本日一度目の投稿。
ロンドンを離れてから、数時間。
次郎は一人、人気の少ない路地裏にある小さな事務所を訪れていた。
表向きは、古びた旅行代理店。
しかし、その実態を知る者はほとんどいない。
――逃がし屋。
偽造身分証の用意や航空券の手配。
必要ならば、過去の身分を捨てるための手続きまで請け負う。
「あんたがアリス・ジローか」
事務所の奥にいた男が尋ねる。
「初めましてだな」
次郎がこの男へ依頼するのは、今回が初めてだった。
「ああ、初めまして」
男は次郎を一瞥した。
年齢も。
職業も。
過去も。
何も聞かない。
それが、この仕事のルールなのだろう。
「依頼内容は聞いている」
「新しい身分が欲しいと」
「名前は?」
「任せる」
「国籍は?」
「今のままでいい」
「職業は?」
「目立たないものを」
男は紙へ必要事項を書き込んでいく。
「どれくらい姿を消す予定だ?」
「しばらくの間」
「数か月?」
「分からない。もしかすると数年」
「随分と曖昧だな」
「戻る時期を決めていない」
男は少しだけ次郎を見たが、それ以上は聞かなかった。
「分かった」
「必要なものを揃えよう」
「いつまでに?」
「数時間あれば」
「頼む」
「それと」
男が顔を上げる。
「身分証に関しては、あまり欲張らない方がいい」
「どういう意味だ?」
「完璧な経歴を作るほど、逆に怪しまれる」
「最低限の身分だけ用意する方が自然だ」
「その辺りは任せる」
男は頷いた。
「航空券もこちらで用意しよう」
「分かった」
「出発は今夜」
「それでいい」
次郎は椅子から立ち上がる。
「連絡は?」
「必要なものが揃ったらこちらから連絡する」
「分かった」
次郎は事務所を出た。
最後まで、行き先については何も尋ねなかった。
そして男も、余計なことは何も言わなかった。
数時間後。
次郎は一つの封筒を受け取った。
中には、新しい身分証。
パスポート。
そして航空券。
そこに記された情報を確認する。
名前。
生年月日。
職業。
どれも、これまでの自分とは違う。
しかし、不自然ではない。
これなら、しばらくは問題なく暮らせるだろう。
航空券をバッグへ収める。
次郎は空港へ向かった。
空港での搭乗手続きを終えた次郎は、窓際の座席へ腰を下ろしていた。
機内では、乗客たちがそれぞれ荷物を整理している。
次郎もバッグを足元へ置いた。
シートベルトを締める。
やがて機内アナウンスが流れた。
『皆様、当機はまもなく離陸いたします』
次郎は窓の外を見る。
滑走路。
空港の照明。
そして、遠ざかっていく街並み。
機体がゆっくりと滑走を始める。
やがて車輪が地面を離れた。
ロンドンの街が小さくなっていく。
次郎は座席へ身体を預けた。
これから向かう場所について、誰にも話していない。
エレンにも。
かつての仲間たちにも。
新しい身分と新しい名前。
そして、新しい場所。
しばらくの間は何もせず普通に過ごす。
次郎は目を閉じた。
長い間、まともに眠っていなかった。
疲労が一気に押し寄せる。
やがて、意識がゆっくりと沈んでいった。
◇
――夢を見ていた。
暗い部屋。
窓はない。
壁も床も無機質なコンクリート。
部屋の中央には、一人の少年が立っている。
まだ幼い少年だが、その目だけは異様なほど冷めていた。
「名前は?」
男が尋ねる。
少年は答えない。
「もう一度聞く。名前は?」
「……次郎」
「姓は?」
沈黙。
男は淡々と続ける。
「まあ良い。どうせ必要ない」
「ここへ来た時点で、お前は過去を捨てた」
少年は黙って男を見つめていた。
その日から。
少年の人生は変わった。
射撃。
格闘。
潜入。
偽装。
諜報。
そして――暗殺。
朝から晩まで訓練をした。
そこは、表の世界には存在しない組織だった。
一言で言うと日本の暗部。
国家や企業が公にはできない仕事を請け負う、巨大な地下組織。
その源流の一つは、戦前にまで遡る。
大陸で活動した諜報機関の流れを汲む人間たち。
その中でも有名な存在が――児玉機関だった。
戦争が終わり、時代が変わっても、そのすべてが消えたわけではなかった。
組織は形を変え。
表から姿を消し。
日本の暗部へと潜り続けた。
次郎が所属していたのは、その中でも諜報と暗殺を担う実働部隊だった。
国内のあらゆる組織に潜入し、情報を集め、標的を特定する。
そして。
必要ならば、標的を暗殺する。
それが彼らの仕事だった。
次郎はそこで、戦うための技術を叩き込まれた。
人を殺す技術だけではない。
人に見つからずに生き残る方法。
自分の存在を消す方法。
それらすべてを身に付けていった。
やがて。
少年は青年になった。
二十五歳の時、人を殺し続ける生活が嫌になっていた。
次郎は悩んだ末に決断した。
――逃げよう。
組織を抜ける。
その決断が、どれほど危険なものなのかは理解していた。
だからこそ。
誰にも頼らずに逃げることはできなかった。
次郎は、日本にいる逃がし屋へ依頼した。
偽造された身分証。
新しいパスポート。
国外へ出るための経路。
そして、追跡を避けるための手段。
すべてを用意してもらった。
日本を離れる。
向かった先は――アメリカ。
そこで過去を捨て、暗殺者としての人生を終わらせる。
そうして辿り着いた場所が、ラクーンシティだった。
そこで紹介された仕事。
――J's Barで働き始めた。
最初は、ただ生きるためだった。
過去を忘れるためでもあった。
酒を出し、料理を作る。
店を掃除する。
客と話す。
揉め事を解決する。
誰かを殺す必要のない生活。
誰かを追う必要のない生活。
それは、次郎にとって初めて経験する「普通」だった。
だがあの日、ラクーン事件が起きた。
そしてあの夜、次郎は再び銃を手に取ることになる。
夢の中で、様々な光景が流れていく。
血と銃声。
逃げ惑う人々。
そして、自分が守った人間たち。
いつの間にか。
自分はまた、戦っていた。
それでも。
J's Barで過ごした時間だけは、穏やかだった。
料理を作る。
酒を出す。
店を掃除する。
客と話す。
そんな当たり前の日々。
暗殺者だった自分には、あまりにも普通すぎる生活。
だからこそ。
あの頃の次郎にとっては、何よりも大切な物だった。
◇
『――まもなく、当機は着陸態勢に入ります』
機内アナウンスが響いた。
「……」
次郎の目がゆっくりと開き、ぼんやりと天井を見上げる。
数秒。
自分がどこにいるのか理解するまで時間が掛かった。
窓の外へ目を向ける。
雲の向こう。
朝の光に照らされた街並みが見えている。
次郎は何も言わなかった。
ただ、静かに窓の外を眺めている。
やがて。
機体が高度を下げていく。
車輪が滑走路へ接地した。
ゴォォォッ――。
機体が滑走路を走り、徐々に速度を落としていく。
そして。
『皆様、当機はただいま――』
一拍。
『羽田空港へ到着いたしました』
「……」
次郎の目が僅かに細くなる。
窓の外へ視線を向ける。
そこに広がっていたのは。
見慣れたようでいて、どこか懐かしい景色。
日本。
かつて自分が捨てた国。
そして今。
数年ぶりに戻ってきた場所。
次郎は小さく息を吐いた。
「……逃がし屋の野郎」
バッグを手に取る。
新しい身分証。
新しい名前。
それらを確認すると、静かに立ち上がった。
乗客たちに混じって、機体を降りていく。
誰も彼を見ていない。
誰も、彼の正体を知らない。
有栖次郎は、もうここにはいない。
今ここにいるのは、別の名前を持つ一人の男。
かつて日本の暗部で暗殺者として生き。
二十五歳で日本を捨て。
アメリカで新しい人生を始めた男が――。
再び日本の地を踏んだ。
その先に何が待っているのか。
この時の次郎には、まだ分かっていなかった。
――第三章・完――
アメリカの逃がし屋は善意で逃亡先を日本にしてくれました。
因みにアメリカでの名前が有栖次郎になったのは日本の逃がし屋の遊び心です。
そしてここまで地の文で頑なに主人公をアリスではなく次郎と書き続けていた理由がこれ、第四章から名前が変わります。