本日一度目の投稿です。
十三日目の朝。
食堂へ執事長が姿を現すと、使用人たちは静かに席へ着き始めた。
朝食は昨日と変わらない。
温かなスープに乾パン、保存していた缶詰。
限られた食材を無駄なく使うため、料理長は毎日少しずつ献立を工夫していた。
「おはようございます、エレンお嬢様」
「おはよう」
穏やかな挨拶が交わされる。
食事を囲む人々の表情には、わずかながら余裕が戻っていた。
食後、執事長が帳簿を開く。
「本日の報告です」
「食料、飲料水ともに予定どおり消費しております」
「ですが、非常用発電機の燃料は、本日中には尽きる見込みです」
食堂の空気が少しだけ静まった。
エレンは落ち着いた表情のまま尋ねる。
「今夜まで、ということね」
「はい」
「日没後しばらくは稼働しますが、それ以降は停止する見込みです」
「分かりました」
エレンは静かに頷く。
「皆さんにも伝えてください。今夜からはランタンと蝋燭での生活になります」
「承知いたしました」
執事長が頭を下げる。
大きな動揺はなかった。
誰もが、いつかは来ると分かっていたことだからだ。
朝食を終えると、それぞれが持ち場へ向かっていく。
次郎はリボルバーのシリンダーを確認し、ホルスターへ戻した。
警備主任が近付いてくる。
「アリスさん、いつもどおり外周を確認します」
「ああ」
二人は玄関を出て、朝の巡回へ向かった。
屋敷を囲む森は静まり返っている。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが耳に届いていた。
巡回は予定どおり進んでいた。
西側の石壁を確認し、次郎と警備主任は裏門へ向かう。
次郎と警備主任は裏門へ辿り着いた。
周囲は深い森に囲まれ、風が木々を揺らす音だけが静かに響いている。
警備主任は門柱や錠前を確かめ、外周の石壁にも視線を走らせた。
「異常ありません」
次郎も裏門の向こうへ目を向ける。
森に人の気配はない。
「ああ」
警備主任は巡回を続けるため、その場を離れようと歩き出した。
しかし、次郎は動かなかった。
門と反対の森をじっと見つめたまま、静かに口を開く。
「少し待ってくれ」
警備主任は足を止めて振り返る。
「どうしました?」
次郎は無言のまま森を見つめ続ける。
その視線を追うように、警備主任も森の奥へ目を凝らした。
木々の隙間。
遠くに、小さな人影が立っている。
「あれは……人でしょうか」
「多分な」
次郎は短く答える。
「だが、不自然だ」
二人はその場で様子をうかがった。
しばらく動かなかった人影が、不意に顔を上げる。
次の瞬間。
「アアアァァッ!!」
森に絶叫が響き渡った。
人影は地面を蹴り、常人では考えられない速度で一直線に二人へ向かって駆け出した。
警備主任は目を見開く。
「なんだ、あれは……!」
「下がってくれ」
警備主任は反射的に一歩後ろへ下がる。
人影は勢いを落とさない。
二人まであと二十メートル。
十メートル。
五メートル。
――パンッ!
乾いた銃声が森に響く。
次郎のリボルバーから発射された弾丸は感染者の額を正確に撃ち抜いた。
感染者は勢いのまま数歩走り、二人の目前で前のめりに倒れ込む。
そのまま土の上で静かに動きを止めた。
警備主任は地面へ倒れた人影を見つめたまま、言葉を失っていた。
しばらくして、ようやく口を開く。
「……今のは」
次郎はリボルバーを構えたまま、森から目を離さない。
「感染者だ」
その一言に、警備主任は息を呑んだ。
「これが……」
話には聞いていた。
だが、自分の目で見るのは初めてだった。
人間とは思えない速さ。
獣のような叫び声。
そして、迷うことなく人へ襲い掛かる凶暴性。
どれも想像をはるかに超えていた。
次郎は周囲へ鋭い視線を向ける。
森は静まり返っている。
風に揺れる木々以外、動くものはない。
数十秒が過ぎた。
次郎は小さく息を吐く。
「……単独だな」
警備主任も改めて周囲を見回し、緊張した面持ちで頷いた。
「他には見当たりませんね」
「ああ」
次郎はリボルバーをホルスターへ戻す。
警備主任は門の外に横たわる感染者を見つめた。
「死体はどうしましょうか」
次郎も感染者へ視線を向ける。
「このままにしておこう」
「森に入る方が危険だ」
警備主任は静かに頷いた。
「ええ。私もそう思います」
感染者が一人だけとは限らない。
森に入った瞬間、別の感染者と遭遇する可能性もある。
不用意に危険を冒す必要はなかった。
警備主任は無線機を手に取る。
「こちら裏門」
『どうしました』
「感染者を一名確認、アリスさんが対処した」
「現在、周辺に他の感染者は確認できていない」
『了解しました。引き続き警戒をお願いします』
「了解」
通信を終えると、二人はその場でしばらく森を監視した。
風が枝葉を揺らし、鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
しかし、それ以外に動くものはない。
次郎は森へ視線を向けたまま口を開く。
「もう大丈夫そうだな」
警備主任も周囲を見回して頷く。
「ええ。巡回を続けましょう」
二人は裏門を後にし、再び屋敷の外周を歩き始めた。
門の外には、頭を撃ち抜かれた感染者の死体だけが静かに残されていた。
その後の巡回では、新たな異変は見つからなかった。
西側の石壁や溶接された裏口を確認しながら屋敷へ戻る。
玄関前では、無線を受けていた警備員が次郎と警備主任を迎えた。
警備主任も彼も険しい表情を浮かべている。
感染者がついに屋敷の近くまで現れた。
その事実は、警備員たちに少なからぬ緊張を与えていた。
警備主任は彼と目を合わせ、小さく頷く。
警備員も無言で頷き返す。
言葉を交わさなくとも、警戒を一層強める必要があることは全員が理解していた。
次郎はそのまま屋敷の中へ入る。
「エレンたちに報告してくる」
「お願いします」
警備主任はそう答えると、屋敷の周囲へ視線を向けた。
感染者が一人だけだったのは幸運に過ぎない。
次に現れる時も、一人とは限らない。
静まり返った屋敷を守るため、警備員たちは持ち場へ戻り、それぞれの警戒を再開した。
応接室の扉をノックすると、中からエレンの声が聞こえた。
「どうぞ」
次郎が部屋へ入ると、エレンとクレアはテーブルを挟んで資料に目を通していた。
二人は次郎の表情を見るなり、ただならぬ雰囲気を察する。
「何かあったの?」
クレアが尋ねる。
次郎は簡潔に答えた。
「裏門で感染者を確認した」
室内の空気が一変する。
クレアは思わず立ち上がった。
「もうここまで来たの?」
「ついさっきな」
「一人だけ発見して、すぐに対処した」
クレアは胸をなで下ろす。
「他には?」
「確認できなかった」
「今のところは単独だ」
エレンは静かに両手を組み、少し考え込む。
「街から、ここまで来たということかしら」
「その可能性が高い」
次郎は短く答えた。
「行動範囲が広がっている」
部屋に沈黙が落ちる。
感染者は街だけの脅威ではなくなった。
屋敷も、もはや安全地帯とは言い切れない。
やがてエレンが顔を上げる。
「警戒のレベルを上げましょう」
「裏門だけでなく、屋敷全体の見回りも今まで以上に慎重に」
次郎は頷いた。
「ああ。そうしよう」
クレアは真剣な表情で口を開いた。
「屋敷のみんなにも知らせるべきね」
「裏門には絶対に近づかないようにって」
「感染者が一人だったとしても、何が起こるか分からないわ」
エレンは静かに頷く。
「そうね」
「興味本位で様子を見に行く人がいたら、それだけで危険だわ」
次郎も二人を見渡しながら口を開いた。
「ここまでたどり着くのが一人だけとも限らない」
「しばらくは誰も近づけない方がいい」
クレアは次郎の言葉に頷いた。
「ええ。それが一番安全ね」
エレンは卓上のベルを鳴らす。
間もなく執事長が応接室へ入室した。
「お呼びでしょうか、エレンお嬢様」
「ええ」
「屋敷の者全員に伝えてください」
「本日より、警備員の許可なく門の外へ出ることを禁止します」
「特に裏門周辺には決して近づかないよう、全員へ徹底してください」
執事長は一礼する。
「承知いたしました。直ちに申し伝えます」
執事長が退室すると、エレンは次郎へ視線を向けた。
「これで、不用意に近づく人はいなくなるかしら」
次郎は落ち着いた口調で答える。
「命令が徹底されれば危険は減る」
「警備も強化する」
「異変があれば、すぐ対応できる」
エレンは安心したように微笑んだ。
「お願いするわ」
「ああ。任せろ」
短く応じると、次郎は応接室を後にして静かに扉を閉めた。
廊下には午後の陽光が差し込み、磨き上げられた床を淡く照らしている。
使用人たちは、それぞれの持ち場で黙々と仕事を続けていた。
廊下を磨くメイド。
洗濯物を抱えて足早に歩く使用人。
厨房からは夕食の仕込みを進める物音が聞こえてくる。
誰もが普段どおりに振る舞っていた。
次郎は玄関ホールへ向かう。
警備主任は次郎に気付き、一礼する。
「アリスさん」
「エレンお嬢様からのご命令は?」
「門の外へ出ることを禁止するそうだ」
「特に裏門には誰も近づけないようにと」
警備主任は頷いた。
「承知しました」
「こちらでも警備員へ周知します」
「使用人には執事長から通達される」
「それなら安心です」
次郎は玄関から庭へ目を向けた。
夏の風が芝生を揺らし、木々の葉がさらさらと音を立てている。
穏やかな景色だった。
しかし、その穏やかさは石壁の内側だけのものだ。
門の外には感染者が現れ始めている。
次郎は再び警備主任へ視線を向ける。
「今夜から発電機も止まる」
「暗くなると警戒もしづらいな」
警備主任は静かに頷いた。
「ええ」
「何かあれば、すぐ連絡します」
「頼む」
二人は短く頷き合い、それぞれの持ち場へ向かった。
庭師が植え込みを整え、その近くでは数人の使用人が洗濯物を取り込んでいる。
皆、これから訪れる夜の危険を理解しながらも、自分の役目を黙々と果たしていた。
中にはどこか疲れた表情を浮かべる者や、俯いたまま作業を続ける者もいる。
次郎はその光景を一瞥すると、異変がないことを確認し、その場を後にした。
屋敷には静かな時間が流れていた。
夕刻が近づくにつれ、西の空は赤く染まり始めていた。
長く伸びた屋敷の影が庭を覆い、昼間の暑さも少しずつ和らいでいく。
使用人たちは執事長からの通達を受け、それぞれの持ち場へ戻っていた。
警備員も正門と裏門へ配置につき、屋敷は夜を迎える準備を進めている。
発電機が止まる時間が近づくと、使用人たちは各部屋にランタンを運び、順に火を灯していった。
暖かな橙色の明かりが廊下や玄関ホールを照らし始める。
次郎は中庭へ出ると、屋敷を囲む石壁の向こうへ視線を向けた。
夕暮れの森は静かだった。
風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが耳に届く。
裏門で感染者を確認して以降、新たな異変はない。
屋敷の中でも、外でも、今のところは平穏だった。
次郎は一通り周囲を見渡すと、異常がないことを確認して屋敷の中へ戻る。
やがて最後の陽が地平線へ沈み、屋敷はランタンの灯だけが揺れる夜を迎えた。
――DAY13・終了――
皆様お待たせ致しました。
ようやくターニングポイントです。