本日一度目の投稿。
しばらくして、鞠川が老婦人の元から戻ってきた。
「処置は終わったわ」
小室たちが一斉に顔を上げる。
「大丈夫なんですか?」
「ええ。赤血球製剤も間に合ったし、今は落ち着いているわ」
鞠川は安堵したように息を吐いた。
「もう危険な状態は脱したと思う」
「よかった……」
小室が胸を撫で下ろす。
宮本も静かに頷いた。
「助かったのね」
「ええ」
鞠川が微笑む。
その近くでは、ありすも嬉しそうに笑っていた。
「おばあちゃん、助かったんだね」
「そうよ」
鞠川がありすの頭を優しく撫でる。
「みんなが頑張ってくれたおかげね」
ありすは嬉しそうに頷いた。
その少し離れた場所では、次郎が一人で机に向かっていた。
手にしているのは、血で汚れたトマホーク。
水で乾いた血を洗い落とし、砥石を使い、刃を丁寧に研いでいる。
一定の動作を繰り返しながら、刃の状態を確認していく。
やがて研ぎ終えると、次郎は刃を光にかざした。
問題はない。
砥石を片付け、トマホークの刃と机を布で丁寧に拭う。
続いて柄を確認する。
緩みもない。
手入れを終えたトマホークをケースへ収めた。
そこへ、中岡が近づいてきた。
「次郎さん」
「ん?」
「さっきは、ありがとうございました」
次郎は手を止めて中岡を見る。
「お互い様だ」
「それでも……」
中岡は少し笑った。
「助けてもらったのは事実ですから」
「そうか」
次郎は頷いた。
中岡は、ケースに収められたトマホークへ目を向ける。
「……本当に、頼りになりますね」
「俺だけの力じゃない」
「そういうところも含めて、です」
中岡が微笑む。
「……これからも、頼りにしてもいいですか?」
「ああ。俺にできることなら」
中岡は嬉しそうに頷いた。
それからしばらくして、次郎はモール内の状況を確認して回った。
必要な物は揃っている。
武器。
食料。
水。
最低限の装備は、いつでも持ち出せる状態になっていた。
小室と平野も、それぞれの装備を確認している。
「佐藤さん」
小室が声を掛ける。
「ん?」
「さっきの病院……助かりました」
「気にするな。俺だけの力じゃない」
次郎は答える。
「三人の援護があったから、死なずに済んだ」
「それでも、あの数を相手にして生き残ったのは凄かったですよ」
小室が苦笑する。
「俺だったら、途中で弾がなくなった時点で死んでます」
「その時は、覚悟を決めてトマホークを使えばいい」
次郎は小室の腰を見る。
そこには、以前渡したトマホークが収まっている。
「もう使い慣れたか?」
「まだまだですけど、使いやすいです」
「なら、そのまま使え」
「はい」
平野もライフルを確認する。
弾薬を確認し、銃剣がしっかり固定されていることも確認した。
そこへ宮本がやってきた。
「孝」
「ん?」
「準備は?」
「終わった」
小室が答える。
「もう、いつでも動けるようにしてある」
「そう」
宮本は頷いた。
その視線が、モールの奥へ向く。
そこでは生存者たちが、それぞれ休んでいる。
「……ここを出る時は、どうするの?」
「みんなを連れていくわけにはいかないだろ」
小室が答える。
「分かってる」
宮本は小さく息を吐いた。
「ただ……置いていくのも、気分がいいものじゃないわね」
「そうだな」
小室もそれ以上は言わなかった。
次郎は二人の会話を聞きながら、静かに荷物を閉じた。
ここに残るつもりはない。
それは最初から決めている。
あとは、いつ出るか。
そして――。
中岡がどうするか。
次郎は少し離れた場所にいる中岡へ目を向けた。
中岡は生存者たちの様子を見ながら、一人で考え込んでいる。
次郎は声を掛けなかった。
答えを急かす必要はない。
中岡自身が決めることだからだ。
しばらくして、中岡がモール内を巡回していた時のことだった。
「……あれ?」
先ほどまでいたはずの老夫婦の姿が見えない。
中岡は周囲を確認する。
ベンチにもいない。
寝具店にもいない。
近くの生存者たちに声を掛ける。
「すみません。あの老夫婦を見ませんでしたか?」
「あ? 老夫婦?」
「そう言えば、いねえな」
生存者の一人が答える。
「ああ。さっき屋上へ行くって言ってたぞ」
別の生存者が続ける。
「屋上……?」
「景色を見に行くってさ」
中岡の表情が固まった。
「……そうですか」
嫌な予感がする。
中岡はすぐに屋上へ向かった。
階段を上り、屋上へ出る。
「……」
風が吹く屋上には、誰もいなかった。
中岡は辺りを見回した。
そして、屋上の端に何かが置かれていることに気づく。
靴だった。
それも二組。
きちんと並べられている。
「……嘘」
中岡の足が止まった。
その意味を理解するまで、それほど時間は掛からなかった。
老婦人は助かった。
それなのに――。
「……どうして……」
中岡はその場に立ち尽くした。
拳を握る。
警察官として、これまで何人もの人間を見てきた。
だが、目の前の現実を受け入れることができない。
「助かったのに……」
声が震える。
「せっかく……助かったのに……」
中岡の目から涙がこぼれた。
その時、背後から足音が聞こえた。
「あさみさん」
中岡は振り返らなかった。
「……次郎さん」
次郎が隣まで歩いてくる。
そして、並べられた二組の靴を見るが、何も言わなかった。
中岡も俯いたまま、涙を拭う。
「私……助けたかったんです」
「ああ」
「助けられたと、思ったのに……」
声が震えている。
「どうして……」
次郎は答えなかった。
ただ、中岡の肩へ手を置く。
中岡は堪えていた涙を抑えきれなくなった。
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
「でも……私がもっと早く……気づいていれば……」
「君のせいじゃない」
次郎は静かに言った。
「誰にも、どうすることもできなかった」
「……でも」
「君は十分やったよ」
その言葉に、中岡の目からさらに涙が溢れた。
次郎はしばらく中岡を見ていた。
そして、そっと抱き寄せる。
「……泣きたい時は泣いていいんだ」
「……次郎さん」
「今は、無理に我慢しなくていい」
中岡は次郎の胸元に顔を埋めた。
肩を震わせながら泣き続ける。
次郎は何も言わず、その身体を抱きしめていた。
しばらくして、中岡の嗚咽が少しずつ小さくなる。
それでも次郎は離れなかった。
中岡が泣き止むまで、静かに抱きしめ続けた。
ようやく中岡が落ち着きを取り戻した頃だった。
階下から、悲鳴が響いた。
「――ぎゃああっ!」
次郎が顔を上げる。
「……今度は何だ?」
次郎と中岡はすぐに屋上の出入口へ向かった。
二人が階下へ戻ると、生存者たちが一か所に集まっていた。
その中央で、一人の男が床に倒れている。
腹部から血が滲んでいた。
「動くな!」
その傍らでは、別の若者が数人に押さえ込まれている。
「離せよ!」
「俺は悪くない!」
若者が叫ぶ。
「こいつが先に――」
「静かにしてください!」
中岡が駆け寄る。
「何があったんですか?」
「こいつが……」
生存者の一人が倒れている男を指差す。
「急にあいつを刺したんだ!」
中岡はすぐに倒れている男へ近づく。
しかし、その場にはすでに鞠川がいた。
「傷は確認したわ」
鞠川が答える。
「深くはない。奇跡的に急所は外れているわ」
「命に別状は?」
「今のところ大丈夫」
鞠川は傷口を押さえながら続ける。
「ただし、しばらくは絶対安静ね」
「分かりました」
中岡は頷いた。
その時だった。
――カサ……。
天井の方から、微かな音が聞こえた。
次郎が顔を上げる。
――ズ……ズズ……。
何かを引きずるような音。
ダクトの中を何かが這い回っている。
次郎の表情が変わった。
「……静かに」
声を潜める。
周囲の人間が次郎を訝しげに見る。
「声を出すな」
次郎は天井を見上げた。
音が止まった。
次郎はポケットへ手を入れる。
取り出したのは、以前ありすが見つけた花火だった。
音の出るタイプの花火。
次郎はその一本を取り出すと、ライターで火をつける。
そして、音が響く前に廊下の奥へ投げた。
花火が床を転がる。
数秒後――。
大きな破裂音が連続で響いた。
その瞬間。
――ガシャァンッ!
天井のダクトが破壊され、何かが勢いよく落下してくる。
「――ッ!」
全身の皮膚が剥がれ落ち、脳や赤い筋肉組織がむき出しになった異形の怪物。
リッカーだった。
床へ着地すると同時に、花火へ向かって飛びかかる。
鋭い爪が床を削り、長い舌が伸びる。
だが、リッカーは花火へ意識を集中させていた。
次郎が動く。
気配を殺し、足音を立てずにリッカーの背後へ回り込む。
そして――。
トマホークを振り下ろした。
刃が露出した脳へ食い込む。
リッカーが身体を震わせる。
次郎は刃を引き抜き、もう一度振り下ろす。
さらに一度。
確実に動きを止めるため、何度もトマホークを振り下ろす。
リッカーの身体が大きく痙攣する。
最後の一撃。
トマホークが深々と脳へ食い込んだ。
リッカーの身体から力が抜ける。
床へ崩れ落ちた。
次郎はゆっくりとトマホークを引き抜く。
周囲には、誰も声を出す者はいなかった。
誰も、すぐには動けなかった。
床に倒れているリッカー。
その異様な姿を、全員が見つめている。
「……何だよ、あれ」
小室が呟く。
「俺、あんな化け物見たことない……」
平野もライフルを構えたまま、言葉を失っていた。
宮本も顔を強張らせ、毒島だけは冷静にリッカーの死体を観察していた。
その中で、高城が次郎へ視線を向ける。
「佐藤さん」
「何だ?」
「あなた、あの化け物の倒し方に詳しいみたいね」
次郎はリッカーへ目を向ける。
「……ああ」
「なら、教えてくれる? いろいろと」
高城の問いに、次郎は少しだけ考えた。
「別に隠していたわけじゃない」
次郎は静かに口を開いた。
「俺は、ラクーンシティ事件の生き残りだ」
「……え?」
小室が目を見開く。
「ラクーンシティって……八年前の?」
宮本も驚いた表情を浮かべる。
「佐藤さんが……?」
次郎は頷いた。
「ああ」
周囲にざわめきが広がる。
「じゃあ、あの化け物も……」
「そう。ラクーンシティで遭遇した」
次郎はリッカーを見る。
「だから、どうすれば倒せるのか知っている」
「そして、こいつが出てきたことで、俺は今回の感染がTウイルスによるものだと確信した」
高城が眉を寄せる。
「……確信した?」
「ああ」
「今までは違ったの?」
「確信までは持てなかった」
高城が尋ねる。
「なぜ?」
次郎は少し間を置いた。
「ラクーンシティで発生したゾンビは、目が見えていた」
「目が?」
「そうだ」
次郎は続ける。
「少なくとも、俺が遭遇した連中は視覚を使っていた。こちらを見つければ追ってきた」
高城がリッカーへ視線を戻す。
「でも、今回のゾンビは……」
「目が見えていない」
次郎が言葉を継ぐ。
「どいつも目が白く濁っている。視覚を失っているように見えた」
小室が思い返す。
「確かに……目の前にいても、音を立てなきゃ気づかれない」
「だから、今まではTウイルスだと断定まではできなかった」
次郎はリッカーの死体を見る。
「だが、こいつが出てきた」
「……どういうこと?」
高城が尋ねる。
「ラクーンシティでは、Tウイルス感染者の一部が時間の経過でこいつになった」
次郎はリッカーを指す。
「感染が進んで肉体が変異し、視覚を失う代わりに聴覚などの感覚が発達する」
高城が考え込む。
「つまり……外にいる奴らも、同じように?」
「可能性はある」
次郎は少し考えてから続ける。
「今回のウイルスは、ラクーンシティで使われたものと完全に同じじゃないのかもしれない」
「もしかして、改良されている?」
「ああ」
次郎は周囲を見回す。
「感染者が最初から視覚を失っているのは、こいつに近い性質を持たせるためじゃないかと思う」
「これになりやすくするために?」
「そうだ」
次郎の声が低くなる。
「ウイルスそのものが、変異しやすいように改良されている可能性がある」
誰も口を挟まなかった。
その推論を聞き、周囲の空気が重くなる。
その時だった。
「――きゃああああっ!」
遠くから悲鳴が響いた。
全員が振り返る。
離れた場所にいた生存者たちが、何かから逃げている。
その後ろの壁を、別のリッカーが這い回っていた。
「逃げろ!」
誰かが叫ぶ。
だが、その声に反応したリッカーが壁を蹴った。
人間とは思えない速度で、生存者の一人へ飛びかかる。
「ぎああああっ!」
悲鳴が響く。
リッカーの爪が生存者の身体を深く切り裂いた。
別の生存者が逃げようとする。
だが、もう一体が天井から降りてきた。
「二体も……!」
平野が息を呑む。
次郎は目を細めた。
先ほどの推論が、目の前の光景によって裏付けられようとしていた。
次郎は、襲われている生存者たちへ視線を向けた。
助けてやりたい気持ちはあるが、リッカーを正面から二体同時に相手にするのは難しい。
「平野くん」
「援護を頼めるか」
平野がライフルを構える。
「分かりました」
次郎はポケットから花火を取り出した。
「作戦は簡単だ」
「これで二体を引きつける」
花火を見せる。
「俺が一体を引き受ける。もう一体を頼む」
「了解です」
次郎は花火を手にしたまま、生存者たちのいる場所へ向かった。
平野も狙撃できる場所へ移動する。
――。
しばらくして、次郎と平野は二階へ戻ってきた。
リッカーの姿は、もうない。
襲われた生存者たちも、動ける者は二階へ集められていた。
だが――。
その直後だった。
階下から、激しい物音が響いた。
「今度は何だ?」
次郎が振り返る。
続いて、複数の呻き声が聞こえてくる。
何かを押しのけて進むような音が、階下から響いてきた。
次郎が音のした方向へ目を向ける。
「……非常口か」
先ほどまでいた一階の非常口がある方向だった。
その直後、階下から大量の足音と呻き声が重なった。
「侵入されたな」
次郎が言う。
小室が顔をしかめる。
「まさか……」
先ほどリッカーに襲われた生存者たちが逃げた方向を思い出す。
「……逃げた生存者が、非常口を開けたのか」
「その可能性が高い」
次郎が答える。
階下から、さらに大きな物音が響く。
ゾンビの群れが一階へ流れ込んでいる。
「馬鹿野郎……!」
小室が吐き捨てる。
次郎は周囲を見回した。
ここから先は、時間との勝負だった。
「ここでの生活は、もう終わりだ」
生存者たちがざわめく。
「そんな……」
「じゃあ、どこへ行けばいいんだ?」
「俺たちはどうすれば……」
次郎は落ち着いた声で答えた。
「ここから出るか、屋上へ移動するかだ」
「屋上?」
「ここに残るなら、屋上で立てこもれ」
次郎は階下へ視線を向ける。
「一階はもう奴らで埋まっている。もうじき二階にも登ってくるだろう」
「でも、屋上に逃げ場なんて……」
「少なくとも、今いる二階よりは安全だ」
次郎は続ける。
「屋上へ続く出入口を塞いで、階段を監視しろ。食料と水を運んで、救助を待つんだ」
生存者たちは互いに顔を見合わせる。
そして、次郎は中岡へ向き直った。
「一緒に行こう」
次郎は中岡へ手を差し出す。
中岡はその手を見つめる。
少し迷った後、ゆっくりと手を伸ばした。
「……はい」
中岡が次郎の手を握る。
二人が並んで立った。
それを見ていた生存者の一人が声を上げる。
「じゃあ、俺たちはどうすればいいんだ!」
小室が振り返る。
「知ったことじゃない」
「なっ……!」
「残るなら屋上へ行け。出るなら自分で決めろ」
小室は冷たく言った。
「俺たちは、自分たちのことで精一杯なんだ」
別の生存者が中岡を見る。
「あんた、警察官だろ! なんとかしろよ!」
中岡は静かに微笑み、その男を見返した。
「……警察官は、もうやめです」
男が言葉を失う。
中岡は次郎の手を握ったまま続ける。
「私は、自分で決めました」
次郎たちは生存者たちから少し離れた場所へ移動した。
階下から、絶え間なく呻き声が聞こえてくる。
「正面は無理そうね」
高城が階下の方角へ目を向ける。
「ああ」
次郎が頷く。
「一階はもう奴らで埋まっている。正面から抜けるのは難しい」
小室が周囲を確認する。
「非常階段なら?」
「ああ。そこを使う」
次郎は以前まとめておいたカバンを取り出した。
ファスナーを開け、中身を確認する。
音の出る花火が大量に入っている。
次郎はカバンを閉じると、ありすへ歩み寄った。
「ありす」
「なに?」
次郎はカバンを差し出した。
「これを持っていてくれ」
「使い方は後で教える」
「うん」
ありすは両手でカバンを受け取った。
次郎は皆へ向き直る。
「花火を使って、奴らを非常階段から引き離す」
高城が頷く。
「その間に移動するのね」
「ああ」
毒島が静かに口を開く。
「音が消える前に、できるだけ距離を稼ぐ必要があるな」
「そういうことだ」
小室がショットガンを確認する。
「戦闘になったら?」
「最小限にする」
次郎が答える。
「道を塞がれた時だけ排除して素早く移動する」
宮本もライフルを確認する。
「分かったわ」
中岡は次郎の隣に立った。
「私も準備できています」
「ああ」
次郎が頷く。
下から、また呻き声が響いた。
次郎は階段の方へ目を向ける。
「行こう」
全員が頷いた。
脱出の準備は整った。
――Chapter4・完――
リッカーは本来、ゾンビが捕食をし続けて数日から一週間程度で変異します。
因みにRe2で出てきたリッカーは研究所から逃げ出した奴だと言われています。
次回はターニングポイントです。