本日一度目の投稿です。
旅の八日目。
朝靄の残る森を抜けると、緩やかな丘陵地帯へ出た。
遠くには畑が広がり、その中央に石造りの農家が一軒建っている。
煙突から煙は上がっていない。
だが、畑は完全に荒れ果ててはいなかった。
「……誰かいる」
次郎が小さく呟く。
クレアも畑へ目を向ける。
「雑草が抜かれてるわ」
エレンも気付いた。
「本当だわ……」
畝は乱れているものの、最近まで手入れされていた跡が残っていた。
次郎は双眼鏡を取り出し、農家を観察する。
その時だった。
家の裏口がゆっくりと開き、一人の老人が姿を現した。
白髪交じりの髪。
深い皺が刻まれた顔。
痩せてはいるが、鍬を持つ手にはまだ力が残っている。
老人は周囲を何度も確認すると、畑から数本の野菜を抜き取り、すぐに家の中へ戻っていった。
「生存者だ」
次郎は双眼鏡を下ろした。
クレアが静かに尋ねる。
「接触する?」
少しだけ考えた次郎は頷く。
「ああ」
「ただし慎重にな」
三人は武器を下げたまま、ゆっくり農家へ近付いていく。
玄関まであと十メートルほどの距離で、窓のカーテンがわずかに揺れた。
見られている。
次郎は両手を見える位置まで上げた。
「撃つつもりはない」
英語で静かに呼び掛ける。
「旅の途中。食料を分けてもらえないかと思って来た」
返事はない。
数秒後。
玄関の扉がゆっくりと開いた。
先ほどの老人が弓と矢を手に立っている。
弓は下げているが、警戒は解いていない。
「……東洋人か。どこから来た」
老人の掠れた声が響く。
「ロンドン郊外から」
次郎が答える。
「米軍基地を目指している」
老人は三人の顔を順番に見つめる。
エレンの姿を見た時だけ、ほんの少しだけ表情が和らいだ。
「中へ入れ」
「だが、妙な真似をしたら射る」
三人は静かに頷き、農家へ入った。
家の中は質素だった。
家具は古く、食料も決して多くない。
その奥の部屋から、小さな咳払いが聞こえた。
エレンが視線を向ける。
ベッドの上には、一人の老婦人が横になっていた。
身体は痩せ細り、自力では起き上がれないらしい。
老人はその姿を見つめながら、小さく笑う。
「妻だ」
「十年ほど前に倒れてな」
「一人じゃ何もできん」
静かな声だった。
クレアは思わず尋ねる。
「避難しなかったの?」
老人はゆっくり首を横に振る。
「無理だった」
「この人を置いて逃げるくらいなら、一緒にここで死ぬ方がいい」
その言葉に部屋は静まり返る。
エレンはベッドの老婦人を見つめたまま、小さく唇を噛み締めていた。
老人は照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「馬鹿な話だろう」
「だが六十年連れ添った女房だからな」
「最後まで面倒を見ると決めた」
次郎は老人を真っ直ぐ見つめ、小さく頭を下げた。
「……あなたは立派な人だ」
老人は少し驚いたように目を細める。
「そう言われたのは初めてだ」
その時、ベッドの上の老婦人がゆっくり目を開けた。
弱々しい笑顔を浮かべ、老人の手をそっと握る。
老人も何も言わず、その手を優しく握り返した。
老婦人はゆっくりと三人へ視線を向けた。
「……お客さん?」
か細い声だった。
老人は優しく微笑む。
「ああ。旅の途中らしい」
「そう……」
老婦人は穏やかな笑みを浮かべた。
「こんな家だけど、ゆっくりしていってね」
エレンは思わず目を伏せた。
この状況でも他人を気遣える人がいる。
その優しさが胸に染みた。
老人は椅子を勧め、自分は台所へ向かう。
「大した物はないが」
棚から古びたティーポットを取り出し、お湯を沸かし始めた。
乾燥させたハーブを一つまみ入れる。
部屋に柔らかな香りが広がった。
「畑で採れたハーブだ」
「今は茶くらいしか出せん」
クレアはカップを受け取り、小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
エレンも両手でカップを包み込む。
温もりが冷えた身体へゆっくりと染み渡っていく。
老人は次郎へ視線を向けた。
「米軍基地と言ったな」
「ああ」
「ここから真っ直ぐ北へ行けば、大きな川に出る」
老人は壁に掛けられた古い地図を指差す。
「橋は崩れてるが、少し上流なら浅瀬がある」
「そこを渡れば基地までは二日ほどだ」
次郎は地図を見つめながら静かに頷く。
「貴重な情報をありがとう」
「礼はいらん」
老人は苦笑した。
「どうせわしらは、ここを離れられん」
エレンが思わず尋ねる。
「でも……基地へ行けば助かるかもしれないのよ?」
老人はゆっくり首を横へ振った。
「この人は歩けん」
そう言って妻の手を優しく撫でる。
「車も燃料もない」
「途中で感染者に追われれば、それで終わりだ」
老婦人は申し訳なさそうに微笑んだ。
「私が足手まといなの」
「違う」
老人は即座に否定した。
「お前はわしの女房だ」
「それだけの事だ」
短い言葉だった。
しかし、その一言には六十年という歳月が込められていた。
部屋は静まり返る。
クレアも何も言えない。
次郎もただ静かに老人を見つめていた。
やがて老人は立ち上がり、台所の棚から布袋を持って戻ってくる。
「持っていけ」
袋の中にはジャガイモ、玉ねぎ、乾燥豆が入っていた。
「そんな……」
エレンが慌てて首を振る。
「これはおじいさんたちの食料でしょう?」
老人は笑った。
「畑ならまだ少し残っとる」
「若い者が生き延びる方が希望がある」
次郎は袋を見つめたまま動かなかった。
しばらく考えた末、袋から半分だけ取り分ける。
残りを老人へ返した。
「これ以上は受け取れん」
老人は眉をひそめる。
「遠慮するな」
「遠慮ではない」
次郎は静かに答えた。
「あなた方が生き残るために必要な物だ」
「俺たちは途中で補給できる」
老人はしばらく次郎を見つめる。
やがて、ふっと笑った。
「……変わった若者だ」
「最近は奪おうとする奴ばかりだと思っていたが」
次郎は何も答えなかった。
老婦人だけが嬉しそうに目を細める。
「あなたたちなら、大丈夫」
「きっと基地まで辿り着けるわ」
エレンは老婦人の手をそっと握る。
「ありがとう」
「私たち、絶対に生き延びる」
老婦人は小さく頷いた。
「ええ」
「約束よ」
その約束を胸に刻みながら、三人は農家を後にする準備を始めた。
出発の準備を終えると、次郎は老人へ向き直った。
「世話になった」
老人は軽く手を振る。
「気にするな」
「若い者を送り出すくらいしか、もうできん」
クレアも頭を下げる。
「ありがとうございました」
エレンは老婦人の手をもう一度そっと握った。
「絶対に元気でいてね」
老婦人は優しく微笑む。
「あなたもね」
「二人の言うことをちゃんと聞くのよ」
「うん」
エレンは力強く頷いた。
三人は玄関を出る。
老人は家の前まで見送りに来ていた。
「基地へ着いても安心するな」
「軍の中にも、善人ばかりとは限らん」
次郎はその言葉を胸に刻むように頷く。
「覚えておく」
老人は最後に笑みを浮かべた。
「生きろよ」
「若い奴は、生き延びるのが仕事だ」
その言葉を背に、三人は農家を後にした。
畑の向こうで老人はいつまでも立ち尽くし、小さくなる三人の背を見送っていた。
やがて農家が木々の向こうへ見えなくなる。
誰もすぐには口を開かなかった。
しばらく歩いた後、エレンがぽつりと呟く。
「優しい人たちだったわね」
クレアも静かに答える。
「本当にね」
次郎は何も言わず前を歩き続ける。
老人の「生きろ」という一言が、まだ耳に残っていた。
昼を過ぎる頃、三人は老人から聞いた大きな川へ到着した。
川幅は三十メートル近くあり、水量も多い。
中央付近では濁流となって流れている。
「橋は……」
クレアが辺りを見回す。
少し下流に石橋が見えた。
しかし橋の中央は完全に崩れ落ちている。
老人の話は本当だった。
次郎は双眼鏡で上流を確認する。
十分ほど観察した後、小さく頷いた。
「浅瀬があるな」
三人は川沿いを上流へ歩く。
やがて水深が膝下までしかない場所へ辿り着いた。
流れは速い。
油断すれば足を取られる。
次郎は近くの木から丈夫な枝を切り落とし、一本をエレンへ渡した。
「杖代わりに使え」
「足場を確認しながら進む」
クレアにも一本渡す。
「もし流されたら逆らうな」
「下流へ流されながら岸を目指せ」
二人は真剣な表情で頷いた。
最初に川へ入ったのは次郎だった。
一歩ずつ石の位置を確かめながら進む。
その後ろをエレン。
最後尾をクレアが守る。
冷たい水が膝まで達する。
流れは予想以上に強かった。
エレンの身体が一瞬ふらつく。
「アリス……!」
「慌てるな」
次郎は振り返らずに答えた。
「杖を前へ」
「流れじゃなく石を見るんだ」
エレンは深呼吸し、言われた通り足元だけを見つめる。
一歩。
また一歩。
慎重に歩みを進めていく。
二十分ほど掛けて、三人は無事に対岸へ辿り着いた。
クレアはその場へ腰を下ろし、大きく息を吐く。
「思ったより疲れたわ」
次郎も濡れた靴の水を捨てながら頷く。
「だが、これで基地まではあと二日だ」
エレンは対岸を振り返る。
老人と老婦人のいる農家は、もう森の向こうに隠れて見えなかった。
川を渡り切った三人は、その日のうちに森へ入り、日が暮れる前に野営の準備を始めた。
焚き火は最小限に、老人から譲り受けたジャガイモを一つだけ切り分け、乾燥豆と一緒に煮込む。
質素な夕食だったが、冷え切った身体には十分な温かさだった。
翌朝。
旅の九日目。
三人は夜明けとともに出発した。
基地まではあと二日。
しかし、その二日は今まで以上に危険な道程になることを次郎は理解していた。
昼前。
森が途切れ、小さな住宅街へ出る。
家は十数軒ほど。
窓ガラスは割れ、庭には放置された車が錆び始めていた。
「補給できそうな家を一軒だけ調べる」
次郎が小声で告げる。
「長居はしない」
二人は頷いた。
三人は道路を横切り、一軒の民家へ近付く。
その時だった。
ガタン。
庭先に置かれていた金属製のバケツが転がった。
風ではない。
何かがぶつかった音だった。
次郎が左手を上げる。
三人が足を止めた瞬間。
家の裏から一体の感染者が飛び出した。
「アアアアアッ!」
叫びながら一直線に駆けてくる。
続いて二体。
さらに道路脇の車の陰からもう一体。
合計四体。
「来る!」
クレアが拳銃を構えた。
次郎のリボルバーも素早く抜かれる。
パンッ!
最初の一発で先頭の感染者の頭部に穴が開く。
クレアもほぼ同時に二体目を撃ち抜いた。
残るは二体。
一体がエレンへ向かって一直線に駆ける。
距離は二十メートル。
十五メートル。
エレンは拳銃を構えた。
照準が感染者の胸へ向く。
肩へ向く。
――違う。
頭では分かっている。
肩を撃っても止まらない。
腕を撃っても止まらない。
それでも照準が定まらない。
十メートル。
感染者の怒声が耳をつんざく。
その瞬間、不意に老人の言葉が脳裏によみがえった。
――若い奴は、生き延びるのが仕事だ。
続いて老婦人の笑顔が浮かぶ。
――約束よ。
そして屋敷で命を落とした使用人たち。
自分を庇って腹を刺された次郎。
撃てずに肩ばかり狙っていた自分。
ここでまた外せば。
自分の次に死ぬのは誰だ。
アリスかもしれない。
クレアかもしれない。
その瞬間、エレンは小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
照準がゆっくりと上がる。
感染者の額を捉える。
もう目を逸らさない。
パンッ!
乾いた銃声。
弾丸は感染者の額へ吸い込まれるように命中した。
感染者は二歩だけ前へ進み、そのまま力なく地面へ崩れ落ちる。
動かない。
完全に沈黙した。
ほぼ同時に、次郎が最後の一体を撃ち抜いた。
静寂が戻る。
エレンは拳銃を下ろさなかった。
倒れた感染者を見つめ続ける。
胸が痛い。
苦しい。
それでも、自分のせいで誰かが傷付くことはなかった。
クレアは倒れた感染者を確認すると、小さく息を吐く。
次郎も周囲を警戒し、他に気配がないことを確認する。
誰も何も言わない。
褒めも責めもしない。
それでよかった。
エレンは静かに拳銃の撃鉄を戻し、ホルスターへ収める。
その表情からは、これまで戦うたびに見せていた迷いが少しだけ消えていた。
彼女はようやく理解した。
命を奪うことは、命を軽んじることではない。
生き残るために、自分や仲間の命を守るために必要な覚悟なのだと。
旅の十日目。
朝日がゆっくりと地平線から昇る。
丘を登り切った三人の視界に、巨大な軍事施設が姿を現した。
高いコンクリート塀。
幾重にも張り巡らされた有刺鉄線。
監視塔。
滑走路。
そして星条旗を掲げるための高い旗竿。
「……やっと着いたわね」
クレアが小さく呟く。
十日間歩き続け、ようやく辿り着いた目的地だった。
エレンも安堵したように笑みを浮かべる。
「これで助かるわね……」
しかし、その笑顔は長く続かなかった。
次郎は双眼鏡を覗いたまま動かない。
「アリス?」
エレンが不思議そうに見上げる。
「……様子がおかしい」
静かな声だった。
クレアも双眼鏡を受け取り基地を観察する。
次の瞬間、表情が険しくなった。
「何これ……」
正門横のコンクリート壁は爆発したように崩れ落ちている。
監視塔は一本が途中から折れ、無残に倒壊していた。
装甲車は横転し、戦車も黒く焼け焦げている。
基地の至る所に爆発と戦闘の痕跡が残されていた。
「襲撃されたようね」
クレアが息を呑む。
次郎は小さく頷いた。
「規模が大きすぎる」
「通常の感染者だけで、ここまで壊滅するとは思えない」
しばらく基地を観察する。
だが、違和感はそれだけではなかった。
「誰もいない……」
エレンが呟く。
監視塔にも。
塀の上にも。
正門にも。
兵士の姿が一人も見えない。
助けを求める人影も。
感染者が走り回る姿も。
何もなかった。
風だけが基地の中を吹き抜けている。
「静かすぎる」
次郎は双眼鏡を下ろした。
「行こう」
三人は銃を抜き、慎重に正門へ近付く。
近くまで来ると、鉄製のゲートは大きく歪み、蝶番ごと引き千切られていた。
まるで巨大な力で無理やり押し開けられたようだった。
次郎は足元へしゃがみ込む。
乾いた血痕。
薬莢。
タイヤ痕。
そして、深く抉られたコンクリート。
「激しい戦闘だったらしいな」
クレアが辺りを見渡す。
「でも感染者がいないなんて……」
その疑問に答える者はいない。
三人は基地の敷地内へ足を踏み入れた。
司令部へ向かう道路には、兵士たちの遺体が点々と横たわっている。
誰も起き上がらない。
感染者へ変異した様子もなかった。
エレンが一人の兵士へ近付く。
「この人……」
胸元には乾いた血が広がっていた。
しかし銃創ではない。
制服を貫いているのは、指で開けたような細い穴だった。
次郎も別の兵士を調べる。
その兵士は仰向けに倒れ、目を見開いたまま絶命していた。
額の中央。
そこにも、一直線に貫かれた小さな穴がある。
「……」
次郎は何も言わず立ち上がる。
さらに歩く。
次の兵士は心臓。
その次の兵士は額。
また次も心臓。
傷は全て同じ形だった。
まるで機械で測ったかのように、急所だけを一撃で正確に貫かれている。
クレアも異変に気付いた。
「全部同じ傷……」
エレンは思わず周囲を見回す。
「感染者に襲われたんじゃないの?」
次郎はゆっくり首を横へ振る。
「感染者なら噛み付くか殴る」
「あとは包丁で刺すぐらいだ」
「こんな精密機械みたいな殺し方はしない」
三人はさらに司令部へ向かう。
建物の壁には無数の弾痕が刻まれ、窓ガラスはことごとく割れていた。
それでも静かだった。
あまりにも静かだった。
誰もいない基地を歩く三人の足音だけが、広い敷地へ不気味なほど大きく響いていた。
――DAY24――
いつも感想をいただき、本当にありがとうございます!現在、第三章の執筆と手直しに集中するため、個別の返信が難しくなっております。
ですが、いただいた感想はすべて大切に、何度も読ませていただいています。
読者の皆様の反応や考察が、日々の大きな励みになっています。これからも楽しんでいただけるよう全力を尽くしますので、引き続きよろしくお願いいたします!