食堂の扉はわずかに開いていた。
次郎は隙間から内部を覗き込む。
中央付近に感染者が一名。
まだこちらには気付いていない。
次郎はリボルバーをホルスターに収め、懐からコンバットナイフを抜いた。
感染者に気づかれないように扉の隙間を広げ、影のように食堂へ忍び込むとテーブルの陰を滑るように移動する。
感染者は何もせず棒立ちしており、背後は完全に無防備だった。
一歩ずつ、距離を縮めていく。
次郎は腕を伸ばし、左手で感染者の襟首を掴んで引き寄せると同時、喉元へナイフを深く滑り込ませた。
感染者は声にならない呻きを漏らし、数秒の痙攣の後、静かに崩れ落ちた。
血の音すら最小限に抑える。
「クリア」
次郎は倒れ伏した感染者の衣服でナイフの血を拭い落とす。
その数秒後、食堂の入口からクレアが合流する。
「厨房は問題なしよ」
「食堂もだ」
二人は頷き合い、食堂奥へ向かった。
食堂の奥には、玄関ホールへ通じる大型シャッターがある。
普段は開け放たれているが、緊急時には閉じて屋敷を区画するための設備だ。
次郎は壁際にある古い操作盤へ視線を向けた。
金属製のレバーと手動スイッチが並ぶ、年代物の制御装置だった。
「クレアはシャッターを閉める準備を」
「了解」
クレアは玄関ホールから見えないように操作盤の前へ移動し、手動レバーへそっと手を掛けた。
次郎はアサルトライフルを構え、クレアと反対側の物陰に身を隠す。
次郎が小さく合図を送る。
クレアは深く息を吸い、レバーを力強く引き下ろした。
ガガガガガッ――!
重いシャッターが、手動操作特有の鈍い駆動音を響かせながらゆっくりと降り始める。
その音に反応したのか、玄関ホールの奥から複数の感染者が一斉に振り向き走り出した。
感染者たちがシャッターへ向かって突進してくる。
シャッターが閉まりきるまで、あと数秒。
次郎は物陰から身を乗り出し、アサルトライフルを連射した。
――タタタッタタタッタタタタッ!!
突進してくる感染者の頭部を正確に撃ち抜いていく。
シャッターは残り三分の一。
「まだか……!」
クレアは必死にレバーを押し込み続けている。
電動ではないため、完全に閉じるまで力を抜けない。
――タタタッ!
最後の一体が倒れた瞬間――
ガシャンッ!!
屋敷全体が震えるほどの音を立てて、手動シャッターが完全に閉じた――
ドンッ!!
内側の空気が震えるほどの衝撃音が響いた。
続いて、 ドンッ!
ドンドンドンッ!!
複数の感染者が、閉じられたシャッターへ体当たりしているのが分かった。
金属板がわずかにたわむが、歪む気配はない。
「大丈夫かしら……」
クレアが低く呟く。
次郎はシャッターの厚みを一瞥し、静かに言った。
「問題ない。ここのシャッターは屋敷でも最も強度が高い。破られる心配はない」
それでも、外側から叩きつけられる音は止まらなかった。
ガアアアアアッ!!
獣のような叫び声が金属越しに響き、シャッター全体が震える。
クレアは思わず肩をすくめる。
「すごい音……」
次郎は冷静に答えた。
「隔離されたのが分かって暴れているだけだ。いずれ諦める」
やがて、叩きつける音は徐々に遠ざかり、シャッターの向こう側で感染者たちが徘徊する足音だけが残った。
「……よし」
次郎はアサルトライフルを下ろし、クレアへ向き直る。
「玄関ホールは完全に隔離できた。二人を呼びに行こう」
二人は食堂を出て廊下を戻り、階段室の扉をノックする。
「安全を確保した。出てきていい」
扉が開き、エレンが安堵した表情で姿を現す。
「本当に…?」
「玄関ホールは完全に隔離した。厨房もクリアだ」
執事長も胸を撫で下ろす。
「さすがでございます……」
次郎は三人の様子を静かに見渡した。
エレンは肩で息をしており、執事長も額の汗を拭いながら呼吸を整えている。
クレアはまだ動けるが、緊張の連続で集中力が落ち始めていた。
次郎は短く判断を下した。
「では、一度休憩しよう」
三人が顔を上げる。
「玄関ホールは完全に隔離した。食堂も厨房も安全だ。 階段室は鍵も掛かっている。今ならまとまった休息が取れる」
エレンは壁にもたれ、深く息を吐いた。
「……助かるわ……」
執事長も静かに頷く。
「申し訳ございません……お気づかいを……」
「気にするな」
次郎は首を横に振った。
「疲れたまま進む方がよほど危ない」
次郎は腕時計へ目を落とす。
「交代で見張りをしながら一時間休む。行動再開はそれからだ」
四人は階段室の壁際へ腰を下ろし、それぞれ静かに呼吸を整え始めた。
屋敷の奥から響く感染者の唸り声だけが、遠くで微かに揺れていた。
一時間が経過した。
食堂エリアには静寂が戻り、四人は交代で見張りを続けながら体力を回復させていた。
次郎は腕時計を確認し、ゆっくりと立ち上がる。
「……行動再開する」
エレンと執事長も姿勢を正し、クレアは拳銃を構え直した。
次郎は三人を見渡し、短く指示を出す。
「まずは厨房へ向かう。クレアが一度確認しているが、念のため俺も見ておく」
全員が頷く。
次郎を先頭に、四人は階段室の扉へ向かった。
内鍵を静かに外し、扉をわずかに開ける。
廊下は薄暗く、感染者の気配はない。
「行くぞ」
次郎が低く告げる。
四人は一列になり、足音を殺しながら廊下を進む。
すでにクレアが確認した厨房は、階段室のすぐ向かいにあった。
次郎は扉の前で立ち止まり、耳を当てる。
物音はない。
ゆっくりとドアノブを回し、慎重に扉を押し開けた。
調理器具が散乱し、割れた皿が床に転がっている。
しかし――感染者の姿はなかった。
次郎は裏口、窓際、冷蔵庫の影まで一つずつ確認する。
「クリアだ」
エレンと執事長が安堵の息を漏らす。
次郎は厨房の奥にある重厚な木製の扉へ視線を向けた。
「食品保管庫へ向かう。ここから先が本番だ」
厨房の奥には、食品保管庫へ続く重厚な木製の扉があった。
エレンが安堵したように頷く。
「この先よ」
次郎は扉の前へ進み、ドアノブを握る。
ゆっくりと引く。
……動かない。
もう一度力を込めるが、扉は開かなかった。
「鍵が掛かっているな」
執事長の表情が強張る。
「そんな! ここは備蓄倉庫でもありますので、普段は開いているはずです」
次郎はそっと目を閉じ、扉の向う側の気配を探った。
人の気配は感じない。
物音も、呼吸も、微かな動きすらない。
それを確認してから、次郎はゆっくりと扉へ顔を近づける。
鍵穴を覗き込む。
特殊な構造の錠前だった。
この屋敷の鍵は独自の仕組みで造られており、一般的なピッキングでは解錠できない。
次郎は顔を上げる。
「この扉の鍵はどこにある?」
執事長は申し訳なさそうに答えた。
「……使用人ホールの壁に吊るしてあります」
エレンが苦い表情を浮かべる。
「使用人ホール……玄関ホールの向こう側ね」
クレアは肩をすくめた。
「さすがにあそこを通るのは…無理ね」
「いえ」
執事長は首を横に振る。
「もしかすると、感染者を避けて行けるかもしれません」
三人が執事長を見る。
「リネン室の奥に、今は使われなくなった連絡通路があります」
「そこを通れば、使用人ホールまで直通で行けます」
次郎はしばらく考え込んだ。
使用人ホールへ向かう手段があるのなら、玄関ホールを突破するよりは遥かに現実的だ。
「その連絡通路は、今も通れるのか?」
執事長は力強く頷く。
「はい。私が若い頃に一度だけ通ったことがあります。使用人が主人の目に触れず屋敷内を行き来するための通路です」
「今は封鎖されていますが、構造そのものは残っているはずです」
エレンが記憶をたどるように目を細めた。
「そういえば、亡くなったお父様から聞いたことがあるわ。増築した時に使われなくなったって」
クレアが周囲へ視線を巡らせる。
「リネン室まで安全に行ければ、感染者と戦わずに済む可能性があるってことね」
「そういうことだ」
次郎は短く答えた。
「無駄な戦闘は避けよう」
リボルバーのシリンダーを開き、残弾を確認する。
十分な弾薬は補充したものの、この屋敷にはまだ相当な数の感染者がいる。
一発たりとも無駄にはできない。
シリンダーを閉じると、次郎は執事長へ向き直った。
「案内を頼む」
「承知しました」
執事長は厨房へ戻る扉を指差す。
「厨房を出て、すぐの向かいにリネン室があります」
次郎は頷くと、静かに厨房の入口を出る。
左右に感染者の姿はない。
「行くぞ」
四人は一列になって厨房を後にする。
先頭を次郎、最後尾をクレアが務め、その間をエレンと執事長が続く。
薄暗い廊下を、一歩ずつ慎重に進んでいった。
厨房の向かいにあるリネン室の扉は施錠されていたが、執事長が厨房で鍵を回収してくれていた。
次郎は解錠した扉を開けて銃口を先に向けると、室内を素早く確認する。
棚には畳まれたシーツやタオルが整然と積まれ、感染者の姿はない。
「入るぞ」
四人は静かにリネン室へ足を踏み入れた。
執事長は迷うことなく部屋の一番奥へ向かう。
そこには壁と見間違えるほど目立たない、小さな木製の扉があった。
「この先が連絡通路です」
次郎がドアノブを握る。
回らない。
力を加えても、扉はまったく動かなかった。
「……こっちも鍵か」
その瞬間、執事長の表情が曇る。
「申し訳ございません……」
力なく肩を落とし、自分を責めるように俯いた。
「私としたことが……失念しておりました」
「この通路は長年使われておりません。使用人が誤って入り込まないよう、施錠されていたのです」
エレンも小さく息をつく。
せっかく見つけた活路が、また閉ざされた。
重苦しい沈黙が流れる。
しかし、その静寂を破ったのは次郎だった。
「いや」
三人が顔を上げる。
次郎は鍵穴をじっと見つめる。
「これは普通のシリンダー錠だ」
他の場所の特殊な錠前とは違う。
構造も一般的なもので、専用の特殊鍵ではない。
次郎はクレアへ視線を向けた。
「クレア。周囲の警戒を頼む」
「任せて」
クレアはすぐに拳銃を構え、リネン室の入口へ移動する。
廊下へ意識を向け、一切の物音を聞き逃さないよう耳を澄ませた。
次郎はジャケットの右内ポケットへ手を入れる。
取り出したのは、小さな革製のケースだった。
ケースを開くと、細い金属製のピックとテンションレンチが整然と収められている。
執事長が目を丸くした。
「まさか……」
次郎は答えず、テンションレンチを鍵穴へ差し込む。
続いて細いピックを静かに挿入した。
指先へ神経を集中させる。
カチ……。
小さな手応え。
さらに一本。
また一本。
内部のピンが順番に持ち上がっていく感触が指先へ伝わる。
部屋には金属が触れ合う微かな音だけが響いていた。
やがて――
コトッ。
錠前の内部で小気味よい音が鳴る。
次郎はゆっくりとドアノブを回した。
今度は抵抗なく動く。
音を立てないよう慎重に扉を引くと、長年閉ざされていた連絡通路が静かにその姿を現した。
連絡通路は人一人がようやく通れるほどの幅しかなかった。
長年使われていなかったため、床や壁には薄く埃が積もり、天井には蜘蛛の巣が張っている。
次郎を先頭に、四人は一列となってゆっくりと進んだ。
足音を殺し、懐中電灯の明かりも足元だけを照らす。
誰も口を開かない。
狭い通路には、自分たちの呼吸だけが微かに響いていた。
やがて通路は突き当たりに行き着く。
そこには、使用人ホールへ続く木製の扉があった。
執事長が小声で告げる。
「この扉です」
次郎は耳を当てる。
外から物音は聞こえない。
静かに内鍵へ手を伸ばし、ゆっくりと解錠した。
カチリ――。
わずかな音を立てて鍵が外れる。
次郎はクレアへ目配せする。
クレアは拳銃を構え、すぐ横で援護の体勢を取った。
ゆっくりと扉を押し開く。
使用人ホールは静まり返っていた。
感染者の姿はない。
だが、安全というわけではなかった。
床には使用人たちの遺体があちこちに横たわり、乾き始めた血が床板を黒く染めている。
倒れたワゴンや散乱した食器、壁に飛び散った血痕が、この場所でも凄惨な惨劇が起きたことを物語っていた。
次郎は周囲を油断なく見回す。
動くものはない。
クレアも拳銃を構えたまま、物陰や廊下の先まで視線を巡らせる。
「……クリア」
四人は静かに使用人ホールへ足を踏み入れた。
次郎は使用人ホールへ入ると同時、奥にある玄関ホールへ通じる大扉の手前へ移動した。
ほんのわずかだけ顔を出して廊下の先を覗く。
玄関ホールへ続く長い廊下は薄暗く、手前の区画には感染者の姿はなかった。
遠くから荒い呼吸や足音は聞こえるが、使用人ホールから見える位置までは誰も来ていない。
視界に入る範囲は静まり返っていた。
「……今ならいけるな」
次郎は静かに扉を閉じた。
重い扉をゆっくりと引き寄せる。
――ギィ……ギィ……。
年季の入った蝶番が軋む音が、使用人ホールに低く響く。
扉が完全に閉じきると、内側の閂を静かに下ろした。
カチリ。
乾いた金属音が広い空間に小さく反響する。
「よし。背後は塞いだ。ここはひとまず安全だ」
次郎の言葉を聞くと同時に執事長は壁際へ駆け寄る。
そこには大小さまざまな鍵が整然と吊るされていた。
執事長は一つひとつ札を確認していく。
厨房。
ワインセラー。
応接室。
客室。
書斎。
地下倉庫。
しかし――
その手が止まった。
一箇所だけ、金具が空になっている。
食品保管庫。
そこだけ、鍵が吊るされていなかった。
執事長の顔から血の気が引く。
「……鍵が……ない!?」
次郎は空になった金具を見つめ、静かに言った。
「こうなると、屋敷中を探す事になるかもな」
クレアは思わず声を漏らす。
「嘘でしょ?」
その呟きが、静まり返った使用人ホールへ消えていく。
誰も続けて言葉を発しなかった。
次郎はゆっくりと視線を落とす。
床には、無残な姿となった使用人や警備員たちが横たわっていた。
見覚えのある顔ばかりだった。
朝に挨拶を交わした者。
食事を運んでくれた料理人。
屋敷を守っていた警備員。
皆、この数時間で感染者に襲われ、そして命を落とした。
次郎は静かに息を吐く。
「……エレン、クレア」
二人が顔を向けた。
「ここへ来るまで、俺は無意識に戦闘を避けていた」
「感染者になっても、相手は昨日まで一緒に暮らしていた仲間だ」
「だから、必要以上には撃ちたくなかった」
エレンは悲しげに亡骸を見つめる。
その気持ちは痛いほど分かった。
この屋敷で働く使用人たちは、幼い頃から自分を支えてくれた大切な存在だった。
次郎はリボルバーを握る手に力を込める。
「だが、その甘さはここまでだ」
静かな声だった。
だが、その決意に迷いはない。
「これから先は、感染者を見つけたら躊躇なく撃つ」
「知っている相手でも変わらない」
「迷えば、死ぬのは俺たちだ」
クレアは静かに頷く。
「……ええ」
その言葉の重さを、誰よりも理解していた。
ラクーンシティでも同じ決断を繰り返してきたからだ。
エレンはゆっくりと目を閉じる。
数秒後、覚悟を決めたように拳銃を握り直した。
「分かったわ」
「私も、もう迷わない」
次郎は小さく頷く。
「必ず生きてここを出よう」
「そのためなら、情は捨てる」
静まり返った使用人ホールに、その言葉だけが重く響いた。
誰も異論はなかった。
生き残るためには、前へ進むしかない。
本来の次郎の計画ではタワーディフェンスが始まって戦線を維持できなくなったら玄関を封鎖して食品保管庫から脱出する予定でした。