本日一度目の投稿です。
「アリス、こっちよ!」
聞き覚えのある声だった。
次郎は咄嗟に振り向く。
赤いジャケットを羽織った赤茶色の髪の女性が、ハンドガンを構えながら感染者を撃ち抜いていた。
パンッ!
パンッ!
「クレアか」
互いに驚く暇もない。
クレアは感染者を撃ち倒しながら叫ぶ。
「積もる話は後よ!」
「逃げ道を確保したわ! 早く!」
「了解」
次郎はエレンの手を引き、クレアのもとへ駆け出す。
「知り合いなの!?」
エレンが息を切らしながら尋ねる。
「ああ」
次郎は短く答えた。
「同じ地獄を生き抜いた仲だ」
クレアは苦笑しながら頷く。
「その通り。だから、腕は信用してくれていい」
「付いてきて!」
三人は感染者の群れを振り切るように裏路地へ飛び込んだ。
クレアは何度も路地を曲がり、人通りのない裏道だけを選んで進む。
感染者たちの咆哮は、すでに遠ざかっていた。
そこでようやく足を止めると、小さく息を吐いた。
「……ここまで来れば、しばらくは大丈夫ね」
次郎も周囲を見渡す。
感染者の姿はない。
物音も聞こえない。
どうやら完全に撒くことができたようだった。
「こっちよ」
クレアが案内した先にあったのは、一軒のバーだった。
ネオンは消え、窓ガラスには板が打ち付けられている。
一見すると、すでに廃墟となった店にしか見えない。
クレアは迷いなく裏口から店内へ入る。
三人が中へ入ると、次郎は素早く周囲を見回した。
バーの店内は静まり返っていた。
割れたグラスが床に散乱し、カウンターには埃が薄く積もっている。
外の喧騒が嘘のように、この場所だけが時間から切り離されたようだった。
クレアは店内を一瞥すると、迷いなくカウンター脇の床へしゃがみ込んだ。
「ここに」
囁き声とともに、彼女は床板の一枚へ指を掛ける。
木材がわずかに軋み、隠し扉の輪郭が露わになる。
次郎は周囲を警戒しながら近づいた。
「地下室か?」
「ええ。店主が昔、違法酒を隠すために作った抜け道よ。今は生存者の避難場所になってる」
クレアは慎重に床板を持ち上げた。
板はぴたりと嵌め込まれていたため、外から見ればただの床にしか見えない。
床板が完全に開くと、暗い縦穴が姿を現した。
冷たい空気がふわりと吹き上がり、地下の存在を静かに告げる。
「エレン、悪いが先に降りてくれ」
「俺は周りを警戒する」
次郎が促すと、エレンは緊張した面持ちで頷き、梯子へ手を掛けた。
ぎしり、と古い金属が鳴る。
クレアが続き、最後に次郎がアサルトライフルを構えたまま降りていく。
頭上の床板は、クレアが慎重に引き戻すと再び元の位置へぴたりと収まった。
外から見れば、そこに地下室があるとは誰も気付かない。
薄暗い地下通路の奥には、鉄製の扉が静かに佇んでいた。
クレアは決められたリズムでノックした。
コン、ココ、コン。
数秒後、小窓が開き、中から男が顔を覗かせる。
「クレア、無事で良かった」
「新しい生存者を二人連れてきたわ」
男は頷くと閂を外した。
重い鉄扉が軋みながら開く。
三人は地下室へ足を踏み入れた。
ランタンに照らされた地下室では、十数人の生存者が一斉に顔を上げる。
見知らぬ男女の姿に警戒の色を浮かべる者もいたが、クレアが静かに告げた。
「安心して。この二人は私が保証する」
その言葉を聞き、生存者たちはようやく張り詰めた表情を少しだけ緩めた。
クレアは次郎とエレンへ向き直る。
「二人とも、ここにいる人たちにはもう説明してあるわ」
「だから、今から話すのは二人のための確認よ」
生存者たちは静かに頷く。
誰も口を挟まない。
クレアは真剣な表情で話し始めた。
「まず街にいる連中は普通の暴徒じゃない」
「多分、なんらかのウイルスに感染している」
「噛まれたり、感染者の血液が傷口や口、目に入ると、短時間で感染する可能性があるわ」
エレンは思わず自分の腕を抱きしめた。
「そんな……」
クレアは続ける。
「感染すると理性を失って、見境なく人を襲うようになる」
「痛みも恐怖も感じていないみたいに突っ込んでくるから、とても普通の人間とは戦い方が違う」
次郎は静かに頷いた。
「俺も確認した」
「連中は普通の人間と同じように致命傷を受ければ倒れる」
「だが、痛みを気にせず襲ってくる。腕や脚に当てても、その勢いのまま飛びかかってくることがある」
「ええ、確実に止めるなら、頭か心臓を狙うのがいい」
クレアも同意するように頷いた。
「それと、連中はゾンビと違って走る」
「しかも物音にすごく敏感よ。銃声や大きな音を聞きつけると、一斉に集まってくる」
地下室は静まり返っていた。
クレアは最後に二人を見据える。
「一人で外へ出るのも絶対に駄目」
「食料や水を取りに行く時も、必ず複数人で行動する」
話が終わると、生存者たちは黙って頷くだけだった。
彼らにとっては、すでに何度も聞かされた現実だったからだ。
一方、エレンだけは震える手を握り締めたまま俯いていた。
次郎はそんな彼女の様子を横目に、地下室の構造を静かに観察する。
出入口は一か所。
物資の量。
人員の配置。
元暗殺者の習性なのか、彼は無意識のうちに地下室全体を頭の中で把握していた。
クレアは次郎へ視線を向けた。
「今度はそっちの番ね」
「何があったの?」
次郎は短く頷き、静かに口を開いた。
「暴動の報道を聞いて、エレンと孤児院へ向かった」
「だが、孤児院はすでに感染者で溢れていた」
エレンは俯き、小さく拳を握る。
「子どもたちも、職員も……みんな感染していました」
地下室に重苦しい空気が流れる。
次郎は続けた。
「孤児院からは何とか脱出したが、避難中に運転手が感染した」
「発症したため、仕方なく俺が撃った」
誰も言葉を発しない。
「車も使えなくなった」
「武器を回収して徒歩で逃げ続け、そこでクレアと合流した」
クレアは静かに頷く。
「……大体の事情は分かったわ」
地下室には、重い沈黙だけが残る。
そして重苦しい沈黙を破ったのは、クレアだった。
「これからのことを決めましょう」
地下室にいる全員の視線が彼女へ集まる。
「食料はまだ数日は持つ。でも、このままずっとここへ隠れているわけにはいかない」
一人の男性が恐る恐る口を開く。
「でも……外へ出るなんて無理だ」
「昨日だって、物音を立てただけで何十人も集まってきただろ」
「俺はもう、外へ出たくはない……」
女性も青ざめた顔で頷く。
「私も……」
「またあんな連中に追われるなんて耐えられない」
地下室には同意する声が広がった。
誰も彼らを責めなかった。
恐怖は、この場にいる全員が味わったものだった。
その時、次郎が静かに口を開く。
「そうか」
「悪いが、俺たちは街を出る」
全員の視線が集まる。
「エレンを屋敷まで送り届ける。それが俺の役目だ」
エレンも頷いた。
「屋敷には食料も備蓄水もあります」
「発電機も動いているし、警備員や使用人もいます」
生存者たちの表情に希望が浮かぶ。
しかし、一人の男性は首を横に振った。
「……俺たちには無理だ」
「街を抜ける前に殺される」
地下室は再び静まり返る。
クレアは腕を組み、静かに考え込んだ。
「私も、ここに留まり続けるつもりはない」
「でも、この人たちを置き去りにはしたくない」
次郎は小さく頷く。
「まずは夜明けを待とう」
「明るくなれば外の様子も確認しやすい」
クレアも同意した。
「ええ。その間に、脱出できる方法を考えましょう」
地下室にいた誰もが黙って頷く。
希望はまだ見えない。
それでも、生き延びるためには前へ進むしかなかった。
夜明けが近づくにつれ、地下室には再び重苦しい空気が漂い始めていた。
クレアは立ち上がり、生存者たちを見回す。
「明るくなったら出発しましょう」
「この場所も、いつまでも安全とは限らない」
その一言で、地下室の空気が一変した。
「何を言ってるんだ!」
一人の男性が立ち上がる。
「俺達に外へ出ろっていうのか!?」
「そんなことをしたら全員殺される!」
別の女性も怯えた声を上げた。
「嫌よ……」
「ここならまだ生きていられるのよ」
「どうして危険を冒さなきゃいけないの!」
クレアは冷静に答える。
「食料にも限りがある」
「感染者に隠れ家が見つかる可能性だってある」
「動けるうちに脱出した方が、生き残れる可能性は高いわ」
しかし、その言葉は恐怖に支配された彼らには届かなかった。
「だったら、あんた一人で行けばいい!」
誰かが怒鳴った。
「俺たちはここを動かない!」
「外へ出たいなら勝手に出て行け!」
その声に何人もの生存者が頷く。
「そうよ!」
「ここへ感染者を連れて来られたら困る!」
「出て行って!」
地下室は次第に険悪な空気へ変わっていった。
クレアは反論しようとしたが、途中で口を閉じる。
恐怖から出た言葉だと理解していたからだ。
その時、次郎が静かに歩み寄る。
「行こう」
短い一言だった。
クレアは次郎を見る。
「……いいの?」
「ああ」
「ここに残るかどうかは、本人たちが決めることだ」
「俺たちが強制することじゃない」
エレンも静かに頷いた。
「みんな……どうか無事でいて」
誰も返事はしなかった。
地下室の奥では、不安と恐怖に満ちた視線だけが三人へ向けられていた。
クレアは最後に隠し扉を振り返る。
「気が変わったら、すぐにここを離れて」
「ここが永遠に安全な場所じゃないことだけは忘れないで」
それだけ言い残し、三人は地下室を後にした。
床板を元に戻すと、隠れ家は再び静寂に包まれる。
バーの店内へ出た次郎は、ライフルを構えながら周囲を確認した。
異常はない。
「行こう」
次郎を先頭に、中央にエレン、最後尾をクレアが警戒しながら歩き始める。
三人は静まり返った街へ足を踏み出した。
目指すのは街の外。
そして、使用人たちの待つ屋敷だった。
――DAY5・終了――
この場に残った彼らがどうなったのかについては、敢えて語りはしません。