本日一度目の投稿。
ハンヴィーは朝の街を走っていた。
昨夜、小室が救出した少女――希里ありすについては、川岸で休んでいる間に改めて皆へ紹介された。
小学二年生。
父親と逃げている途中で母親とはぐれ、その父親も目の前で失っている。
まだ幼いありすにとって、あまりにも重い出来事だった。
何もせずにいると、どうしても亡くなった父親のことを思い出してしまう。
そこで鞠川は、これから自分の医療助手として簡単な仕事を手伝ってもらうことにした。
ただし、今は運転中だ。
そのため、実際の作業をさせるのではなく、まずは口頭で簡単なレクチャーを始めていた。
「ありすちゃん、これから少しずつ医療道具のことを覚えていきましょうね」
「うん」
ありすは素直に頷く。
「包帯は傷口を保護するために使うもの。ガーゼは傷口に当てたり、血を拭いたりする時に使うの」
「包帯とガーゼ……」
「そう。似ているようで、使い方が少し違うのよ」
鞠川は前を向いたまま、分かりやすい言葉を選んで説明していく。
「消毒液は傷口を清潔にするために使うけど、何でもかんでも使えばいいわけじゃないから、分からない時は必ず私に聞いてね」
「分かった」
「それから、お薬も勝手に触らないこと。これは大事よ」
「うん!」
ありすは真剣に返事をする。
難しい話ではない。
今すぐ医療行為を覚える必要もない。
まずは道具の名前と役割を知るところからだ。
少しずつ覚えていけばいい。
何かをしている間は、父親を失った悲しみに意識を奪われずに済む。
そして、いつか本当に誰かの役に立てるようになるかもしれない。
「ありすちゃんは覚えるのが早いわね」
「ほんと?」
「ええ」
ありすが嬉しそうに笑う。
次郎は荷台の蓋の上から、その会話を聞いていた。
幼い少女にできることは限られている。
それでも、自分にできることを与えられるだけで、人は少し前を向ける。
次郎は何も言わず、再び周囲の警戒へ意識を戻した。
その後、 ハンヴィーは高城邸へ向かって走っていた。
朝の街には、まだ大量のゾンビが残っている。
放置された車を避けながら進んでいたが、やがて前方の道路を埋め尽くすようにゾンビの群れが現れた。
「多すぎるわね……」
鞠川が呟く。
「このまま突破しましょう!」
高城が前方を見ながら言った。
「ハンヴィーなら、この程度……」
「待ってくれ!」
次郎が声を上げた。
「鞠川先生、停めろ!」
道路の両側から、細いワイヤーが張られている。
一本ではない。
ゾンビを道路へ誘導するように、何本ものワイヤーが仕掛けられていた。
「ワイヤーが――」
鞠川が気づくが、間に合わない。
ハンヴィーがワイヤーへ突っ込んだ。
金属線が車体へ巻き込まれ、タイヤへ絡む。
車体が激しく揺れた。
ハンヴィーが横滑りする。
次郎は衝撃が加わる瞬間に身体を沈め、力を逃がした。
小室も必死に荷台の縁へしがみつく。
やがてタイヤが急停止した。
「タイヤがロックしたわ!」
鞠川が叫ぶ。
ハンドルを操作するが、車体は動かない。
その間にも、周囲からゾンビが次々と押し寄せてくる。
「まずい!」
平野がライフルを構える。
次郎はすぐに立ち上がった。
「平野くん!」
「はい!」
「小室くんと一緒に援護してくれ!」
「分かりました!」
次郎はハンヴィーの上から飛び降りた。
着地と同時にトマホークを構える。
「私も行こう!」
毒島も木刀を手に車から飛び出した。
しかし、次郎は毒島を待たなかった。
一体目が迫る。
踏み込みと同時にトマホークが振り抜かれ、頭部を砕く。
二体目。
身体を沈め、伸ばされた腕をかわす。
そのまま懐へ入り、側頭部へ刃を叩き込む。
三体目、四体目。
次郎の動きに迷いはない。
迫るゾンビを次々と倒していく。
毒島も負けじと木刀を振るった。
迫ってきたゾンビの腕を打ち払い、体勢を崩したところへ追撃する。
さらに別の一体を倒す。
だが――。
次郎の戦い方は、毒島とはまるで違っていた。
速い。
正確だ。
そして、何より迷いがない。
ゾンビの群れへ単身で踏み込み、まるで鬼神のように次々と敵を屠っていく。
トマホークが振られるたびに、一体、また一体とゾンビが倒れていく。
平野が援護射撃を行う。
――ガァンッ!
ゾンビの頭部が弾ける。
小室もバールを構えて近づいてきたゾンビを倒し、必要に応じてショットガンも使用する。
しかし、気がつけば周囲のゾンビはほとんど次郎が片付けていた。
「……」
小室は思わず動きを止める。
目の前では、次郎が最後の一体へ踏み込んでいた。
トマホークが振り下ろされ、ゾンビが倒れる。
次郎は息一つ乱さず、周囲を見回した。
小室は思わず心の中で呟く。
――奴らより、怖えよ……。
毒島も倒したゾンビを確認しながら、次郎の戦いぶりを見て感心していた。
「……終わったな」
次郎がトマホークを下ろし、ハンヴィーのタイヤへ歩み寄った。
毒島も木刀を下ろし、周囲を警戒する。
小室はまだ、先ほどの戦いの光景が頭から離れなかった。
ハンヴィーは完全に停止していた。
ワイヤーがタイヤへ絡みつき、車輪がロックしている。
次郎がしゃがみ込み、タイヤを確認する。
「……これは簡単には外せないな」
ワイヤーは車体の下まで入り込んでいる。
無理に外そうとすれば、さらに時間を取られる。
「仕方ない。ここに置いていこう」
小室が言う。
次郎も頷いた。
「必要な物だけ持っていく」
その時だった。
遠くから複数の車両が近づいてきた。
「車が来ます!」
平野が声を上げる。
武装した男たちを乗せた大型車両が、ハンヴィーの前で停止した。
先頭の男が車から降りる。
「沙耶お嬢さん!」
高城が顔を上げる。
「あなたたち……」
「高城邸から迎えに来ました。皆さんをお連れします」
「パパが?」
「はい。会長から、お嬢さんを見つけ次第連れて戻るよう命じられています」
高城は小さく頷いた。
「分かったわ」
小室たちはハンヴィーから必要な荷物を運び出す。
ありすも自分の足で大型車両へ向かう。
次郎は最後まで周囲を確認してから乗り込んだ。
ハンヴィーはワイヤーの前に残したまま、大型車両が高城邸へ向けて走り出す。
しばらくして、大きな門が見えてきた。
門の前には、武装した男たちが立っている。
車両が敷地内へ入る。
その時、高城が前方へ目を向けた。
「パパ」
車両から降りた高城が、門の近くに立つ一人の男へ歩み寄る。
年齢は五十代ほど。
堂々とした体格で、周囲の男たちとは明らかに立場が違う。
「沙耶」
男が娘の名を呼ぶ。
次郎は二人の様子を見て、親子なのだと理解した。
「怪我は?」
「大丈夫よ」
「そうか」
短いやり取りだった。
そこへ屋敷から一人の女性が姿を見せる。
「沙耶ちゃん」
「ママ」
高城が女性へ近づく。
女性も娘の姿を確認する。
「怪我はないみたいね」
「平気よ」
三人はそれ以上、何も言わなかった。
男が次郎たちへ視線を向ける。
「君たちが沙耶と行動していたのか」
「はい」
小室が答える。
「ここまで一緒に来ました」
「そうか」
男は頷いた。
そして次郎へ目を向ける。
「君もか」
「ええ」
次郎が答える。
男は次郎をしばらく見つめた。
「娘をここまで連れてきてくれたことに礼を言おう」
「礼を言われるほどのことではありません」
次郎は淡々と答えた。
「俺も生き残るために動いていただけです」
「……なるほどな」
男は短く返した。
その後、男は自ら名乗った。
「私は高城壮一郎だ。この屋敷を預かっている」
その横で、沙耶は久しぶりに戻ってきた自宅を見上げていた。
壮一郎は小室たちを見回した。
「それで、これからどうするつもりだ?」
小室が答える。
「俺たちは家族の安否を確認するために、ここまで来ました」
沙耶も続ける。
「パパとママが無事だと分かったから、もう目的は果たしたわ」
「物資を補給したら、出発するつもりです」
小室がはっきりと言った。
壮一郎は二人を見つめる。
「そうか」
意外にも、引き止める様子はなかった。
「ならば、好きにするといい」
小室が少し驚く。
「いいんですか?」
「君たちの意思を私が縛る理由はない」
壮一郎は淡々と答えた。
だが、その表情は厳しい。
「ただし、外へ出る前に知っておけ」
壮一郎は近くにいた部下へ視線を向ける。
「我々も、ここに留まり続けるつもりはない」
「え?」
小室が目を見開く。
「ライフラインがいつまで持つか分からん」
壮一郎は続ける。
「電気、水道、通信。どれか一つでも止まれば、この屋敷の維持は難しくなる」
すでにその事態を想定していた。
「だから私は、憂国一心会の者たちに高城邸を放棄し、移動する準備を進めるよう指示している」
沙耶が父を見る。
「もう決めてたの?」
「ああ」
壮一郎は頷く。
「ここは安全ではある。だが、安全であり続ける保証はない」
壮一郎は小室へ視線を戻す。
「問題は、どこへ向かうかだ」
その言葉とともに、周囲の空気が変わった。
「外へ出れば、感染者だけではなく、道路や物資の問題もある」
壮一郎は続けた。
「逆に、ここに留まれば、物資が尽きた時点で終わる」
小室は黙って聞いていた。
壮一郎はさらに厳しい現実を突きつける。
「我々が集めた情報では、ここを出て避難先へ向かった集団の多くが途中で消息を絶っている」
数字が記された資料を小室へ渡す。
「車両の事故、感染者との遭遇、食料や水の不足。外へ出れば、そうした危険が一気に増える」
小室は資料へ目を落とす。
「……」
「私は君たちがここを出るという選択を否定するつもりはない」
壮一郎の声は静かだった。
「だが、出るなら覚悟しておけ」
小室はしばらく黙っていた。
沙耶も資料を覗き込む。
高城邸に残れば安全とは限らない。
しかし、外へ出れば、さらに厳しい現実が待っている。
壮一郎自身も、そのことを理解した上で高城邸の放棄を決めていた。
「物資の補給については?」
小室が尋ねる。
「用意させよう」
壮一郎は即答した。
「必要なものをまとめろ。出発するというなら、それを妨げるつもりはない」
そう言って、壮一郎は沙耶を見る。
「お前も自分で決めろ」
「……分かってるわ、パパ」
沙耶は静かに答えた。
物資の補給が始まる中、次郎は壮一郎に呼び止められた。
「佐藤君。少し、二人で話せるか」
「分かりました」
案内されたのは、屋敷の奥にある和室だった。
襖が閉じられる。
二人は向かい合って座り、正座する。
壮一郎が先に口を開いた。
「改めて礼を言わせてもらいたい」
「礼……ですか?」
「沙耶のことだ」
壮一郎は次郎をまっすぐ見つめる。
「娘を助けていただいて、ありがとうございます」
深く頭を下げた。
次郎は少し驚いたように目を瞬かせる。
「頭を上げてください」
壮一郎が顔を上げる。
「助け合いはお互い様です。俺だけが特別なことをしたわけではありません」
「そう言ってくれるか」
「俺も沙耶さんたちに助けられています」
次郎は淡々と答えた。
「だから、気にする必要はありません」
壮一郎はしばらく次郎を見つめていた。
そして、不意に口元を緩める。
「……なるほどな」
「何か?」
「いや」
壮一郎の視線が、次郎の手元へ落ちる。
正座しているだけなのに、隙がない。
肩の力は抜けている。
だが、いつでも動ける。
視線の動かし方。
呼吸。
座る位置。
全てが、一般人のそれではなかった。
「佐藤君」
「はい」
「君は、ただの用務員ではないな」
次郎は黙る。
「その身のこなし……」
壮一郎の目が鋭くなる。
「もしや、暗部の人間か?」
少しの沈黙。
次郎は否定しなかった。
「……元、です」
「元?」
「昔の話です」
壮一郎は次郎の顔を見つめた。
「組織を抜けたのか」
「はい」
「そして今まで生きていると?」
「そうなりますね」
壮一郎の表情が止まった。
次の瞬間――。
「はっはっはっはっ!」
突然、大声で笑い始めた。
次郎が目を丸くする。
「……そんなにおかしいですか?」
「おかしいとも!」
壮一郎は腹を抱えるほど笑っている。
「暗部の人間が組織を抜け、生き延びているだと?」
笑いながら、次郎を見る。
「しかも、こんなところで普通に用務員として生きている!」
「……まあ、色々ありまして」
「いや、実に面白い!」
壮一郎はようやく笑いを収める。
だが、その目には先ほどまでとは違うものがあった。
警戒ではない。
敬意だった。
「君ほどの男なら、沙耶を預けても問題なさそうだ」
「……はい?」
「佐藤君」
壮一郎は姿勢を正す。
「これからしばらくの間、娘をよろしくお願いします」