本日二度目の投稿。
二〇一三年。
日本、東京。
午前二時。
東京の夜は、静まり返っていた。
繁華街から少し離れた場所に建つ雑居ビル。
その一室に、武装した男たちが集まっている。
「予定通り、明日の朝には到着する」
「本当にこれを日本に持ち込めるのか?」
「ああ。問題ない」
男たちの視線の先には、厳重に梱包されたケースが並んでいた。
中身は銃器でも爆薬でもない。
生物兵器の取引に使われた資料や、複数の記録媒体だった。
「これを受け取れば、政府も警察も関係ない」
男が笑う。
だが――。
「公安だ!」
突然、廊下から怒号が響いた。
直後、扉が吹き飛ぶ。
「動くな!」
武装した捜査員たちが一斉に突入した。
室内が騒然となる。
「撃て!」
テロリストの一人が拳銃を抜いた。
その瞬間だった。
一発の銃声。
男の手から拳銃が弾き飛ばされる。
「なっ……!」
続けて、別の男が床へ叩き伏せられた。
その中心を歩いてくる一人の男。
黒いスーツ。
灰色のシャツ。
鋭い目つきと女性的な顔立ち。
男の名は、佐々木次郎。
公安調査庁に新設された、対特殊テロ組織のメンバーだった。
「抵抗するな」
次郎が淡々と言う。
「無駄に死ぬ必要はない」
「ふざけるな!」
別の男がナイフを手に襲いかかる。
次郎は一歩だけ横へ動いた。
刃を避ける。
そのまま男の腕を掴み、床へ叩きつけた。
「ぐっ!」
男が呻く。
次郎は周囲を見回した。
すでに勝負は決している。
武装したテロリストたちは、次々と拘束されていく。
「制圧完了!」
捜査員から声が上がった。
次郎は部屋の奥へ向かう。
そこには、この組織のリーダーと思われる男がいた。
男が次郎を睨む。
「お前、何者だ?」
「それを説明する必要はない」
次郎は男の前に立った。
「お前たちの活動はここまでだ」
「……そう簡単に終わると思うな」
男が不敵に笑う。
「俺たちが潰れても、計画は止まらない」
次郎の眉が僅かに動いた。
「計画?」
「……」
「何をするつもりだった?」
男は答えない。
次郎はしばらく男を見つめた後、押収された資料と記録媒体へ視線を向けた。
「どの道、調べれば分かるか」
その言葉通り、押収された資料と電子機器の解析が始まった。
そして数時間後。
対特殊テロ組織の会議室。
次郎は一枚の資料を見つめていた。
「……中国?」
資料には、海外との取引記録が記載されている。
そこに並んでいたのは、通常の医薬品や工業製品ではない。
ウイルス。
しかも、一種類ではなかった。
複数の生物兵器関連物資について、中国国内の業者と接触した記録が残されている。
「今回の組織は、中国からウイルスを買おうとしていたのか」
次郎が呟く。
「どうやらそのようです」
部下が答えた。
「購入元を追っていますが、かなり複雑なルートを使っています」
「供給元は?」
「まだ特定できていません。ただ……」
部下が資料を差し出す。
「中国国内に、かなり大規模な供給ルートが存在しているようです」
次郎は資料を受け取った。
数秒間、黙って内容を確認する。
「……なるほど」
日本のテロ組織を壊滅させた。
それで事件は終わりと思っていたが、実際には違う。
今回潰した組織は、海外から生物兵器を調達するネットワークの一部に過ぎなかった。
そして、その調達先は中国へ繋がっている。
次郎は資料を閉じた。
まだ、実物は日本へ入っていない。
だからこそ――。
今のうちに供給ルートを断つ必要があった。
翌日の本部にて、次郎は上司から呼び出された。
「佐々木くん」
「はい」
上司は一枚の資料を机の上に置いた。
「君には中国へ行ってもらう」
「……申し訳ありませんが、お断りします」
次郎は即答した。
「何?」
上司が眉をひそめる。
「どういうことだ?」
「以前から有給休暇を申請していました」
次郎は淡々と答えた。
「それに、数日前に二人目の娘が生まれたばかりです」
「……」
「妻もまだ出産を終えたばかりです。今回は家族と過ごすつもりでした」
上司は次郎を見つめた。
「だから断るのか?」
「はい」
次郎は迷いなく答える。
「今回だけは、家族を優先したいと思っています」
上司はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で告げる。
「佐々木くん」
「はい」
「君が家族を守りたいという気持ちは分かる。だが、今回の案件を放置すれば、日本そのものが危険に晒される」
上司は次郎を真っ直ぐ見た。
「家族を守りたいなら、今回の有給は諦めろ」
次郎の表情が僅かに変わる。
「……」
「今回の任務は、君にしか任せられない」
次郎は黙って聞いていた。
二人の娘の顔を思い浮かべる。
そして、まだ身体が完全には戻っていない妻を思い浮かべる。
本当なら、そばにいてやりたかった。
だが――。
「……分かりました」
次郎は静かに答えた。
「有給は取り下げます」
「行ってくれるか」
「はい」
次郎は資料を手に取った。
「国の危機なら、やります」
上司は頷いた。
「では、現地でウイルスの取引ルートを調べろ。供給元を特定し、日本への流入経路を断つ」
「了解しました」
「現地の情勢は不安定だ。十分に注意しろ」
「その程度なら慣れています」
次郎は立ち上がった。
「いつ出発ですか?」
「準備が整い次第、明日にでも向かってくれ」
「分かりました」
次郎は上司の部屋を後にした。
扉が閉まる。
次郎は廊下を歩きながら、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……逃げ道を塞いでおいて、何が『行ってくれるか』だ。馬鹿野郎」
普段の冷静な表情からは想像もつかない、素の毒だった。
それから次郎は、対特殊テロ組織の情報支援室へ向かった。
部屋には複数の端末が並び、その前では情報分析班の職員たちが作業を続けている。
その中央に立ち、各端末の画面を確認しながら指示を出している男がいた。
「来たか、佐々木」
情報分析班の班長、霧島だった。
次郎とは、これまで何度も任務を共にしてきた。
次郎が現場で指揮を執り、霧島が日本側から情報面を統括する。
それが二人のいつもの役割分担だった。
「相変わらず忙しそうだな、霧島」
「そっちも明日から中国だろ。人のことを言えないと思うが」
「まあな」
霧島は一度だけ画面へ目を向けた。
「今回も現場はお前に任せる」
「ああ」
「こっちは俺が情報分析班を動かす。現地で何か見つけたら、できるだけ早く送ってくれ」
「了解」
霧島が机の引き出しから、小型のケースを取り出した。
「それと、今回からこれを持っていってくれ」
次郎はケースを手に取って開く。
中には一本のUSBメモリが収められていた。
「専用品だ」
次郎がUSBメモリを手に取る。
「現地で情報を抜く必要がある機器を見つけたら、これを差し込んでくれ」
「差し込むだけでいいのか?」
「そういう仕様になってる」
霧島が端末を操作する。
「USBを差し込めば、こっちの解析システムと接続できる。あとは情報分析班が遠隔で解析する」
「霧島がやるわけじゃないのか?」
「当たり前だろ、俺は指示を出す側だ」
霧島は苦笑した。
「実際に解析や侵入処理をするのは班員だ。俺一人で全部やってたら、情報分析班なんて必要ないだろ」
「それもそうか」
「俺は全体を見て、必要な人間に必要な指示を出す。それが現場を支える一番確実な方法だ」
「なるほど」
次郎はUSBメモリをケースへ戻した。
「現地の通信環境は?」
「場所による。安定した回線が確保できるとは限らない」
霧島は別の資料を表示する。
「だから、無理に使う必要はない。使える状況だったら使ってくれ」
「了解」
「それと、現地で何か見つけたら連絡を入れてくれ。こっちでも情報を追う」
「分かった」
霧島は画面に表示された中国の地図を見つめた。
「今回の任務は、単なる情報収集じゃない」
「分かってる」
「お前は現場のリーダーだ。必要なら現地で判断して動け」
「任せろ」
次郎はUSBメモリをケースごとポケットへ収めた。
「今回も世話になるな」
「こっちも仕事だ」
霧島が笑う。
「現場はお前に任せる。その代わり、後ろは俺たちが支える」
「心強いよ」
「ああ。だから安心して行ってこい」
次郎は頷いた。
「じゃあ、明日からよろしく」
「気をつけて行ってこい」
次郎は情報支援室を後にした。
その日の夜。
次郎は自宅へ戻り、玄関の扉をゆっくり音が鳴らないように気をつけて開けた。
「お帰りなさい、次郎さん」
あさみが気配に気づいて玄関まで迎えに来てくれた。
次郎は、そんな妻の姿を見ると少しだけ表情を緩める。
「ただいま」
「あさみさん、二人は?」
あさみは穏やかに答えた。
「さっき二人とも眠ったところです」
「そうか」
次郎は靴を脱ぐと、家の中へ入った。
「ちょっと見てきても良いかな?」
「起こさないように気をつけるから」
「ふふ、どうぞ」
妻の声を背に次郎は静かに廊下を進み、娘たちの寝室へ向かった。
扉をそっと開ける。
部屋の中では、二人の娘が静かに眠っていた。
生まれたばかりの妹と、その隣で眠る姉。
小さな寝息だけが、静かな部屋に響いている。
次郎は二人の寝姿をしばらく見つめていた。
そして、起こさないように静かに扉を閉めた。
リビングへ戻ると、あさみがソファに座って待っていた。
次郎もその向かいに腰を下ろす。
「実は、話さないといけないことがある」
「何でしょう?」
「明日から、中国へ行くことになった」
あさみは次郎を見る。
「中国ですか?」
「ああ。今回の事件で中国へ繋がる供給ルートがあるらしいと分かった」
次郎は少しだけ視線を落とした。
「現地へ行って、それを調べることになった」
「……そうですか」
あさみは静かに頷いた。
次郎は妻の顔を見る。
「こんな大事な時に出張になってしまって、申し訳ない」
生まれたばかりの二人目の娘。
そして、まだ出産を終えたばかりの妻。
そんな家族を残して、自分は海外へ向かう。
次郎には、それが申し訳なかった。
「大丈夫ですよ」
あさみは首を横に振った。
「近所にお母さんもいてくれますし、お隣さんも親身に接してくれますから」
「……本当に?」
「はい」
あさみは微笑んだ。
「だから、次郎さんは心配しないでください」
少し間を置いて、あさみは静かに続けた。
「ただ――」
その表情が、わずかに曇る。
「無事に帰ってきてくださいね」
次郎は妻の言葉を受け止めるように、静かに頷いた。
「分かった。約束する」
次郎は眠っている娘たちのいる方向へ目を向けた。
「必ずちゃんと帰ってくる」
あさみは微笑んだ。
「待っています」
翌日。
佐々木次郎――海外でのコードネーム、アリス・ジローは、中国へ向けて日本を発った。
――中国・