本日二度目の投稿です。
深夜の静まり返った屋敷に、鋭い悲鳴が響き渡った。
「きゃああああっ!」
次郎は瞬時に目を覚ます。
体は反射的に動いていた。
ベッド脇に置いていたリボルバーを手に取り、懐中電灯を掴む。
スイッチを入れると、白い光が暗い部屋を照らした。
扉を開け、廊下へ飛び出す。
発電機は止まっている。
廊下を照らすものはなく、闇の中を懐中電灯の光だけが切り裂いていた。
その静寂を引き裂くように、今度は別の場所から男の叫び声が響いた。
「うわあああっ!」
何かが激しく倒れる音。
続いて、複数の悲鳴。
屋敷中が一瞬にして混乱に包まれる。
次郎は迷うことなくエレンの部屋へ向かい、扉を叩く。
「エレン」
「俺だ」
すぐに扉が開いた。
部屋の中ではエレンとクレアが、それぞれランタンを手に立っていた。
二人ともすでに目を覚ましており、緊張した面持ちを浮かべている。
「アリス」
「今の悲鳴、聞こえたわ」
エレンの声は落ち着いていたが、その表情には隠しきれない不安が浮かんでいた。
クレアも頷く。
「何かが起きてるわね」
次郎は短く答えた。
「ああ」
「屋敷の中からだ」
その瞬間、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
姿を現したのは執事長だった。
片手にランタンを提げ、額に汗を浮かべて息を切らしている。
普段の冷静さは消え失せ、その表情には明らかな動揺が浮かんでいた。
「エレンお嬢様!」
「ご無事でしたか……!」
執事長は安堵する間もなく、震える声で続ける。
「使用人たちが……突然、人を襲い始めました!」
「警備員も応戦していますが、何が起きているのか!」
その報告を遮るように、屋敷の奥から再び悲鳴が響く。
今度は一人ではない。
男と女、幾人もの叫び声が重なり、屋敷全体が混乱に包まれていった。
次郎の表情が険しくなる。
「……最悪だ」
その一言で、クレアは迷うことなく拳銃を構えた。
「誰かが感染したのね」
「ああ」
次郎は頷く。
「被害が少数で済んでいるとは思えない」
エレンも拳銃を手に取り、深く息を吸った。
孤児院で見た、あの地獄。
噛まれた者が数秒で感染し、次々と仲間へ襲いかかる光景が脳裏をよぎる。
「執事長」
次郎は落ち着いた声で問い掛けた。
「最初に悲鳴が聞こえたのはどこだ」
「一階西側、使用人部屋の辺りです」
執事長は震える声で答える。
「見回りの使用人が、突然同僚に襲われたと無線が……」
言葉の途中で、執事長の無線機から激しい雑音が流れた。
『こちら玄関ホール! 応援を――』
叫び声。
何かが倒れる激しい音。
続いて、人間とは思えない絶叫が無線越しに響き渡る。
『アアアアアアッ!!』
通信はそこで途切れた。
その場にいた全員の表情が強張り、クレアが低く呟く。
「……もう玄関ホールまで広がっているのね」
「感染速度を考えれば当然だ」
次郎は即座に判断を下す。
「エレンは中央」
「執事長は俺たちから離れないでくれ」
「クレアは最後尾を頼む」
「了解」
クレアが短く応じ、拳銃を構え直す。
エレンも拳銃を握り締め、小さく頷いた。
「行きましょう」
四人は廊下へ出る。
先頭は次郎。
中央にエレンと執事長。
最後尾をクレアが警戒する。
懐中電灯とランタンの光だけが、暗い廊下を照らしていた。
階段へ向かおうとした、その時だった。
下の階から銃声が二発、連続して響く。
――パンッ!
――パンッ!
直後、屋敷中を震わせる絶叫。
「アアアアアアアッ!!」
その声は一人ではない。
二人、三人では済まない。
複数の感染者の咆哮が重なり、石造りの屋敷全体へ反響する。
次郎は足を止めずに言った。
「急ぐぞ」
四人は大階段へ向かって駆け出した。
次郎たちは玄関ホールへ続く大階段まで辿り着いた。
身を低く伏せて下を覗き込んだ瞬間、全員が息を呑む。
玄関ホールは地獄と化していた。
床には使用人たちの亡骸が折り重なり、至る所で感染者が獲物に群がっている。
荒い呼吸。
獣のような咆哮。
肉を叩く鈍い音や歯が肉を食い破る音が吹き抜けを通して二階まで響いてきた。
「……無理だな」
次郎は即座に判断した。
「さすがにあの数は突破できない。一度戻ろう」
四人は足音を殺しながら廊下を引き返し、次郎の部屋へ戻る。
部屋へ入ると、次郎は静かに扉を閉めた。
クローゼットの奥に隠した保管庫を開き、予備弾薬をポケットへ詰める。
そして、クレアから返却されていたショットガンへ一度手を伸ばしたが――
次郎はわずかに眉をひそめ、そのまま手を止めた。
「……いや、これは使えないな」
クレアが振り返る。
「どうして?」
次郎はショットガンを軽く持ち上げ、低く答えた。
「屋敷の中で使うには音が大きすぎる。一発撃っただけで一階の感染者が全部殺到してくる」
クレアは即座に理解したように頷く。
次郎はショットガンを保管庫へ戻し、代わりに黒い
「こっちの方がいい。拳銃に取り付けるだけで音と光を減らせる」
次郎は一つしかないサプレッサーと拳銃の弾をクレアへ手渡した。
クレアはサプレッサーを握り、拳銃の先端に取り付ける。
「準備できたわ」
その時だった。階下から必死な足音が聞こえてくる。
タッ、タッ、タッ――。
誰かが階段を駆け上がってくる。
次郎は拳銃を構え、静かに扉へ近付いた。
数センチだけ扉を開き、廊下を窺う。
ランタンの灯に照らされた先で、一人の若い女性使用人が泣きながら二階へ駆け上がってきた。
制服は血に汚れ、何度も後ろを振り返っている。
「誰か……助けて!」
その声と同時に、一人の感染者が階段を駆け上がってきた。
女性は悲鳴を上げて逃げようとする。
だが感染者は一瞬で追いつき、背中へ飛び掛かった。
女性は床へ倒れる。
「いやっ!」
何度も蹴って抵抗する。
しかし感染者は馬乗りになると、拳を振り上げた。
ドゴッ!
鈍い音が廊下へ響く。
ドゴッ!
ドゴッ!
拳は何度も振り下ろされる。
女性の悲鳴は数秒で途切れた。
感染者はなおも殴り続ける。
血が床へ飛び散り、頭部は見る影もなく潰されていく。
次郎は静かに扉を閉めた。
「……残念だ」
短く呟く。
そして三人を見渡した。
「感染者がすぐそこまで来ている」
「ここももう安全じゃない」
「行くぞ」
執事長が眉をひそめた。
「行くと言っても……どこへ向かうのですか?」
次郎は部屋の中央へ視線を落とし、静かに状況を整理する。
「そうだな。まずは現状を確認しよう」
全員が耳を傾ける。
「前提として、玄関ホールからの脱出は不可能」
「二階の窓から飛び降りるのも危険だ。この屋敷の2階は、一般的な建物で見れば三階相当の高さがある。下は石畳だから間違いなく足を折る」
「一階の窓も、籠城するために家具で塞いでしまっている」
「玄関ホール以外の入口も、溶接して塞いでいる」
誰も反論できなかった。
屋敷は自分たちを守る砦として造り替えた。
その結果、今は自分たちを閉じ込める牢獄になっている。
執事長が重苦しく呟く。
「……逃げ場がありませんな」
「いや」
次郎は首を横へ振った。
「一か所だけある」
エレンがはっと顔を上げる。
「食堂裏の食品保管庫……」
「その奥に地下へ続く扉があるわ」
「今は射撃場として使っている場所のさらに奥に、外へ通じる避難通路がある」
執事長も思い出したように目を見開いた。
「そうでした……」
「建設当時、非常用として造られた地下通路です」
クレアは腕を組み、小さく息を吐く。
「でも、そこへ行くには……」
執事長が言葉を引き継ぐ。
「一階を通らなければなりませんね」
次郎は壁に掛けられた屋敷の見取り図へ視線を向けた。
「玄関ホールへ下りる必要はない」
「だが、この部屋から裏階段へ行くには、大階段前を横切る必要がある」
エレンが小さく頷く。
「裏階段は玄関ホールを挟んだ反対側にある」
「そこまで行ければ、一階の食堂エリアへ下りられるわ」
執事長は険しい表情を浮かべた。
「つまり、大階段前で感染者に気付かれれば……」
「ああ」
次郎は短く答える。
「玄関ホール中の感染者が一斉に階段を駆け上がってくる」
クレアは拳銃を握り直した。
「だから、大階段前が一番危険ってわけね」
「そういうことだ」
次郎は全員を見回した。
「大階段前を一気に横切り、裏階段へ飛び込んで扉を閉める」
「勝負はそこだけだ」
エレンは深く息を吸い、覚悟を決めたように頷いた。
「行きましょう」
次郎はゆっくりとドアノブを回した。
音を立てないよう数センチだけ扉を開き、廊下の様子を窺う。
静まり返っていた。
幸い、先程の感染者の姿はない。
「行ける」
三人は静かに頷く。
執事長はランタンを掲げる。
次郎は首を横に振った。
「そのままじゃ目立つ」
エレンは近くのベッドからシーツを掴み、ランタンへそっと被せた。
漏れる光は足元を照らせる程度まで弱まる。
「これなら……」
「ああ。十分だ」
次郎を先頭に、四人は部屋を出た。
拳銃を構えたまま、足音を殺して廊下を進む。
屋敷全体が異様な静けさに包まれていた。
聞こえるのは、遠くから響く感染者たちの唸り声だけ。
やがて廊下の先に吹き抜けが見えてくる。
その向こうには玄関ホールへ続く大階段。
次郎は柱の陰で足を止め、静かに拳を握って合図を送った。
四人は身を低くし、大階段の手前で息を潜める。
吹き抜けの下からは、何人もの荒い呼吸と獣のような唸り声が絶え間なく聞こえてきた。
あと数歩進めば、大階段前を横切ることになる。
次郎は柱へ身を寄せたまま、ゆっくりと吹き抜けの先を覗き込んだ。
大階段の下には、夥しい数の感染者がひしめき合っている。
血まみれの使用人。
警備員。
料理人。
誰もが充血した目で辺りを見回し、獣のような荒い呼吸を繰り返していた。
階段の途中まで上がってきている者はいない。
だが、一歩踏み出せば視界に入る距離だ。
次郎は身を引き、三人へ小さく囁く。
「予定どおりだ」
「走るのは大階段前だけ」
「そこを越えたら、そのまま裏階段へ飛び込む」
三人は無言で頷いた。
次郎は拳銃を握り直す。
「俺が合図したら一気に走れ」
「途中で止まるな」
クレアは拳銃を構え、エレンと執事長も覚悟を決めた表情で頷いた。
次郎は大きく息を吸う。
そして、右手を静かに振り下ろした。
四人は柱の陰から飛び出し、大階段前を一気に駆け抜ける。
裏階段までは、あと十数メートル。
次郎は前だけを見据えて駆ける。
その時だった。
一階にいた感染者の一人が何気なく大階段の方へ振り向いた。
充血した目が二階の廊下を捉える。
「ギャアアアアアッ!」
感染者の絶叫に反応した数人の感染者が一斉に顔を上げる。
「ゴアアアアッ!!」
絶叫が玄関ホールにこだまする。
次の瞬間、その叫びに呼応するように周囲の感染者たちも次々と咆哮を上げた。
「「「アアアアアッ!!」」」
玄関ホール全体が一斉に動き出す。
感染者たちは我先にと大階段へ殺到した。
「急げ!」
次郎が叫ぶ。
四人は速度を緩めることなく走り続けた。
背後では何十人もの足音が階段を駆け上がってくる。
裏階段の扉が目前まで迫る。
次郎が勢いよくドアノブを掴み、扉を引き開けた。
「中へ!」
エレン、執事長、クレアの順に飛び込む。
最後に次郎が中へ滑り込み、そのまま扉を閉めて鍵をかけた。
バンッ!!
直後、反対側から激しい衝撃が扉を揺らす。
ガシャガシャとドアノブが揺れる。
ドンッ!
ドンッ!
何人もの感染者が扉へ体当たりを繰り返していた。
しかし扉はびくともしない。
分厚い無垢材で造られた外開きの扉は、内側から鍵が掛けられていることもあり、何人もの感染者が体当たりを繰り返しても微動だにしなかった。
ドンッ!
ドンッ!
ガシャガシャガシャッ!!
執拗にドアノブが揺さぶられる。
四人は息を殺し、誰一人として口を開かない。
やがて、体当たりの間隔が少しずつ長くなっていく。
ドン……。
ガチャ……。
さらに数十秒。
ついには物音が止み、代わりに複数の足音が廊下を遠ざかっていった。
耳を澄ませても、もう扉の向こうに気配はない。
次郎はなおも一分ほど待ち続ける。
完全に静寂が戻ったことを確認すると、小さく息を吐いた。
「……行ったか」
クレアは拳銃を構えたまま階段の下へ視線を走らせる。
感染者の姿はない。
次郎も懐中電灯で足元だけを照らしながら、踊り場まで降り、一階まで続く階段を確認した。
「誰もいないな」
次郎はようやくリボルバーを下ろした。
「よし、ここはひとまず安全だ」
その言葉と同時に、エレンが壁にもたれ、深く息を吐いた。
疲労を隠せず、肩は大きく上下している。
執事長もまた額の汗を拭いながら呼吸を整えていた。年齢もあり、先ほどの全力疾走は相当堪えたようだった。
次郎は二人の様子を静かに見つめるが、数秒考えて結論を出す。
「休ませてやりたい気持ちはあるが、ここではまだ休憩はできない」
三人が頷く――が、次郎はすぐに手を上げて制した。
「いや、違うな。エレンと執事長は一旦ここに残っておいてくれ」
二人が驚いたように次郎を見る。
「食堂は玄関ホールに通じている。あそこには大量の感染者がいる」
次郎は淡々と続ける。
「まず俺とクレアで食堂と厨房を確認し、シャッターを閉めて玄関ホールを隔離する」
「安全が確保でき次第、二人を呼びに戻る」
エレンは不安そうに唇を噛む。
「……でも、二人だけで大丈夫なの?」
次郎は短く頷いた。
「大丈夫だ。むしろ人数が多い方が危険だ」
執事長も理解し、エレンに意見する。
「お嬢様、ここで待ちましょう。アリスさんの判断が正しい」
エレンは深く息を吸い、覚悟を決めて頷いた。
「……分かった。気を付けてね」
次郎は静かに答えた。
「ああ。すぐに戻る」
次郎はリボルバーを、クレアは拳銃を構えて階段を降りる。
足音を殺し、一段ずつ慎重に。
やがて階段室一階の扉へ辿り着く。
次郎は耳を扉に当てる。
外から物音は聞こえない。
クレアへ目配せすると、彼女も頷き、拳銃を構えて扉の横に立つ。
次郎はゆっくりと、階段室の扉を静かに開いた。
廊下は薄暗く、懐中電灯の光だけが床を細く照らしている。
そのまま一歩踏み出すと――
通路の奥に食堂の入口があり、左手前には食堂と隣接する厨房の扉が見える。
次郎は手を上げ、クレアへ合図した。
「俺は食堂を確認する。クレアは厨房を頼む」
クレアは即座に頷き、拳銃を構え直す。
「了解。終わったらそっちに向かうわ」
次郎はリボルバーを構え、食堂の扉へ向かう。
クレアは厨房の扉の横へ身を寄せ、慎重にドアノブへ手を掛けた。
二人は互いに視線で合図を交わし、同時に動いた。
途中で気づかれないかとヒヤヒヤでしたが、タワーディフェンスゲームと思わせて、屋敷からの脱出です。
どういう経緯で屋敷内で感染が発生したのかについては後々判明します。