本日二度目の投稿です。
八日目の朝。
屋敷の窓から朝日が差し込み、静かな館内を柔らかな光が照らしていた。
館内には非常用発電機の低い駆動音が響いている。
電力は確保できているとはいえ、燃料には限りがある。
廊下の照明は必要最低限しか点いておらず、屋敷全体がどこか薄暗い印象を受けた。
有栖次郎は目を覚ますと、素早く身支度を整える。
リボルバーをホルスターへ収め、部屋を出た。
廊下では、使用人たちが朝食の準備に追われていた。
「おはようございます、アリスさん」
執事長が一礼する。
「ああ、おはよう」
次郎も軽く会釈を返した。
そのまま食堂へ向かおうとした時だった。
廊下の奥から、小さな嗚咽が聞こえてくる。
次郎は足を止めた。
視線の先では、一人の若いメイドが窓際に立ち、俯いていた。
両手でハンカチを握り締め、肩が小さく震えている。
「……」
やがて彼女は涙を拭うと、深く息を吸い込んだ。
その表情はまだ悲しみに沈んでいたが、次の瞬間には無理に笑顔を作る。
「ごめんなさい……」
誰に言うでもないその一言を残し、メイドは足早に厨房の方へ歩いていった。
次郎は静かにその背中を見送る。
昨日、屋敷へ伝えられたバーニーの死。
屋敷で長く働いていた彼を慕う者は多い。
その悲しみは、一晩で癒えるものではない。
次郎は何も言わず、再び食堂へ向かって歩き始めた。
食堂へ入ると、すでにエレンとクレアが席に着いていた。
「おはよう、アリス」
エレンが穏やかな笑みを浮かべる。
「ああ、おはよう」
次郎は短く返事をし、向かいの席へ腰を下ろした。
ほどなくして執事長と使用人たちが朝食を運んでくる。
湯気の立つスープ。
保存食を活用した料理。
焼き直したパン。
派手さはないが、栄養を考えて用意された朝食だった。
「いただきます」
三人は静かに食前の挨拶をする。
朝食は終始穏やかな雰囲気で進み、昨夜のような重苦しい空気は幾分和らいでいた。
食事を終えると、執事長が一礼する。
「お嬢様」
「応接室の準備が整っております」
エレンは立ち上がり、小さく頷いた。
「ありがとう」
三人は応接室へ向かう。
昨夜のうちに、外の状況や今後の基本方針についてはすでに共有を終えている。
今日の目的は、その内容を踏まえた具体的な運営と警備体制の確認だった。
応接室には執事長、警備主任、料理長をはじめ、各部門の責任者が集まっている。
机の上には屋敷の見取り図と備蓄品の一覧表が広げられていた。
警備主任が一礼する。
「それでは、本日の確認事項に入らせていただきます」
「まず、現在の警備体制についてご報告いたします」
警備主任は見取り図へ視線を落としながら説明を続けた。
「昨夜の会議を受け、警備体制を再編いたしました」
棒で見取り図の正門を示す。
「正門には昼夜を問わず一名を配置します。現在、人の出入りが可能なのはここだけですので、常時の警戒が必要です」
次に屋敷外周を指す。
「巡回は一名。二人一組が理想ではありますが、長期的な緊張で体調を崩した者がおり、昨夜から一名が高熱で寝込んでおります。そのため、無理な二名体制は避け、安全なルートを一名で巡回させます」
さらに裏門を指す。
「裏門は監視カメラの視界が広く、死角も少ないため、常時の立哨は行いません。警備室にて常時一名が映像をしております」
最後に、控え室の位置を示す。
「残る一名は休憩に回します。交代制で疲労を溜めないようにし、昼夜の警備に支障が出ないよう調整しています」
次郎は静かに頷いた。
「合理的だな。現状でできる最善だ」
「はい。非常電源が尽きて監視カメラが停止した場合のみ、裏門にも警備員を配置する予定です」
警備主任は力強く頷いた。
「さらに全警備員には短距離無線機を配備しております」
「異変があれば、無線で直ちに屋敷全体へ連絡いたします」
次郎は小さく頷く。
「それでいい」
「奴らは音に敏感だ」
「鐘やサイレンのような大きな音は絶対に使うな」
「屋敷を守るつもりが、かえって感染者を呼び寄せることになる」
「承知いたしました」
警備主任は真剣な表情で頷いた。
続いて、料理長が備蓄品の一覧表を手に取った。
「それでは、食料についてご報告いたします」
「現在の備蓄は、保存食を中心に管理しております」
「缶詰、乾パン、クラッカー、塩漬け肉、乾燥野菜などを節約して使用した場合、現在の人数で約一か月は持つ見込みです」
エレンは静かに頷く。
「無理に普段通りの食事を用意する必要はありません」
「皆が公平に食べられるよう管理してください」
「かしこまりました」
料理長は一礼した。
今度は執事長が資料を手にする。
「水につきましては、敷地内の井戸が問題なく使用できております」
「飲料水として利用する分は煮沸を徹底し、それ以外の生活用水も当面は不足する心配はございません」
次郎は腕を組みながら尋ねた。
「発電機の燃料は」
執事長は少し表情を引き締める。
「現在の使用量を維持した場合、発電機の燃料は、あと数日しか持ちません」
「照明は最低限に抑え、厨房も使用時間を制限しております」
次郎は見取り図の横に置かれた燃料管理表へ目を向けた。
「燃料は一滴でも無駄にするな」
「発電機が止まれば、夜間の警備も、食料の保存も一気に厳しくなる」
「必要最低限の運用を続けよう」
「承知いたしました」
その場にいた全員が真剣な表情で頷いた。
誰もが理解していた。
この屋敷は今こそ安全に見える。
しかし、その安全は限られた備蓄と燃料の上に成り立つ、決して盤石ではない日常なのだということを。
次郎は資料から目を離し、集まった責任者たちを見渡した。
「食料、水、燃料……当面は問題ない」
「だが、それは屋敷の外へ出なくて済む場合の話だ」
室内の空気がわずかに張り詰める。
次郎は続けた。
「今、一番不足しているのは医薬品だ」
「消毒液、抗生物質、鎮痛剤、包帯」
「誰か一人でも重傷を負えば、一気に苦しくなる」
執事長が資料を確認する。
「医務室の在庫は確認しておりますが、十分とは言えません」
「特に抗生物質は残り僅かです」
クレアが腕を組みながら口を開く。
「薬局や病院へ行けば手に入るかもしれない。でも、そういう場所は危険も大きいわ」
「そうだな」
次郎は頷いた。
「だから今は、怪我人を出さないことが何より重要だ」
警備主任も神妙な面持ちで口を開く。
「警備員には私から改めて周知いたします」
「無理な行動を避け、小さな負傷でも必ず報告するよう徹底いたします」
エレンは静かに立ち上がり、責任者たちを見渡した。
「皆さん」
「辛いことばかりが続いていますが、この屋敷にはまだ食料も水もあります」
「そして、皆さんがいます」
「どうか希望まで失わず、この屋敷を共に守ってください」
穏やかな声だったが、その言葉には屋敷の主人としての確かな意志が宿っていた。
警備主任、執事長、料理長は揃って一礼する。
「承知いたしました、お嬢様」
応接室には静かな緊張感とともに、この屋敷を守り抜くという決意が共有されていく。
しばらく沈黙が流れた。
やがてクレアが口を開く。
「備蓄があるうちに、町へ物資を取りに行くという選択肢は?」
責任者たちの視線が次郎へ集まる。
次郎は少し考え、静かに首を横へ振った。
「今は行かない」
「備蓄にはまだ余裕がある」
「その余裕を捨てて危険を冒す理由はない」
警備主任も同意する。
「周辺の様子も、まだ十分には把握できておりません」
「無理な行動は避けるべきでしょう」
次郎は見取り図の屋敷周辺を指差した。
「まずは屋敷を拠点として守りを固める」
「外へ出るのは、本当に必要になってからだ」
エレンは静かに頷いた。
「それでいきましょう」
「皆さんも、当面は屋敷の維持を最優先にしてください」
「かしこまりました」
責任者たちは一斉に頭を下げる。
こうして、この日の会議は終了した。
屋敷はひとまず安全だった。
だが、その安全が永遠ではないことを、この場にいる誰もが理解していた。
責任者会議は一時間ほどで終了した。
各々が資料を手に、それぞれの持ち場へ戻っていく。
応接室には、次郎、エレン、クレアの三人だけが残った。
「思ったより落ち着いていたわね」
クレアが小さく息を吐く。
「ああ」
次郎は短く答えた。
「混乱しているからこそ、やるべきことが明確なんだろう」
エレンは窓の外へ目を向けた。
広い庭園には夏の日差しが降り注ぎ、風に揺れる木々が静かな音を立てている。
一見すれば、世界は何一つ変わっていない。
しかし、高い塀の向こうでは、人々の日常はすでに失われていた。
「少し屋敷を見て回りたいのだけれど」
エレンが静かに言う。
「皆の様子を、この目で見ておきたいの」
「俺も行く」
次郎は即座に答えた。
「もちろん私も」
クレアも立ち上がる。
三人は応接室を後にし、屋敷の中を歩き始めた。
厨房では料理人たちが保存食の整理を行い、無駄が出ないよう帳簿へ細かく書き込んでいる。
リネン室では使用人たちが限られた水を有効に使うため、洗濯物を仕分けしていた。
廊下では警備員が無線機の動作確認を終え、交代の時刻を確認し合っている。
屋敷は以前までとは違う。
豪奢な貴族の館ではなく、生き残るための拠点へと姿を変え始めていた。
その様子を見たエレンは、小さく微笑む。
「皆、本当に頑張ってくれているのね」
次郎も静かに頷いた。
三人はそのまま歩みを進める。
誰もが自分の役割を果たそうとしていた。
その姿は、この屋敷にまだ希望が残されていることを示していた。
三人はそのまま廊下を歩き続けた。
屋敷では、それぞれが自分の役目を果たそうと忙しく動いている。
そんな中、一つ角を曲がった先の廊下の陰から、一人のメイドが静かに三人の様子を見つめていた。
朝、窓辺で涙を流していた若いメイドだった。
エレンは使用人たちへ優しく声を掛けながら歩き、クレアも時折笑顔を見せている。
その隣には、いつもと変わらぬ表情で歩く次郎の姿があった。
メイドはその姿をじっと見つめている。
三人はその存在に気付くことなく、廊下の先へ歩み去っていく。
残されたメイドは胸元を強く握り締め、静かに俯いた。
その表情に宿った感情が何であるのか――
その時、誰も知る者はいなかった。
――DAY8・終了――