本日一度目の投稿です。
七日目。
夜明けを告げる淡い光が、カーテンの隙間から室内へ差し込み始めていた。
エレンは玄関から廊下まで見渡せる位置に腰を下ろし、小さく息を吐く。
昨夜、次郎から任された最後の見張り。
眠気はあった。
それでも、一度も目を閉じることはなかった。
時折、外から風が吹き込み、木々の葉が擦れ合う音だけが聞こえる。
感染者の叫び声はない。
物音もない。
エレンは静かに立ち上がると、眠っている二人へ目を向けた。
もう夜は明けている。
約束の時間だった。
「アリス」
声を抑えながら呼び掛ける。
次郎はすぐに目を開いた。
眠っていたとは思えないほど素早く身体を起こし、周囲へ視線を巡らせる。
「何かあったか」
「ううん」
エレンは首を横へ振る。
「何もなかったわ」
「誰も来なかったし、物音もしなかった」
次郎は静かに頷く。
「そうか」
「ありがとう」
その一言に、エレンは少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
その声でクレアも目を覚ます。
「……朝?」
「ああ」
次郎は立ち上がると、玄関へ向かった。
扉の前で足を止め、耳を当てる。
しばらく外の気配を探るが、人の足音も、感染者の叫び声も聞こえない。
次郎は音で周囲を確認すると、再び室内へ戻る。
「異常なし」
「よし、予定どおり出発しよう」
クレアはショットガンを肩へ掛け、荷物を持つ。
エレンも水を一口飲み、身支度を整える。
三人は忘れ物がないことを確認すると、玄関へ向かう。
次郎は昨夜、扉を固定していた椅子を元の位置へ戻し、静かにドアを開けた。
「行こう」
三人は民家を後にする。
朝日が街を照らしている。
しかし、静まり返った住宅街に人の姿はなかった。
次郎は先頭に立ち、前方を警戒する。
クレアは最後尾で後方を確認しながら歩く。
エレンは二人の間を進み、建物の窓や路地、物陰へ絶えず視線を巡らせた。
やがて三人は住宅街を抜け、商店街へ足を踏み入れた。
店という店は営業を止めている。
パン屋のショーケースには売れ残ったパンが並んだまま、青白いカビに覆われていた。
精肉店の冷蔵ケースは電源が落ち、生肉は黒ずみ、強烈な腐敗臭を放っている。
歩道には買い物袋が散乱し、その中から転がり出た缶詰や野菜が踏み潰されている。
腐敗が進んだ野菜には無数の蠅がたかり、不快な羽音が静まり返った街に響いていた。
わずか数日前まで、人々が当たり前の日常を送っていた場所とは思えない。
クレアは周囲を見回し、小さく呟く。
「……電気が止まってから、もう何日になるかしら」
「四日」
次郎は前方から視線を外さず答えた。
「冷蔵設備も止まっている」
「この臭いは、そのせいだな」
エレンは鼻と口を手で押さえ、小さく俯く。
足元には、割れたフォトフレームが落ちていた。
中には、一組の夫婦と幼い子どもが笑顔で写っている。
エレンはしゃがみ込み、そっと写真を拾い上げた。
「……」
しばらく見つめた後、静かに元の場所へ戻す。
持ち主が戻ってくる保証は、もうどこにもなかった。
「行こう」
次郎の一言で、三人は再び歩き始める。
商店街を抜けてしばらく進むと、道路脇に一台の黒いSUVが乗り捨てられていた。
周囲に人影はない。
次郎は手で二人を制し、周辺を警戒しながら慎重に車へ近付く。
運転席のドアを開けると、鍵は差し込まれたままだった。
シートには持ち主の姿はない。
次郎はメーターへ視線を向けた。
燃料計の針は、残量がわずかであることを示していた。
「ガソリンは多くないが、歩くよりは距離を稼げるだろ」
次郎は周囲をもう一度確認し、運転席へ身体を滑り込ませた。
集中ロックを解除して合図を出すとエレンが後部座席へ、クレアも助手席へ素早く乗り込む。
鍵をゆっくりと回す。
――キュルルル……ッ。
低いエンジンの始動音が静まり返った商店街へ響いた。
その時だった。
建物の影から、何かが勢いよく飛び出してくる。
「くそ、来やがったか!」
次郎が反射的に声を上げる。
影は人間の形をしているが、もう人ではない。
乾いた血がこびりついた口元。
充血した瞳が三人を捉えた瞬間、獣のような唸り声を上げて突進してきた。
「任せて!」
クレアが助手席の窓から身を乗り出し、ショットガンを構える。
――ドンッ!
乾いた爆音が商店街へ響き渡る。
至近距離から放たれた弾丸が感染者の胸を砕き、身体が後方へ吹き飛んだ。
だが、その爆音が合図だった。
商店街の奥――
さっき三人が歩いてきた通りの影から、複数の足音が一斉に響き始める。
「……まずいな」
次郎が低く呟く。
「アアアアアッ!」
「アァァァッ!」
爆音とエンジン音に反応した感染者たちが、商店街の通りから“一直線に”こちらへ走り寄ってくる。
一体、二体、三体――
その数は瞬く間に十数体へ膨れ上がった。
「急いで、アリス!」
エレンが叫ぶ。
「分かってる!」
次郎はアクセルを踏み込んだ。
SUVはタイヤを軋ませながら前方へ跳ねるように発進する。
「スピード出すぞ!」
次郎の声とともに、アクセルを強く踏まれた車は一気に速度を上げた。
直後、商店街の方から迫っていた感染者たちが車体の後ろから飛び掛かるが、一歩間に合わず地面へ転がった。
背後では、取り残された感染者たちが悔しげに叫び声を上げていた。
窓の外には、放置された車列や信号の消えた交差点、営業を止めた店々が次々と流れていく。
誰もいないはずの街だけが、異様な静けさを保っていた。
車が市街地を抜ける頃には、道路を塞いでいた車も徐々に少なくなっていく。
しかし、その直後だった。
エンジンが小さく息継ぎするように震えた。
「……まずいな」
次郎がメーターを見る。
燃料計は、ついに空を指していた。
数秒後、エンジンは完全に停止する。
惰性で路肩へ車を寄せると、三人は静かに車を降りた。
「ここからは徒歩ね」
クレアがショットガンを担ぎ直す。
次郎は周囲を警戒しながら頷いた。
「予定よりは進めた」
「屋敷まで、あと少しだ」
三人は装備を整え直すと、再び屋敷を目指して歩き始めた。
しばらく歩き、正門まであと数十メートル。
三人は警戒を緩めることなく歩みを進める。
その時だった。
門の脇に設置された警備室から警備員が一名飛び出してくる。
素早く抜かれた銃がこちらへ向けられた。
「止まれ!」
鋭い声が響く。
「そこで止まれ! それ以上近付くな!」
三人は足を止めた。
次郎はゆっくりと両手を見える位置まで上げる。
「撃つな。俺だ」
警備員が一瞬、無言になる。
「……アリスさん?」
聞き覚えのある声だった。
警備員は双眼鏡を手に取り、慎重に三人の姿を確認する。
数秒後、その表情が驚きと安堵へ変わった。
「アリスさんだ!」
「エレンお嬢様もご一緒だ!」
警備員は監視所の奥へ駆け込み、無線を手に取る。
やがて重い鉄門がゆっくりと開き始めた。
門の向こうから姿を現したのは、警備主任と執事長だった。
二人は足早に三人のもとへ歩み寄る。
「エレンお嬢様」
執事長は深く一礼した。
「ご無事でお戻りになられ、何よりでございます」
「心配を掛けたわね」
エレンは小さく微笑んだ。
「ですが、お戻りいただけたことが何よりでございます」
執事長も安堵したように微笑み返す。
警備主任は次郎へ向き直った。
「アリスさん」
「ご無事で何よりです」
「ああ」
次郎は静かに頷く。
警備主任は声を潜めた。
「外の様子はいかがでしたか」
「想像以上に悪かった」
次郎は淡々と答える。
「感染者は市街地全域へ広がっている」
「音に敏感だ。銃声だけじゃない。大きな物音にも反応して集まってくる」
「それと、感染者の血液にも注意が必要だ」
「傷口だけでなく、目や口へ入っても感染する危険がある」
警備主任は表情を引き締めた。
「……承知しました」
「直ちに警備員全員へ共有いたします」
次郎は小さく頷く。
「頼む」
警備主任は続いてクレアへ視線を向けた。
「アリスさん、こちらのお方は?」
「クレア・レッドフィールドです」
クレアは落ち着いた口調で名乗った。
「私はアリスたちと行動を共にして、ここまで来ました」
「承知しました」
警備主任は丁寧に一礼する。
「ようこそお越しくださいました」
執事長が屋敷へ手を差し向ける。
「皆様、お疲れでしょう」
「急ぎ、温かい食事とお湯の準備を整えます」
エレンは安堵したように微笑み、小さく頷いた。
「ありがとう」
「とんでもございません」
執事長は穏やかに頭を下げた。
「お嬢様がご無事でお戻りになられたことが、何よりでございます」
三人は門をくぐる。
背後では重い鉄門がゆっくりと閉じられ、閂が音をたてないように慎重に下ろされる。
数日ぶりに足を踏み入れた屋敷の敷地は、外の荒廃とは別世界のように静かだった。
芝生は丁寧に刈り揃えられ、花壇の花々も変わらず咲いている。
屋敷の窓からは暖かな明かりが漏れ、人の営みが今なお続いていることを感じさせた。
張り詰めていた緊張が、ほんの少しだけほどける。
三人は玄関をくぐり、重厚な扉が閉まると同時に、張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。
屋敷の中は暖かく、外の荒廃がまるで嘘だったかのように静まり返っている。
それでも、廊下を行き交う使用人たちの表情には疲労と緊張が色濃く残っていた。
誰もが気丈に振る舞ってはいるが、この数日間、不安の中で過ごしてきたことは一目で分かる。
「アリスさん」
警備主任が静かに声を掛けた。
「皆には、お二人が戻られたことだけ伝えてあります」
「外の詳しい状況は、まだ話しておりません」
次郎は頷く。
「ああ。その判断で正しい」
「憶測が広がれば、余計な混乱を招く」
警備主任も頷き返した。
「はい」
「後ほど、お時間をいただければ幸いです」
見慣れた絵画。
磨き上げられた床。
窓辺に飾られた花。
三人は屋敷の廊下を歩く。
どれも出発した日と変わらない。
エレンは懐かしそうに周囲を見回し、小さく息を吐いた。
「変わってないわね……」
その呟きに、執事長が穏やかに微笑む。
「皆、お嬢様がお戻りになられる日を信じて待っておりました」
エレンも静かに微笑みを返した。
やがて階段の前で執事長が足を止める。
「お嬢様のお部屋、アリスさんのお部屋は、いつでもお使いいただけるよう整えております」
「クレア様には客室をご用意しております」
「お湯の準備も整っておりますので、どうぞお身体をお清めください」
「ありがとう」
エレンは小さく頷いた。
その時だった。
執事長が言葉を選ぶように口を開く。
「お嬢様……一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
「バーニーは……ご一緒ではないのでしょうか」
その一言に、廊下の空気が静まり返る。
エレンの微笑みが消えた。
視線がゆっくりと床へ落ちる。
答えようとしても、声が出ない。
代わりに次郎が静かに口を開いた。
「……バーニーは俺たちを守って死んだ」
「最後まで、勇敢に戦い抜いた」
短い報告だった。
だが、それだけで十分だった。
執事長は静かに目を閉じる。
「……左様でございましたか」
深く頭を下げるその姿には、長年共に働いてきた仲間を失った悲しみが滲んでいた。
近くにいたメイドたちも会話を耳にし、言葉を失う。
中には口元を押さえ、小さく涙を流す者もいた。
誰もがバーニーの人柄を知っていた。
誰にでも気さくで、危険な仕事も率先して引き受ける男だった。
だからこそ、その死は屋敷で暮らすすべての者にとってあまりにも重かった。
エレンは小さく息を吸い、震える声で言った。
「……彼のおかげで私たちは生きて帰ってこれたの」
執事長は静かに頷く。
「承知いたしました」
「皆にも、そのように伝えさせていただきます」
しばらくの沈黙の後、執事長は表情を整えた。
「皆様、お疲れでしょう」
「まずは身体をお休めください」
「今後のお話は、食事の後にお伺いいたします」
次郎は短く頷く。
「ああ」
三人はそれぞれの部屋へ向かう。
次郎とエレンは屋敷へ帰ってきた安堵と、バーニーを失った現実。
二つの感情を胸に抱えながら、それぞれ静かに扉を開けた。
次郎は自室へ入ると、静かに扉を閉めた。
ふと室内を見渡す。
出発した日と何一つ変わらない光景がそこにあった。
黒いスーツを脱ぎ、泥や埃に汚れたシャツを洗濯籠へ入れる。
続いてリボルバーをホルスターから外し、アサルトライフルとショットガンを壁際の手入れ台へ並べた。
一挺ずつ分解し、汚れを拭き取りながら状態を確認する。
異常はない。
組み直すと、武器を元の場所へ置き、浴室へ向かった。
用意されていた熱い湯をタオルに含ませて体を拭いていく。
数日間蓄積した疲労が、ゆっくりと溶けていくようだった。
その頃、エレンも自室の浴室で身体を拭いていた。
温かな湯気が立ち上り、泥や埃を静かに落としていく。
鏡に映る自分の姿は、数日前より少し痩せて見えた。
目の下には疲労の色が濃く残っている。
それでも、生きて帰ってくることができた。
その事実だけは、何ものにも代え難かった。
ふと目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、孤児院での出来事。
窓を突き破って飛び込んできた小さな感染者。
砕け散るフロントガラス。
返り血を顔に浴びたバーニー。
そして――。
『……さようなら、バーニー』
次郎の静かな声。
乾いた銃声。
すべてが昨日のことのように鮮明に蘇る。
「……ごめんなさい」
小さく漏れたその一言は、誰にも届くことなく湯気の中へ溶けていった。
もしも、自分が孤児院へ行きたいと言わなければ。
もしも、もっと早く引き返していれば。
そんな考えが頭をよぎる。
しかし、何度考えても答えは出なかった。
エレンはゆっくりと首を横に振る。
「……だめよ」
いつまでも俯いていてはいけない。
自分はこの屋敷の主人だ。
帰りを待ち続けてくれた使用人たちがいる。
外の世界を知らず、不安を抱えている皆を支えなければならない。
バーニーが命を懸けて守ったのは、自分一人ではないのだ。
彼はこの屋敷も、ここの人たちも守りたかったはず。
だからこそ、自分が沈んではいけない。
エレンは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
頬に残っていた涙の跡を拭う。
鏡に映る自分をまっすぐ見つめ、小さく頷いた。
「大丈夫」
それは誰かに向けた言葉ではない。
自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
浴室を出る頃には、彼女はいつもの穏やかな表情を取り戻していた。
胸の奥に消えない痛みを抱えたまま、それを誰にも見せないように必死で押し込めて。
約一時間後。
三人は着替えを済ませ、それぞれの部屋を出た。
廊下には執事長が静かに立っている。
「お食事の準備が整いました」
「皆様、どうぞ食堂へ」
エレンは柔らかな笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「ありがとう」
執事長はその表情を見て、どこか安堵したように目を細める。
三人は並んで食堂へ向かった。
重厚な扉が開く。
食卓に並んでいたのは、かつてのような豪華な晩餐ではなかった。
野菜スープ。
保存の利くパンとクラッカー。
塩漬け肉を焼いたもの。
瓶詰めのピクルスや果物。
非常時に備えて保管されていた食料を工夫して調理した料理だった。
執事長が静かに口を開く。
「現在は非常用発電機で最低限の電力を賄っております」
「厨房も稼働しておりますが、燃料を節約するため、使用時間は必要最低限に抑えております」
「食料の備蓄にはまだ余裕がございますが、今後を考え、当面はこのような献立とさせていただきます」
エレンは食卓を見渡し、穏やかに微笑んだ。
「十分よ」
「こんな状況で温かい食事を用意してくれて、本当にありがとう」
その言葉に、給仕を務める使用人たちの表情が少し和らぐ。
「ありがとうございます、お嬢様」
皆が席に着くと、エレンは姿勢を正した。
「いただきます」
静かな食事が始まる。
食器の触れ合う音だけが食堂に響く。
豪華さはない。
それでも、温かな食事を囲めることが今は何よりもありがたかった。
しばらくすると、エレンは給仕をしていた若いメイドへ穏やかな笑みを向ける。
「どの料理も、とても美味しいわ」
「限られた食材で、ここまで用意してくれてありがとう」
「皆にも伝えてちょうだい」
「はい、お嬢様」
メイドは嬉しそうに頭を下げた。
エレンは使用人たちを見渡し、落ち着いた口調で続ける。
「外は想像以上に危険な状況です」
「ですが、この屋敷には十分な備蓄があります」
「皆さんも不安でしょう。でも、慌てず力を合わせれば乗り越えられるはずです」
「これからも、この屋敷は皆で守っていきましょう」
その言葉に、使用人たちは力強く頷いた。
「承知いたしました」
「お嬢様のお言葉、しかと胸に刻みます」
次郎は静かにその様子を見つめていた。
先ほどまで浴室で「ごめんなさい」と呟いていたことを知る者は、誰もいない。
エレンは屋敷の主人として、不安を表に出さず、皆を安心させようとしていた。
その気丈な姿は、使用人たちに希望を与える。
しかし、その一方で――。
敢えて不穏な終わり方をしています。
書き損じではないので悪しからず。