ガアアアッ!」
エレンは半狂乱になって叫ぶ。
「来ないで! 来ないでぇっ!」
パンッ!
パンッ!
次郎は冷静に二体を撃ち抜き、その手を引いた。
「走れ!」
「あ……あれは何なの!?」
「人なの!? 化け物なの!?」
「質問は後だ!」
次郎は短く言い放ち、再び走り出す。
しかし、一体倒しても終わりではなかった。
建物の中。
路地裏。
放置された車の陰。
街のあちこちから感染者が次々と姿を現す。
エレンは涙を流しながら叫び続ける。
「嫌……嫌ぁっ!」
「助けて……!」
「もう嫌ぁぁっ!!」
次郎は彼女を背後へ庇うと、肩に掛けていたアサルトライフルを素早く構えた。
「下がっていろ」
引き金を引く。
ダダダダダダッ!!
夜の街に連続した銃声が轟く。
先頭を走っていた感染者たちが次々と撃ち倒され、道路へ折り重なるように倒れていく。
それでも新たな感染者が咆哮を上げながら押し寄せてくる。
ダダダッ!!
ダダダダッ!!
短い連射で確実に頭部を撃ち抜き、弾薬を無駄にしない。
立ち止まれば囲まれる。
撃っては走り、走っては撃つ。
その動きを繰り返しながら二人は街を駆け抜けた。
弾倉が空になる。
次郎は走りながら鮮やかな手際で新しいマガジンへ交換し、再び射撃を開始する。
倒れた感染者は十体。
十五体。
二十体。
二十五体。
そして三十体に達していた。
目に映る感染者の数が減り、ようやく終わりが見えてきた――そう思った、その時だった。
パンッ!
突然、別方向からハンドガンの銃声が響き、次郎へ飛びかかろうとしていた感染者の頭部が弾け飛んだ。
さらに二発。
パンッ!
パンッ!
進路を塞いでいた感染者が次々と倒れていく。
「アリス、こっちよ!」
若い女性の声だった。
赤いジャケットを羽織った赤茶色の髪の女性――クレア・レッドフィールドが、ハンドガンを構えながら路地の入口で手を振っていた。
第二章は楽しんでいただけているでしょうか?もし面白い、続きが気になると思っていただけたら、ぜひページ下部の☆評価で力を貸していただけると、執筆の大きな励みになります!