第三章は少し短めです。
Prologue 舞踏への招待
英国レイジウイルス事件終息から、およそ一年。
事件は世界中に衝撃を与えたものの、復興は着実に進み、テラセイブも各国から支援組織として認められ始めていた。
その中心で活動していたのが、エレン・クロフォードだった。
事件当初は保護される立場だった少女も、今では創設メンバーの一人として組織運営を担っている。
会議への出席。
各国との連絡調整。
被害者支援。
忙しい日々だったが、その表情は充実していた。
ロンドン。
テラセイブ欧州本部。
「本日の会議は以上です」
エレンが笑顔で一礼すると、職員たちから拍手が起こる。
「お疲れ様でした」
「エレンさんも少し休んでください」
「ありがとうございます。でも、この資料だけ整理してしまいます」
そう言って会議室を出る。
廊下には人影がない。
腕いっぱいに書類を抱えながら、執務室へ向かって歩き始める。
その時だった。
館内の照明が一瞬だけ明滅した。
パッ――。
「停電……?」
不審に思い立ち止まる。
次の瞬間。
背後から黒ずくめの男が飛び出した。
「!」
反応は速かった。
エレンは咄嗟に身体を捻り、男の腕を払いのける。
さらに頭突きを放つ。
鈍い音と共に男がよろめいた。
だが、それで終わらない。
左右の部屋からさらに二人。
前方にも一人。
訓練された動きで退路を塞ぐ。
(四人……)
エレンは書類を放り投げる。
低く構え、呼吸を整えた。
一人目が飛び込む。
腕を掴み、その勢いを利用して投げ飛ばす。
すぐに二人目がナイフを振るう。
エレンは紙一重でかわし、腹部へ前蹴りを叩き込んだ。
しかし、その一瞬だった。
背後から腕を掴まれる。
「くっ……!」
振りほどこうとした瞬間、別の男が白い布を口元へ押し当てた。
薬品の臭いが鼻を突く。
(この匂い、麻酔……)
息を止めようとする。
それでも吸い込んでしまったわずかな成分が意識を奪っていく。
膝から力が抜ける。
視界がぼやけた。
(アリス……)
心の中でその名を呼んだ直後、意識は暗闇へ沈んでいった。
数時間後。
テラセイブ欧州本部。
会議室の空気は重かった。
大型モニターには一枚の写真が映し出されている。
拘束された一人の女性。
エレン・クロフォード。
テラセイブ幹部であり、創設メンバーの一人だった。
「誘拐から十二時間」
職員の一人が報告を続ける。
「監視カメラは全て妨害され、犯人は現在も不明です」
会議室は静まり返る。
誰もが無事を祈っていた。
その沈黙を破ったのは、一人の職員だった。
「先程、これが受付に……」
机の上へ封筒が置かれる。
中には写真と一枚の紙。
英語で短く書かれていた。
――Alice Jiro. Come Alone.
次郎は紙へ目を落としたまま口を開く。
「俺を御指名か」
それ以上の感想はない。
感情を表に出すこともない。
事実だけを受け止める。
「どうしますか」
職員の問いに、次郎は即答した。
「向かうしかないだろ」
「ですが、相手の狙いはあなたですよ!」
「ああ」
短く頷く。
「だからこそ行く」
やり取りはそれだけ。
誰も止められない。
止めても行く男だと知っていた。
◇
エレン誘拐から二日後のスペイン沖。
夜の海を、一隻の高速ボートが滑るように進んでいた。
操縦席に座る次郎は、遠くに浮かぶ島を見据えている。
月明かりの向こう。
島には巨大な施設群が広がっていた。
探照灯。
監視塔。
武装した警備兵。
海岸線には複数の巡回艇。
単なる宗教施設とは到底思えない。
(軍事訓練を受けているな)
次郎は速度を落とす。
正面から近付けば、監視網に引っ掛かる。
島の南側。
岩礁が連なる場所へ進路を変える。
探照灯の死角へ入ったところでエンジンを切った。
惰性で進むボートを岩陰へ滑り込ませる。
次郎は静かに立ち上がった。
装備を確認する。
リボルバー。
予備弾。
トマホーク。
コンバットナイフ。
余計な荷物はない。
ボートを岩陰へ固定すると、次郎は海へ降りた。
腰まで冷たい海水に浸かりながら岩場を進む。
探照灯が頭上を通過する直前で次郎は岩陰へ身を伏せた。
光が遠ざかる。
それを確認してから、静かに陸へ上がった。
島へ侵入した。
まだ、誰も次郎の存在には気付いていない。
海岸から少し離れた場所を二人の教団員が巡回している。
次郎は物陰から二人の動きを観察した。
歩幅。
巡回間隔。
視線。
互いの距離。
すべてを確認する。
やがて二人の間に僅かな隙間が生まれた。
次郎はその瞬間に動いた。
音もなく背後へ回り込むと、一人目の首筋へ手刀を打ち込む。
男の身体から力が抜ける。
そのまま倒れる寸前――。
もう一人が振り返った。
「……!」
月明かりの下。
一瞬だけ、次郎の顔を見た。
次郎は構わず距離を詰める。
素早く背後に周りこんで口を塞ぎ、首を圧迫する。
数秒で男もその場へ崩れ落ちた。
だが。
すでに遅かった。
ほんの一瞬。
その男の視界へ入った黒いスーツの男の姿は、教団員の体に寄生した生物兵器『プラーガ』を通じて他の宿主へ共有されていた。
本人が意識しているわけではない。
それはプラーガ同士が持つ、異常な情報共有能力だった。
――侵入者。
――黒い服。
――海岸付近。
――南側。
情報が伝播していく。
次郎は何も知らない。
気絶した二人を物陰へ運び、無線機を回収する。
そして、島の内部へ向かって歩き出した。
その頃。
島の中央部にある訓練施設にてクラウザーは部下から報告を受けていた。
「南側の巡回兵から、妙な反応がありました」
「妙な反応?」
「詳しくは分かりません。ただ、近くの警備兵たちが一斉に南側を気にしています」
クラウザーが眉を寄せる。
「侵入者か?」
「分かりません」
クラウザーは数秒考える。
通常の無線連絡なら、ここまで早く情報が集まるはずはない。
だが、教団の兵士たちは普通の兵士ではない。
プラーガによって繋がった意識。
その異常な情報共有能力を、クラウザーも理解していた。
「南側か……」
地図を広げる。
海岸。
巡回路。
施設配置。
侵入者が島へ入ったとすれば、次に向かう可能性が高い場所を考える。
「この辺りだな」
クラウザーが指を置いたのは、南側から中央施設へ向かうルートだった。
「部隊を動かしますか?」
「いや」
クラウザーは首を振る。
「騒がせる必要はない」
「俺が行く」
「はい」
クラウザーは大型コンバットナイフを手に取った。
まだ相手の正体は分からない。
人数も不明。
目的も不明。
だが、島へ侵入した人間がいる以上、放置する理由はなかった。
「先回りする」
一方。
次郎は教団員から回収した無線機を確認しながら、島の内部へ進んでいた。
無線にはまだ異常な動きはない。
敵が侵入を把握した様子もない。
そう判断していた。
しかし実際には。
すでに島の一部で、警備兵たちが次郎の存在を共有している。
次郎はそれを知らない。
ただ、自分が目立たないよう慎重に進んでいた。
やがて、施設の奥へ続く通路が見えてくる。
次郎は足を止めた。
前方に人の気配。
一人。
いや――。
複数。
だが、姿はまだ見えない。
次郎は壁へ背を預け、静かに様子を窺う。
その時。
通路の奥から、ゆっくりと一人の男が姿を現した。
迷彩服。
赤いベレー帽。
右腕には大型のコンバットナイフ。
鋭い眼光が次郎を捉える。
「よう」
男は口元を歪めた。
「どうやら、歓迎する必要はなさそうだな」
次郎は黙って男を見る。
相手の姿から、ただ者ではないことだけは分かった。
クラウザーもまた、目の前の男を観察する。
「ここまで一人で来たのか?」
次郎は答えない。
クラウザーはナイフを抜く。
「まあいい」
「ここから先へは行かせん」
次郎は壁から離れて姿を見せると、ゆっくりと構える。
島へ上陸してから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも。
たった一人の巡回兵が見た一瞬の光景が、二人をこの場所へ引き合わせていた。
静かな通路に、二人の殺気だけが満ちていく。
――大統領令嬢誘拐事件・序章――