本日二度目の投稿です。
旅の四日目。
朝露に濡れた草を踏みしめながら、三人は森の中を北へ進んでいた。
昨日確保した食料のおかげで、荷物にはわずかな余裕がある。
急いで無理をする必要はなかった。
「今日は雨が降るかもしれない」
次郎が空を見上げる。
厚い雲がゆっくりと広がり始めていた。
「降られる前に休める場所を見つけよう」
昼過ぎ頃に三人は森の奥で古い猟師小屋を見つけた。
壁はところどころ傷んでいるが、屋根は残っている。
次郎は窓から中を確認し、静かに扉を開けた。
「安全だな」
中には誰もいない。
暖炉と木製の机、それに簡素な棚があるだけだった。
しばらくして雨が降り始める。
屋根を叩く雨音が小屋いっぱいに響いた。
「今日はここで足止めね」
クレアが窓の外を見ながら言う。
「ああ」
次郎は頷くと、荷物から細いワイヤーを取り出した。
「何をするの?」
エレンが首を傾げる。
「罠を張る」
次郎は近くの木を利用し、簡単なくくり罠を仕掛け始める。
獣道を見極め、足跡を確認しながら位置を決める手際は迷いがない。
「ここならウサギかキジが通る可能性がある」
エレンは真剣な表情で作業を見つめていた。
「覚えておいて損はない」
次郎はワイヤーを固定しながら言う。
「食料が見つかるとは限らないからな、確保する手段を持っていた方が生き残れる」
エレンは何度も頷いた。
雨は夕方になっても止まない。
三人は小屋へ戻ると、昨日収穫した野菜を使って昼食兼夕食の支度を始めた。
ジャガイモと玉ねぎを薄く切り、残しておいた魚の身と一緒にフライパンへ入れる。
塩と乾燥ハーブだけの味付けだったが、温かな湯気が立ち上るだけで心が落ち着いた。
食事の後、次郎は三人分の銃を机へ並べる。
「湿気は銃の敵だ」
布で一つ一つ水滴を拭き取り、シリンダーや遊底の動きを確認する。
クレアも慣れた手付きで拳銃を分解し始めた。
「エレンもやってみる?」
「う、うん」
恐る恐る拳銃を受け取る。
クレアは部品の名前と手入れの方法を一つずつ教えた。
「焦らなくていいわ」
「ちゃんと整備してあげれば、この子はちゃんと応えてくれるから」
エレンは慎重に布で銃身を拭く。
撃つことにはまだ迷いがある。
それでも、この拳銃が自分たちの命を守ってくれる道具であることは理解していた。
夜になる頃には雨も小降りになっていた。
次郎は罠を確認しに外へ出る。
暗闇の中を数分歩き、静かに戻ってきた。
「今日は空振りだ」
残念そうな様子はない。
「こういう日もある」
それだけ言うと、濡れた上着を絞ってから暖炉の近くへ掛けた。
エレンは火のついていない暖炉を見つめながら、小さく微笑む。
「屋敷を出てから初めて……少しだけ家の中にいる気分」
その言葉にクレアも穏やかに笑った。
しかし次郎だけは窓の外から目を離さない。
雨音に紛れて、遠くから怒号が響いた。
感染者の叫び声だった。
この小屋も、決して安全ではない。
三人はそれを理解したまま、この夜を静かに過ごした。
旅の五日目。
朝日が森を照らす頃、雨はすっかり上がっていた。
葉に残った雫が朝日に輝き、小鳥のさえずりが辺りに響く。
昨日までの重苦しい空気が、ほんの少しだけ和らいでいた。
小屋を出る前に、次郎は昨夜仕掛けた罠を確認しに向かう。
クレアとエレンも後を追った。
獣道を数分歩くと、茂みの向こうで草が激しく揺れている。
「掛かってる」
近づくと、一羽の野ウサギが後ろ脚を罠に取られ、必死にもがいていた。
エレンは思わず立ち止まる。
「生きてる……」
「まだな」
次郎は静かに頷いた。
腰から狩猟用のサバイバルナイフを抜くと、ウサギが苦しまないよう素早く息の根を止める。
ほんの数秒だった。
エレンは思わず目を伏せる。
クレアも何も言わない。
森には風の音だけが流れていた。
「……ごめんなさい」
エレンは誰に向けるでもなく呟いた。
次郎はウサギを袋へ入れながら静かに答える。
「謝る必要はない」
「俺たちは生きるために何かを食べるんだ」
それ以上の言葉はなかった。
小屋へ戻ると、次郎は裏手で解体を始める。
エレンは最初、建物の中から動けなかった。
ナイフが皮を裂く音が聞こえるたび、胸が締め付けられる。
それでも逃げなかった。
しばらくして、自分から外へ出る。
「……見ていてもいい?」
次郎は手を止めず、小さく頷いた。
「無理はするな」
「気分が悪くなったら戻れ」
エレンは少し離れた場所から見守る。
次郎は骨や内臓を傷付けないよう丁寧に解体し、食べられる部位だけを分けていく。
血や皮もできる限り土へ埋め、臭いが残らないよう処理していく姿は、まるで作業を繰り返してきた職人のようだった。
「全部使うの?」
クレアが尋ねる。
「ああ」
「無駄にはしない」
肉は夕食用に保存し、骨はスープを取るために取っておく。
皮も乾かせば何かに使える。
荷物は少し重くなったが、それ以上に貴重な食料だった。
昼過ぎ、三人は再び歩き始める。
森の中にはキイチゴの茂みがあり、次郎は一粒口へ入れて飲み込まずに数秒待つ。
「問題ない」
その言葉を聞いて、エレンも恐る恐る一粒摘まんだ。
酸味と甘みが口いっぱいに広がる。
「美味しい」
自然と笑みがこぼれる。
クレアもいくつか摘み取り、小さな袋へ入れた。
「食後のデザートね」
三人は少しだけ笑う。
旅に出て初めて聞く、穏やかな笑い声だった。
夕方になると、小さな沢の近くで野営の準備を始める。
フライパンには昨日の野菜とウサギの骨を入れ、時間を掛けて煮込む。
澄んだスープに、香草と塩で味を整える。
その隣では、ウサギの肉を串に刺し、炭火でじっくり焼いていく。
香ばしい匂いが辺りへ漂う。
エレンは焼き上がった肉を見つめ、小さく息を吸った。
今朝まで生きていた命。
その重みは消えない。
それでも彼女は両手で串を持ち、小さく「いただきます」と呟いてから口に運んだ。
ゆっくりと噛み締める。
何も言わなかった。
その沈黙には、命を受け取る覚悟が少しだけ芽生え始めていた。
夕食を終えると、フライパンに残ったスープは捨てずに空の水筒へ移した。
「明日の朝食だ」
次郎は蓋をして、小屋の北側に掘った浅い穴へ容器を置く。
その上から濡れた布を被せ、周囲を石で囲んだ。
「冷たい地面を利用する」
「少しだが傷みにくくなる」
クレアは感心したように頷く。
「本当に何でも知ってるのね」
「褒められるような知識じゃない」
次郎は短く答えた。
「生き残るために覚えただけだ」
エレンはその様子を黙って見つめていた。
六日目の朝。
小屋の扉を開けると、雨上がりの冷たい空気が流れ込んできた。
鳥の鳴き声が森に響き、昨日までの雨が嘘のように晴れ渡っている。
朝食は昨夜のスープを冷たいまま分け合い、固くなったビスケットを浸して食べた。
決して豪華ではない。
それでも空腹を満たすには十分だった。
「罠を見てくる」
食後、次郎は昨日罠を仕掛けた場所へ向かう。
二人も後に続いた。
獣道へ近付くと、木の枝が激しく揺れている。
「……掛かってるな」
ワイヤーの先には、一羽の野ウサギがぶら下がっていた。
昨日より一回り大きい。
すでに動かなくなっている。
「昨日は空振りだったのに」
クレアが呟く。
「自然は気まぐれだ」
次郎は罠を外しながら答えた。
「だから一つだけじゃなく、何か所か仕掛ける」
帰り道、三人は森で木の実や食べられる野草も少しずつ採取する。
次郎は毒草との違いを説明しながら歩いた。
「似ているからといって安易に食べるな」
「確信が持てなければ捨てる」
「食中毒の方が怖い」
エレンは真剣な表情で葉の形を見比べ、一つ一つ覚えていく。
昼過ぎには森を抜け、小さな放牧地へ出た。
柵は壊れ、牛や羊の姿はない。
人の気配もなかった。
納屋の中を調べると、麻袋に入った燕麦や乾草が残されている。
食料にはならないが、乾草は寝床に使える。
「今日はここで休もう」
次郎の提案に二人も賛成した。
三人は乾草を集め、小さな寝床を作る。
地面に直接寝るより、体力の消耗を抑えられる。
その間に次郎はウサギの肉を細かく切り分け、塩を擦り込んで細枝へ吊るした。
「燻して保存するの?」
エレンが尋ねる。
「ああ」
「全部を今日食べるのはもったいない」
焚き火の煙でゆっくりと乾かせば、数日は保存できる。
こうして少しずつ食料を蓄えられれば、危険を冒して村へ入る回数も減らせる。
夕暮れ。
肉を燻す香りが納屋の中へ漂う。
三人は静かに食事を取りながら、明日進む道を地図で確認した。
この先には大きな集落がある。
食料や医薬品を見つけられる可能性は高い。
その代わり、人が多かった場所ほど感染者も多い。
次郎は地図を畳み、静かに言った。
「明日から、また気を引き締めよう」
クレアは無言で拳銃の弾倉を確認する。
エレンも自分の拳銃を握り締め、小さく頷いた。
束の間の穏やかな時間は終わる。
三人は、それぞれの覚悟を胸に夜を迎えた。
旅の七日目。
朝食を終えると、三人は納屋を後にした。
昨日までに確保した食料には、まだ少し余裕がある。
無理に人の多い場所へ入り、危険を冒してまで補給する必要はなかった。
森を抜けると、小高い丘へ出た。
次郎は足を止め、双眼鏡を取り出す。
丘の向こうには、昨日地図で確認した集落が広がっていた。
教会の尖塔。
赤茶色の屋根。
密集した住宅。
規模は、これまで通過してきた農村とは比較にならない。
「大きな集落ね……」
クレアが呟く。
次郎は双眼鏡を動かし、集落の外周から順番に確認していく。
道路には放置された車。
いくつかの建物では窓ガラスが割れている。
店舗の周辺には乾いた血痕も見える。
そして、次郎の視線が止まった。
集落の中央付近。
道路を、一人の人間が走っている。
その後ろから複数の人影が迫っていた。
距離が縮まる。
逃げている人間が何度も後ろを振り返るが、感染者たちは速度を落とさない。
次郎は双眼鏡を少し動かした。
逃走している人間の前方。
別の通りからも感染者が現れる。
さらに左右の路地からも人影が飛び出してきた。
「……あれはもう、駄目だ」
次郎が小さく呟いた声にクレアが振り向く。
「どうしたの?」
次郎は双眼鏡を下ろした。
「集落の中で感染者が生存者を追っている」
「だが、もう囲まれている」
クレアが眉を寄せる。
「じゃあ、もう無理ね」
「ああ」
次郎はもう一度だけ集落を見る。
逃げていた人間の姿は、感染者の群れに隠れて見えなくなっていた。
その直後、感染者たちが一斉に動く。
次郎はそれ以上見る必要がないと判断し、双眼鏡を下ろした。
「今から助けに行くのは無理だ」
エレンは不安そうに集落を見る。
だが、次郎は二人に双眼鏡を渡さなかった。
見せても意味がない。
辛い気持ちになるだけだ。
すでに結果の決まった光景を見せる必要はなかった。
次郎は地図を広げる。
「この集落は避けよう」
指先が集落の西側をなぞる。
「ここから北へ回る」
クレアが地図を覗き込む。
「かなり遠回りになるわね」
「半日程度かかるが、集落を突破するより安全だ」
クレアは集落へ一度だけ目を向けた。
そして、静かに頷く。
「分かった」
エレンも頷いた。
「……行こう」
三人は丘を下り始めた。
集落の姿が木々に隠れていく。
遠くから、感染者たちの怒号が微かに聞こえていた。
誰かを追っているのか。
別の誰かを見つけたのか。
それを確認することはしなかった。
今の三人に必要なのは、他人の生死を確かめることではない。
米軍基地へ辿り着き、生き残ること。
それだけだった。
次郎は一度も振り返らず、北へ向かって歩き続けた。
Epilogueまであと二日です。