本日二度目の投稿です。
夜の島を、一人の女が静かに駆けていた。
冷たい潮風が黒い髪を揺らす。
月明かりを背に受けながら、黒い戦闘服に身を包んだ女は、屋根から屋根へと音もなく飛び移っていく。
エイダ・ウォン。
誰にも気付かれることなく任務を遂行する潜入工作員。
島全体が教団の支配下に置かれた今でさえ、その姿を捉えられる者はいなかった。
フックガンを構える。
圧縮ガスの音とともにワイヤーが射出され、向かいの建物へ食い込む。
身体を軽々と宙へ躍らせ、着地と同時にワイヤーを回収する。
その動きには一切の無駄がない。
エイダは屋上の縁へ膝をつき、眼下の施設を見下ろした。
巨大な研究施設。
探照灯が一定の間隔で敷地を照らし、武装した教団員が巡回を続けている。
昼間なら突破は難しい。
だが、夜なら話は別だった。
腰のホルスターから小型双眼鏡を取り出す。
警備兵は八人。
二分ごとに巡回交代。
監視カメラは十六台。
死角も確認済み。
予定どおりだった。
「……悪くないわ」
誰へ言うでもなく、小さく呟く。
今回の目的は二つ。
表向きは、ロス・イルミナドス教団が保有するプラーガ研究資料の回収。
そして、もう一つ。
一人の女性を、この島から連れ出すこと。
エレン・クロフォード。
英国レイジウイルス事件の生存者であり、現在はテラセイブの幹部として活動している。
そして――有栖次郎が、命を懸けて助けようとしている女性。
依頼ではない。
組織の利益にもならない。
それでも、見捨てることはできなかった。
エイダは静かに息を吐く。
そして建物の影へ飛び降りた。
施設裏口。
鉄扉の横には電子ロックが取り付けられている。
エイダは腰のポーチから小型端末を取り出し、素早く接続した。
画面へ数字が流れる。
暗号解析。
数秒後、小さな電子音が鳴った。
カチリ。
ロック解除。
扉を数センチだけ開き、中を確認する。
人影はない。
そのまま身体を滑り込ませ、静かに扉を閉めた。
コンクリート製の通路には、蛍光灯の白い光だけが落ちている。
湿った空気。
薬品の匂い。
研究施設特有の静けさだった。
足音を消しながら進む。
やがて角の向こうから話し声が聞こえてきた。
「交代の時間だ」
「地下の見張りは?」
「異常なし」
二人。
歩幅は一定。
会話に気を取られている。
エイダは壁際へ身を寄せた。
巡回ルートを頭の中で描く。
交差する瞬間は三秒。
十分だった。
二人が角を曲がる。
その背後へ、風のように滑り込む。
一人目の口を左手で塞ぐ。
右手のスタンガンを首筋へ押し当てた。
バチッ!
男の身体が震え、そのまま崩れ落ちる。
異変に気付いたもう一人が振り返る。
「な――」
最後まで言わせない。
鳩尾へ掌底。
体勢が崩れたところへ首筋への一撃。
男もその場へ倒れ込んだ。
エイダは二人の呼吸を確認する。
「眠っていて」
壁際へ寄せ、物陰へ隠す。
殺す必要はない。
任務の邪魔をしない限り、無用な殺しは避ける。
地下施設は迷路のように入り組んでいた。
壁には研究資料を運搬するためのレール。
鉄格子。
隔壁。
ところどころに監視カメラが設置されている。
エイダはそのすべてを避けながら進んでいく。
やがて、厚い鋼鉄製の扉が見えた。
扉の両脇には教団員が二人。
ライフルを持ち、周囲を警戒している。
真正面からでは無理。
エイダは天井を見上げた。
配管が一本、扉の真上を通っている。
フックガンを構える。
シュッ!
ワイヤーが配管へ絡み付く。
身体が一気に持ち上がった。
二人の真上を音もなく通過する。
着地。
教団員が振り返るより早く、一人目の首筋へ手刀。
続いて二人目の鳩尾へ膝蹴り。
息が詰まったところへ掌底。
二人とも声を上げることなく崩れ落ちた。
エイダは鍵束を拾い上げる。
最も大きな鍵を差し込む。
重い音とともに扉が開いた。
部屋の中央。
一脚の椅子。
そこへ一人の女性が拘束されていた。
金色の髪。
疲労の色は濃い。
それでも、その瞳にはまだ力が残っていた。
エレンだった。
エイダは素早く猿轡を外す。
「大丈夫?」
エレンは何度も頷いた。
「あなたは……?」
「話は後」
縄を切る。
両手。
両足。
拘束具が床へ落ちる。
手首には赤い痕が残っていた。
「立てる?」
「はい……」
エレンはゆっくりと立ち上がる。
足元が少しふらついた。
エイダが肩を支える。
「無理はしないで」
「ありがとうございます」
その時だった。
遠くから乾いた銃声が響く。
パンッ!
エレンが反射的に身体を強張らせる。
数秒後。
もう一発。
パンッ!
エイダは静かに目を閉じた。
「始まったわね……」
予定どおり。
すべては、この瞬間のために動いていた。
エイダは腕時計へ視線を落とす。
時刻は予定どおり。
ここから先は、一つでも歯車が狂えば全てが崩れる。
「急ぎましょう」
エレンは頷いた。
しかし、数歩進んだところで、エレンが不安そうに口を開く。
「……あの、アリスは?」
エイダは一瞬だけエレンを見る。
「信じなさい」
短い一言だった。
エレンは黙って海のある方向へ目を向ける。
不安が消えたわけではない。
それでも――。
「……はい」
小さく頷く。
あの人なら戻ってくる。
それだけは疑わなかった。
二人は部屋を出る。
廊下は依然として静まり返っていたが、遠くでは警報が鳴り始めている。
施設内のどこかで戦闘が始まったのだ。
エイダは角で足を止めた。
耳を澄ませる。
足音。
三人。
こちらへ向かってくる。
エイダは壁際へ身を寄せ、エレンを背後へ下がらせた。
「動かないで」
教団員が角を曲がる。
「地下の様子は――」
最後まで言葉は続かなかった。
エイダの拳が男の喉元を打ち抜く。
呼吸を失った男が崩れ落ちる。
二人目がライフルを向けようとした瞬間、エイダが銃口を蹴り上げた。
引き金が引かれる。
乾いた銃声。
弾丸は天井へ突き刺さった。
その隙にエイダは肘打ちを叩き込み、男を壁へ打ち付ける。
三人目がナイフを抜く。
だが、エイダは身体を半回転させ、その腕を掴んだ。
勢いを利用して床へ叩き付ける。
男は苦悶の声を漏らし、そのまま意識を失った。
「行きましょう」
エレンは驚いた表情を浮かべていた。
無駄がない。
まるで踊るような戦い方だった。
エイダは倒れた男たちを一瞥する。
全員生きている。
それだけ確認すると歩き出した。
施設を抜けると、夜風が頬を撫でた。
警報は島全体へ広がり、各所で探照灯が動き始めている。
教団員たちが慌ただしく走り回っていた。
「侵入者だ!」
「地下を封鎖しろ!」
「逃がすな!」
だが、その混乱こそが好機だった。
誰もが別の敵を追っている。
エイダはエレンを連れ、建物の影から影へ移動していく。
やがて島の断崖を見下ろせる高台へ辿り着いた。
エイダはライフルケースを開く。
静かに狙撃銃を組み立てる。
スコープを覗くと、崖沿いの一本道がはっきりと見えた。
そこには二人の男がいた。
レオン・S・ケネディ。
そして――有栖次郎。
レオンは防戦一方だった。
銃撃を見切って躱され、接近戦でも押し込まれている。
次郎の動きには一切の迷いがない。
教団の使徒として、完璧な戦士を演じ切っていた。
エレンも息を呑む。
「アリス……」
エイダは何も答えない。
まだ終わっていない。
タイミングは一度しかない。
レオンが後退する。
次郎が追う。
距離。
角度。
風向き。
すべてが揃った。
エイダはライフルを僅かに動かした。
狙うのは二人ではない。
レーザーサイトだけを、次郎の胸元へ一瞬だけ走らせる。
赤い光が黒いスーツを横切る。
一秒にも満たない短い合図。
次郎の視線が、ほんの一瞬だけこちらを向いた。
気付いた。
エレン救出完了。
その直後だった。
次郎は突然、苦しそうに咳き込んだ。
「ゴホッ……!」
肩を震わせ、口元を押さえる。
あまりにも自然な動きだった。
レオンがその隙を逃すはずがない。
一気に間合いを詰める。
渾身の回し蹴り。
そして拳銃を構える。
狙いは右肩。
――パンッ!
銃声が夜空へ響く。
弾丸が次郎の右肩を撃ち抜いた。
身体が大きく仰け反る。
そのまま次郎は崖際まで後退する。
だが、抵抗はしない。
そのまま重力へ身を任せるように、静かに海へ落ちていった。
大きな水柱が上がる。
レオンは崖際へ駆け寄った。
海面を見下ろしたまま動かない。
エイダはライフルを静かに下ろした。
「……予定どおり」
エレンが不安そうな表情を向ける。
「本当に大丈夫なんですか……?」
「ええ」
エイダは短く答えた。
「あの人は、あれで終わる人じゃない」
その声には、不思議な確信があった。
エイダはライフルを分解し、ケースへ戻す。
「行きましょう」
エレンはもう一度だけ海を見つめる。
そして小さく頷いた。
二人は闇へ紛れるように高台を離れていった。
一方、崖の上。
レオンは通信機を取り出した。
『レオン、クラウザーの反応を確認したわ。あなたのすぐ近くよ』
「ああ、了解」
通信を切る。
レオンは最後にもう一度だけ海を見下ろした。
「……生きていろよ、アリス」
小さく呟く。
そして拳銃を構え直し、クラウザーの待つ施設へ向かって走り出した。
教団本部。
最上階の礼拝堂には、重苦しい空気が漂っていた。
祭壇の前に立つオズムンド・サドラーのもとへ、一人の教団員が駆け込む。
「サドラー様!」
「申し上げます!」
「申せ」
「人質のエレン・クロフォードが、何者かによって救出されました!」
「各施設からの報告では、監視兵二十七名が戦闘不能!」
「侵入者は現在も逃走中です!」
サドラーは表情を変えない。
「追撃隊を出すべきかと……」
「不要だ」
教団員は驚いたように顔を上げる。
「ですが、人質を――」
「娘の役目は終わった」
静かな声が礼拝堂へ響く。
「従属種はすでにアリス・ジローへ植え付けてある」
「娘は奴を誘き寄せるための餌に過ぎん」
教団員たちは安堵したように頭を垂れる。
「はっ!」
その時、礼拝堂の扉が再び勢いよく開いた。
「サドラー様!」
別の教団員が息を切らしながら駆け込んでくる。
「レオン・S・ケネディと我らの使徒が交戦!」
「使徒は崖下の海へ転落!」
「現在、行方不明です!」
一瞬だけ静寂が流れた。
だが、サドラーは不敵な笑みを浮かべる。
「案ずるな」
「従属種に逆らえる者など存在せん」
「たとえ海へ落ちようと、やがて我が前へ跪くだろう」
祭壇の奥に掲げられた紋章を見上げる。
「アリス・ジロー」
「我が最強の使徒よ」
「神の御意思に従い、再び我らのもとへ戻るのだ」
サドラーはそう呟き、静かに笑みを深めた。
この時の彼はまだ知らない。
絶対の支配を確信していた「最強の使徒」が、すでにその支配から解放されていることを。
テレビ番組のドッキリでたまに本当に殴る芸人がいますよね。あんな感じです。
一応言うと次郎も本気の速度ではないです。
そうでないとレオンが最初の銃弾を避けれずに死んでしまうので。