本日二度目の投稿です。
六日目の夜明け前。
東の空がわずかに白み始め、ロンドンの街並みを薄明かりが照らしていた。
次郎はコンビニの手前で立ち止まり、そっと店内を覗き込む。
数秒目視で確認し、腕時計へ目を落とす。
「三分だけ立ち寄ろう」
クレアとエレンが頷く。
三人は静かに店内へ入り、手分けして物資を集め始めた。
次郎は保存食や飲料水を優先してリュックへ詰め込む。
クレアは救急用品や乾電池を確保した。
エレンは棚を見回りながら不足している物を見つけると、小声で二人へ伝え、手際よくバッグへ収めていく。
店内に異常はない。
腕時計の針が三分を示した。
「時間だな」
三人はレジ前へ集まる。
次郎は二人へ視線を向けた。
「ここから屋敷までは三人で動く」
クレアが静かに頷く。
「俺は前方を見る。クレアは後方」
次郎はエレンを見る。
「エレンは左右の路地や建物、それと俺たちが見ていない方向を見てくれ。異変に気付いたら、一番近い相手へ知らせればいい」
エレンは真剣な表情で頷いた。
「ええ、分かったわ」
「頼りにしてる」
その一言に、エレンは小さく笑みを浮かべた。
三人は店を後にする。
次郎が先頭。
エレンは半歩後ろで左右へ視線を巡らせる。
クレアは最後尾で背後を警戒した。
放置された車。
割れた窓ガラス。
乾き始めた血痕。
数日前まで人々で賑わっていた住宅街は、死んだような静寂に包まれている。
風に揺れる街路樹の葉音だけが耳に届く。
次郎は一定の歩幅を崩さず前方を警戒する。
交差点。
路地。
停車した車の陰。
感染者が潜んでいそうな場所を一つずつ確認しながら進んでいく。
後方ではクレアが何度も肩越しに振り返り、追跡の気配がないか確かめていた。
エレンも左右へ視線を巡らせ続ける。
役割を任されてからまだ数分しか経っていない。
それでも、一つでも早く異変を見つけようと神経を張り詰めていた。
三人は十字路へ差しかかる。
次郎は建物の角へ身体を寄せ、ゆっくりと前方を覗き込む。
道路は見通しが良かった。
感染者の姿はない。
「行こう」
短く告げる。
三人が交差点へ踏み出した、その時だった。
「クレア」
エレンが小声で呼ぶ。
「左後ろに」
クレアは反射的に振り返る。
住宅の庭を囲む低い柵を乗り越え、一体の感染者がこちらへ歩み寄ろうとしていた。
まだ距離はある。
クレアは小さく頷く。
「気づかれていないようね」
次郎も横目で状況を確認する。
「このまま進もう」
無駄な戦闘は避ける。
三人は足音を殺し、感染者の視界に入らないよう住宅の塀沿いを進んだ。
感染者はなおも庭をうろついている。
幸い、こちらへ気付く様子はなかった。
そのまま数十メートル進んだ頃だった。
「アリス」
エレンの声が再び響く。
「右の二階」
次郎は立ち止まらず、視線だけを上げる。
割れた窓の奥。
一人の感染者が窓辺へ姿を現していた。
こちらを探すように首を左右へ動かしている。
「気付かれる前に離れる」
次郎は進路を左へ変えた。
三人は建物の陰へ滑り込む。
直後――
ガシャーンッ!
背後で窓ガラスが砕け散る音が響いた。
感染者が窓から身を乗り出し、絶叫する。
「アァァァァァッ!!」
その叫び声が、静まり返っていた住宅街へ響き渡った。
次郎は表情を引き締める。
「走るぞ」
三人は住宅街を駆け抜けた。
誰も口を開かない。
足音だけが静かな街へ響く。
次郎は角を曲がるたびに後方へ視線を送り、追跡の気配を探る。
一本道は避け、細い路地を選びながら進路を変え続けた。
やがて感染者たちの叫び声が、少しずつ遠ざかっていく。
さらに数分走り続けたところで、次郎は片手を上げた。
三人はその場で立ち止まる。
荒くなった呼吸を整えながら、誰も言葉を発しない。
耳を澄ませる。
風が木々を揺らす音。
遠くで何かが倒れる音。
それ以外は聞こえなかった。
エレンが周囲へ視線を巡らせる。
「……もう大丈夫だと思う」
クレアも背後を確認し、小さく頷いた。
「追ってきてる様子はないわ」
次郎はなおもしばらく周囲を警戒していたが、やがて小さく息を吐く。
「今日はここまでにしよう」
空を見上げる。
日はすでに傾き始めていた。
暗くなれば、さらに移動は危険になる。
「日が暮れる前に休める場所を探す」
三人は歩く速度まで落とし、慎重に住宅街を進み始めた。
十分ほど歩いた先で、二階建ての民家が目に入る。
外壁に目立った損傷はない。
窓ガラスも割れておらず、カーテンも閉じられたままだった。
次郎は手で二人を制すると、家の周囲を一周して様子を探る。
物音はない。
人影も見当たらなかった。
玄関へ戻り、ドアノブを回す。
やはり鍵が掛かっている。
「少し待っててくれ」
次郎はジャケットの右内ポケットから、小さなピッキングツールを取り出した。
イギリスへ渡ってから四年。
護衛として緊急時に備えるため、屋敷の警備主任から教わった技術の一つだった。
細い工具を鍵穴へ差し込む。
指先へ神経を集中させる。
カチッ。
乾いた音とともに錠が外れた。
クレアが感心したように笑う。
「そんなことまでできるの?」
「仕事柄、覚えておいて損はないからな」
静かに扉を開けると、次郎は内部を目視で確認する。
三人は民家へ入り、静かに扉を閉めて鍵をかけた。
次郎はナイフを抜いて、一階から慎重に確認していく。
続いて二階へ上がり、一部屋ずつ安全を確認した。
やがて一階へ戻ると、小さく頷く。
「誰もいない。今日はここを使わせてもらおう」
次郎は玄関へ椅子を運び、扉が不用意に開かないよう固定する。
さらにカーテンを閉め、外から室内が見えないことを確認した。
クレアはリュックを床へ下ろし、小さく息を吐く。
「今夜は少し休めそうね」
「ああ」
次郎は窓際へ立ち、薄くカーテンを開けて外を見つめる。
静まり返った住宅街には、人影はなかった。
それでも三人は気を緩めることなく、その夜を迎える準備を始めた。
民家の中は静まり返っていた。
次郎は一階の窓際へ歩み寄り、カーテンを指先でわずかに開ける。
住宅街に人影はない。
遠くから微かに聞こえていた感染者の叫び声も、今はほとんど聞こえなくなっていた。
しばらく様子を窺った後、静かにカーテンを閉める。
「……今のところ異常はない」
その言葉に、クレアとエレンは安堵したように息を吐いた。
エレンはコンビニで確保したペットボトルを取り出し、二人へ差し出す。
「はい」
「ありがとう」
三人は少しずつ水を飲み、乾いた喉を潤した。
その後、次郎は背中に固定していたショットガンへ手を伸ばす。
「これをクレアに渡しておく」
固定具を外すと、そのままクレアへ差し出す。
クレアは目を丸くした。
「私に?」
「ああ」
次郎は静かに頷く。
「俺にはアサルトライフルがある」
「だからショットガンは君が持っていた方が良い」
「ハンドガンだけじゃ心許ないだろう」
クレアは少し迷ったものの、やがてショットガンを受け取った。
慣れた手つきで安全装置と装填状態を確認し、小さく頷く。
「ありがとう」
「大切に使わせてもらうわ」
次郎は予備のショットシェルを取り出し、クレアへ渡した。
「数は多くない」
「危ない場面だけで使え」
「分かったわ」
クレアはショットシェルをポーチへ収め、ショットガンを肩へ掛けた。
エレンは二人のやり取りを見つめながら、不安そうに尋ねる。
「明日も……あんな人たちがいるの?」
次郎は少しだけ間を置いて答えた。
「いると思って行動する」
「だから、今日決めた役割を忘れないでくれ」
エレンは真剣な表情で頷いた。
「ええ」
「ちゃんと周りを見るわ」
「それでいい」
短い沈黙が流れる。
外はすっかり暗くなり、住宅街は不気味な静寂に包まれていた。
次郎は壁に掛かった時計へ目を向ける。
「見張りは交代制にする」
「最初は俺、次にクレア、最後にエレンだ」
クレアは少し驚いたようにエレンを見る。
「エレンにも任せるの?」
次郎は静かに頷いた。
「ああ」
「せっかく三人いるんだ、三人で支え合った方がいい」
「異変を感じたら、すぐに他の二人を起こしてくれ」
エレンは力強く頷いた。
「分かった」
「ちゃんと起こすわ」
次郎は室内の照明が外へ漏れていないことを最後に確認すると、玄関から廊下まで見渡せる位置へ腰を下ろした。
リボルバーをすぐ抜ける体勢を維持したまま、物音一つ聞き逃さないよう神経を研ぎ澄ませる。
クレアとエレンは毛布代わりになる布を広げ、少しでも身体を休める準備を始める。
夜は静かに更けていった。
時計の針だけが、規則正しく時を刻んでいる。
次郎は玄関から廊下まで見渡せる位置に腰を下ろしたまま、じっと耳を澄ませていた。
外から聞こえるのは、風が木々を揺らす音だけ。
感染者の叫び声は聞こえない。
それでも、警戒を緩めることはなかった。
護衛にとって最も危険なのは、「もう安全だ」と思った瞬間だからだ。
その頃には、エレンは疲労に耐え切れず眠りについていた。
孤児院で目の当たりにした惨状。
バーニーとの別れ。
慣れない逃避行。
十八歳の少女が経験するには、あまりにも過酷だった。
クレアは眠るエレンへ毛布代わりの布を掛けると、静かに腰を下ろす。
室内を包む静寂は、かえって緊張感を際立たせていた。
時計を見ると、見張りを交代する時間が近づいていた。
次郎はゆっくりと立ち上がる。
「時間だ」
クレアも静かに腰を上げた。
「次は私ね」
「ああ」
「少しでも異変を感じたら、すぐに起こしてくれ」
「分かったわ」
次郎は玄関と廊下をもう一度確認すると、その場をクレアへ譲る。
クレアはショットガンを手元に置き、次郎と同じ位置へ腰を下ろした。
次郎はエレンを起こさないよう静かに壁際へ移動し、身体を預ける。
目を閉じる。
深く眠るつもりはない。
物音一つで目を覚ませるよう、意識だけは張り詰めたままだった。
静まり返った夜は、そのまま何事もなく過ぎていった。