本日一度目の投稿。
男が拘束された後も、寝具店には重苦しい空気が残っていた。
宮本は少し離れた場所から、拘束された男を睨んでいた。
やがて、小室のところへ歩み寄る。
「孝」
「ん?」
「私たち、いつここを出るの?」
小室が宮本を見る。
「随分と急だな」
「急じゃないわ」
宮本は拘束された男へ視線を向けた。
「私は、あんな奴と同じ場所にいたくない」
声には露骨な嫌悪感が滲んでいる。
「たった数日で人前で女を襲おうとするような人間と一緒に過ごすなんて、絶対に嫌よ」
「私も女なのよ!?孝もマッチョなハードゲイに襲われたら、私たちの気持ちがわかるわよ!」
「麗……」
小室は少し考えてから答えた。
「気持ちは分かる。でも、まだ準備が必要だ」
「準備?」
「ああ。出るなら、ちゃんと準備をしてからだ」
宮本は不満そうな顔をしながらも頷いた。
すると、毒島が口を開く。
「宮本の家までは、徒歩なら二十分ほどだったな」
「ええ」
宮本が答える。
「地図上では、そのくらいよ」
「だが、その距離を歩くだけでも一苦労だろう」
毒島はモールの外へ視線を向ける。
「これまでの道中を考えれば分かる。道路は車で塞がれ、奴らの群れを避けながら進まなければならない」
「……そうですね」
小室も頷く。
「二十分の距離だからって、二十分で着けるわけじゃない」
「その通り、場合によっては一晩かかるかも知れない」
毒島が頷く。
「戦闘になれば時間も体力も使う。迂回すれば、さらに距離が伸びる」
平野もライフルを確認する。
「弾薬も無駄にはできませんしね」
「だから、準備には時間がかかる」
毒島が言う。
「けれど、いつでも出られるように準備はしておくべきよ」
高城がある一点を見ながら指摘する。
視線の先、拘束された男の周囲には、その仲間たちが集まっていた。
「なんで、こいつを縛ってるんだよ!」
「俺たちの仲間だぞ!」
「何があったのか知らないけど、ここまでする必要はないでしょ!」
不満の声が次々と上がる。
中には、拘束された男を解放しようとする者までいる。
中岡がすぐに前へ出た。
「待ってください!」
「事情は分かっています」
中岡は毅然とした態度で答える。
「この人は女性が拒否しているにもかかわらず、無理に迫っていました」
「だからってこんな風に拘束するのかよ!」
「当然です」
中岡の声が強くなる。
「ここにいる人全員が安心して過ごせるようにするためです」
生存者たちは納得していない。
しかし、中岡が退かないため、やがて不満を口にしながら離れていった。
高城はその様子を見ていた。
「……これからも、こういう問題は起きるでしょうね」
「そうね」
鞠川も頷く。
「みんな余裕がなくなってるもの」
「だから、いつでも出られるように準備しておきましょう」
高城が言う。
小室は少し考えた。
宮本の言うことにも一理ある。
「……分かった」
小室が頷く。
「準備は早めに済ませよう」
「孝……」
宮本の表情が少し和らぐ。
「今すぐ出られるわけじゃない。でも、いつでも出られるようにしておく」
小室はそう言って立ち上がった。
「平野、装備の確認を手伝ってくれ」
「分かった」
平野も立ち上がる。
「私も手伝おう」
毒島が続く。
高城と鞠川も、それぞれ必要な物を確認するために動き始めた。
次郎もその様子を見ながら、準備に取り掛かった。
それから数時間後、次郎がモール内を歩いていると、後ろから中岡の声がした。
「佐藤さん」
振り返る。
「どうした?」
「先ほどのことなんですけど……」
中岡は次郎の隣まで歩いてくる。
「本当にありがとうございました」
「気にするな」
「でも、私が銃を向けても止まらなかったのに、佐藤さんが来た途端に……」
「もう済んだことだ」
次郎はそう答える。
「それより、あの男の見張りは大丈夫か?」
「はい。今のところ問題ありません」
中岡は少し笑った。
「佐藤さんがいてくれると、本当に心強いです」
「そうか」
「……これからも、頼りにしてもいいですか?」
「ああ。俺にできることなら」
中岡が嬉しそうに微笑む。
その時だった。
「婦警さん!」
慌てた様子の生存者が駆けてきた。
「どうしました?」
「大変です! 俺たちの仲間のばあさんが倒れました!」
「ど、どこですか?」
「こっちです!」
二人は男の後を追った。
向かった先では、すでに何人もの生存者が集まっていた。
「大丈夫か、婆さん!」
老婦人の夫らしき老人が、心配そうに声を掛けている。
その傍らでは、鞠川がすでに診察を始めていた。
「静香先生、どうです?」
小室が尋ねる。
「まだ詳しくは分からないわ」
鞠川は老婦人の顔色を確認し、脈を取る。
「おじいさん、この人は以前から何か病気を?」
鞠川が尋ねる。
「ええ……昔から、血が少ないとかで……」
「血が少ない?」
「病院には何度か通っていました。薬も飲んでいたんですが……」
老人は必死に記憶を辿る。
「何とか……貧血が酷くなる病気だとか……」
鞠川が考え込む。
「他には?」
「詳しいことは……私にはよく分からなくて」
老人は首を振る。
「ただ、前に先生から、普通の貧血とは違うと言われたことがあります」
鞠川の表情が変わった。
「……不応性貧血?」
「そ、そう、それです!」
老人が頷く。
「確か、そんな名前でした」
鞠川は老婦人の状態を確認する。
「なるほど……」
症状と老人から聞いた情報を合わせる。
「おそらく不応性貧血ね」
「助かるんですか?」
老人が尋ねる。
鞠川は少し迷ってから答えた。
「輸血が必要になる可能性が高いわ」
「輸血……」
老人の顔が青ざめる。
「ここではできないのですか?」
「輸血できるだけの血液がないもの」
鞠川は首を横に振る。
「病院へ行けば、輸血用の血液が残っている可能性があるわ」
その言葉に、高城が眉を寄せる。
「病院まで行くの?」
「そうなるわね」
鞠川は老婦人の状態を確認しながら、静かに口を開いた。
「……助けられる命は、助けるべきよ」
その言葉に、高城が顔を上げる。
「で? どうして私たちが行かなきゃならないの?」
高城の声には、苛立ちが滲んでいた。
「外には奴らがいるのよ。わざわざ危険な場所へ行ってまで、私たちが血液を取りに行く必要があるの?」
小室も険しい顔をする。
「……それに、輸血したあとはどうするんです?」
「今回は助けられたとして、次は誰が血を取りに行くんです?」
鞠川は答えなかった。
小室は周囲を見る。
「また倒れたら、そのたびに病院へ行くんですか?」
毒島が静かに口を開いた。
「……そうだな」
全員の視線が集まる。
「今までとは、状況が違う」
毒島はモールの外へ目を向けた。
「これまでなら、困っている人を助けるのが当然だったが、今は違う」
少し間を置く。
「ルールが変わったんだ」
小室は黙り込む。
宮本も老婦人へ視線を向けた。
「……嫌だけど」
「皆の言うとおりだと思う」
誰も言葉を返せなかった。
鞠川は黙って老婦人を見ていた。
医師としてなら、助けるべきだと言える。
だが、そのために誰かを危険な場所へ送り出すことになる。
その判断を、自分一人で決めることはできなかった。
「……なんで?」
小さな声に、全員が振り向く。
ありすが立っていた。
その目には涙が浮かんでいる。
「なんで……助けないの?」
鞠川が目を見開く。
ありすは老婦人を見る。
「おばあちゃん、苦しそうなのに……」
涙が頬を伝う。
「助けられるんでしょ?」
「ありすちゃん……」
鞠川が名前を呼ぶ。
「だったら……なんで?」
誰も答えられなかった。
皆、それぞれ事情は分かっている。
それでも、目の前で泣いている少女に、納得できる答えを返すことはできなかった。
その沈黙を破ったのは、中岡だった。
「……私が行きます」
全員が中岡を見る。
「私が病院へ行って、血液を探してきます」
「中岡さん」
鞠川が顔を上げる。
「危険よ、良いの?」
「分かっています」
中岡は頷いた。
「でも、このまま見ているだけというのはできません」
次郎が口を開く。
「だったら、俺も行こう」
中岡が振り向く。
「佐藤さん……」
「病院まで一人で行くのは危険だ」
次郎は淡々と言った。
「俺たち二人で行く」
中岡は少しだけ目を見開き、それから頷いた。
「……はい」
次郎は装備を確認する。
「鞠川先生」
「はい」
「必要な物を教えてくれ」
「分かったわ」
鞠川はすぐに病院で探すべきものを伝え始めた。
ありすは涙を拭いながら、その様子を見つめていた。
鞠川は老婦人の状態を確認しながら、次郎と中岡へ説明した。
「病院には輸血用の血液を保管している冷蔵庫があるはずよ」
「赤血球製剤を探して」
鞠川は続ける。
「血液型はO型。残っていたら、あるだけ持ってきて」
小室が少し考える。
「でも、停電してるんですよね?」
「ええ」
「それじゃあ、冷蔵庫の中の血液は大丈夫なんですか?」
鞠川は頷いた。
「停電してから、まだそれほど時間は経っていないわ」
「冷蔵庫は扉を閉めておけば、すぐに中の温度が上がるわけじゃないの」
「だから、今ならまだ間に合うはずよ」
小室が納得したように頷く。
「分かりました」
「ただし、持って帰る時も温度管理には気をつけて。保冷できるものを用意してね」
中岡が頷く。
「分かりました」
小室が立ち上がる。
「俺も行く」
そして平野を見る。
「平野も一緒に来てくれ」
「ああ」
平野もライフルを手に取り、銃剣を取り付ける。
「四人なら、少しは安全だろ」
次郎は三人を見る。
「無理はせず、必要な物を取ったらすぐに戻る」
「分かった」
小室が頷いた。
「絶対に無理はしないでね」
鞠川が念を押す。
「分かっています」
中岡が答える。
「必ず、持って帰ってきます」
そして四人は病院の前まで来た。
建物の周囲にゾンビの姿はない。
四人はそのまま玄関へ向かう。
次郎が扉を開ける。
中は薄暗く、受付には誰もいなかった。
床には血痕が残っている。
次郎が先頭に立ち、受付の横を抜けて奥へと進む。
病院の奥へ続く廊下。
その先に、診察室がある。
次郎が廊下の先を確認する。
診察室の扉が開いていた。
中から、何かを引きずるような音が聞こえる。
続いて、低い呻き声。
開いた扉の隙間から、ゾンビの姿が見える。
「……いるな」
次郎が足を止め、小さく呟く。
小室たちも診察室へ視線を向ける。
どうやら、何体か中にいるようだった。
四人は診察室へ向かって、静かに廊下を進んでいった。
本作では、原作の「不応性貧血の治療に新鮮凍結血漿を取りに行く」という展開を改変しています。
不応性貧血(骨髄異形成症候群)は深刻な赤血球不足に陥る病気であるため、本作では現実の医療に則り、取りに行く物品を「血漿」から「赤血球製剤」へと変更いたしました。ご了承いただけますと幸いです。