プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話 作:並木 新
街で最も静かで、最高峰の警備と防音魔法が施された高級宿。
その最上階。本来ならば王侯貴族や豪商しか足を踏み入れない、ふかふかの緋色の絨毯が敷かれた廊下の突き当たりで、異様な光景が広がっていた。
二人の薄汚れた男たちが、顔を土気色に染め、石像のように直立不動で立っている。昨日、奴隷商の金庫を完全に空にした簒奪者が、金貨二枚で買い戻したゴロツキたちだ。
彼らはもう数時間、一歩も動いていない。否、動けないのだ。
(足が……千切れそうだ……ッ!)
ゴロツキの一人が、心の中で悲鳴を上げる。逃げ出そうとしたり、あるいは少しでも気を抜いて座り込んだりすれば、背後の分厚いオーク材のドアの奥にいるバケモノが、何の感情も交えずに自分たちの首を撥ねるだろう。
奴隷商での異常な『商談』を間近で見せられた彼らにはわかる。あの男に情や常識は通じない。与えられた「警備」という
その絶対的な死の確信が、彼らの魂を床に縫い付けていた。
そのドアの奥。外界のノイズを完全に遮断した、薄暗い最高級スイートルームの中。
部屋は凄惨な血の海になっているわけではない。備え付けの豪奢な調度品も、テーブルに置かれた最高級のワインも、一切手がつけられず綺麗なままだ。
だが、その整然とした美しさが、逆にこの空間の異常性を際立たせていた。
乱れた天蓋付きベッドの足元の絨毯には、昨日彼が奴隷商の金庫を空にした際、ついでに簒奪してきた数人の女奴隷たちが、糸の切れた人形のように力なく倒れ伏している。
外傷はない。ただ、生命力そのものを極限まで吸い尽くされたかのように、虚ろな目で微弱な呼吸を繰り返すだけだ。
彼女たちが生きているのか気絶しているのか、簒奪者にとってはどうでもいいことだった。彼にとって彼女たちは、昨晩の欲求を満たすためだけに使われた、すでに役割を終えた一時的な消耗品に過ぎない。
数時間の睡眠の後。腹の底から湧き上がる肉体からの警告――空腹という名の
「……はぁ、だっる」
面倒くさそうに呟きながら、上半身だけを起こす。
彼は豪華なベッドの感触を楽しむこともなく、ただ指先で空気をなぞった。空間に、宿の機能とリンクした給仕魔法の術式が淡く浮かび上がる。
彼は死んだような目で虚空を見つめながら、指先でぽちぽちと気怠げに光の文字を叩き、術式を消した。
――数十分後。
部屋のドアの前に、ギルドから派遣された出前の若い配達員がやってきた。手には、まだ湯気を立てている肉料理とパンの紙袋が握られている。
(……なんだ、この人たち?)
最上階の豪華な廊下に似つかわしくない、薄汚れた二人の男がドアの前に立っていた。配達員が「あの、出前ですが……」と愛想笑いで声をかける。
しかし、二人の男はピクリとも動かない。
よく見れば、彼らは滝のような冷や汗を流し、小刻みに震え、まるで『背後のドアから絶対に意識を逸らしてはいけない』とでも言うように、血走った目で虚空を睨みつけていた。
「え、あ、あの……?」
異常だ。明らかな異常事態だ。
配達員がゴクリと息を呑み、震える手で控えめにドアをノックした、その時だった。
ガチャリ、と。
簒奪者が気怠い足取りでドアを開け、挨拶もせず、無言で配達員の手から料理の袋をひったくり、そのまま冷たい手つきでドアを閉めようとした。
「あっ、す、すみません! お客さん、お代がまだ……!」
ドアの隙間に慌てて足をねじ込み、配達員が愛想笑いを浮かべながら手を出した。
(やめろ……ッ! バカ野郎、引け!! そいつに常識を押し付けるな、殺されるぞ!!)
傍らで硬直しているゴロツキが、心の中で絶叫する。
簒奪者はドアを閉める手を止め、わずかに眉間に皺を寄せる。
奴隷商から巻き上げた莫大な金貨は、間違いなく彼の懐に収まっている。払えないわけではない。
「……そんな金なんかねぇよ」
地を這うような低いトーンで、簒奪者が無造作に吐き捨てる。
「えっ? い、いや、しかしそれでは私が店に怒られて困ります……!」
配達員が泣きそうな声で食い下がる。
簒奪者にとって、自身の所有する財産を他者に渡すという行為は明確な損失だった。目の前の男が怒られようが死のうが、そんなノイズはどうでもいい。
無機質な漆黒の瞳で配達員を見下ろしたまま、親指で自らの背後――薄暗い高級スイートの奥に転がっている女性たちを指し示した。
「……チッ、後ろの好きなヤツ持ってけ」
(や、やり売りだと……ッ!? 昨日、奴隷商からタダでパクってきた女奴隷を、こいつは出前の支払いに使いやがる……!)
傍らで硬直しているゴロツキが、心の中で絶叫する。
裏社会で散々悪事を働いてきた彼らですら見たことのない、使い捨てた人間を通貨代わりにする究極のサイコパス的思考。
「……え?」
配達員の男の顔が、硬直した。
隙間から見えた、豪華な部屋の床に転がる異様な光景。そして何より、目の前の青年の、不要なゴミを押し付けるようなあまりにも軽い声のトーン。
それは、狂気が支配する殺人鬼の顔でもなく、欲望にまみれた悪党の顔でもなかった。
ただ『支払いという面倒な処理を、不要になった手持ちの
命の価値が、使い古した小銭と同じ重さで計られている。
配達員の背筋を、本能的な死の悪寒が駆け抜けた。
『これ以上、こいつに関わってはいけない』。生物としての警報が頭の中でガンガンと鳴り響く。
「ひっ……!」
配達員は代金も、代わりの商品も受け取ることなく、短い悲鳴を上げて豪奢な廊下を転がるように逃げ出していった。
ドアの外で警備させられていたゴロツキたちも、腰を抜かして逃げていく配達員の姿を、ただ絶望的な瞳で見送ることしかできない。
(……あぁ、俺たちも同じだ)
彼らは悟っていた。自分たちも、いつかあの部屋の女たちのように「
簒奪者は、逃げていく足音に一瞥もくれなかった。
ただ鬱陶しい処理が終わったとだけ認識し、無表情のままパタンとドアを閉める。
彼は冷めた目でベッドに腰掛け、誰と会話をすることもなく、たった一人でただの燃料補給として、袋の中の肉を胃に流し込み始めた。味わうことなどない。彼の時間は、常に次なる最適化のためだけに流れていた。