本日一度目の投稿です。
九日目の朝。
屋敷は昨日と変わらず静かだった。
正門では警備員が交代し、屋敷の外周では一名による巡回が続いている。
厨房からは朝食の支度をする音が聞こえ、使用人たちもそれぞれの持ち場で忙しく働いていた。
非常用発電機の低い駆動音だけが、この屋敷が非常事態の中にあることを思い出させる。
朝食を終えた後。
次郎は中庭へ出て、リボルバーの分解整備を行っていた。
砂埃を払い、部品を一つひとつ確認していく。
武器の整備は、生き残るための日課だった。
「アリス」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、エレンが一人で立っている。
「どうした」
次郎が尋ねると、エレンは少しだけ言葉を選ぶように視線を伏せた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「お願いがあるの」
「私に、銃の扱いを教えてほしい」
次郎の手が止まる。
しばらくエレンを見つめたまま、何も言わない。
やがて静かに口を開いた。
「……本気か?」
「ええ、本気よ」
エレンは迷いなく頷く。
「私は今まで、誰かに守られて生きてきた」
「でもこの状況で、それを当然だとは思いたくないの」
「皆が命を懸けて戦うのなら、私も自分の身くらいは自分で守れるようになりたい」
その瞳に迷いはなかった。
次郎は小さく息を吐き、整備中のリボルバーを机へ置く。
「銃は人を守る道具にも、人を殺す道具にもなる」
「人を殺す覚悟がないのなら、教えることはできない」
エレンはまっすぐ次郎を見つめ返した。
「覚悟なら、もう決めているわ」
次郎はしばらく考え込んだ後、小さく頷いた。
「……分かった」
「ただし、焦るな」
「一朝一夕で身に付くものじゃない」
エレンは静かに微笑んだ。
「ええ」
「よろしくお願いします」
その日から、エレンは次郎の指導を受けるようになった。
使用人たちの仕事が一段落する午後のひととき。
二人は屋敷の敷地内にある、人目につかない場所で訓練を重ねた。
無理はしない。
焦らない。
基礎を一つひとつ身につける。
それが次郎の方針だった。
クレアも時折様子を見に来ては、エレンを励ます。
そんな日々が始まり、屋敷には新しい日課が加わった。
数日が過ぎるにつれ、使用人たちにも少しずつ笑顔が戻り始める。
決して以前のような穏やかな毎日ではない。
それでも、それぞれが自分の役目を果たし、生きるために前を向こうとしていた。
その一方で――。
廊下の片隅や、誰もいない庭園の隅で、一人静かに涙を流すメイドの姿を目にする者がいた。
朝には気丈に振る舞い、仕事にも手を抜かない。
だが、人目がなくなると、その肩は小さく震えていた。
誰もが、彼女もまたバーニーの死を深く悼んでいるのだと思っていた。
それ以上、詮索する者はいない。
屋敷にいる全員が、大切な人を失う悲しみを理解していたからだ。
そして、その悲しみは誰にも知られることなく、静かに胸の奥で積もり始めていた。
午後。
次郎は警備主任とともに屋敷の外周を巡回していた。
高さのある石壁に囲まれた敷地内は静まり返っている。
聞こえるのは風が木々を揺らす音と、鳥のさえずりだけだった。
警備主任が双眼鏡を下ろす。
「本日も異常はありません」
「感染者の姿も確認できませんでした」
次郎は壁の向こうへ視線を向けた。
「見えないからといって、安全とは限らない」
「連中は音や臭いに引き寄せられる」
「一度集まれば、この塀も絶対じゃない」
「承知しております」
警備主任は真剣な表情で頷いた。
二人はそのまま正門へ向かう。
門の内側では警備員たちが交代の準備を進めていた。
無線機の動作を確認し、装備を点検し、それぞれが持ち場へ散っていく。
慌ただしさはない。
だが、一つひとつの動作に気の緩みは見られなかった。
屋敷の全員が理解している。
今の平穏は、自分たちの警戒によって辛うじて保たれているものだということを。
巡回を終えた次郎は空を見上げる。
雲一つない青空が広がっていた。
あまりにも穏やかな景色だった。
だからこそ、不気味だった。
夕暮れが近づく頃。
西日に照らされた屋敷は、静かな橙色に染まっていた。
使用人たちはそれぞれの持ち場で一日の仕事を終え、厨房では夕食の支度が進められている。
警備員たちも交代で屋敷の外周を巡回し、無線で異常がないことを報告し合っていた。
「こちら巡回者、北側異常ありません」
『警備室、了解しました』
落ち着いたやり取りが無線機から流れる。
次郎はその声を聞きながら、中庭から屋敷を見上げた。
エレンは使用人たちと穏やかに言葉を交わし、クレアも時折笑みを浮かべている。
数日前まで絶望に包まれていた屋敷には、少しずつではあるが、人らしい日常が戻り始めていた。
それは決して平穏ではない。
限られた食料と燃料。
いつ尽きるとも知れない備蓄。
それでも、皆が今日という一日を無事に終えられたことに安堵していた。
やがて夕食の時間となり、屋敷の者たちは静かに食卓を囲む。
豪勢な料理ではない。
保存食を工夫した温かな食事だった。
「ごちそうさまでした」
食事を終えると、それぞれが翌日に備えて部屋へ戻っていく。
次郎も最後に館内を一巡し、施錠を確認してから自室へ戻った。
窓の外には満天の星が広がっている。
世界が崩壊したとは思えないほど、美しい夜空だった。
次郎はカーテンを閉め、ベッドへ腰を下ろす。
「……今日も無事に終わったか」
短く呟くと、静かに目を閉じる。
その夜は何事もなく、更けていった。
◇
十日目の朝。
屋敷は今日も静かな朝を迎えていた。
非常用発電機の低い駆動音が館内に響き、使用人たちは慣れた手つきで朝の支度を進めていく。
誰もが非常時の生活に少しずつ順応し始めていた。
朝食を終えた次郎は、いつものように屋敷の外周を巡回する。
警備主任も隣を歩き、周囲へ注意を払っていた。
「夜間も異常はありませんでした」
「巡回中に感染者の姿も確認しておりません」
「了解した」
次郎は短く答え、石壁の向こうへ視線を向ける。
静かだった。
あまりにも静かすぎるほどに。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが耳に届く。
「警戒は続けてくれ」
「何も起きない日ほど、気は緩みやすい」
「承知しております」
警備主任は真剣な表情で頷いた。
巡回を終えた次郎は屋敷へ戻る。
廊下では使用人たちが笑顔で挨拶を交わしながら仕事を進めていた。
数日前には見られなかった光景だ。
「おはようございます、アリスさん」
「ああ、おはよう」
短いやり取りだけでも、屋敷に人らしい空気が戻ってきたことを感じさせる。
昼前になると、エレンは執務室で帳簿へ目を通し、執事長から屋敷の運営状況について報告を受けていた。
主人として、自分にできる役目を果たそうとしている。
その姿を廊下から見た次郎は、小さく頷き、そのまま歩き去った。
屋敷は今日も穏やかだった。
その穏やかさを守るため、誰もが自分の役割を黙々と果たしている。
午後。
食堂では、使用人たちが翌日以降の献立について話し合っていた。
限られた保存食をどう使えば、少しでも長く持たせられるか。
料理長を中心に、皆が知恵を出し合っている。
「缶詰はもう少し温存しましょう」
「乾燥野菜なら、まだ十分にあります」
「スープなら全員に行き渡りますね」
真剣な話し合いではあるが、その表情に悲壮感はない。
生き延びるために、今できることを考えているだけだった。
一方、中庭ではエレンが静かに読書をしていた。
膝の上には一冊の古い小説。
時折ページをめくりながら、穏やかな時間を過ごしている。
その近くでは、クレアが花壇の手入れを手伝っていた。
「意外ね」
エレンが本から目を離し、微笑む。
「クレアが園芸までできるなんて」
「得意ってほどじゃないけどね」
クレアは苦笑しながら土をならした。
「こういうことをしてると、少しだけ落ち着くの」
「ここしばらくは、そんな余裕もなかったから」
その言葉に、二人はしばらく黙り込む。
互いに思い出したくない記憶だった。
だが、その沈黙は重苦しいものではない。
同じ地獄を生き延びた者同士だからこそ分かり合える、静かな時間だった。
少し離れた場所では、次郎が木陰に立ち、屋敷全体へ視線を巡らせている。
警戒を解くことはない。
それでも、皆が穏やかに過ごしている姿を見ると、自然と肩の力が抜けた。
柔らかな風が庭を吹き抜け、花壇の花々を静かに揺らす。
外の世界が崩壊したことを忘れてしまいそうなほど、屋敷には穏やかな時間が流れていく。
夕方。
屋敷の厨房には、食欲をそそる香りが漂っていた。
料理長と使用人たちが手際よく夕食を仕上げていく。
限られた食材であっても、少しでも温かく、美味しい料理を作ろうという工夫が随所に見られた。
やがて鐘の代わりに無線で食事の時間が伝えられ、屋敷の者たちは順番に食堂へ集まってくる。
「皆さん、お疲れ様でした」
エレンは席に着く前、一人ひとりを見渡しながら穏やかに声を掛けた。
「今日も何事もなく一日を終えられたことを、嬉しく思います」
使用人たちは静かに頷き、それぞれ席に着く。
以前のような豪華な晩餐ではない。
しかし、温かなスープと焼きたてのパン、少量の保存肉だけでも十分だった。
誰も不満を口にする者はいない。
今、この食事ができること自体が幸せだった。
食後、警備主任は夜間の配置を最終確認し、警備員たちはそれぞれの持ち場へ向かう。
「無理はするな」
次郎が声を掛ける。
「異変があればすぐ無線だ。自分一人で対処しようとするな」
「はい、アリスさん」
力強い返事が返ってきた。
その声には、以前にはなかった落ち着きがあった。
そして夜が来て屋敷の明かりが一つ、また一つと消えていく。
巡回する警備員の足音だけが静かな敷地に響いていた。
次郎は自室へ戻る前に中庭へ立ち寄る。
夜空には無数の星が瞬き、澄んだ風が頬を撫でた。
門の外の世界では、今も地獄が広がっている。
それでも、この屋敷だけは静かな時間が流れていた。
次郎は星空を見上げ、小さく息を吐く。
「……この静けさがずっと続けばいい」
その願いは夜風に溶けるように消え、この日の夜も何事もなく更けていった。
穏やかな日々の中に混ざる不穏な雰囲気を感じて頂けましたか。
もう間もなく二度目の山場が訪れます。