プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
日が完全に落ち、夜の帳が下りた街の中心部。
冒険者たちで賑わう酒場『酔いどれ豚亭』の重厚な木扉が、ギィッと音を立てて開かれた。
「うん?あいつら結局来ねぇな」
冒険者ギルドでの登録を終えた青年――たいらは、不満げに口を尖らせながら、熱気と喧騒に包まれた酒場の中へと足を踏み入れた。
昼間の戦闘で土手の斜面を転げ落ちたため、彼の服はまだ泥だらけだ。すっかり乾ききった泥の欠片が、彼が歩みを進めるたびにカサカサと音を立てて床に崩れ落ちる。
『もう、しょうがないわねぇ。待ちぼうけ食わされるくらいなら、先に始めちゃいなさいよ!』
たいらの肩の上で羽を休めていた精霊あいが、呆れ半分、楽しさ半分といった様子で鈴を転がすように笑った。
たいらは空いていた奥のテーブル席へと腰を下ろすと、店主を呼んで安物のエールと大ぶりの骨付き肉を注文する。
周囲の席では、一日の依頼を終えた冒険者たちが赤ら顔でジョッキをぶつけ合い、今日の稼ぎや武勇伝を語り合っていた。むせ返るような人々の熱気と、肉が焼ける匂い。
記憶のないたいらにとって、その泥臭くも温かい空気感は、なぜかひどく居心地が良かった。
彼は自身の腕にこびりついて固まった泥をパリパリと指で剥がしながら、ふと口を開いた。
「なぁ、あい。ギルドで会う前の話なんだけどさ」
『ん? なによ』
「大猪に襲われた時、一緒にいた魔法使いのお姉さんが、足元の泥に『水魔法』を撃ち込んだんだよ。そしたら局地的な土砂崩れになって、猪が滑り落ちていったんだ」
『へえ、泥と水を掛け合わせて……一歩間違えたら、たいらも巻き込まれて死んでたじゃない!』
「ああ。でも、あれでちょっと面白いことを思いついたんだよ」
たいらは剥がした泥の欠片をテーブルで転がし、まるでパズルのピースを組み合わせるような、知的な好奇心に満ちた瞳であいを見つめた。
「例えば……スライムの粘液と、ゴブリンの骨をドロドロに煮詰めてだ。そこに『火魔法の燃えカス』をぶち込んだら、爆発する代わりに『凄まじい接着剤』ができると思わねぇか?」
周囲の喧騒に負けないほどの大きな声。
その無茶苦茶な理論を聞いたあいは、目を丸くして身を乗り出した。
『はぁ!? ちょっとたいら、それは錬金術の基本ルールからして無茶苦茶よ! スライムの粘液と火魔法の残滓なんて反発し合うに決まってるじゃない。ただ大爆発を起こして終わりよ!』
「いや、だからよ。その爆発する莫大なエネルギーのベクトルを、一箇所に『固定』するイメージだ」
『固定……?』
「そう。現象を生み出して終わらせるんじゃなくて、その現象の反発力ごと接着して固めるんだよ」
それは、この世界に構築された魔法のセオリーを完全に無視した妄言だった。
しかし、その口調は酔っ払いのたわごとなどではない。「計算式にこの数値を代入したら、この
「もしそれができたら、壊れた剣でも城の壁でも、一瞬でくっつけられそうだろ。世界のルールなんて、視点を変えればいくらでも遊びようがある」
たいらは悪戯っぽく笑うと、運ばれてきたエールのジョッキを掴み、隣の席で見知らぬ冒険者に向けて豪快に掲げた。
――その、すぐ背後。
たいらが座る席と背中合わせになる、柱の影の薄暗いテーブル席。
そこに座っていた一人の男が、手元のグラスを「カタン」と音も立てずにテーブルに置いた。
頭まですっぽりと粗末なフードを被ったその男からは、常軌を逸した濃密な『
つい先ほど、森の
彼は休息のためにここにいるわけではない。この街の
『西の街道で山賊の被害が……』――価値なし。手に入る
『領主の館の宝物庫には……』――保留。後で正確な位置とNPCの警備ルートを特定する。
酒場に響く無数の声を、機械的に切り捨てていく。
その中で、すぐ背後の席から、とりわけ異質な会話が耳に滑り込んできた。
『スライムの粘液とゴブリンの骨を……』
簒奪者はグラスを握る手を微かに止め、氷のように冷たく、虚無を宿した視線を背中越しに向けた。
(……錬金術の基本ルールの逸脱。爆発エネルギーの固定化。……論理的な整合性が欠落している)
簒奪者はその理論を頭の中で瞬時に見極め、即座に「致命的なエラー」の判定を下した。
(反発し合う要素を固定化することに、何のリソース的価値がある? 破壊の効率を下げるだけの無意味な行動だ。情報としての価値はゼロ)
簒奪者にとって、背後から聞こえる奇想天外な閃きは、最適化されたシステムを乱すだけの「不快なノイズ」でしかなかった。
「おい店主! 肉のおかわりだ! あいつらの分も頼んでおくから、いつ来てもいいように並べといてくれ!」
たいらが、他者への無防備な期待を込めて明るく声を上げる。
その非効率極まりない言葉を耳にした簒奪者は、短く、ひどく苛立ちを含んだ舌打ちを漏らした。
これ以上ここにいても、得るべき有益な情報はない。
簒奪者はエールの残りを無造作に飲み干すと、会話の余韻を断ち切るように、一切の足音を立てずに席を立った。そのまま振り返ることもなく、喧騒に紛れて酒場の外へと消えていく。
『……あら?』
簒奪者が店を出た瞬間。たいらの肩にいたあいが、ビクッと羽を逆立てて、酒場の入り口の方角を振り返った。
「ん? どうした、あい」
『なんか今の……すっごく嫌な感じがしたわね。氷みたいに冷たい空気が、首筋をスッと通り過ぎたような……』
あいは自分の小さな両腕をさすりながら、不安げに眉をひそめる。
その言葉を聞いたたいらは、一瞬だけジョッキを傾ける手をピタリと止めた。
彼自身も、背中越しに通り過ぎていった「ヒリつくような異常な熱気と冷気」を微かに感じ取っていたからだ。
(……なんだ、今の。ただの殺気じゃない。極限まで研ぎ澄まされた、一枚の刃みたいな……)
たいらの瞳の奥に、ほんの数秒だけ、事象の構造(ワイヤーフレーム)を見透かすような鋭い光が宿る。
しかし彼は、振り返ることもしなければ、その正体を探ろうともしなかった。
「あ? なんだよ、酔ったか? 酒場の空気なんて、どこも熱気でムンムンだろ」
たいらはすぐに元の飄々とした笑顔に戻ると、あいの言葉を冗談めかして笑い飛ばし、空いたグラスをまた一つ重ねた。
今の自分にとって優先すべきは、得体の知れない気配を探ることよりも、目の前の美味い肉とエールを楽しむことだ。
何も知らない陽気な冒険者の声と、永遠に帰るはずのない者たちを待つ乾杯の音が、夜の酒場にいつまでも響き渡っていた。
『……』
「うん? またまたどうした?」
『いまさっき変な気配感じたけど』
『あれはきっと、こぼした醤油を袖で拭くタイプだね…うん』
「……オヤジ! エールおかわり!」