本日一度目の投稿です。
森の奥へと続く獣道を、三人は黙って歩いていた。
屋敷を離れてから、まだ数時間しか経っていない。
だが、振り返れば屋敷の姿は木々に遮られ、もう見えなくなっていた。
次郎は立ち止まり、双眼鏡で周囲を確認する。
異常はない。
人の気配も、感染者の姿も見当たらない。
「ここで少し休もう」
二人は小さく頷いた。
木の根元へ腰を下ろすとエレンは、ようやく大きく息を吐く。
「疲れた?」
クレアが水のボトルを差し出す。
「いいえ」
エレンは苦笑した。
「疲れたっていうより……まだ信じられなくて」
少しだけ俯く。
「屋敷のみんなが、あんなことになるなんて……」
クレアも返す言葉がなかった。
屋敷を出る時に見た惨状が脳裏を離れない。
笑顔で迎えてくれた使用人たち。
庭を手入れしていた庭師。
気さくに話しかけてくれた警備員。
その全員が感染し、襲い掛かってきた。
次郎は静かに地図を広げる。
「今日は森を抜けず、このまま北西へ進もう」
赤いペンで一本の線をなぞる。
「大きな道路は使わない」
「感染者が集まっている可能性が高いから?」
クレアの問いに頷く。
「それだけじゃない」
「道路は車が放棄されている可能性が高い。逃げ場がなくなる」
「森の方が時間は掛かるが、生き残る確率は高い」
二人に異論はなかった。
歩き始めてから数時間後。
日はゆっくりと西へ傾き始める。
野鳥の鳴き声だけが森へ響いていた。
「今日はここで休もう」
次郎が見つけたのは、小さな狩猟小屋だった。
窓ガラスは割れていたが、屋根は残っている。
中を確認する。
感染者はいない。
食料もほとんど残っていなかったが、雨風は凌げそうだった。
エレンはほっと息を吐く。
「ベッドまである」
埃を被った簡素な寝台だったが、それでも地面で眠るより遥かにましだった。
三人は手早く入口を塞ぎ、小屋の中で缶詰を分け合う。
今日の食事は、それだけだった。
「ごめんなさい」
エレンが申し訳なさそうに呟く。
「私、何もできなくて……」
「気にしなくていい」
次郎は缶詰を開けながら答えた。
「食料は途中で補給する」
「今は生き残ることだけ考えろ」
クレアも微笑む。
「そうよ。遠慮して倒れられた方が困る」
その言葉にエレンも少しだけ笑顔を見せた。
夜。
三人は小屋の中で簡単に食事を済ませると、それぞれ寝台や床へ腰を下ろした。
クレアとエレンは、これからの見張りについて話していた。
「前みたいに三人で交代しながら休みましょう」
クレアが提案する。
「一人が見張っている間に、残り二人が眠る。それなら少しは休めるわ」
エレンも頷いた。
「私も見張るわ」
次郎は入口付近へ腰を下ろし、外の暗闇へ視線を向けながらクレアたちの言葉を聞いていた。
「いや、二人とも寝てくれ」
クレアが眉をひそめる。
「でも、交代で見張るつもりだったでしょう?」
「ああ」
次郎は頷く。
「そのつもりだったが、二人とも限界だろ」
そして二人へ振り返る。
エレンが何か言おうとする。
しかし、次郎は静かに続けた。
「屋敷を出てから、まともに休めていない」
「精神的にも身体的にもかなり消耗しているはずだ」
「だから、今夜はしっかり寝てくれ」
クレアは次郎の顔を見つめる。
「じゃあ、アリスは一晩ずっと見張ってるの?」
「ああ」
次郎はリボルバーの状態を確認する。
「俺は数日程度は眠らなくても問題ない」
クレアとエレンは反論しようとしたが、結局何も言えなかった。
二人が限界なのは事実だった。
静かな夜だった。
時折、遠くから獣の鳴き声のようなものが聞こえる。
それが動物なのか、感染者なのかも分からない。
エレンは目を閉じてもあまり眠れなかった。
瞼の裏に浮かぶのは屋敷の光景ばかりだった。
次郎は一晩中、一度も姿勢を崩さず見張りを続けた。
そして翌朝。
冷たい朝露が草を濡らしていた。
三人はわずかな水で顔を洗い、再び歩き始める。
旅の二日目。
朝のうちは順調だった。
森を抜けた先に、小さなガソリンスタンドが見えてくる。
屋根の一部は崩れ、給油機も横倒しになっていたが、建物自体はまだ原形を留めている。
次郎は双眼鏡で周囲を確認した。
「中を調べよう」
三人は互いに死角を補いながら店内へ入った。
商品棚を手分けしながら、一つずつ確認していく。
床には割れた瓶が散乱している。
レジの近くには乾いた血痕だけが残っていた。
「こっちは何もない」
クレアが棚を調べながら言う。
「こっちも……」
エレンも肩を落とした。
その時だった。
遠くから、激しい足音が聞こえてきた
何かが全力で走っている。
次郎が入口へ振り返る。
足音は、こちらへ一直線に近づいてくる。
「来るぞ」
直後。
正面入口から一体の感染者が飛び込んできた。
ほぼ同時に、窓ガラスを突き破って二体。
三人が一斉に銃を構える。
次郎とクレアがそれぞれ一体へ狙いを定め、頭部を撃ち抜く。
残った一体をエレンが狙い、引き金を引いた。
パンッ!
銃弾は狙いを外れ、感染者の右肩へ命中する。
だが、感染者は止まらずエレンに狙いを定める。
エレンはもう一度引き金を引く。
パンッ!
今度は左足首へ命中した。
感染者の身体がわずかによろめくが、それでも倒れずエレンに飛びかかろうとした瞬間。
パンッ!
次郎のリボルバーが火を吹いた。
感染者の頭部が撃ち抜かれ、その場へ崩れ落ちる。
銃声が止み、店内に静寂が戻った。
三人はしばらく銃を構えたまま、周囲を警戒する。
「これだけみたいだな」
次郎は頷いて、リボルバーをホルスターへ収める。
それから三人は店内を改めて調べる。
棚の奥から缶詰が数個。
飲料水もいくらか残っていた。
それらを回収し、店を出る。
エレンは歩きながら、先程の戦いを振り返る。
肩と足首。
二発とも当たった。
それでも、感染者を止めることはできなかった。
次郎が最後に撃たなければ、どうなっていたか分からない。
エレンは何も言わず、ただ拳銃を握る手へ少しだけ力を込めた。
クレアはその様子を横目で見ていた。
何か考えているようだが、本人が話したくないことも分かった。
次郎も気付いていた。
それでも二人とも何も言わない。
エレン自身が、自分の中で答えを見つけるまで待つ。
それで十分だった。
次郎は昨夜と同じように木にもたれ、リボルバーを膝へ置いた。
「今日は私が前半を見張るわ」
クレアが言う。
「アリスは昨日寝てないでしょ」
次郎は少しだけ考え、小さく頷いた。
「分かった。先に寝させてもらう」
クレアは拳銃を手元へ置き、周囲を警戒する。
次郎は寝袋へ横になったものの、眠りは浅かった。
物音がするたび、すぐに目を開く。
暗殺者として染み付いた習慣は、簡単には消えなかった。
数時間後。
予定どおり見張りを交代すると、クレアは短い眠りにつく。
次郎は周囲を警戒しながら、東の空が白み始めるのを見て小さく息を吐いた。
旅の三日目。
朝の森には白い朝靄が立ち込めていた。
三人は朝食代わりにビスケットを一枚ずつ口へ運み、水で流し込む。
それだけで食事を終えた。
「行こう」
次郎を先頭に、再び森の中を進み始める。
昼前。
森を抜けた先に、小さな農場跡が見えてきた。
納屋と住宅が一軒。
周囲には放置されたトラックや、朽ち始めた農機具が残されているが、人の気配はない。
次郎は双眼鏡を下ろし、農場全体を見渡した。
「まずは納屋を確認する」
クレアが頷く。
「分かったわ」
エレンも拳銃を確認した。
三人は納屋へ向かった。
扉は半開きになっている。
次郎が先に入り、懐中電灯で内部を照らす。
三人は離れすぎず、互いの死角を補いながら内部を一つずつ確認していく。
棚の裏。
作業台の下。
奥の物置。
すべて確認する。
感染者はいない。
「ここは大丈夫だ」
「次はあっちね」
クレアが住宅へ視線を向ける。
三人は納屋を出て、住宅へ向かった。
玄関扉は開いたままだった。
次郎が先に入り、クレアとエレンが続く。
玄関を抜け、居間へ入る。
次郎の懐中電灯が部屋の奥を照らした。
ソファの脇に、一人の男が立っている。
血で汚れたシャツ。
乱れた髪。
その顔には生気がなく、目は赤く充血している。
視線が三人を捉える。
「……アア……」
次郎が銃口を向けた。
男が咆哮を上げる。
「アアアアアアッ!」
一直線に駆け出そうとする。
パンッ!
次郎のリボルバーが火を吹き、銃弾が男の頭部を撃ち抜く。
男はその場で崩れ落ちた。
その直後。
廊下の奥から足音が響き、勢いよく扉が開いた。
女が姿を現した。
同時に、二階の子供部屋から少年も飛び出してくる。
女の視線がエレンを捉え、一直線に走ってくる。
エレンは拳銃を構えた。
女が迫る。
「……っ!」
引き金を引いた。
パンッ!
銃弾は狙いを外れ、肩へ命中した。
エレンの表情が強張る。
また外した。
女は止まらない。
そのままエレンへ向かって突進してくる。
パンッ!
次郎の放った銃弾が女の側頭部を撃ち抜く。
女が横へ倒れ込んだ。
少年が猛スピードで階段を降りてくる。
次郎はすぐに子供へ視線を向ける。
「クレア」
「ええ」
クレアが銃を構える。
パスッ!
頭部へ一発。
少年も床へ倒れた。
静寂が戻る。
三人は銃を構えたまま周囲を確認する。
やがて次郎が銃口を下ろした。
「終わったな」
クレアも周囲を確認する。
「他に気配はなさそうね」
エレンは何も言わなかった。
ただ、自分が撃った女の肩を見つめている。
昨日と同じだった。
クレアはそんなエレンの横顔を見た。
そして、昨日から続いている変化に気付いた。
昨日よりも、明らかに表情が硬い。
次郎も気付いていた。
だが、二人とも何も言わない。
エレンが自分から話さない以上、無理に聞き出す気はない。
次郎は静かに周囲に視線を巡らせる。
「探索を続けよう」
「ええ」
三人は住宅内を調べ始めた。
その途中、居間の壁に掛けられた家族写真が目に入る。
父親。
母親。
幼い息子。
三人とも笑っている。
クレアが写真を見つめた。
「……家族だったのね」
次郎は答えなかった。
写真と、床に倒れた三人。
その落差だけが、重く残った。
エレンも写真を見つめたが、何も言わなかった。
やがて次郎は台所へ向かった。
棚を一つずつ開けていく。
奥から缶詰が数個出てきた。
さらに別の棚には、塩、黒胡椒、乾燥ハーブ、食用油が残されている。
「調味料もあるわね」
クレアが覗き込む。
「ああ。貰っていこう」
次郎は順番に手に取り袋へ詰めていく。
その隣の収納からは、比較的新しいフライパンも見つかった。
次郎は状態を確認する。
「これも使えるな」
「料理するつもり?」
クレアが尋ねる。
「食べられる物を見つけたらな」
次郎はフライパンをリュックへ入れた。
さらに台所から飲料水を回収し、救急箱から使用できそうな医薬品も持ち出す。
ついでにクローゼットを確認した時に見つけたスーツとカッターシャツ、下着に着替える。
ようやく血塗れの状態から解放され、住宅内に残された物資を一通り確認し終える。
「必要な物はこれくらいだな」
次郎が立ち上がる。
「外も確認しておこう」
三人は住宅を出た。
住宅の裏手には、小さな畑が残されていた。
雑草は伸びているものの、土の中にはまだジャガイモが残っている。
端にはニンジンや玉ねぎもあった。
「食べられるの?」
エレンが尋ねる。
「ああ」
次郎は土を掘り返し、大きなジャガイモを取り出した。
「必要な分だけ収穫しよう」
周囲を警戒しながら三人で収穫を始める。
エレンは土まみれになりながらジャガイモを抱えた。
「こんなことするの初めて」
「俺もだ」
次郎が淡々と答える。
必要な分だけ野菜を回収すると、三人は農場を後にした。
再び森へ入る。
しばらく歩くと、木々の間から水の流れる音が聞こえてきた。
次郎が足を止める。
「小川だ」
音のする方へ進むと、森の中を細い小川が流れていた。
水は澄んでおり、浅瀬の底まで見える。
次郎はしゃがみ込み、水の状態を確認した。
「ここなら魚がいるかもしれない」
水面を注意深く見る。
しばらくすると、小さな魚影が横切った。
次郎は荷物から細い糸と針を取り出した。
枝を一本拾い、ナイフで余分な部分を削って簡単な釣り竿を作る。
針をナイフで傷付けて返しを作り、糸を針と釣り竿に取り付ける。
「そんな物まで持ってたの?」
クレアが感心する。
「単なる生活の知恵だ。医療用でも加工すれば釣り竿にできる」
次郎は地面を掘り、餌になるミミズを探す。
見つけたミミズを針へ付け、小川へ糸を垂らした。
しばらく待つ。
水面に小さな波紋が広がった。
次郎の手が止まる。
竿先が沈んだ。
次郎が素早く竿を引く。
銀色の魚が水面から跳ね上がった。
「わあ、釣れた!」
エレンが思わず声を上げる。
次郎は魚を外し、木の枝へ吊るす。
その後も釣りを続ける。
二匹。
三匹。
十分な量を確保したところで、次郎は竿を片付けた。
「これだけあれば十分だろ」
三人は小川から少し離れた場所を野営地に決めた。
水場が近く、周囲の見通しも悪くない。
次郎は魚の内臓とうろこを手際よく取り除く。
農場で手に入れた塩を軽く振り、串へ刺す。
そして、持ち帰ったフライパンを火にかけた。
収穫したジャガイモ、ニンジン、玉ねぎを刻み、水と一緒に入れる。
塩と乾燥ハーブで味を整える。
やがて、森の中に湯気と優しい香りが広がった。
焼き上がった魚を口にしたエレンは、目を丸くする。
「……美味しい」
クレアも一口食べる。
「久しぶりに温かい食事ね」
次郎は小さく頷いた。
「食べられる時に食べておこう」
三人は言葉少なに食事を続けた。
焚き火の音と、小川のせせらぎだけが森に響いていた。
食事を終えると、次郎は小川まで戻った。
水筒へ水を汲み、フライパンも洗う。
魚をさばいた際に出た内臓は浅く埋め、土を被せた。
余計な匂いを残さないためだ。
戻ってきた次郎を見て、クレアが小さく笑う。
「本当に慣れてるのね」
「痕跡を残さないのは、癖みたいなものだ」
それ以上は語らなかった。
エレンはフライパンを布で丁寧に拭き、残った野菜を袋へ入れ直す。
土の付いたジャガイモを見つめる。
明日も食べられる。
その事実だけで、少しだけ心が軽くなった。
寝る前に、三人は火を囲みながら翌日の道順を確認し、それぞれ野営の準備を始める。
明日もまた、生き延びるために歩き続けなければならない。
夜が更ける頃に次郎は枝で灰を寄せ、炎を最小限まで弱めた。
「これくらいなら光は遠くまで届かない」
クレアも頷く。
「煙も少ないわね」
「昼間ほど風がないからな」
次郎は周囲へ視線を巡らせる。
夜の森は昼とはまるで別世界だった。
虫の羽音。
木々の揺れる音。
遠くで鳴く鳥の声。
そして時折、どこからともなく聞こえてくる怒号のような叫び。
姿は見えないが、おそらく感染者だ。
居場所は不明だが、森のどこかを徘徊していることは分かる。
エレンは思わず身を縮める。
「近いの……?」
「いや」
次郎は耳を澄ませた。
「一キロ以上は離れている」
「だが夜は音がよく響く。気をつけよう」
その注意に、エレンは静かに息を呑んだ。
相手が感染者でなければ只の強盗殺人というのはゾンビ映画あるあるですね。
あと数日で第二章も終了致します。