本日二度目の投稿です。
バーニーが死んだ。
その報告を聞いた瞬間、彼女の世界は止まった。
執事長が静かに頭を下げる。
エレンを守るため犠牲になったこと。
その亡骸すら戻られなかったこと。
使用人たちは皆、涙を流していた。
彼女も泣いた。
声にならない嗚咽を漏らしながら、ただ俯き続けた。
誰にも知られていない恋だった。
エレンの専属運転手とメイドの恋。
屋敷の規律もあり、人前ではほとんど会話すら交わせなかった。
それでも、誰もいない庭園で他愛もない話をする時間が好きだった。
「この騒ぎが終わったら、少し休暇をもらおう」
「その時は町へ行こう」
そう約束したのは、ほんの十日程前のことだった。
もう、その約束が果たされることはない。
彼女は人気のない廊下で泣き続けた。
どれだけ涙を流しても、現実は変わらない。
やがて、廊下の向こうから声が聞こえてきた。
「皆さん、落ち着いてください」
エレンだった。
不安に震える使用人たちの前に立ち、一人ひとりへ声を掛けている。
「今は皆で力を合わせましょう」
「必ず乗り越えられます」
優しく、それでいて気丈な笑顔だった。
彼女はその姿を見つめる。
胸の奥で何かが軋んだ。
――どうして。
――どうして、そんな顔でいられるの。
理不尽だということは分かっていた。
エレンは何も悪くない。
バーニーは自らの意思で主人を守り、命を懸けた。
誰のせいでもない。
それでも。
それでも彼女の心は、行き場のない悲しみをどこかへ向けずにはいられなかった。
その日の夕方。
彼女は廊下の角で足を止めた。
警備主任と他の警備員が話している。
「感染者には絶対に近づくな」
「血液にも感染力がある。傷口だけじゃない。目や口から入っても感染するそうだ」
警備主任は真剣な表情で語っている。
彼女は物陰から、その会話を最後まで聞いていた。
血液でも感染する。
その言葉だけが頭の中で繰り返される。
翌日。
裏門付近で射殺された感染者は、すぐには回収されなかった。
非常電源が尽きた頃、警備員が巡回で通り過ぎたタイミングを見計らい、彼女は小さな注射器を持って門の外へ出る。
恐る恐る感染者へ近づく。
腐臭が鼻を突いた。
震える手で血液を吸い上げる。
赤黒い液体が注射器を満たした。
普通なら逃げ出していた。
だが、もう恐怖を感じる心は残っていなかった。
その夜。
屋敷は静寂に包まれていた。
時計の針は午前二時を回っている。
長い一日を終え、使用人たちは皆、自室で眠りについていた。
彼女は静かにベッドから起き上がる。
同室の使用人たちの寝息だけが部屋に響いていた。
枕の下から、小さな注射器を取り出す。
昼間に採取した感染者の血液が、赤黒く揺れている。
「……バーニー」
涙が一粒、手の甲へ落ちた。
「もう、一人は嫌」
「私もあなたのいる所に」
袖をまくり、腕へ針を当てる。
ほんの一瞬だけ迷う。
だが、その迷いもすぐに消えた。
ゆっくりと血液を体内へ流し込む。
空になった注射器が床へ転がった。
最初は何も起こらなかった。
十秒が過ぎた頃、全身が焼けるような熱に包まれた。
心臓が激しく脈打ち、息が苦しくなる。
視界が赤く染まり、全身を引き裂かれるような激痛が走る。
彼女は床へ倒れ込み、声にならない苦鳴を漏らしながら必死にもがいた。
そして――。
ゆっくりと立ち上がった彼女の瞳は、すでに充血し、人間の理性は失われていた。
隣のベッドでは、同室の使用人たちが何も知らず眠っている。
喉の奥から獣のような唸り声が漏れた。
「……ア」
次の瞬間。
「アアアアアアッ!!」
深夜の静寂を切り裂く絶叫とともに、彼女は最も近くで眠る使用人へ飛び掛かった。
眠っていた使用人は悲鳴を上げる暇もなかった。
彼女は獣のような力で相手をベッドへ押し倒し、喉元へ食らいつく。
飛び散る鮮血。
静まり返っていた部屋に、押し殺された悲鳴が響く。
「ん……っ、ぁ……!」
物音で目を覚ました別の使用人が身体を起こした。
「どうしたの?」
暗闇の中、何が起きているのか分からない。
ランタンに火を灯そうと手を伸ばした、その時だった。
炎が小さく揺らめき、部屋が淡く照らされる。
そこには、血に染まったメイドの姿があった。
「え……?」
彼女の足元には、倒れた同室の使用人。
そして、その肩口へ噛み付き続ける彼女。
ゆっくりと顔が上がる。
口元から血を滴らせ、充血した瞳がこちらを見据えていた。
「い……いや」
震える声が漏れる。
次の瞬間、感染者となった彼女が飛び掛かった。
「きゃああああっ!」
その悲鳴が、静まり返っていた屋敷を切り裂いた。
廊下を巡回していた使用人が駆け付ける。
勢いよく扉を開けた彼は、目の前の惨状に言葉を失った。
床一面に広がる血。
倒れた使用人。
そして、なおも人へ襲い掛かる感染者たち。
「な、何が――」
最後まで言葉は続かなかった。
部屋から飛び出した感染者が巡回中の使用人へ飛び掛かり、そのまま床へ押し倒す。
絶叫が廊下へ響き渡る。
隣室の扉が次々と開いた。
「何事だ!」
「今の悲鳴は何だ!」
眠りから覚めた使用人たちが顔を出す。
だが、それは新たな犠牲者を増やすだけだった。
感染者は一人を襲い、その数秒後には襲われた者もまた立ち上がる。
理性を失った瞳で、新たな獲物へ向かって走り出す。
廊下は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄と化した。
無線を持った使用人が震える手で警備室へ連絡を入れる。
「こちら使用人部屋! た、助けてください! みんな、おかしく――」
その瞬間、背後から感染者が飛び掛かる。
無線機が床へ転がり、激しい雑音が流れた。
それを受けた警備員たちは直ちに現場へ急行する。
しかし、彼らが使用人部屋へ到着した時には、感染はすでに廊下全体へ広がっていた。
発砲音。
怒号。
悲鳴。
感染者は撃ち倒されるが、その間にも新たな感染者が生まれていく。
やがて戦線は玄関ホールへ後退し、屋敷全体が混乱へ飲み込まれていった。
この時すでに、惨劇を止められる者は誰一人としていなかった。
警備室では無線が鳴り止まなかった。
『使用人部屋が突破された!』
『応援を! 応援を頼む!』
『噛まれるな! 取り押さえろ!』
怒号と悲鳴が入り混じり、誰も全体の状況を把握できなくなっていた。
警備主任は拳銃を握り締める。
「一階西側を封鎖しろ!」
「感染者を玄関ホールへ近付けるな!」
命令を受けた警備員たちは一斉に駆け出した。
しかし、すでに手遅れだった。
使用人部屋から溢れ出した感染者は廊下を埋め尽くし、助けを求めて逃げ惑う使用人たちを次々と襲っていく。
発砲音が響く。
一体を撃ち倒すが、その背後から新たな感染者が飛び出してくる。
数では圧倒的に警備員が不利だった。
「くそっ!」
乾いた銃声が夜の屋敷へ何度も響く。
撃ち倒した感染者を飛び越え、さらに別の感染者が飛び掛かる。
銃を持つ腕が押さえ込まれ、悲鳴が上がった。
その悲鳴は、新たな感染者を呼び寄せる。
使用人ホール。
玄関ホール。
厨房。
屋敷のあらゆる場所で同じ惨劇が繰り返されていた。
わずか数分。
それだけの時間で、屋敷の秩序は完全に崩壊した。
「一階西側を封鎖しろ!」
警備主任の怒号が玄関ホールへ響く。
警備員たちは散開し、迫り来る感染者へ発砲を続けていた。
乾いた銃声。
怒号。
悲鳴。
館内は完全に戦場と化していた。
「主任!」
一人の部下が肩を押さえながら駆け寄ってくる。
制服は血に濡れていた。
「噛まれたのか!」
「だ、大丈夫です……かすっただけです」
部下は息を切らしながら答えた。
主任は一瞬だけその顔を見つめる。
感染しているかは分からない。
だが今は判断している余裕などなかった。
「無理をするな。下がれ」
「……はい」
部下は小さく頷いた。
その直後だった。
「しゅ、主任」
呼び掛ける声に振り向く。
部下は俯いたまま立っていた。
肩が小刻みに震えている。
「どうした?」
返事はない。
ゆっくりと顔を上げた。
充血した瞳。
見開かれた眼。
理性を失った表情。
「……お前」
言葉が終わるより早く、部下が警備主任へ飛び掛かった。
拳銃を持つ腕を弾き飛ばし、そのまま両手で主任の首を締め上げる。
「ぐっ……!」
主任は必死に振りほどこうとする。
だが感染によって異常な膂力を得た部下の指は、万力のように首へ食い込んでいた。
「目を……覚ませ……!」
その叫びは届かない。
部下の表情には何の反応もなかった。
やがて主任の膝が崩れる。
その瞬間を待っていたかのように、周囲の感染者たちが一斉に押し寄せた。
主任は最後まで抵抗した。
しかし、多勢に無勢だった。
館内には銃声だけが虚しく響き、やがてそれも途絶えた。
警備主任が再び立ち上がることは、もうなかった。
どれほどの時間が経ったのか。
屋敷を埋め尽くしていた悲鳴は、いつしか途絶えていた。
廊下には倒れた使用人や警備員が転がり、あちこちに鮮血が広がっている。
生きている者の姿は、もうほとんどなかった。
感染者たちは館内をさまよい、新たな獲物を探していた。
しかし、いくら歩き回っても見つからない。
やがて一体、また一体と足を止める。
獲物がいない。
その事実だけを理解し、再び当てもなく歩き始める。
その中に、一人の女がいた。
最初に感染したメイドだった。
血で汚れたメイド服。
乱れた髪。
充血した瞳。
その足取りだけは、他の感染者とはどこか違っていた。
ふらつきながらも、何かを探すように館内を歩き続ける。
玄関ホール。
二階の廊下。
応接室。
主人の私室。
どこにもいない。
喉の奥から低いうなり声が漏れる。
「ァ……ァ……」
薄れかけた意識の奥底。
そこには、たった一つの感情だけが燃え残っていた。
――エレン。
――どうして、お前だけ。
理性は消えた。
言葉も失った。
それでも、その憎悪だけは本能のように身体を動かしていた。
館内を一巡しても、エレンの姿は見つからない。
やがて彼女はゆっくりと玄関へ向きを変えた。
扉を開けると、夜風が勢いよく吹き込む。
充血した瞳が闇の向こうを見つめる。
「アァ……」
獣のようなうなり声を漏らすと、彼女は一歩、また一歩と屋敷の外へ足を踏み出した。
夜の森は静まり返っていた。
その闇の中へ、ただ一つの執念だけを胸に宿した感染者は、ゆっくりと姿を消していった。
これらの事実をエレンたちは生涯、知ることは無い。
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